プロローグ ②
その日の夕方。
ハーガイムはこれでもかと言う程にエミリアにしごかれ続け、いつしか心身ともにすり減ってしまっていた。その心を、尽きかける体力を、動かぬ肉体を精一杯気力で動かし、近場の公園へと訪れた。
この公園は人気が無い。街の端っこだからありえる特等席のような場所だった。
近場の自販機で購入した発泡酒を手に、彼は木製のベンチへと身を預ける。
目の前には小さな池があって、周囲には適度に木々が散らばっている。遊具も特にこれといって何も無い、しいて言えば遊歩道のような場所である。
「ふぅ……この歳でまさか、こんな事をする事になるとは……」
さすがに予想外だ。
だが存外に楽しい。
平和というよりは、平凡という言葉が似合っている。日常だ。祖国にはあったどこか殺伐とした雰囲気が、ここには無い。適当というわけでもないがそれでもどこか気が抜けたような――そう、皮肉なことにこの平穏は”あの少年”が一向に目覚めぬ眠りについてから生まれたものだった。
ハーガイムは肩に掛けるタオルで額の汗をぬぐい、プルタブを起こして缶の口を開ける。ぷしゅっと小気味良い音を鳴らし、溢れる泡はそれでも零れることなく開いた穴からちょっと吹き出る程度で収まった。
「おっと」
吹き出る泡ごと缶を口にし、そのまま傾けて内容物を口腔内に流し込む。途端にその芳醇と思える麦の香りが鼻から抜ける。発泡酒だからそれほど味はあてにしていなかったが、疲れていたせいかそれでも十分に旨く感じた。
なるほど。この機関での役目が終えたらドイツに行ってみるのもいいかもしれない。
ヤコブは日本のアキハバラだとかに移住すると言っていたが、奴に限っては任務に就いて生きて帰れる想像がうまくできない。まあ、ご愁傷様と言うところだろう。
そんな折に、何か妙な違和感に気がつく。
何かの気配のような――この頬に突き刺さる視線。
ハーガイムが促されるように横を向くと、そこには彼へ向いて立ち尽くす影があった。
まさか時衛士か――にわかにそう思って首を振る。
シルエットにすらならないソレは明らかなまでに女性だった。
長い髪を腰半ばまで下ろし、その手前には華奢な肢体。見覚えがないようで、どこか見たことがあるその姿にハーガイムが首を傾げる。が、その名前が出てくることは一向になかった。
そうしている内に彼女はやがてベンチの前までやって来た。
「となり、よろしいでしょうか?」
「う、お、おう」
新手のナンパだろうか? そう考えて、無駄なことだと鼻を鳴らす。
資産もろくにないこの老人には、援助してやる金すらないのだから。
しかしならば、この女性は一体……? 考える間に彼女は静かに口を開く。
「あの、ミシェルです。色々と実験でお世話させて頂いた……」
鈴を鳴らすような澄んだ声音は、清流の流れを聞くように自然に耳へと流れこんできた。
彼女が手を胸に当てて名を名乗る。その反動でコートの下のそれらが落ち着きなく揺れた気がしたが、ハーガイムは見て見ぬ振りで返事をした。
「ああ、あの時の娘さんか。……そのミシェルが、こんな所まで何の用だ?」
ダッフルコートを着て、下にはホットパンツ、さらに厚手のタイツを履いている彼女は、それでも寒さに耐えられないらしく、全身を小刻みに震わせながらハーガイムを向いていた。一方でこの既に還暦を過ぎて五年以上が経過している彼ときたら、チノパンに白いランニングという、小学生でも寒がりそうな恰好だ。
汗で湯気立ち、発泡酒を煽る姿はまさに風呂上りといったところだろう。
「いえ、あの時はハーガイムさんも私も忙しくってまともにお話も出来なかったので、ちょっと世間話でもしたいなーって、思いました」
「ふむ、だが年寄りの知恵袋的なものも特に無いしな……」
既に孫と祖父ほどに年齢が離れているはずだ。
その上で、機関の現状やら地上での数多の出来事なんてのは、テレビもラジオも新聞も雑誌も視聴しない彼には知り得なかった。
だから、お話なんて一体何を話せば良いのか。美人が相手だから緊張するというものは無く、ただ話題がないことに困るばかりだった。
「いえ、そんなご迷惑を掛けるものでは無いんです。ただ、ちょっと……」
頬を紅潮させる。これは単に、寒いからだとかいうものではないだろう。何かを恥ずかしがっているような、そんな鮮やかな朱色はそこにあった。
まさか恋でもされてしまったのか。
まあ、恋愛に年齢なんて関係ないというから考えないでもないが――思い上がった所で違うのは眼に見えている。素直に、時衛士の話に違いない。
「一度も面会に行っていないらしいな」
――時衛士は現在、病室で眠り続けている。
