act.1 男性恐怖症の理由
物心つく頃には、セシリアは男性のことが苦手であった。
子爵令嬢として生まれたセシリア・バッカスの性格は内向的で人見知りが少しある大人しい女の子だ優しい両親と兄と姉の三人兄弟の末っ子ということもあり、自分からという姿勢はなかったものの、令嬢として慎み深く成長していった。難点といえば社交性がなく、内に閉じこもりがちなうえに、男性恐怖症のため異性を激しく意識しているところだ。そのため同い年の幼馴染にすら普通の対応が出来ず、いつも誰かの背に隠れてしまっていた。
子供にしては達観な考え方をするときがあるものの、ごくごく普通の女の子で人形遊びを一番に好んでいた。
十歳になったセシリアは、普段は清楚で慎み深いのだが、少しだけミーハーな性格の母親からこの国の王子様の絵姿を見せてもらった。
「ふふふ、セシリア、ついこの間手に入れたものよ。この国の第二王子様でセシリアよりも三つほど年上の、クレイグ王子の絵姿よ。年頃になったころのあなたとは年齢が釣り合っているわね」
普段は澄ましたような口調をする母であったが、家族と話をするときは砕けた話し方で接してくる。その口調が愛らしくてセシリアは母親のことが大好きだった。
綺麗な額縁に入っている絵姿には、サラサラの黄金の髪に、瑠璃色の瞳をもつ少年がいた。誰が見ても美少年だと形容できる容姿を持つクレイグは、甘い顔立ちにきりっとした眉、まだ頬が丸く幼さが残っていたが、これからの成長が楽しみだと言われる類だ。
しかしクレイグを目にした途端、セシリアはなぜか頭が割れんばかり痛みを感じその場に座り込んだ。
「どうかしたの、セシリア?」
母親の声が遠くから聞こえるのに、返事をすることが出来ず、頭を押さえることしかできない。
痛い、痛い、痛い。ガンガンと痛む頭は、まるで警鐘を鳴らしているように響く。目の奥に焼き付いているのは、クレイグ王子の絵姿。
あまりの痛さに耐えきれなくなり、セシリアはやっとの思いで意識を手放した。目じりにはうっすらと涙の跡を残しながら。
崩れ落ちるように倒れ、ぐったりと意識を失ってしまったセシリアに母親は驚く。
「セシリア、セシリア、どうしたの、セシリア。誰か、誰か来て」
駆け寄ってみたものの触っていいものかと取り乱した母親の悲痛な声に、隣の部屋にいた父親である子爵が部屋に入ってきた。まず目に入ってきたのは真っ蒼な顔で倒れているセシリアで、何があったのかと母親に手を差し伸べる。同じように部屋に入ってきた使用人たちがセシリアを囲めば、一番大柄の男がセシリアを抱き上げた。
「どうしたんだ」
「わかりません。急に倒れて」
涙ぐむ妻を抱きしめると、使用人たちが慌ただしげにセシリアを抱えた男とともに出ていく。すでにセシリア付きの侍女がいないことから、部屋で支度を整えているのだろう。
動揺を隠せず涙ぐむ妻の背中を優しく撫でていると、ふと絵姿が落ちていることに子爵が気付いた。
「これは?」
「セシリアにそれをお見せしましたの。見た瞬間に、急にセシリアが倒れましたわ」
「これは第二王子の絵姿だな」
何の変哲もない額に飾られている第二王子の絵姿。貴族であれば誰もが入手できるような品だ。特に何かあるとは思えないのだが、子爵は気になってしまう。
「あの子、もしかしたら王子様に運命を感じたのかもしれませんわ」
そういう類が好きな妻を思い出し、子爵が淡く笑む。自身との結婚も、運命を感じて結ばれたと信じているのだ。真実は政略結婚の末なのだが、確かに愛は存在していた。
「そうかもしれないな」
「ええ、きっとそうですわ。頭を押さえましたのよ、痛いと。きっと鐘の音が鳴り響いたのだわ」
子爵に会ったときに妻も鐘の音を聞いたと言っていたことも思い出し、苦笑する。夢見がちな妻とは違い、セシリアはどちらかといえば現実主義者だ。むしろ達観してものを見るときがあるので、夢を見ているとは思えない。しかし妻の娘なのだ、急にそんな思考が芽生えるかもしれない。
心配なのは変わりないが、このまま様子を見るにとどめておいたほうがいいのかもしれないと考えれば、子爵は妻とともに私室へと戻った。まだ青白い顔をしている妻を休ませるために。
それから半時後。
目を覚ましたセシリアは、涙でぬれている頬に手を触れて唇をかみしめた。その仕草は先ほどまでの十歳の子供のそれとは違う。
目を覚ましても先ほど見た夢の内容をセシリアは忘れていなかった。そのすべてが真実なのか不安も残っているものの、焼きついたように胸に残っているせいで認めてしまいたい。今まで微かに感じていた違和感が、この夢の内容で納得出来てしまう。どうして男性が怖いのか、どうして考える前に諦めてしまうのか、両親や兄や姉からの愛情をこんなにも嬉しく感じるのかを。
どうしてそれが幸せで涙が出てくるのか。
私の名前は、セシリア・バッカス。
自分が誰なのかを確認するために、心の中で名前を呟いた。
大国の片田舎ではあるものの、小さいながらにも領地をもった子爵令嬢。亜麻色の髪を腰まで伸ばし、唯一の褒めどころである、母親譲りの翡翠の瞳。平々凡々でどこにでもいるような容姿。内向的な性格に、社交性はなく、末っ子特有の甘えん坊体質。いまだ領地から外に出たことがなく、人づきあいが全くできていない、それがセシリアだ。
