sct.5 麗しの婚約者
一夜明け、セシリアは昼もだいぶ過ぎたころにやっとベッドから起き上がった。寝不足のせいか痛む頭を押さえながら着替えを済ませ、寝室の扉を開けてからうんざりした表情を作った。
「おはよう、セシリア。今日もいい天気だよ」
飛び込んできたのは爽やかな笑顔でセシリアの私室でくつろいでいる、この国の第二王子のクレイグの姿だ。気分が最悪な時に見るキラキラ光線はセシリアの荒んだ心には眩しい。同時に思いだされた昨夜の自分の行動に、頭を悩ませる。
どんな理由があろうとも王族に手を挙げてしまったセシリアは、ことの重大さに我に返る。なんてことをしてしまったのだろうと顔を真っ青に染めたセシリアに、クレイグは自分に非があるからと他に他人がいなかったことを理由に穏便に終わらせていた。本当にそれでよかったのかと弱みを握られたような気もしないでもなかったが、とっさの行動に家族のものに飛び火がかかると思うとその甘い誘惑に乗ってしまった。
生まれてからずっと口よりも先に手を出してしまう暴挙などに発展したことはなかったのにと、昨夜は帰ってきてから反省をしていた。そのせいで寝る時間は遅くなり、考えすぎで頭も痛いのだ。原因であるクレイグが目の前にいるとため息をつきたくなる。カミラの記憶を思い出してから、セシリアはそんな頭に血が上ってかっとなったことがなかったために、実は記憶を持たなければそんな性格に育っていたのかとひどく自分を打ちのめしていた。
「あの、昨夜は本当に申し訳ないことを……」
「気にしなくていいよ。私もそのあと、好きにさせてもらったから」
柔和な態度で接しているクレイグだったが、すぐにあの後の行動を思い出してげんなりしてしまった。
なにしろ平手打ちをした瞬間に、セシリアの心は無礼を働いてしまったことで固まってしまった。すぐに非礼を詫びて謝罪を受け取ってもらったのだが、そのあとが問題だった。笑顔を作ったクレイグは、無言でセシリアの手をとるとそのまま唇を重ね合わせてきた。いきなりのことに反応できなかったセシリアは一瞬だけ我を忘れたものの、すぐに嫌悪が体中を駆け巡り、必死の抵抗を示した。けれど解放されることはなく、深いキスをクレイグから何度もされてしまった。
息が上がり真っ赤に染まったセシリアを、支えるようにクレイグが腰を抱いて会場へと戻った。婚約者候補を吟味する会場で頬を赤く染めたセシリアは情事のあとのような妖艶さを加えさえ、腰でしっかりと抱えて戻ってきたクレイグに注目が集まる。周囲からどのように見られているのか不安に思い、必死にその手から逃れようと思うのだが、足に力が入らずされるがまま。会場がそんな二人に注目を浴び始めると俄かに騒ぎ始め、壇上で談笑している陛下たちのもとにも広がっていく。
クレイグはそんな騒ぎや視線など気にも留めず、こともあろうか陛下と王妃の前まで平然とした顔で歩いたかと思えば、声高だかに宣言をしてしまったのだ。
「両陛下、私が探していたのは彼女です。やっと見つけることが出来ましたので、私はこの方を妻にいたします」
頭を下げて対応しようとするセシリアを無視して、さらりと口にしてしまったクレイグを止める暇などなかった。その言葉を耳にしたのにもかかわらず、理解することを頭が拒否したかのように驚き固まっていた。
戸惑っているセシリアに気づくことなく、すぐに陛下と王妃は賛同を示し、二人きりになるように手配をしてくれた。誰一人意見を許すことのない空気が会場を包んでおり、セシリアは助けを求めるために後ろを伺った。ふと、セシリアと同じように困惑している子爵を見つけた。青白い顔でセシリアを凝視しながらも、瞳は心配するような眼差しを向けてくれる。
どうすることもできずされるがまま部屋に二人きりにされてしまった。どうすればいいのかと思案するセシリアに、けれど何をするのでもなくソファーに座って見つめてくるクレイグがとにかく怖かった。何を考えているのかわからない、瑠璃色の瞳。物静かな深い青色はセシリアの心をざわめかせ、落ち着かなくなる。
どうして、そんな瞳で見つめてくるの?
