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閑話 決意と魔石

 ニールの最初の記憶。薄暗い地下での生活。悪臭と雑言と嘲笑に満ちた空間。


 『昨日』の記憶。貧相な武器と闇を持って戦う同胞たち。波のように現れる風と、血に染まる大地。唯一逃げ出した己だけが、引き伸ばされ延命を課された。


 そこからの、記録。

 毎晩の悪夢と昨日の記憶、零れ落ちる無意味な時間。

 女に会った。己の呪いをいつか解くことを条件やくそくに、その庇護下に入る。悪夢は終わらない。悪夢は終わらない。悪夢は終わらない――――……。


 同胞に、会った。

 それはついに悪夢に耐えかねて、何度目かの自棄に襲われたとき。さ迷い歩くニールの前に現れた、ただの子供。

 白い髪。白い肌。夜の闇の中に、ぽっかりと浮かぶ紺色の瞳。光を纏ったようなその少女は、間違いなく仲間だった。見えなくても分かる。肌で感じる。その全て、悪臭と雑言と嘲笑が一瞬だけ、甦る。


 悪夢は終わらない。

 仲間に会えても、それは変わらない。それこそがニールをニール足らしめる要因で、それがなければとっくの昔にこの体は死んでいる。悪夢は終わらないのだ。


 終わらない、はずだった。


 少女と過ごした四年半の間も、その後も、少女の暖かい家でのときも。悪夢はつねにニールの背後にあった。

 だが。だが、間違いなく変化はあった。


 少女と出会った、そこからの、記憶。

 昨日のことは『昨日』にはならなかった。――――けれども、一昨日くらいにはなった。

 少女がもたらした恐怖や嫌悪、苛立ちに、久方ぶりに心が揺れた。少女がくれた、暖かいもの。名前すら知らない、そんな感情は胸の奥にこんこんと降り積もり、ニールを変容させる。


 小さな少女を抱き締めてしまう。いじめてしまう。笑ってしまう。遠ざけてしまう。馬車から降りるときに、自然と手を差し伸べてしまう。

 何からだって、助けてあげてしまいたくなる。


 そんなものは、あの日から生きてきた『ニール』ではない。髪も伸びない、爪も伸びない、きっと食べなくても餓死すらしないだろうこんな体で、それなのにどこかが絶対的に、変わってしまった。はっきりと思い出せる少女の顔が、それを助長する。

 隣にいた子供は、毎日髪が伸び、背が伸び、体も女らしくなっていく。それと同じように、毎日、毎日、ニールの中身が育ってしまう。変わっていく。


 気がつけば憎悪と空虚に支配されていた心が、いつの間にか別のもので溢れ返っていた。

 美しい少女。けれど中身は記憶と違わない。いつまでもどこかずれた、青い瞳。いつか思ったことと、同じような、それでいて全く正反対のことを想う。

 もっと、近くで見ていたい。衝動は悪夢と同じように、しかし日増しに強くなっていく。手に入れたい。触れたい。たわいのない会話に花を咲かせて、いつかの記憶のように二人で暮らしてみたい。誰にも触れさせたくない。その声で、あの目で、誰かを呼ぶことが――――許せない。


 この、無意味で無価値な長い人生を、終わらせるための出会い。ただ、それだけの、はずだったのに。


 呪いは相変わらず、ニールの体を苛んでいた。

 けれどもそれと相反するように、心だけは楔から解き放たれる。忌々しいあの男との繋がり。同じ地獄を見たはずなのに、あれは笑っていた。その『昨日』の記憶。

 それを上回る、少女への慈愛。


 だが――――ニールの人生は、逃げ出した人生そのものだった。

 『辛いことを思い出す必要なんかありゃしねェ。逃げたって誰も責めやしねェし、それでいいんじゃねーの』。確かにそうかもしれない。かつて少女のためにと、遠ざけるために告げた言葉。

 逃げ出したニールを責める人間はどこにもいなかったし、思い出す必要がないのなら、悪夢を見ることをよしとはしなかっただろう。だからそう、言ったことは間違っていない。


 ただ、それは間違いなく逃げの一手。

 逃げれば、必ずつけが来る。ニールが逃れようのない悪夢きのうに追われるように、背中を見せれば、たちまち獣は襲い掛かってくるのだ。

 ニールは逃げ続けた。戦いから。『昨日』から。あの男から。そして、悪夢を色濃く呼び寄せる、学園に満ちた闇から。


 その結果つけが、目の前にある光景だ。


 目を閉じた最愛の少女ハリエット。簡素なベッドの上で手を組む彼女は、もう二度とあの瞳を見せてはくれないのではないかと言うほどに、儚かった。


「ああ……」


 情けない声が漏れる。目の前の少女がもしこれを聞いていれば、何事かと目を丸くしただろう。そして、口の端を吊り上げて、笑う。

 夢想だ。一歩、一歩と近づいても、目の前の光景は変わらない。

 ベッドの横に跪いて、組まれた手を握る。柔らかく白い手は、いつかの体温よりもずいぶんと冷たかった。きつく握り込んで、額に当てる。


「俺が……逃げたせいかよ……」


 あの日、もし死んでいれば。少女がこうなることはなかったのだろうか。もし、この日の前からあの男に立ち向かう勇気が持てていれば。目の前に広がった同胞の怨嗟から逃げず、彼女を一人で、行かせたりしなければ……。

