序章 調律と不協和音
異端者は必ず存在する。
存在するが異端者が異端でない時、異端者以外の人間すべてが異端者となる。
異端の基準は大多数によって決定権を持たない事実も存在する。
時が過ぎてしまえばそれほどでもないと感じるものだが、歴史を振り返る中で見る一場面や惨劇、事実には眼を覆いたくなるものも多く存在し、わたしが学校の授業で見らされたその映像もその1つだと言われているが実感が持てなかった。
学校の教育と言うものは万物を教えられず、限界が存在し、理数科系と言った固定化された概念を無視し、教える側と教えられる側に解釈の違いが存在し、時の経過で変化を起こすもので、教える側も実感を持ってないように見えた。
宇宙の誕生に始まり、机上の空論とも言える果てしない先に見える滅びの未来と先人たちが眼で見て知り伝えた一部分をわたしたちは教えられるが、教える側と言うか、先生たちも似たような見解だとも思った。
映像で目立つのは中央と言うか、画面全体に広がった炎で、炎の周囲では数多くの人間が動き回る中で炎の中にたくさんの物体を投げ入れていた。
投げ入れられた物体は投げ込まれると最初は燃えてないように見えるも、火が燃え広がり、十数秒も経過すれば燃え尽き黒い塊こと、炭化する以前に投げ入れられる物体が絶えず、炎は絶えず燃え広がっていた。
投げ入れられている物体の中で特に多いのは本で、多くが1枚の食パンよりも厚く、手のひらよりも大きく、色も多種多様だが、多くが同じような外見の本だった。
当時多種多様な言語に翻訳され、世界各国に広まり、世界で一番読まれた本だそうで、この映像を一見すると現在では読むことを許されないとも思われるが、普通に流通し、身近なもので、大切にしている人間が現在でも数多く世界に存在することも事実だ。
映像は続いている状態で、燃え盛る炎は終息の域を決して見せず、投げ込まれる物体も数が増えていき、本以外にも人や記号を模った彫刻や絵画などの美術品、高価に見える装飾品も投げ込まれていた。
地獄絵図とまでは言えないが、燃え盛る炎が映った長く見ていると眼が疲れる気がして少し眼を反らし、熱くもないが、気の持ち用次第では熱いと言うもので、眼を反らしても音声が届くと言う現実は変わらなかった。
炎自体には音はないが、燃やされた物体や燃やすためのガソリンや灯油、それにガスと言った燃料への引火や、景気良く燃えている炎に感心だと言う人間たちの騒ぎ声が終わることなく響いていた。
映像が続けば燃料特異の臭気までしてきそうな勢いで、わたしは思わず耳を覆いたいとも思ったが、授業を聞かないのはさすがにまずいとも思いしなかったが、隣の席の子が気づいたのか、大丈夫かと言うように手でわたしの机を軽くたたいてきた。
顔を向けると眼を心配そうに向けていて、わたしは声を出しはしなかったが、大丈夫だよと言うように笑顔で返した。
どこのだれが見てもいつも通りと言うような光景で、映像に移る光景とわたしたちの現状はあまりにも逸脱していて実感が持てないことが現実で、だれも関係がないと考える事実が存在する。
決して無関係とまでは言いきれず、無視や知らないふりを続け、興味を持たなければ関係性は本来高まることはないが、対象がわたしたちに無視し、黙認し、興味を持つ事実も存在している。
先生に眼をつけられ、注意されると言う事象もその1つだが、わたしたちは幸いにも気づかれず注意されることはなかったが、考えるべきはこれからわたしたちの身に起きたことだ。
わたしが選ばれたとも言えるが、理由はと言えばないと言えばなく、あると言えばあるそうで、わたしはと言えば深く考えることもむだだが、考えるしかなかったが、幸いなことも1つだけあった。
授業に関係すると言われ、現実の映像だと言われ見せられてもわたしだけではないと思うが、だれでもだが実感が持てない生徒が多いことが現実だった。
映画を見ているようにも感じられ、先ほどから見える本を炎の中に投げ込んでいる男の人も、同じことを繰り返していて、本当は演技か機械かと思い、同じ映像を繰り返してみているような錯覚も持てる気がした。
錯覚も持てたが、少しすると投げる物体が彫刻や美術品へと変化し、2人や3人で運び投げると言った変化と呼ばれるものは発生したが、結果として同じことをしていることに大層な変化はなかった。
映像では歓喜や憎悪、悲観するような声が混じり合い人間の声かも区別ができないような獣のような声も聞こえていた。
悪夢にうなされたことはないと言うか、夢を見てもよく覚えてないことも多く、覚えていたくもないが、起きたままで強引に見さされているようにも感じられ、わたしは少し気落ちしていた。
重要で知る必要があると言うことはわかるが、見る事とは別物で、わたしは隣の席の子の方へ無意識に顔を向けていた。
見てみるとわたしと同じような表情と言うか、それ以上に少し苦しそうな表情で、わたしは思わず心配になり、その子の机を周囲に気付かれないように軽くたたいていた。
手に気付き音を聞くとわたしに眼を向けると、大丈夫問題ないよと言うような笑顔を向け、わたしもそれならよかったと言うように顔を前向きに戻した。
だれかに語る必要も特にないと思われるような何気ない一時や一瞬、物事で、見ている映像は現実と違い凄惨な世界が映し出されているが、現実の一部として認識されている状態だった。
悪く言うと退屈な一時で、意味がないと言うわけではないが、似たような映像も永遠と続き、むだに長く、意味があるのかと聞きたくもなるが、暗黙の了解でだれも聞かないのが常識だ。
常識以前に疑うと言う思考が存在しないと言う方向性が正解で、わたしは言う通りの真実を目の当たりにしていたが、実感していないのが実情だった。
実感していないとは言うが、知識としては頭の中に入っていて、理解はしているが、実感や現実性に欠けていて、通り過ぎた過去のことだと言う認識で見ていた。
他のだれでもと言うか、教える先生こと、教師も実際に知っている人間は存在せず、とにかく知ってほしいと、頭に入れておいてほしいと、言いから見ろと考えている可能性もあるのではないかとも思った。
真偽を確かめることは難解以前に、探すのが面倒でわたしをふくむがだれもしないと言うのが現実で、わたしたちにできることはと言えば、とにかく頭に入れておくことだ。
完璧とまではいかないが、備えあれば患いなしとも言い、勉強も同じことをうまく繰り返すことが一番効率がいいとも言われ、頭に入れておく以上に、映像の内容は身体にしみついていると感じることだった。
染みついているとは言うが、この染みつきは日本の藍染のような立派な染物ではない染み汚れとも言え、汚れとも考えられて拭きとられることや、何度も洗い直すことで色褪せ、姿を消してしまうような染みつきだ。
決してなくなっていないとは言い切れないが、残っているのは断片的なもので、記憶の部品だと表現するとすれば、記憶は非常に希薄な状態とも考えられ、思い出すと言うことは皆無の可能性とも考えられる。
皆無とは言うが、わたしはと言えば映像には関係なくはないが、わたしは記憶の断片と言うか、気になるがことが存在し、知りたくて事実を知ろうと奮闘する中で、思わぬことを知ることになってしまった。
無関係とまでは本気で思っていなかったが、考えてみると無関係と考える方向性に近い惰性的思考で、わたしはと言えば深く考えることもむだだが、考えるしかなかったが、幸いなことも1つだけあった。
集団を率いる能力は人間以外にも備わっている。
自然淘汰の中の生物たちが一般論だが、生物でなくても効果を発揮する物体も存在する。
1冊の本や、眼に見えない人間個体の思考、そして道や答え、理想だ。