99 お別れ
気がつくと、わたしは一面白い空間の中に佇んでいた。雪景色に似ているそれは、けれどもある一定の柔い光しか反射していない。歩くと、靴底が固い地面を叩く音がする。
ここはどこ、わたしは誰?
なんちゃって。それにしても、ここがどこであるのか分からないのは本当だ。まるで現実味がない、夢の中みたいな……。
ん、あれ、そういえば、わたしはどうしたんだっけ? 頭がぼーっとして、ときどき痛む。果てしなく続く白の地平を眺めながら、なんとか薄ぼんやりした記憶を引っ張り出す。
「そうだ。学園が大変なことになって、おっさんに負けて、操られちゃって。でも、魔物は食い止められたはず……」
うん、そうだった。間違ってもここが天国と言うわけではなさそうだ。
であればやはり、これは夢。さすがにこんな不思議体験にも慣れたもので、わたしは落ち着いて辺りを見渡した。空には雲も青もなく、ただぽっかりと穴のような黒い丸が浮かんでいた。もしかしてあれは太陽、いや月か?
「んー……あれ?」
視線を戻せば、一面の白に一点の汚れが見えた。極々小さな黒子みたいな点は、徐々に大きくなってくる。
わたしの方からも近づくと、正体が分かった。漆黒のそれは人の姿をして、長い足でこちらへと向かっている。予想通り、しかして予想斜め上の登場人物に、思わず回れ右で逃避しようとしてしまったのもしょうがないと思う。
だって、近づいてくるのはかの邪神。
「く、クロノスさ~ん……」
控え目に手を振ってみると、相変わらず虫を見るような目で見られた。そして手を振り返された。怖い。
ジンくんの産み出した邪神その二であるクロノスは、わたしの前までくると高い背丈で見下しながら、右の方向を指し示した。
「息災か。異世界の霊魂持つ少女。此度の行動は善悪の成り立たない具合であった。父上がお待ちであられる」
「お、おう?」
そうして一息で言って、以降はうんともすんとも言わなくなる。
うん、まあ、分かってたけどさ。こういう不思議体験は必ず、ジンくんが関わっているってこと。そもそも『わたし』やわたしのバックボーン自体が、どちらの世界でもかなり不思議である。その原因にして功労者でもあるらしいジンくんが、ここにいないわけがない。
わたしはクロノスに頭を下げて、礼を言った。
彼は相変わらず何者なのか、ジンくん以上にわけの分からない存在だが……それでも、彼の助け(という名のSAN値直葬祭り)がなければ、ギータやエルバード、魔物に善戦することは敵わなかったかもしれない。
そういう意味でも、もう一度きちんとお礼をして、わたしは指先の方向へと歩き出した。
それからしばらく、てこてことブーツの裏が地面を叩く音が、延々と続く。景色も何も変わらないここでは、歩くことも早々に飽きてくる。距離すら分からなくて、わたしは頭を掻いた。
「あー……どうせ夢ならこんなまどろっこしいことせずに、バーンと最初から出てきてくれればいいのにさ。ジンくんのやつ――――」
そういった瞬間、目の前に不思議な丸い点が二つ、浮き上がる。ぐるぐると渦巻くように色が変わるマーブル模様は、なんかすごく見覚えがあるような……。
「バーン! コングラチュレーショーン! 驚いた?」
「うわ、ジンくんか」
わたしは思わず足を止めて仰け反った。
空間の白とジンくんの驚きの白さが被さって、瞳以外の色彩が全て保護色になってしまっている。どこからどこまでがジンくんの体なのか、ぱっと見ではまるで分からない。
よくよく見ればいつもの見慣れた邪神の姿で、わたしは竦めていた肩から力を抜いた。
「もう、遅いよ。いつまでも歩かせる気かと思った」
「あれ、そんなに驚いてない? うーん。後ろから行くべきだったか……あ、ハリエット、ひとまずおめでとうを言っておくよ」
ジンくんはマイペースに首を傾けてから、わたしに向かってにこりと笑いかけた。いつもならイラつくか微笑ましくなるそれが、今は無性に懐かしい。
「なんか、ジンくんを久々に見た気がする。一日経ってないのに」
「まあ、きみがきみを取り戻すまで、僕の姿は見えなかったみたいだしね。今もまだ呪術の影響を受けているようだから、夢の中に干渉させてもらったよ」
「そんなんまでできるのかよ……というか、わたし寝てる?」
「寝てる寝てる。ぐっすり」
そう言われると、薄ぼんやりしていた記憶がはっきりとしてきた。
あのあとわたしたちは学園の中へひとまず帰って、わたしやサラさんたち闇属性は、施錠した保健室で一纏めになっている。わたしはカレンちゃんの治療を受けたあと、ニールの無事をあらためて確認して、それから……。恐らくベッドに倒れこんで寝ているのだろう。ニールの息を確かめて、安心してからの記憶がまるでない。
