94 ハッピーエンド
重くなった頭を抱える。
ズキズキと痛み出すそれは、普段の頭痛なんて目じゃないくらいの暴力的なもの。今にも中から割れて、中身が無惨にも飛び出してしまうんじゃないかと思うくらいの、ただただ純粋な痛みだった。
「ああああああああああ……」
痛い、痛すぎる。マジで痛い。
ちょっとおかしいレベルの痛さ。これヤバくない? わたしこのまま死ぬんじゃない?
体が危機的な状況を理解したのか、それとも痛すぎてわたしが手綱を手放したのか。知らず知らずのうちに、我が身からどんどんと闇が漏れ出していく。今までの比じゃないくらいの濃度に、あれだけやっても無意識に加減していたんだなあと、場違いなことを思った。
うずくまるわたしのあまりの苦しみようにか、それまで微かに聞こえていた、アルフたちの戦闘の音もなくなる。「ハリエット!」と頭上で呼び掛けられたのを切っ掛けに、肩に掛かった誰かの手は、ひどく覚えのあるものだった。
「ハリエット! 大丈夫か、おい、しっかりしろよ……っ」
惨めに掠れて、ともすれば泣きそうなその声は、聞き覚えがある。大切な、わたしの、一番大切な。
「ニー……ル……ッ!」
その瞬間に、かちりと何かのスイッチが切り替わったような、そんな感覚を覚えた。それと同時に、今までの死にそうな痛みが、形もなく消え去った。
そして思い出す。ニールがくれた告白と、わたしがエルバードに挑んだわけ、そもそもの『気持ち』。
「やれやれ。安い愛憎劇は止めてほしいものだねぇ」
あれ?
その代わりと言うべきか、なくなったのは痛みだけではなかった。肩に置かれた手の感覚も、温度も、何もかもがない。
声さえ出ない。残ったのは、わたしの前に現れたエルバードの、手の平の感覚だ。彼の代わりに頭をがしりと掴まれて、地下室であったときのように、短い意識の点滅。
二度目だからこそ、分かる。
わたしの『感情』が封じられていく。エルバードに立ち向かおうとした、そもそもの理由、誰かのためにという共感性が、損なわれていく。本来なら傀儡に、言いなりになるはずだろうこの呪術。わたしが『わたし』を有するが故に、中途半端な人格が出現している。
……わかったところで、どうにかなるわけではない。わたしは負けた。持てる力を使って、地下室でエルバードに負けた。既に決まってしまったことだ。
わたしは濃い闇の中をゆらりと立ち上がると、エルバードの手を退けた。手負いのニールは、横腹に剣を突き刺されている。あれはわたしがやったのか……?
「さあ、お嬢さん。もう一度だ。どちらかが死ぬまで終わらない舞踏だよ」
「くっ……そ、外道……! 無駄だ……俺は、コイツを諦めねェぞ……!」
「大丈夫、安心してくれたまえ。心をへし折るのは大好きなんだ」
深い闇の中で、ニールはもがくように動き出す。立ち上がり、こちらへ歩を進めるたびに、血がどぷりと涌き出て地面を汚す。エルバードはそれを、子を見る親のような、微笑ましい様子で見ている。
半ば無意識的に、わたしは首を振っていた。そこまでされるほど、わたしに価値などない。誰かが死にそうになってまで、求められるほどわたしの人間性は高くないのだ。
――――止めて、止めて、止めて!
頭の片隅で叫ぶ声がある。けれどもわたしにそれが届くことはない。
ふらふらと足のおぼつかないニールへ、エルバードは無警戒に近づいて、腹に刺さった剣を思いきり引き抜いた。目を見開いたニールの口から、血が塊のごとく吹き出てくる。
「がッ……く、掻き混ぜやがったな……!」
「下腹の辺りは臓器のなかでも、なかなか死なない部位だ。彼女が手加減を加えたとは思い難いが……きみは運がいい。『昨日』もそうだ。逃げ腰のきみだけが、たまたま私の目に止まった。それだけで今日まで生きている」
歌うように言いながら、タクトでも振るみたいにして剣の血を落とす。少なくない油分に濡れたそれを、エルバードは笑顔でわたしに握らせた。
ニールは爛々とした目で男を睨みながら、腹に手を当てる。あっという間に手が真っ赤に染まっていった。――――死んでしまう。
「ははは! 年甲斐もなく愛した少女に、同胞より大事にしてきた命を奪われるとは! 笑わせてくれる! 最高のハッピーエンドだよ! はははは――――は……それじゃあ、次だ」
ニールが死んでしまう。
エルバードはわたしの肩を掴む。
ニールがわたしの目を見つめる。
エルバードがわたしの背を押す。
わたしは高らかに剣を振りかざす。
――――いや、駄目だ。だめ、駄目だって。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。それをしてはいけない。ニールが死んでしまう。駄目だ、それ以上したら死んでしまうかもしれない……! 止まれ、止まれ、だってニールは、ニールに次はないから。
いや違う。わたしたちに『次』はない。
ハリエットであるわたしと、黒幕ではないニールが共にあれる世界というのは、これだけだ。前世があるからって、次もあるかもしれないからって、今をすぐ諦めていい理由にはならない。わたしは今、彼と生きて、やりたいことがたくさんあるんだ。
「ひ……」
「ハリエット……ッ!」
ニールの声が、掠れて、血液混じりで、それでもいつもは呼んでくれない、ぶっきらぼうでも優しい声が聞こえる。
それでも止まらない。止まれない。
視界がぶれて歪んでいく。割れそうなくらいに頭が痛い。分かっている、わたしはエルバードの命令に逆らえない。それでも、これはできない。わたしが死んだって、ニールを殺せない!