 『昨日』以来の、深い後悔。

 ともすれば、あの地獄よりも深い絶望だ。もう二度と巡り会えないだろう、呪術を凌駕するほどの想いを寄せた人。逃げてばかりで、まだずっと若く幼稚で、変わらず卑怯で臆病だったニールが、唯一。知らぬはずの愛を示せた人間。

 そしてそれに、恐らくは答えようとしてくれた、少女が。


「……あの、男が……」


 あの男が。あの狂った男が、少女に触り、何かを奪い、縫い付け、引き伸ばした。だから少女は目を開かないし、笑いかけてもくれないし、名前を呼んで、文字通り一世一代の告白の、約束した返事をくれない。


 目の前が黒く染まっていく。相変わらず視界にちらつく同胞が、今だけは同じ憎悪をもっていることに、安堵する。


 ニールは握っていた手をそっと離し、立ち上がる。見下ろした少女は相変わらずだったが、その露になった額に一つ、唇を落とした。あの時のお返しには到底及ばないだろうが、ないよりはましだ。


「行ってくる。ハリエットの留められたものを、返してもらう」


 それはこの長い人生のなかで、ようやく、ようやくできた決意だった。

 もはや背後に道はない。逃げて、逃げて、逃げ続けた男は、いつの間にか最初の場所へと返っていた。だから、ここから。


 数多もの同胞を殺したあの男の首をはねて、ようやく一歩、前へと進むことができるのだ。

 ニールは腰にある短剣の握りを確かめて、少女に背を向けた。





 アルフは呆然と、一度顔を会わせたことのある男の姿を見つめていた。


 ノックの音に、ヴィクターが何かを伝え忘れたのかと近づけば、不思議なことに厳重に閉ざしたはずの扉が開いた。焦るアルフを尻目に現れたのは、恐ろしいほどに空虚な顔をした、茶髪の男。


 見覚えのあるその顔は、一度、ハリエットの家で共に食卓を囲んだことがあった。名前は確か、ニール。ハリエットの元教師であったはずだ。

 不思議と、前に感じた嫌悪感は薄れていた。用を聞こうと近づいたアルフに、ニールは振り向かない。

 その元教師は、アルフに一瞥もくれることなく保健室を横断し、少女の眠るベッドへと近づく。


「あ、あの……ちょっと?」


 まるでアルフがいないように、一切のそれを無視してニールは進む。

 そうして少女が眠るベッドの前に跪くと、何やら、ブツブツと言葉を溢しながら、彼女の手をきつく握っていた。遠慮のないその仕草に、二人はずいぶん親しい間柄だったことが伺える。

 二人の間には、アルフが記憶していない何かがあるのだろう。もしかすると、失った記憶の中にでも答えがあるのかもしれない。妙に気になったそれを、半ば無意識的に思い出そうとする前に、ニールは手を離して立ち上がった。


 そして――――額にキスを落とす。


 アルフは目の前の光景が信じられなくて、半端な姿勢で立ち尽くした。ニールが颯爽と部屋を出ていく様を見ても、一言も言えぬまま。引き留められなかった手は空に伸びたまま、アルフは先程の光景を反芻した。

 二人は何か、そういうことがあったのだろうか。


 頭が痛い。それは記憶を思い出そうとしたときにくる痛みではなく、何かに殴られたような衝撃。

 消えた記憶の中に答えがある? だとしたら、どうして――――。


 眠る少女を見下ろす。

 シーツに散らばる白い髪。治癒のお陰で傷のない頬。投げ出された手に、ボロボロの着衣。何かの拍子にか、掛けてあった小豆色の上着が床に落ちていた。


 彼女は、もうすでに、誰かのものだったのだろうか。だとしたら、だとしたら……。


「……?」


 ふと、見つめていた少女に、違和感を感じた。触るのを躊躇わせる生理的な嫌悪感ではない。アルフだけではなく、誰にでも分かる普遍的な違和感。おかしいところ。


 どうして。


 どうして、腹部に何か・・埋まっている・・・・・・んだ?