手術後一週間は面会謝絶だったのだが、容態も落ち着き安定したという所で自由に出入りすることが可能となった。が、最初のうちは割合に多くの見舞い人が訪れたのだが、彼が眠り続けていると知ると、その足は徐々に少なくなっていた。
今では先程の四人と他に数名が様子見に来る程度である。
彼女は時衛士と随分親交があったはずなのに、一度も見舞いに来ない事には彼自身、少し疑問を抱いていた。
だから訊いてみれば、彼女はすぐさま気まずそうに視線を泳がせる。ハーガイムは気を長く持って発泡酒を飲み干した。止めていた息を吐き捨て、腕をベンチに乗せる。そのまま手首のスナップを効かせて放り投げれば、近くにあったゴミ箱へと放物線を描き、いとも簡単に外すこと無く入り込んだ。
かこん、という軽い音を鳴らして空の缶が落ち着く。
その頃になると、ミシェルは意を決したように表情を引き締めていた。
「え、エイジさんは……その、ナルミさんが好き、なんですよね……?」
うつむいて、ぼそぼそと漏らすように彼女は訊ねる。
ハーガイムが肯定の意を示すと、彼女は食い気味で続けた。
「ああ、まあそういう事に――」
「いいんですっ! 私は……たぶん、今私が行っちゃえば、二人の意識が無くても、邪魔になっちゃうから」
「ほう。むしろトキの方が早く目覚める可能性が高いから、狙いどころだと思うんだがなァ?」
「ね、狙いどころって……」
「好きなんだろ?」
「で、でも……と、というか、私はこんな話をしに来たんじゃないんですっ!」
そこでからかわれている事に気づいたのだろうか、ハーガイムの妙な誘導に流されぬように強い意思を示したのか。
彼女は両手に拳を作って、力強く遮った。
ミシェルの一言から会話が一転する。
ハーガイムはその平凡な雰囲気に表情が穏やかに、崩れそうになって歯を食いしばった。
さすがにこんな所で保護者役は出来無い。誰かに見られていれば、ただでさえぐうたらの毎日で失われていた立場がさらに貶められてしまう可能性がある。ここを最低のラインだとして、この位置を守らねばならぬのは自身の社会的地位のためだった。
「む、なら何の話だ?」
「ハーガイムさんは特異点なんですよね?」
「まあ、そうだな」
「いまいち理解できなかったんですけど、特異点っていうのは重力子を常識では考えられないほどに保有して、それを操作して時空間に影響を与えて特異能力を引き出しているわけですよね? それを無意識に行って、って言う」
「むう、専門的な話はぜひ専門家にしてもらいたいものだが……構わん、答えられる所は答えよう」
不意な質問に、彼はおもわずたじろいだ。
もっと適当に流せるようなものばかりだと思っていたのに、いきなりこれだ。先ほどのからかいの仕返しをしようとしているのかと思ったが、彼女の場合はおそらく偶然だろう。
ミシェルは笑顔で頷いてから、喉を鳴らして、息を吐いた。
「それほどの重力子を操作する際に、重力異常が起こらないのは何故でしょう?」
実験の際には計器類に狂いはなく、またそのとおりに異変は決してなかった。
空間を歪めるほどの超重力が無自覚に起こせ、またそこから何らかの作用で肉体に影響を与えているのか、あるいは本当に”どこかからか”能力を得ているのか、正直な所機関でさえそこいらの情報は曖昧だ。
もっとも、それに至っては特異点でない付焼刃でも、その特異点でも同じだった。
”どうやって特殊能力を持ち使用しているのか”が一切不明。この一ヶ月、さらにハーガイムが訪れてから三ヶ月近く。成果はあがらないが、技術に転用するためのアイディアが出たり、新たな発想が生まれた所があるのが、幸いというところだろう。
「そうだなァ」
彼の解釈は、全てが肉体内部、細胞単位で行われているから周囲には影響がないという事だ。が、されど重力。肉体のみに負担をかけて行える事象があるのだろうか。
否、なのだろう。
しかしこれには、あまりにも不明な点が多すぎた。
おそらく付焼刃などと区別しているが、その能力発生の本質は変わらないはずだ。こんなややこしいことに原因が二つも三つもあってはたまらない。
だから――多分、この付焼刃という存在を生み出し世に送った人間こそが、全てを把握しているはずだった。
「良くわからんというのが返答だろう」
以前も特異能力を保有する特殊な武器である副産物や、その特異点の発生などを大まかに説明した時がある。相手は確か衛士だった。彼は専門家でもないし、特に興味もなさそうだったから持論を展開して少し間違っていても指摘されることは無かったが、流石に今、曖昧のままに応える訳にはいかないだろう。
彼女は「そうですか」と、この返しを予想していたように頷いた。
既に頬の熱は引いている。小刻みな震えもおさまっていた。
「あ、あと……」
「ミシェル」
「はい……?」
「寒いだろう。場所を移動しよう」