なのに……駄目だ、ああ――――わたしはそれを、振り下ろす。
だが、それがニールを殺す前に、目の前が急に真っ白になった。
「ん……!」
「この光は……」
わたしの手が剣を落として、心のまま、そのままに目を覆う。あれだけ操り人形のように軋んでいた体が、ふと楽になっていることに気づく。本当に糸が切れたかのように、膝がかくりと折れて、地面に尻餅をついてしまった。
何が起こったのか分からないまま呆然としていれば、わたしの耳にもしっかりと届く声があった。
「……泣かないで、ハティちゃん」
「……カレンちゃん?」
そうだ、この光には覚えがある。黒幕がほしいと思っていたもの。本来なら相容れないはずの、けれどそんなことは知らない、わたしの大好きな友達のものだ。
いつの間にそこにいたのか。他に、彼女の回りには誰もいない。この闇のせいで、アルフたちは彼女がこちらに来たことに気づいていないんだろうか。
振り向いた先にはカレンちゃんの、血と土にまみれた桃色のドレスがあった。わたしを庇うように抱き締めて、暖かな光が脳内に広がっていく。
いつかの、フラッシュバック。
けれどもいつものそれとは違う。味気ない前世の記憶や、わたしの悪しき性質が思い出されるものではない。
――――小さな頃の、熱い手のひら。大きな瞳から落ちる涙の粒。宿の窓から差す、淡い朝日。美味しいクッキーの味。手紙から立つインクの匂い。優しい人たち。
今までの大切な記憶が、一斉に押し寄せてくる。前世なんておかしいものがあって、この世界を歪に知っていて、気分屋で上から目線で悪どい、そんなわたしの歩んできた人生の記憶。
まだたった十数年の記憶だ。前世にも及ばない時間の流れだというのに、その記憶はとてつもなく大きく、わたしを押し流さんばかりに包み込んでくる。
それは間違いなく幸せな記憶だった。
ニールだけじゃない。わたしと関わってくれた皆が、わたしのために怒ってくれている。そうだったのに、なんでわたしはこんなところで、一番好きな人に剣を向けているんだろう。
馬鹿、マジで間抜け。
呪術のことを知ってて、ニールがそれを乗り越えていきそうなことも分かってて、なんで自分にはできないと思い込んでいるんだ。――――ニールにできたことが、わたしにできないわけ、ないだろ。
「う、ううぅぅ……!」
――――頭いてぇぇええええぇぇ!!!! ふざけんなよ、ボケ!! さっきより痛いし!!
でもこの痛みに耐えて、アルフはわたしに犯人を知らせてくれたこともあったじゃないか。アルフにできたなら、わたしにだってできる。てか、やってみせる。
ぎゅっと、手が握られていた。
薄目を開けば、白くて小さな手が見える。わたしが力一杯握ってしまっているせいか、赤くなっているけれど、カレンちゃんは何も言わない。
……ああ、本当に優しすぎる。今までずっと学園の闇を浄化し続けて、戦う力なんて持ってないのに、一人でここまで来ちゃうなんて。
「カレン、ちゃん。これ……」
「……これ、ペンダント?」
「ん……」
わたしは首元から下げていたペンダントを、カレンちゃんの手へと押し付けた。ニールと王都へ行ったときから、ずっと肌身離さず身に付けていたものだ。このしょぼい魔力がどれだけ貯まっているのかは分からないが、少なくとも何かの足しにはなるはず。
ああ、それにしても王都か。なんだかずーっと前のことのような気がしてくるから、不思議だ。今度は皆で行ってみたいなぁ。
ニールはきっとふてくされるだろうけど、なんだかんだで付き合ってくれるだろう。わたしはニールに、わたしだけじゃなくて、いろんな人と話してみてほしい。そんな未来が、きっと、今ならそのうち来る気がした。
「全く。我が麗しの聖女様にも困ったものだねぇ」
聞こえてきた声に、頭を上げる。やはり穏やかな笑みを浮かべる男を見た瞬間、頭痛が増した。重く鋭い痛みがずきずきと、内側から頭蓋骨を割ろうとしてくる。
「枢機卿……」
「あらためまして、聖女様。私、エルバード・ウォルノスと申します。いかにも、天の使いはやはり、美しいものですねぇ。いやはや、神の光は顕在か」
「私は、聖女じゃない」
カレンちゃんはその大きな瞳を細めて、エルバードを睨み付けた。
聖女というのはエルバードが仕立てあげた虚像なのだから、彼女の言うことも尤もだ。カレンちゃんは聖女じゃない、カレン・オルブライトという、ただの少女だ。……そう、主人公ちゃんでも、ない。
「嘘つきは、大嫌い」
「そうですか、奇遇ですね。私も虫は大嫌いです」
にこやかに、エルバードが言った。本当に害意も何もない、うっかり目の前の男が学園を闇に沈めたことを忘れそうになる、そんな顔で――――。
「カレンちゃん、逃げて……!」
エルバードはそういう顔で、平気で人を傷つける。殺すことができる人間だ。わたしにはそれがよく分かる。
わたしが言ったことがトリガーになったのか、初めからこのつもりだったのか。その瞬間に、エルバードは微笑みのまま、躊躇なく風魔法をカレンちゃんに向けて撃ち出した。彼女は逃げ出す素振りもなく、冷や汗を頬へ垂らしながら、わたしの手を握って笑った。くそ、頭が痛い。
距離は二メートルもない。勢いよく向かってくる風の刃に、対抗する術をカレンちゃんは持っていない……駄目だ!