「……ん、そういえば、おめでとうってなに? 何に対してのこと?」
「そりゃ勿論、きみにとってのハッピーエンドさ。大団円というやつじゃないかな、これは。てっきり人の二三人は死ぬものかとも思っていたが……いやぁ、よくやった!」
「まあ、そう……だね」
これがゲームなら、さしずめハッピーエンドってところだろう。あれだけの血を流しながら、誰も死ぬことなく結果を迎えられたのだから。
ここがゲームでなく、ただの設定だけをトレースした世界だとしても。わたしがわたしでなかったせいで、ゲームより多くの者が欠けてしまったら、わたしはそれを一生気に病む。それくらい、ここはゲームに似ていた。ジンくんがそう言うのも頷ける。
「なのに、微妙な顔だねぇ、ハリエット。どうしたの? もっと喜べばいいさ」
「いや、だってさ。ここはゲームじゃないし。ジンくんはハッピーエンドだって言ったけど、わたしのエンディングはここじゃない。もしかしたら、明日殺されるかもしれないし、事故に遭うかもしれないし――――」
「眠るように死んでるかもしれないし?」
「そう、それ」
ゲームはここで終わりだけど、わたしの人生は終わってない。めでたしめでたしで綴じるなんて真っ平だしね。やりたいことはこれから、それこそ山ほどあるんだ。
終わりがハッピーエンドかなんて、今は分からない。それはわたしが、可能なら死に際に決めることだと思う。
「じゃあ、こう言おうかな。人生の苦難を見事乗り越えたきみへ。ねぎらいと、いたわりを。次の苦難があるのかは定かでないが、それまでの休息を約束しよう。頑張ったね、ハリエット」
「……うん。ありがと」
少年に慰められるわたしは、端から見れば妙なのかもしれない。だが彼は紛れもなくわたしに最も近いもので、優しくはなかったけど、確かに助けられたこともある。
何より、彼が運んできたものは、紛れもなくわたしの幸せの形だった。
……それに、まだある。ジンくんに――――いや彼に、『わたし』は確かに救われていた。たった少し、一時のことだけでも。
「ありがと、ありがとうね。話しかけてくれてさ、『わたし』は面倒くさがってたけど、それも事実ではあるけど。それでもわたしは、唯一きみにだけは作り笑顔を浮かべることはなかったよ。■■くん」
彼は初めて分かりやすいほどの動揺を示して、真ん丸に目を見開いた。ひゅっと飲み込んだ息を静かに吐き出して、その顔はより一層幼く、わたしを窺うように上目遣いになる。
「……なんだ、分かってたんだ、■■■」
「そりゃー、分かりやす過ぎるよ。嫌いなものも、やってることも一緒。なんでお前が神様なのかって、そこが分からなくて確信は持てなかったから、遊んでいるのかとも思ったけど」
何せ、彼は大変な悪戯好きだった。子供特有のくだらないことばっかりして、上っ面だけは取り繕っていた『わたし』に、何度迷惑を掛けてくれたことか。そこで慌てたり泣きそうになったりするのが、子供らしくて、わたしの方はほんのちょっと、ちょっとだけ可愛いと思ったり。
そういうところはジンくんとは違うから、きっと全てが同じではないんだろう。だが関わりがあることは絶対だ。でなければ、わたしにここまでしてくれるわけが分からない。
「あはは。僕から驚かせようと思ったのに、また失敗か。ちょっとは空気読んでくれないかなぁ」
「いくら神様的なものになっても、お姉さんに敵うと思わないことだね」
「……はあ。なんだ、本当に僕で確信持っちゃったのか」
ジンくんは首を振ると、降参とばかりに手をあげた。その顔は困ってはいたものの、うっすら笑いを浮かべている。そういう「しょうがないな」という顔は、彼のしない大人びた表情だった。
ジンくんは、『わたし』の知るあの子に似ている。近所に住んでいて、いっつもわたしに絡みに来る悪ガキ。
「そう。■■くんは僕の一部。というより、宿主と言う方が適切かな。別に本体と言うわけではない、言わば末端の置場所と言うだけだ。今回きみをどうにかしたかったのは、その宿主の想いがそれだけ強かったから、それが僕にまで伝わったからだ。きみの、■■■の死をそこまで嘆いてくれたのは、彼だけだったよ」
それは人によっては悲しくて残酷でもあるだろう。人一人死んで、悲しむ人も一人だけ。でも、『わたし』にはそれで十分だった。悲しまれてもそれをありがたいと思えない人が、唯一、それだけで微かにでも嬉しいと思えるんだから。
「まあ、子供故に必要以上に悲しんでくれたというのもあるだろう。だからきみは運が良くて、そして僕にここまで思われることを幸福だと思うべきだね」
