act.8 変わらぬ優しさ
子供のように泣きじゃくったセシリアを、クレイグは何も言わず優しく抱きしめていてくれた。その温かい腕の中に安心し、そして変わらないクレイグの優しさにセシリアは打ちのめされてしまう。変わらない、クレイグがライアンだったころとまったく。
落ち着いてくると、今度は泣いてしまったことが恥ずかしくて顔を上げられない。このままこうして抱きしめられているのも耐えられず、セシリアはもぞもぞと体を動かす。
「泣きやんだ様ですね」
「・・・・・はい」
「目が赤くはれている。冷やさないといけませんね」
じっと至近距離で顔をのぞきこまれ、セシリアはひっと顔をひきつらせる。
そんなセシリアの態度に些か傷ついた表情をするクレイグ。
「何もしませんよ、今は」
「わかっています。わかっていますが……」
反応してしまう自分の体が憎い。怖いのか恥ずかしいのかわからないが、とにかくクレイグがあまりに近い位置にいることを改めて認識し、自意識過剰にも反応してしまうのだ。
とにかくこの状態でいることが気づまりだ。同情されることは自尊心を傷つけることになるのだから、早々に離れておきたい。
「あの、離してください」
「嫌です」
「えっと、あの?」
何と言われたのかわからず聞き返す。満面の笑顔を作ったクレイグは、もう一度セシリアを腕の中に閉じ込めてしまう。
「せっかくの機会ですので、あなたを堪能させていただきます」
「は、離してください」
「だから嫌ですってば」
「私も嫌です」
「我慢して下さい」
「我慢などできません」
すっとクレイグの手が背中をゆっくりと撫でる。
びくっと反応して顔を上げれば、クレイグが苦笑している。
「そのような反応をされると、困ります」
困るのならやらなければいいのにと唇をかみしめて睨んでやる。
「でも、やめたくない」
右手が頬に触れてくる。包み込むように撫でるクレイグの手は暖かく、セシリアは何をされるのかわからず困惑したまま。
本当はこのまま唇を奪うこともできるのだが、クレイグはそれをやめておいた。また泣きだされたら困ってしまうから。
泣き顔を可愛いと思うし、泣かせてみたいとも思うが、真っ赤な瞳を見ていると優しく労わりたいとも思えてくる。
「エミリーを呼びますよ」
「それは困りますね。出入り禁止にされてしまう」
「禁止令を出して、あなたはそれに従うのですか?」
「従うわけありませんよ。婚約者に会いに来るのに許可が必要なのですか?」
「まあ」
呆れた声を出すセシリアに、クレイグはやっと彼女をカミラとは別の人間だと認識し始める。
カミラの時は常に笑顔を保ち、ライアンのやることをすべて感心したような眼差しで見つめていた。何をやっても驚いて感動するカミラが可愛らしくて、ついつい大げさにやっていた。
だがセシリアは違う。しっかりと両親や家族に愛されて育ち、嫌なことは嫌だと口にして自分の意見を曲げたりしない。カミラとはまったく違うのだと気付かされる。
「どうかしましたか?」
じっと見つめてくるクレイグの視線が普段とは違い鋭いことから、セシリアは自分が何かしたのだろうかと不安がよぎる。どう思われようとかまわないはずなのに、どうしてもクレイグのことを意識してしまう。
「何もありませんよ。ただ、そうですね」
ひょいっと顔を近づけ、頬をぺろりと舐める。
「おいしそうだと思いまして」
何をされたのか一瞬理解できず、セシリアはゆっくりと体を震わせる。怒りのためか顔を真っ赤に染め、半泣きになりながら抗議する。
「た、食べないでください」
「おいしそうなセシリアが悪いと思いませんか?」
「思いません。いいですか、殿下。絶対に私には触れたりしないでください」
「抱きしめたくなっても?」
「我慢して下さい」
「我慢は体に悪いと思わない?」
「思いません」
「だったら、セシリアが我慢してよ」
「は?」
「我慢は体に悪くないと思っているセシリアだったら、私が何をしても我慢できるよね」
「何を言って」
「よし、決まり。よかった、やっぱり我慢なんて体によくないよ」
「~~殿下」
「……いい加減名前で呼んでもらえないのなら、実力行使するよ」
うわ、笑顔が怖い。
わざと名前を呼んでいないことに、気づいていないわけはないのだからどこかで言われるとは思っていたが、このタイミングだとは思わなかった。
「どうする?」
無駄にキラキラと効果音がつきそうな笑顔を見せるクレイグだが、実は目は笑っていない。本気で怒っているらしく、セシリアを見つめる視線は冷たい。
「ご、ごめんなさい」
「よろしい。セシリアだって、私がカミラカミラと呼んだら嫌だろう」
「確かにその名前で呼ばれるのは嫌です。それは私の名前ではありませんから」
「では殿下という呼び名は私の名前か?」
「違います」
「もうひとつ。セシリア様」
「やめてください」
「嬉しくないだろう」
「そういうことではなく、困ります」
「だったら、私が言いたいことが何か分かるよね」
「……わかりました、お名前でお呼びいたします」