――それから。
どうして忘れていたのだろうと思うくらい、セシリアはこの名前を鮮明に思い出していた。
カミラ・ペケット。
小国でありながらも歴史を持った国の、第二王女だった彼女は、セシリアとは容姿が全く異なっていた。
ピンクがかった金髪は波打っており、青空を連想させる瞳。美少女と呼ばれるほど整った顔立ちをしており、彼女の父と姉とも似ている雰囲気を持っていた。民からも愛されて育っていたカミラは、とある王子に求婚されて嫁いでいった過去を持っている。
このときになって初めて、セシリアはカミラの記憶を持っていることに気づいた。
前世の記憶、というのであろうか。セシリアはこの後、それを全否定するためだけに、歴史と名のつく本をすべて網羅してしまう。手に入れられる蔵書というものすべてを閲覧できる場所まで出向き、そこで見つけてしまったのは、かつて生まれ育った小国の名が記されていた。今は消されてしまっているらしく、場所も特定できそうにない。そして、同じように小国の王女として名を消されているカミラの名も見つけてしまった。それらはセシリアとして生まれ育ったこの国が、かつての小国を吸収してしまったからこそ、文献として残されていたのかもしれない。でなければ見つけることは不可能だったと、歳をとるごとにセシリアは痛感していく。
自分で作った妄想だけの世界ではないことに自信を持ったわけではないが、けれどもそれを否定するだけの根拠もなくなってしまった。これ以上のことが知ることもできないことも拍車にかけられ、何が真実なのかわからなくなり恐怖を抱く。
それと同時に、消してしまいたい思いまでもが蘇ってしまった。
夢の中でセシリアはカミラとなって生活をしていた。場面は切り替わっていく、切りの悪いところを何度も何度も刻むように翻弄されていった。
起きてすぐに実感したのは、愛されなかったことの苦しさだ。ぶつけられる憎しみ。あるはずのない傷の痛みと恐怖。
母親の命を削り生まれてきてしまったカミラは、最愛の妻として愛していた父親からも、そして大好きな母親を奪ったと姉からも愛されずに成長をすることとなった。唯一肉親の愛情を与えてくれたのは、カミラの祖母だけであった。その愛情がなければ、カミラはそのまま誰にも愛することを教えられず寂しい人生を歩むこととなっただろう。
それからもう一人。祖母の愛情があったことから、王族としての責務を学び、民への感謝の気持ちを持つことが出来たカミラは、留学してきた隣国の王子と仲良くなる。幼いながらも王族としての姿勢に第二王子に好感を抱かれたからだ。その姿は、セシリアが母親から見せてもらった絵姿に書かれている第二王子の容姿とそっくりだったのだ。かつてカミラ王女の婚約者であり、六年の婚約期間を経て夫となった大国の第二王子。こんな偶然があるのだろうかと疑いたくなるほど、セシリアは現状を理解したくなかった。
愛し愛された事実を思い出すたびに、セシリアは甘酸っぱい記憶を引き出され、出来る事ならあの第二王子様には会いたくないと願っていた。
冷たくなった指先を温めるように握りしめながら、セシリアはこの現実をどう受け止めるべきなのか悩む。
「目が覚めたのね、セシリア」
部屋に入ってきた母親に、セシリアが小さく返事をする。起き上がろうとするのを手で止めながら、母親は枕元までやってくる。
「急に倒れるから驚いてしまったわ。もう大丈夫?」
「はい、お母様」
頬に触れてくる手があまりにも優しくて、セシリアは涙が溢れそうになる。カミラは、母親を知らない王女だった。母親だけではなく、父親と姉からも生前に愛情をもらったことのない寂しい王女であったために、温かい手は与えられなかった。
反対にセシリアは、当たり前のように家族から惜しみなく愛情を与えてもらっていた。
その違いがひどく歪で思い出された今、幸せなのに辛いのだ。カミラとして与えてもらいたかったと心が訴えているようで。
「泣かないで、セシリア」
「お母様」
こぼれ落ちた涙は、先ほどとは違いカミラを思って泣いているのがセシリアにはわかった。
誰にも愛されなかった王女、カミラ。母親の命を奪い誕生してしまった彼女は、盲目的に妻を愛していた父親から憎まれ、また大好きな母親を奪ったと姉からも憎しみをぶつけられてしまった。彼女の責任ではないのに。与えてもらえない愛情の飢えは強く、渇望していた。祖母以外の誰も、カミラに愛情を教えてはくれなかったのだ。
けれどセシリアは違う、家族だけでなく使用人たちからも愛されていた。
この違いが、セシリアには苦しいほどの悲しみを与えてきた。愛されていると実感すればするほど、セシリアは愛されたかったことを思い出して胸が苦しくなるのだ。
それと同時に唯一、祖母以外で愛情を与えてくれた王子の存在。彼の愛情がなければカミラはどこにも嫁ぐことを許されず、隠されるように死んでいっただろう。
愛しているよ。
囁かれるその声までも思い出し、セシリアは顔を赤く染めた。いきなり染まった顔色に、熱でもあるのかしらと母親に勘違いされたものの、そういうことにしておいたのは聞かれても答えられなかったから。
クレイグ王子と彼は同じ声なのだろうか、手繰り寄せた記憶の糸を手放したくなくなり、セシリアは複雑な心境で瞳を閉じた。