 ボロボロの衣服を着替えさせる間もなく、この保健室に立てこもった。だからこそカレンに着替えを頼む時間すらなくて、少女の衣服はそのままだ。

 しかしながら、晒された肌を見るのはよくないと思い、サディアスの上着を体に掛けていた。その上から手を組ませて、落ちないようにもしていた。だから今まで気づかなかったのだろう。


 耐えがたい本能からの嫌悪感をおして、恐る恐る、少女の腹に手を伸ばす。布越しに探ったそこは、アルフの爪に当たってこつりと固い音を立てた。


「……ハリエット、悪い!」


 嫌な予感と背筋を這う悪寒に、思いきってシャツをめくる。

 男物のそれはワンピースとは違って、アルフに見たいものだけを、正確に見せてくれた。否、本来、間違っても見たくはないものだっただろうが。


「――――な」


 絶句する。

 ハリエットの生白い腹に浮いていたのは、拳よりも大きいくらいの、巨大な魔石だった。癒着したようにぴったり張り付いたそれは、見た限りでは半分ほどが体に埋まっているように思える。


 アルフは恐怖に駆られて、思わず数歩後ずさった。


「どうなって……どう、すれば……」


 どうすればこんなことになる。どうすれば、これを取ることができる? どうなっている。これはいったいなんなのか。分からない問いかけがぐるぐると回って、アルフの体を震えさせた。

 ――――誰かに知らせなくてはならない。誰か、教師にでも。

 混乱する頭の中で、ようやくそれだけが閃く。扉へ向かおうとしたアルフの耳に聞こえてきたのは、複数の足音だった。


「……っ」


 とっさに息を殺す。

 なぜかニールには破られた扉だが、しっかりと鍵はかかったままだった。それでもなお取っ手を押さえていると、乱暴なノックが扉を震わせた。


「アルフ! 開けろ、緊急事態だ!」

「……ッ、どうした?」

「闇だ! また、闇が広がってる。今度は外――――闘技場の方からだ!」


 その声を聞き、扉を叩きつけるように開く。開いた扉の前には、ヴィクター、カレン、サディアスと――――馴染みのある講師、ユリエル・クラインの姿があった。


 待ちわびた教師の存在に、一瞬だけ、心が緩む。それを引き締め直すと、真剣な顔をしたヴィクターに向き直った。


「とりあえず、入って。あの暴徒どもは……」

「今は外の闇に怯えて、すっかり前の状態に戻っている。それより、早く闘技場へ向かうべきだろう。ここは閉めて、用意を――――」

「待て。見てほしいものがある」


 苛立つヴィクターを押し止めて、アルフはユリエルの腕を取った。無理矢理にでも部屋の中へ引き入れて、少女の前に連れていく。

 急いでいるらしいヴィクターもただならぬ雰囲気を察したのか、髪を掻き上げると、いつもの冷静さを取り戻していた。


「アルフくん、見せたいものって言うのは……ハリエットちゃん?」

「これ、です」


 アルフが震える手でめくったシャツに、一瞬眉を寄せていた三人が息を呑む。

 そこにはやはり何度見ても、肉体に埋め込まれた魔石が鎮座している。


「これは……いったいなんだ!?」

「……魔力で無理矢理溶接したように……こんな、おぞましい魔法を、私は知らない……」


 ユリエルが呆然と、呟く。柔らかい皮膚と意思の境目をなぞって、己の肩を抱いた。

 だがすぐに、自身の片眼鏡モノクルをいじって、一人の研究者としての目をそれに向ける。ユリエル以外の四人がそれを見守る中、彼はよれた白衣から取り出した紙に、何やら複雑な文字を書き連ねていく。


「これ、なん、ですか……?」

「特殊な魔法の組み込まれた、魔石だね。もはやハリエットちゃんと同じくして、一つの魔術具と言った方がいいかもしれない」


 少女から目を離さず、ユリエルは端的に告げる。


 四人はどうしようもなくそれを見守り続けていたが、不意に廊下から悲鳴が上がり、その硬直が解けた。確認しにいったサディアスが、窓越しに高く上る闇を確認する。


「まだ微弱ですが、生徒の興奮状態は異常です」

「まずいな……またパニックが起こる可能性がある。闇魔法が抜けきってないんだ……」


 思わず爪を噛むヴィクターに、背を向けたまま声をかけたのはユリエルだった。休む間もなく手を動かしながら、話も聞いていたらしい。


「きみたちは闘技場へ急ぐといい。私がハリエットちゃんを見ていよう。戦闘じゃあんまり、役に立たないしね」

「……頼みます。アルフ、行くぞ。今度こそ役目を果たさねばなるまい」

「……ああ。クライン先生、お願いします」


 冷静に、即決したヴィクターの言葉に、重々しくアルフは頷いた。ここに少女を一人残すよりも、教師が一人残ってくれるならありがたい。まだ、あの魔石がどんなものなのかという不安は残っているが、闘技場の方も心配だ。


 先頭を行くヴィクター、サディアスと、カレンもそれに続く。

 わずかに始まった頭痛を抱えて、アルフはしんとした廊下を駆けた。――――何かを思い出せそうな、そんな予感を抱えながら。


 窓の外では、黒々とした闇が狼煙のようにくすぶっていた。

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