95 共感
制止の声は、間に合わなかったはずだ。
ニールの憎しみは、何十年まのさ迷い歩いた記録によるところ。到底、わたしの一声で止められるものじゃない。彼の殺意はわたしの声が耳に届く前に、容易くエルバードを死に追い込む……はずだった。
「……どうして、殺さない?」
だがニールの手は、剣を突き立てたままで止まっていた。
エルバードが膝を付く。二人分の血が地面で混ざり合い、とろとろと溢れ落ちていく。ニールはそのまま、もたれ掛かるようにエルバードを地面に押さえつけて、彼のローブを噛ませた。
「うるせ……むかつく、黙ってろ……」
「ニール! ごめん、ごめんなさい―――!」
そのまま倒れ込んだニールに、気がつけば駆け寄っていた。頭痛は相変わらずわたしを苛むが、今だけはそれすら気にならない。それよりも、血の海に沈むニールは、どうやったって死にそうに見える。
跪いて傷口を押さえてみるものの、この出血量だ。今さら傷を塞いだところで、流れたものは戻らない。ああ、どうしよう。嘘でしょ。嫌だ、そんなことって――――。
「ばか、きたねーだろ……どけよ……」
「ああ……ああ、どうしよう。こんなに血が出てるんだよ。輸血……うう、ごめんなさい、ごめんなさい……」
なんでわたしは彼を差してしまったんだろう。あのとき、すぐにでも自分を殺そうとしていれば、ニールは助かったかもしれない。わたしは生きたかったんだ、浅ましく生き長らえたい気持ちがあったから、ニールを殺そうとなんかできたんだ。
頭痛が酷い。その痛みすらわたしを責め立てている気がする。それでいい気もする。わたしが彼を殺すのだ。これだけボロボロになって引き上げようとしてくれた彼を。
脳みそがぐちゃぐちゃに撹拌されて、何も考えられない。その液体が目からぼたぼたと垂れていく。
「……お前が泣いてるとこ、初めて見たなァ……」
なんで、ニールはこんなことになってるくせに、笑ってるんだよ。苦笑いで手を伸ばされて、頭を撫でられる。血がこんなに出てるくせに、まだあったかい……。
「ハティちゃん、傷口、押さえてて」
「あ……」
……カレンちゃん?
「助かるよ、この人……助けるよ」
カレンちゃんの言葉が、ゆっくりと、ぐちゃぐちゃになった頭に染み込んでくる。
そっか、カレンちゃん、助けてくれるんだ。助けて……くれるんだ。ニール、死ななくてすむんだ。傷口、押さえてて……おかなきゃ。
ああ、どうしよう。また目が滲む。うまく見えない。
ニールはこのことを、分かっていたんだろうか。光属性の彼女が助けてくれること。場違いな焦燥が胸に沸く前に、ニールはもう一度、今度はわたしの頬を撫でた。生ぬるい何かが拭い取られる代わりに、べったりと頬が汚れた。
「ヤベ……ははは。テメェのオトモダチ、なんだろ。ま、ほどほどに、信じるぜ……」
そう言って、ニールは目を閉じた。思わず手を握るが、確かに暖かい。ニールは生きている。
ニールは生きている、そうだ、カレンちゃんが光を灯す。……でも、それだけでは足りない。彼の命は未だ不完全だ。わたしの脳裏に残る痛みと同じ。
わたしは一つ断りを入れて、倒れ伏したエルバードへと近づいた。彼もまだ生きている。未だにニールが彼を殺さずにおいた理由は不明だが、思えば背後から貫いたのは、確かに腹だった。
「エルバードさん。一つ、話をしてもいいですか。きっと興味を引かれることだと思います」
口からローブを吐かせてやる。すぐさま舌を噛み千切られることを懸念したが、彼はゆっくりと身を起こして、横目に治療されるニールを見つめるだけだった。
「なんの……つもりだい? お嬢さん」
「簡単な話です。エルバードさん。エルバードさんには世界がどう見えていますか?」
これが、わたしの中で引っ掛かっていたこと。いや、これがあったからこそこの結末に辿り着けた――――そう思ってもいいだろう。
エルバードは血に濡れた顔を、かくりと傾げた。その顔に微笑みはあるが、さっきまでの楽しげな様子は感じられない。
「まわりが、うるさいとは思いませんか? 人が人でなく、まるで自分と同じものとは思えず、意思不明瞭な……例えば、虫のようには感じませんか?」
この言葉を聞いて、エルバードが初めて、素の表情で驚いたように見えた。そのまま血だらけの手で顔を覆い、頭を抱える。笑顔とは程遠く歪んだ表情。ひきつった顔は、何故だか喜色満面の笑みと同じく感じられた。全身で、喜びを訴えている。