言い負かされてしまった。いや、最初から本気でクレイグに反論する気などなかったので、そのうち彼の思う通りになっていただろうとは分かっていたので、文句はない。
「よかった。そろそろ実力行使をしようか悩んでいたのだよ。セシリアは自尊心が強いから、どうしたらいいか楽しみで仕方ないし」
本気でやめてもらいたい。溜息をつきたい気持ちを押し殺し、セシリアは曖昧に微笑んだ。
逃げる道を自分から閉ざしてしまったとはいえ、こうして向かい合うことになるクレイグと一生を共に歩めるのか不安を抱く。考え方が根本的に違うのだ、言い負かされて終わりだとは思うが、それではセシリアの負担が大きすぎる。
けれど、それでも時折感じることがある。カミラの記憶を持っていることで、セシリアは彼女とは違う性格だと自負している。あの時にああしていればと思うようなとき、セシリアは自分から行動を起こすようにしていた。そのせいで子供ながらに大人の行動をするセシリアを両親が心配しているのだが。だがクレイグはライアンと同じ性格のように感じるのだ。確かに子供っぽいところはライアンにはなかったものの、考え方や行動が同じなのだ。まるでライアンの行動をまねるように。
まねているのであれば、その理由をセシリアは知りたいと思う。民からも愛される、第二王子。それが世間一般のクレイグの評価だ。兄である皇太子を立て、自身は裏方を徹する。その行動が王族だけでなく臣下からも評価され、愛されキャラとなっているらしい。
ライアンは、どうだったのだろうか。そうやって考えてみて、初めてセシリアはライアンがどのような立場にいるのかを知らないことを知る。クレイグと同じでライアンにも皇太子の兄がいた。とても仲が良いと聞いてはいたものの、公式の時に一度しか見たことがなかった。ライアンとはどのような人物なのか、セシリアはカミラの目を通しても知ることがなかったのだと今頃知ってしまった。
「どうかしましたか?」
困ったようにクレイグを見つめるセシリアの視線に気づき、優しく微笑む。
まるで何もかもから守るような雰囲気でセシリアを囲むクレイグは、かつてのライアンを思い返す。何も知らせようとはしなかった。ライアンはカミラに何も期待していなかったということだろうか。
優しさは変わらない。守ろうと努力してくれるだろうとわかっている。けれど、その変わらないものの中には、クレイグにもセシリアに何も期待していないのではないかと不安がよぎった。
過去を清算するためだけの道具としてしかセシリアを見ていないのだろう。
ずるい、と感じた。
まだ気持ちの整理がついていないセシリアとは違い、クレイグは先の先まで考えているような気がしたのだ。根本的な考え方の違いかもしれないが、クレイグの傍にいることでカミラの影響力が強くなり始めているせいか、考え方が狭まりつつある。
このままではいけない。そう思っても、簡単に離れられるのだろうか。
「セシリア、どうしたの?」
微笑みながら不安を取り除こうとしているクレイグの行動に、セシリアはまた間違いを起こすのではないかと錯覚を起こす。
明日は陛下たちとのお茶会があるのだ。変なことを考えず、明日に備えて今日はもう休んだほうがいい。
「なんでもありませんわ」
ぎこちない笑みを浮かべて、セシリアはクレイグを拒む。
切ない笑みを浮かべ、それでもクレイグは食いつこうとする。
「セシリア?」
「放っておいてください。私のことになど構わず。明日はちゃんと王宮に向かいますし、あなたの婚約者として相応しい態度をとりますから」
「どうしたの?」
「少しだけ、私を一人にさせて下さい。これ以上私にカミラのことを思い出させないで」
私をカミラにさせないで。
悲痛な思いで叫ぶ。
私はカミラではない、セシリアだ。
「あなたはカミラではない、セシリアですよ。大丈夫、私は間違えたりしませんから」
高ぶった感情を抑え込もうとするセシリアに、クレイグはこれ以上の侵入を諦める。かたくなに拒んでいるセシリアに、これ以上は刺激を与えないほうがいいのだろうと判断する。
「明日、お迎えにまいります」
「ええ、お待ちしておりますわ」
笑おうとして失敗するセシリアの表情は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
その顔が、かつて見たことのあるカミラとの表情と重なり、クレイグは自分の行動に自信が持てなくなってくる。また間違えてしまうのだろうかと。
静かに扉を閉めたクレイグは、隣の部屋で控えていたエミリーとケネスに曖昧に微笑む。何も聞いてほしくなかった。
「セシリアの傍についていてあげて」
「はい」
それだけでエミリーはそのままセシリアのいる部屋へと消えていく。
心象が悪くなるなと思いながらも、悪くならない方向には持っていけないだろうなと自嘲気味に笑う。
「お疲れですか?」
心配そうなケネスに、クレイグはいいやと首を振る。こうなることは計算済みのはずだったのだから。
後悔などしないための行動なのだ。だからこれは後悔ではない。これからのための大切な布石なのだと自分に言い聞かせ、クレイグは王城へ戻った。