憎しみの宿った感情を押し殺しているのだろうかと不安に思うものの、纏う雰囲気にそのような感情はなさそうだ。かといって、かつて持っていた恋慕がクレイグを支配しているのかとも思ったが、それも違うようで。
同じように憎しみの感情しか抱けないと思っていたクレイグが目の前にあるのに、セシリアもなぜかその思いが胸にこみあげてこないことが不思議であった。あれだけひどいことをされたのに、クレイグのことを危険視しないことが疑問だった。
その瞳から逃げるようにして屋敷へと戻ってきたのは明け方近くであった。
眠らず待っていてくれた子爵に何も言うことが出来ず、セシリアはベッドに蹲って目を閉じた。眠れそうにないほど興奮をしていたが、気づいたら寝ていたようだ。
しかし、寝起きにクレイグの笑顔は心臓に悪いとセシリアは改めて思った。破壊力がすさまじい、ライアン王子と同じ顔であるだけに。
「クレイグ王子」
「クレイグだけでいいよ。君は私の婚約者なのだから」
「はっきり言わせていただきますが、迷惑です」
「通達はまだだけど、すぐに子爵の手に届けられると思うよ」
「そんな……」
「やっと結ばれることが出来るね、セシリア」
話が全く通じず、むしろこの応酬さえも楽しむように優雅にお茶を飲んでいるクレイグの様に見とれていたセシリアは気を引き締めながら、悲愴な顔で抗議する。
「どうしてですか」
やるせない気持ちが最初に現れてしまう。相手は自分のことをどう思っているのかわからないのに目を奪われてしまう、その笑顔に心が惹き寄せられる。好きだったというカミラの恋情がセシリアの感情を支配する。
だけどここが踏ん張りどころだ。
「君だからわかると思うけど、私はずっと後悔をしていた。私は現世で生を受けてすぐに記憶を取り戻し、君にずっと会いたくて仕方なかった。けれど生まれ変わりが誰にでもあり得ることとは思えなかったから、絶望が襲ったよ。私にはやり直す機会は訪れることはないのだと」
本心からの言葉なのかセシリアにはわからない。記憶を持っていることは確かなのだとは理解できたが。
「何よりも、私は過去を清算してやり直したい。ずっと君だけを探していたよ、こうして再会することが出来ないとわかっていても」
もしかしたらクレイグは、ライアンだったころの記憶があったことで色々なことに損をして、大切なことを捨ててきたのかもしれない。けっして褒められるような過去ではないことから、それを清算してこの新たな生を歩みたいのだろう。言葉だけの謝罪かもしれないが、クレイグの瞳に偽りはないように感じられた。
「どうして私なのですか」
「それこそ簡単な理由ですよ、君がカミラだから。そうそう、今更隠そうとしても遅いよ、君がカミラの記憶を持った生まれ変わりなのは、昨夜のうちに確信してしまったからね」
「覆すつもりはありません。ですが、カミラとして認識して下さっているのであれば、私を自由にして下さるほうが得策だと思うのですが」
真意がどこにあるのかは知らないが、セシリアにとっては過去は過去、忘れてしまいたいけれど忘れることのできないものとして自分の中で折り合いを見つけている。それをそっと引出しの奥深くにしまっておいた。
けれどクレイグの行動は、その引き出しを開けようとしているのだ。知らぬとはいえ、セシリアの心を大きく抉ろうとしているとしか思えないのだ。
「どうしてかな」
「私がカミラだからです。あなたはあの時、私を拒みました。待ち続けたあの日、あなたからの痛いほどの辛辣な言葉を受け入れるしかできなかった私にとって、あれだけが答えなのです」
「そうか、確かにあれは君を拒否したことになるかもしれない。けれど、本心ではなかったと言ったらどうする?」
探るような眼差し。いつだってこの視線がカミラの時はついて回っていた。生まれた時からずっと、父親と姉から。そして育ててくれた乳母や使用人たちからも。ライアンには式を上げた日以来会っていないので、嫁いだ先の使用人たちからも同じ視線が絡みついてきた。こちらを心配する瞳は一切なく、いつだってあったのは疑いの眼差し。
そんな中での生活は精神を疲弊させ、心を麻痺させていく。ここに自分はいてはいけないのだと疑心暗鬼になり、ついにはセシリアは心の闇に囚われていった。
「どのような思惑があろうと、真実は一つだけです。私にとっての真実は、私とあなたがカミラとライアンであったころ、あの初夜のあなたの態度だけです。だから、何があろうと他の言葉には惑わされません」