分かるよ、多分、『わたし』もそういう気持ちだったはずだ。唯一の例外を除いて、『わたし』もそうだった。だからこそ、彼のハッピーエンドがどんなものか、想像がつく。
「――――そう……そうか! ……虫! 虫だよ……! そう! 虫けらのように、まるで意思疎通のできない目! 変わる表情すら理解に及ばない! 全くその通りだ!! ああ、ああ!! 神よ、そう……きみこそが神か。だから私に終わりをくれようとしたのだね。唯一絶対の理解者にして、不変の友。今わかった。世界が全て死に絶えている理由が。私だけが神に救われない罪人であったから」
エルバードはもはや、泣いていた。
『わたし』の残滓がそれに引っ張られ、頭痛が増す。だがこれ以上彼に寄り添うことはない。わたしは踏み止まって、エルバードの瞳を見つめる。
「ああ……ありがとう。きみがいれば、他に何も必要ない。私は救われる……ハッピーエンドだ。私達だけの、物語の終わりだ」
「……貴方の求めるハッピーエンドは、それですか?」
この無意味な、刹那的な、破滅的な出来事全て、エルバードという破綻した人間の、ハッピーエンドのためだ。
自らが人であるのに、人を人として見られない、共感できない。まるで宇宙人か何かを相手にしているような居心地の悪さ。それらをずっと、ずっと、それこそ『わたし』より永遠に長い時間感じ続けてきた男が、彼だった。それだけの、共感性の話。
今まで求め続けてきた、あるいは求めることさえできなかった、共感という感情を手にしたエルバードは、その慈愛の目に涙さえ浮かべて、私の手を取った。
「ああ。私一人、ここに生きている。今までの人生全て、列を成す蟻を潰すような、悲しいくらいの慰みの一時だった。だがきみは違った……きみだけが、私の隣で息をしている。思えば、それを感じていたからこそ、きみを殺さなかったのかもしれないね。ああ……どうか、私を殺してくれないかい?」
まるでプロポーズでもするように、エルバードはわたしの手を額につけて懇願した。ずきずきと、頭が痛む。
こんなになるまで、誰一人として彼の前には理解者が現れなかったのだ。それはともすれば、神様の怠慢でないかとすら思う。『わたし』は救われたのに、彼が救われないなんて。
だがわたしに、エルバードは殺せない。あるいは、少し前なら殺せていたのかもしれないが。
「できません。きっとわたしはもう、誰かを殺すなんてできないはずだ」
『わたし』であるならいざ知れず、ごく真っ当な価値観と共感性を手に入れたわたしにとって、人殺しは人殺しだ。蟻を潰すようなものとは思えない。
理解を示しておきながら、決別の答えを出したわたしに、てっきりエルバードは怒るものだと思っていた。失望すると思っていた。けれども、血塗れの彼はそれはもう嬉しそうに微笑んで、取ったままの手を熱く握る。いくつも皺の刻まれた、それでも生きている年数分には到底届かないだろう、そんな手で。
「ああ……きみでもそう為れるのか……」
熱く、それこそ内側に灯った火を感じさせるような、血混じりの溜め息。潤んだ瞳。先程までなんの感慨もなく、何人もの人を殺そうとしていた人物とは思えないその表情。
彼は人に焦がれている。ずっとずっと、恋い焦がれている。
――――遠くの方から、アルフの声が聞こえた。
こちらの戦いが終わったためか、随分と闇も晴れてきたようだ。お姉さんはエルバードの言いなりだったわけで、こちらの決着がつけば、あちらの戦いに勝ち負けはないはず。
今でもエルバードが死んでは困るため、カレンちゃんに彼の治療もお願いしなくてはならない。エルバードの手から自分の手を抜いて、立ち上がる。
「お嬢さん……一つ、私にも言いたいことがあるんだ……」
「はい?」
エルバードが喋りやすいよう、もう一度しゃがみ込む。
意識を失いそうなのか、わたしではなく遠くを見た彼の目は、楽しげに笑っていた。
「――――闇を怖がるのは、知性の証だ。獣性は正しくそれを弱さと捉えて、怒りで恐怖を打ち消さんとする。まあ、馬は逃げるが……ふふ――――サプライズだ」
「…………お、お前……ッ!!」
弾かれるように立ち上がる。エルバードは既に気を失っていた。その顔は満足げな、悪戯が成功した子供のような。
クソ、やられた! 最後の最後でやりやがった! いや、むしろ最初からこれを最後っ屁にしてやがったな! ああ――――読み負けた!