「ん、おや……」
「え……」
とっさに前へ出ようとしたわたしの目前で、エルバードが放ったはずの風が霧散した。一瞬だったためよく見えなかったが、確かに壁のようなものに阻まれ、散ったのが分かる。
エルバードは軽く二三度魔法を放ったものの、それは全て黄金の光に阻まれる。
「なんだ……面倒なものを持っている。どこで手に入れた? ……まあいい」
エルバードはそう呟くと、小さく頭を振って近づいてきた。
なんだか分からないが、その障壁は魔法を防ぐものであって、エルバード本人が直接手を出すのに問題はないらしい。わたしは頭痛を押して立ち上がる。カレンちゃんを殺されるわけにはいかない。彼女は光属性の、言うなればエルバードの崇めるべきものだったが、彼がそんなものを気にせず人を殺せることはもう分かっていた。
彼はきっと、女神様なんて信じていない。
「劇に水を差されては困るんだよ。言う通りに動かない人形は、要らない」
「――――エルバードォォッ!」
そして、わたしたちに伸ばされた手は。
それ以上進むことなく、動きを止めた。
いやにあっさり、ため息でも吐くような動作で、エルバードはその口から血を吐き出した。
「……やられた。参ったねぇ、全く。彼は本当にしぶとい」
わたしの目がおかしいのでなければ、そう言って笑うエルバードの腹から剣の刃が映えている。その背後にはニールの姿。いつの間に拾ったのか、あのときわたしが落とした剣を、彼はエルバードに向かって刺したのだ。
エルバードは明らかに重傷だった。わたしが地下室で与えた傷に加えて、その剣は致命傷だ。その証拠に腹からの血は止まることがないし、こう言っている今でさえ耐えず出血し続けている。
なのに、その顔には焦りというものが一切ない。
「殺す……テメェだけは、殺してやる……」
「く……敵討ちのつもりかい? あの日誰もが果たせなかったことを、きみが果たして英雄気分か! いいよ、存分に嬲りたまえ。それで君の気が晴れるなら……」
「――――うるせェッ! テメェは殺すッ! 殺して、潰して、刺してもいで剥がして殺して、殺してやる……ッ!」
ぐちゃぐちゃと、刺した剣で傷口を掻き回すニールに、エルバードは笑っていた。ニールからは見えていないのだろう。エルバードの笑みは、いつもよりも深く、いつもより楽しげだ。
だめだ、駄目だよ、ニール。
それだけは。エルバードを殺すことが、今この場で最もしてはならないこと。何もかもが元に戻らなくなるかもしれない、最悪の一手だ。
『呪術』は、何かを留めるもの。エルバードは言った、ニールと自分の時を繋げて留めているのだと。だからそれを聞いたときから、うっすらそうなのではないかと思っていた。何をされても微笑んでいる彼。『ハッピーエンド』が好きな彼。彼のためのハッピーエンド。
『年甲斐もなく愛した少女に、同胞より大事にしてきた命を奪われるとは!』そんなことが、彼の求める喜劇なら。……分かってしまうよ。
ニールの手が、エルバードへ迫る。
……そう、エルバードを殺せばニールも死ぬ。
呪術はまだ完全に解けてはいないのだ。彼は別に、自分が死んでもいいと思っている。自分が死ねばニールが死ぬと、分かっているから。わたしたちの悲しみが、きっと彼のハッピーエンド。そうでなければ――――エルバードがあんなに嬉しそうにしているわけがない。
「ニール! 殺しちゃ駄目だ――――」