汗が引いて、今度はその耐え難い寒さに我慢ならなくなったのはハーガイムだった。
「というわけだ。付き合ってくれ」
「……今、何時だか分かってます?」
研究施設に赴いた彼は、食堂で静かに一人でさばの味噌煮定食を食べる女性の前の席に座った。
隣にはしっかりとはぐれる事なく、ミシェルがついて来ている。
赤い髪に同色のメガネ、だというのに瞳は全てを飲み込むような漆黒色。そのスタイルも不鮮明にする白衣を着こむこの女性は、この研究施設のみならず機関全体の技術開発の長たる英国人だった。
名前はアイリン。年齢は不詳だが、二十代後半なのは明らかだった。
「午後八時か」
訓練が終わったのが午後六時。それからややあったから、大体そんなところだろう。
そこでハーガイムはなるほどと手を打った。
「八時以降に食うと太るぞ」
言って、彼は豪快に笑った。
そもそもこれまで食事をする時間すらなかった彼女に対するちょっとした冗談だ。余裕がなかったから怒りっぽくなっていたが、最近ではしっかりと睡眠もとれているらしく、顔色は非常に良い。荒れていた肌も、まだ若さを示すようにきめ細やかだった。
「とかいって、結局職員割引で食べてますよねえ? ハーガイムさん?」
彼女が指摘する通りに、彼の前にもおぼんがあった。乗っているのは包装されたハンバーガーに、Lサイズのコーク、そしてフライドポテトが付け合わせにされていた。
「今はカネを持ってないんでな。お前のツケにしておいた」
そうは言うが、その後ろでミシェルがしっかりと料金を払っていることを知っている。
彼女もそれを冗談として捉えたのだろう。わざとらしく大きなため息を付いた。
「……もう、本当に何しにきたんですか?」
「ちょっとした息抜きだ。雑談でもしようじゃないかというモンだ。トキも居なくて寂しいだろう?」
「変わんないですよ?」
「まあ、お前にそういったことを期待する時点で間違っていたか」
肩をすくめ、彼は包装を解いてハンバーガーを口に運ぶ。
その隣では、既にうどんを啜っているミシェルは食に熱中しているようだった。
「にしても……意外というか、妙な組み合わせだとは思いますけどねえ?」
じっとりと舐め回すような視線で、二人を見比べる。大きく離れた年齢に、誰も想像しないだろう組み合わせ。実験の最中でも大したコミュニケーションを取らないし、またその必要も無かったのだが――援助交際だとか言うより、やはり祖父と孫のような、どこかぎこちなくも安定のある組み合わせに見えた。
「わたしもそう思う」
「く、組み合わせって……たまたまお見かけしたので、声を掛けさせてもらっただけです」
ハーガイムが答えると、うどんを必死に飲み込んだ彼女はワンテンポ置いて話に加わった。
「ま、今日は金曜だし仕事ももう終わりで、明日も部下から休めって言われちゃって、仕方ないから午前は休みだから別に構わないんだけれど」
彼女は茶碗に残る最後の一掴みを箸ではさむと、慣れたように口に運んだ。
英国人と言えども、その生涯の全てを機関で過ごし、来日したのも既に十年以上も前だ。
――ちなみに機関は、ドイツ、アメリカ、日本の三カ所に支部を置き、頂点はなくそれぞれが同等の権力を持ち均衡を保っている。が、日本のようにわざわざその活動拠点を地下に設ける場所は存在しなかった。
だからあらゆる意味で来日したばかりの頃はぎこちなかったが――今ではごらんの有様だ。
入れ替わりが激しいこの組織では既に古参たる立場に立っている。
彼女はご飯を咀嚼しながら、あのジャーマンめ手放したことを後悔しているだろう、とほくそ笑んでから、口腔内のソレを飲み込んだ。
胸の前で手を合わせ、軽く頭を下げる。
ハーガイムはその間に僅か数口でハンバーガーを食べきってしまったのか、コークを飲み干し、今度はフライドポテトをつまんでいた。
「じゃあ、何の話が訊きたいのかしら」
彼らの質問には全て答えられる自信がある。
ごく単純に頭悪く言ってしまえば、IQや知能指数は一回りほど上なのだ。もっとも、だからといって彼らを馬鹿にするわけでもソレを誇るわけでもないが。
「そうさな、どうする? ミシェル」
フライドポテトの袋を差し出しながら訊いてみた。
彼女は遠慮がちに手を伸ばし、一つを指で挟んでから、少し考えるように言った。
「ソレじゃあ――」
ミシェルの提案に、アイリンは笑顔のまま硬直した。
――日は不動のまま外を照らす。
されど外気温だけは地上と同じように下がっていく。風は吹く事なく、農作物や家畜を育てるのは全て屋内であるために雨も降らない。
咳払い。彼女はそうして、大きく息を吐いた。
「分かったわよ。よく聴いときなさいね」
しかし時刻という観念で考えれば、三人の夜はそうやって更けていった。