結婚式の時の刺すような視線も記憶に残っているものの、何よりも印象的なのは初夜の暴挙だ。あれ以上の屈辱も悲しみも、この記憶がある以上ないと言える。
思い出すだけで気分は沈み、その記憶を持っているだけでセシリアは自分が穢れているような錯覚を覚えていた。
「あの時のことを謝罪しても、あなたは簡単には許してはくれなさそうだね」
「当然です。それだけのことをあなたはしたという認識はありませんか」
「勿論ありますよ。だから君に誠意を見せ、いつかあなたの心までを手に入れたいと願っている」
手懐けようとして気にいらなくなったから捨てられたカミラ。そんな認識をしてしまったセシリアは、クレイグの今の言葉は聞きうけられない。順応な態度で接してきた人形が、いきなり噛みついてきたせいで躍起になっているように感じたのだ。
「謝罪を受けることは出来ますが、今はそれを許すことはできません。昨夜の行動を含めて、私は許したくはないのです。第一、あなたに自身だけでなく心までも委ねるということなど、丁重にお断りいたします。なにがあってもそれだけは絶対にできません」
かつての暴挙を忘れたとは言わせない。あんなにもセシリアを、否カミラをライアン一色に染めておきながらの仕打ちはあまりにひどいものだった。
謝罪を繰り返すクレイグにほだされ、過去のことと清算して許すことはできても、新たな関係を築けるとは思えないのだ。ともにいる自信が、セシリアには出来そうにない。
「ならば結婚をして、毎日あなたに謝罪をしましょう。許してもらうまで、私はあなたには触れないと約束します。けれどあなたを手放すことだけは絶対にあり得ないので、そこだけは譲歩してください」
「どうして……」
「ここまでやるのは、私がライアンであなたがカミラだからです。私の意思もありますが、まずはそこから始めたいのです」
クレイグの思考が理解できず、セシリアは嫌悪を抱きながら視線をそらした。わかり合いたいのにそれが出来ないこの心の距離がもどかしい。
「あなたは馬鹿です。私のことなど無視をして、幸せな人生を歩めばいいのです。それを許される立場にありますのに」
「立場など必要ありませんよ。大切なのはセシリア、あなたです。きっと私はあなたを知れば知るほどに、あなたに気持ちが傾いていくでしょう。カミラではなく、セシリアだけに」
「私のことなど知りもしない癖に」
「憎まれていると知っていても、あなたの視界に入ると幸せになる、この気持ちをあなたに理解してもらうことは難しい。反対に、私はあなたの気持ちを理解することはきっと出来ない。それだけのことを私は過去でしているだけに」
「傷つけあうだけです、このまま一緒になれば」
それなのにどうしてセシリアを望むのか理解できない。いや、理解したくないのかもしれない。こうして求められることにセシリアは過去を清算しようとしている、そんな気になってきたのだ。
きっとその心をクレイグは知っていくだろう。そう思うだけで、胸に痛みが広がってくる。これはカミラの気持ちなのか、初めて会ったクレイグに対する申し訳ない気持ちなのかわからない。
「あなたは馬鹿です。大バカ者ですわ」
「そうですね、否定はしません。まあ、あなたに関してだけですけどね」
にこやかな対応で微笑むクレイグに、セシリアは泣きたくなってきた。何を言ってもクレイグが引くことはないだろう。ここにきて王族の権限を持ちだすことはないだろうが、こうなってしまえばセシリアが折れる以外に解決策は残っていない。何しろ反発しても結局はクレイグの思惑通りにことは進むのだから。
「私は、あなたの気持ちを見定めることはしても、その思いを認めることはできませんよ」
「それは私の婚約者としての立場を受け入れてくださったという解釈をしても間違いではないと?」
「……はい、間違いありません」
そう口にした瞬間、クレイグが破顔した。初めてみる幼い表情に、セシリアの胸が苦しくなる。そんな風に笑わないでほしい。
「どんな理由であれ、あなたが折れたことが私には第一歩です。この思いを諦めることはできませんし、何より手放すつもりもありません。覚悟しておいてくださいね、セシリア」
本当はすでに後悔をしているのだが、口に出してしまったものはもう戻すことはできない。
でも大丈夫だとセシリアは確信していた。あの記憶がある限り、セシリアはクレイグと仲睦まじい生活を送ることはできない。だからこそ、承諾することにしたのだ。幸せな結婚生活など、味あわせてなるものか。
傷つけたら傷つけ返す、それがどんなにひどいことなのか理解しながらも、セシリアの心に宿っている深い闇は、その甘美な響きに贖えそうになかった。