「はいはい。まあ、ジンくんにもありがとうと言っておくよ。■■くんに伝えるつもりで」
本当は会いたいが、それは無理なことだ。わたしは限りなく近いが前世の『わたし』ではないし、ジンくんだってあの子じゃない。
でも、それくらいでちょうどいいのかもしれない。『わたし』の最初で最後の友達と、今ここで話ができている。死人は生き返りはしないし、彼は『わたし』を忘れて未来を歩いていく。それでいい。
なんだかスッキリした気持ちでいると、心なしかジンくんも同じような顔つきで、大袈裟に伸びをした。猫みたいだ。
「んーっ、さて。予定は狂ったけど、大方話は終わったかな。明かすと言ったわけも明かせたし、祝福もしたし。あとは、お別れか」
「……え?」
「なにキョトンとしてるのさ。初めて会ったときに言ったでしょ。僕は幸せのハコビヤなんだって。きみは幸福を手に入れた。だから、僕とはお別れだ」
そんなこと……言われた覚えはあるが。それにしても、話が急すぎるんじゃないか。だって、ついさっき秘密を明かされたばかりなのに……。
「なんだよ、ハリエット。そんなに僕がいないと寂しいの?」
「そ、そんなわけないだろ。でもさ、その……ジンくんはわたしの理解者であって、なんていうんだろう……えーと、友達……いや、悪友?」
そう、だから、急にいなくなられると落ち着かないと言うか……だって、ほら、もう何年も一緒にいるし、『わたし』を知っている唯一のものでもあるわけだし……お別れするにしても、もうちょっとわたしのこれからを見守るなりしてからさ……。
よっぽど変な顔をしていたのか、ジンくんはわたしを見上げてケラケラと笑い出した。いつものようにふわりと音もなく浮かび上がって、空中で腹を抱えている。白い肌を桃色に染め上げて、涙さえ浮かべてひいひいと。
うわ、イラッとしてきた。
「くふっ……ひひひひ……! あー、もう、そんなに悲しまないでよぉ。お腹痛い……ふふふっ……!」
「なんだよ、悲しんでないし。ちょっとだけ名残惜しかっただけだし。それも今のでなくなったしな!」
「あーっ、うそうそ、いじけないでよ。お別れって言ったって、僕らいつでも会えるんだから。また会いに来るよ、きみが望む限りはね」
「…………」
じっとり睨むと、ジンくんは滲んだ涙を浮かべて苦笑した。地面に降り立って、真面目な顔でわたしを見る。目を合わせると、蠢く虹彩が相変わらず綺麗だった。
「僕に時間の概念はないんだ。だから別れというのも厳密には違う。僕には始まりもなければ終わりもない。……一番初め、というのもない。全ての時間軸は同一だから」
ジンくんの話は難しい。きっと彼の言う『彼』を完全に理解することは、この世の、いやどこの誰にもできないことなんだろう。
でもわたしの目の前の、ジンくんがどんなものなのか、多少なりともわかっているつもりだ。陰険で毒舌で腹黒で、その上気まぐれでときどきは妙に子供っぽい。だが、『わたし』の唯一で、わたしの理解者で、悪友で、彼は確かに神様だった。
「だけど、僕はきみを、僕の『一番初め』、『最初』の友人と定義する。これからどれだけ出会いがあろうとも。これまでにどれだけの軌跡があっても。僕はきみの唯一で、理解者で、きみは僕にとって絶対に変わらない、最初の友だ」
「……よく、わかんないけどさ。神様的なのの最初の友達って、わりと面白いかもね」
「面白いどころか、僕と友達なんて最初で最後の人かもね。だからさ、きっとすぐ会いに来るよ。友達に会いに来るのは、普通のことでしょ?」
「悪友だけどね!」
わたしが茶化すと、ジンくんは再びきゃらきゃらと子供らしい笑い声を上げた。わたしも釣られて笑ってしまう。
……ああ、悲しいな、四六時中引っ付かれて鬱陶しかったはずなのに、お別れなんてしたくない。どんなこともお見通しで、だからこそなんだって言えた彼がいなくなったら、それはとてつもなく寂しいことだろう。部屋に帰って、我が物顔で居座る彼の姿がどこにもないなんて、空しい。嫌だなぁ。
――――でも、永遠のお別れじゃない。だから平気だ。
この胸の痛みも、喉の、目の奥の熱さも、きっとわたしのものじゃない。多分、この辛さは『わたし』のものだ。
初めて友達との別れを寂しいと思う、この気持ち。
ジンくんが側にいなくても、これを、不器用な『わたし』の存在を、わたしは永遠に忘れないでいたい。
わたしは笑って、喉の奥の塊を飲み下す。たった少しのジンくんの不在で、泣きそうになったりするものか。そのうちひょっこり顔を出した彼のこと、「しょうがないな」って顔で出迎えてやるんだから。