学園を闇で沈め、人の世に今再びのいさかいを生み。自分、あるいはわたしを殺し、他人の悲劇に酔いしれて。それでなお、魔物をおびき寄せ皆殺しにしようと画策していたなんて。
「ハリエット! ……だよな?」
「どっからどう見てもハリエット!」
「戻ったのか……ならいいんだ。それより、森から魔物が……」
「分かってる!」
走ってきたアルフは、さっきから、どうやらこのことを叫んでいたらしい。だいぶと闇が薄れてきている。違う、流れていってるんだ。
満足げなエルバードをカレンちゃんに押し付けて、わたしは空を見上げた。
わかっていたことじゃないか。闇魔法は人に恐怖を与えるが、魔物はそれを怒りで抑え込む。わたしの腹に埋め込まれた魔石は、学園まるごと闇に沈められる代物だぞ。近くに魔物が住む森があって、外で使ったらどうなるか。
森での一件を思い出す。あれも恐らくエルバードに仕組まれたことだろうが、まさか今日の日のための予行だったとしたら。
「さすが、成長しなくても年の功だよ……」
思わず笑ってしまう。
地響きと雷。そんな音が近づいてくる。警戒を顕にする皆に向かって、それはどんどん大きくはっきりしてくる。大量に何かが押し寄せてくるような地響きと、雷のような、獣の呻き声だ。
――――さて、どうする? このままだと、学園の生徒も全員、皆殺しだ。そんなことを言いながら、あのおっさんが笑っている気がする。
「アルフ! 力を貸して!」
「お……ああ! 任せてほしい!」
いきなりの言葉に、アルフは力強く頷いてくれた。よく見れば、彼にも少なからず傷がある。負けるとは微塵も思っていないが……サディアスは、お姉さんはどうなったんだろう。
その疑問が沸くのと、アルフの後ろからばたばたと足音が続いてくるのとはほとんど同時だった。皆一様に泥だらけの傷だらけで、それでも生きている。
「遅くなった! すまない……ああ、良かった、ハリエットさん……」
「くそっ、時間の猶予はさほどないぞ、ハリエット!」
「皆……」
サディアスは顔に傷を増やして、乱れた髪のまま、ほっとしたように笑った。昔から変わらない、寡黙だけど優しい彼だ。
ヴィクターは口からぺっと砂を吐いて、結っていた髪をほどいて掻いている。どうもヴィクターの方は、露ほども心配していなかったみたいだ。その信頼に答えられるか不安だが、やるしかない。
それから。
「お姉さん」
「……っ、」
「ニールもエルバードさんも、生きてます。でもって、呪術は完全には解けていません。多分わたしも。それでも、ここが一つの区切りになると思います」
お姉さんに伝わるかどうかは分からないが、あのエルバードでさえ、ここで一つ、何かが変わると確信している。
きっと『わたし』のように、生まれ変わりでもしなければ、本当の世界は手に入らないのかもしれない。だが、エルバードは『わたし』と違って、多分、自分の世界を諦めてはいなかった。どうにかして楽しもうとしていた。このままでは終われないと、時間を留めることを選んだ。
それほどの努力ができたなら。多分、この先いつか、変わるときがくるだろう。その今日がその足掛かりだ。
「だから、お姉さんも今日から変わってください。もうエルバードさんの言いなりになんか、ならないでほしい」
これは願いだった。どういう経緯があって、お姉さんがエルバードの言いなりになっていたのか。それを完全には理解していないわたしが、それでもお姉さんに、笑っていてほしいだけの願いだ。
だってお姉さんは、多分、教師と言うより友達に近い。そういう関係だったと、わたしは思っている。
お姉さんは無言で頷いて――――少しだけ泣いていた。
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