離反者の育成
「やれやれ、おれには荷が重すぎるよ」
思い返せば、この特異能力を得る前もぶらぶら街を歩くプーたろうだった気がする。
なら、これが本来の自分の姿なのだろうか。
信じたくはないものだ。これでも二十五歳なのだから、大人の威厳は望むべくもない。
ダンは穏やかな衛士の寝顔を眺めながら独りつぶやく。
「こういう世界は、おれには向いてないのかもな」
機関に迎えてくれたのは多くの人達だ。が、現地で共に活動することを許してくれたのは主に”祝英雄”という、現在は機関に存在しない男である。なぜ居ないのか、理由は諸事情という事で、彼には教えてもらえなかった。
手土産に持ってくるのはいつしか果物や雑誌より、花や芳香剤の方が多くなってきた。それは他の見舞い客も同じで、床頭台には三つもの花瓶がところ狭しを置かれていた。
ダンも同様で、妙な疎外感と寂しさを感じながら、花を花瓶にさし、窓を背にしてパイプ椅子に座ったところである。
他には見舞いの客は居らず、彼一人のみ。特に衛士と親交が深かったわけでもないが、意味もなく誰かの傍に居たかった。しかしその”誰か”が居ないために、彼は仕方なくここに来ていたのだ。
足を組み、持参した小説を開く……が、五分と経たずに集中力が途切れてしまう。
嘆息して本を閉じ、背もたれに身体を預けて天井を仰ぐ。純白の、清潔なソレだ。なんだか落ち着かない程に綺麗すぎて、彼はさらに脱力して、大きく息を吐いた。
「戦場ならまだ存在意義もあって、気分も紛れるんだけどな……」
特に検査だけでカネを貰って生きている立場となれば、ただ惰性で生きているような気分になる。
否応なしに後ろ向きになってしまうのだ。
ならどうすればい気が晴れるのか……この間ゲームセンターに寄ってみたが、対戦格闘ゲームで常連客に打ちのめされてから記憶がない。酒を浴びるように飲んでみても、その後の二日酔いが最悪なだけだった。
協会に居た頃はまだ精神的にも健康だった。
今考えれば、誰かに頼られる、期待されるという今までにない立場にあったからこそなのだろう。あるいは自分で自分をさらけ出せるからだったのかもしれない。
ダンは指を鳴らして――膝の上の小説を消す。また指を鳴らし、虚空から水のペットボトルを取り出した。
それが彼の能力。どこか別の、彼専用の空間から指を鳴らすという合図を経て物を自在に取り出せる。利便性に富んだものだが、炎を出せる、未来が見えるなんて特異体質的なものではないから、身体を鍛えたこともあった。
三日で終了したその筋トレは、思った以上の筋肉痛が原因だった。
「ほんとにおれってヤツは……」
「何をブツブツ、病室でネガティブシンキングを漏らしているんだ?」
膝に肘付きうなだれる彼へと声がかかる。
驚いたように顔を上げると、その扉の前にはやはり人影があって――幾度か目にした、銀髪褐色の女性がそこに居た。
「何だ、ダンか。随分と久しい気がするな」
「まあ二週間くらい空いたしな。エミリアは相変わらず毎日来ているのか?」
歳はちょうど五つほど離れている。立場、実力ともに上である彼女にため口を利いているのは、敬語で話しかけた際に「あまりにも立つ瀬がないから」と、彼のためを思って拒否されたが故であった。
「まあな。流石に毎日とはいかないが、暇を見て来ている。いつ目を覚ますともわからんからな」
「案外、誰かのくちづけで起きたりして」
「エイジお姫様の恋人は仮死状態だ。絶望的だな」
「王子様って言えば、こうっちゃ失礼かもしれないけど、エミリアがふさわしいんじゃないか?」
壁に立てかけられているパイプ椅子を展開し、座り込む。彼女は手ぶらで、穏やかな表情で衛士を見守るように眺めながら言う。
「ホントに失礼だな。私だって、独りの乙女だぞ?」
「はは、ならおれで経験してみるかい?」
「馬鹿も休み休み言ってくれ。しかし、どうしたんだ?」
「ん、なにが?」
水を口にし、ペットボトルの蓋を締める。すると機会を伺っていたようにエミリアが訊ねる。
「なにか思いつめてるようだし、怪我をしている。後者はスコールから一般兵に襲われたと聞いたが」
「はは、格好悪ぃよな。それでなんか、自信なくなっちゃって。おれがここに居る意味とか、付焼刃なのにってさ」
自分でも女々しいとよく思う。こんな所を、自分より年下の女の子に告白する事自体、もう情けなさ過ぎて穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。
だというのに、エミリアは神妙な顔つきで話を聞いていた。
頷き、それから相槌のように改善案をすぐさま突き出した。
「うん、働けよ。アルバイトでもなんでも。人のためになれ」
「キ、キビしいなぁ……」
苦笑して頬を掻く。
そんなダンを見て、呆れたようにエミリアは嘆息を漏らした。
「お前はいくつだ? まだ大人になりきれない二十五歳児が。何もしない癖に”存在意義”だの何だの、ご高説をありがとうございますというモノだ」
「……そ、その説教癖があるからモテ無いんだよ、エミリアは」
「どうでもいい。好いて好かれてで物を考えられるほど気楽な性分じゃないのでな」
額に血管でも浮き出す程というわけではないが、それでも見るだけで十分に不機嫌だと分かる顔でダンを睨みつけていた。彼はというと、その視線を受けて萎縮するばかりであり、どうにかこうにか逃げられないかと考える。
そうしてその逃げ腰な思考回路さえも見透かされてしまった。
「どうせ私をどうやって回避しようか考えているのだろう」
「うっ……」
「たく本当に……いや、そうだな」
「な、なんだよ」
「いい考えがある」
居候の朝は早い。
翌日。呼び出されるがままにダンがやってきたのは、広大な訓練場。米粒ほどに見える的がその端の方にあり、訓練場全体には無数のアスレチックが並んでいた。この外周を走るだけで十キロには鳴るだろうという、かなり広い空間だ。
そうして彼を待っていたのが、
「よく来た少年」
還暦を通り越した白髪頭の老人と、
「うう……なんでボクまでこんな事を……」
はち切れんばかりの腹を抱え、その上で二リットルのコーラを抱える肥満男だった。
「エミリアから聴いている。自分から鍛えたいなんて思うとは、随分と良い判断だ」
ハーガイムはにこやかに言って、彼が発言するたびに傍らのヤコブがため息を吐く。聞くだけで気分が落ち込んでくるソレだった。
そうして実行されたのは――。
「くそ虫どもがっ! なにをちんたら走っている!? わたしを馬鹿にしているのか、うんこったれどもが!」
背中に背負う十五キロのリュックサック。肩に食い込むベルトのせいで、肉体がきしむようだった。
思わぬ重量に、常に全力全開の筋肉に身体中のありとあらゆる関節が悲鳴をあげる。額から垂れて顎を伝う汗は、まるでパチンコ玉のように延々と流れていく。
既に何周目に到達したかわからないアスレチック。彼はその幾度めかになる丸太で出来る、直立するハシゴに手を掛ける。外の方からとんでもない暴言が聞こえるが、既にそれを理解する思考力を彼は持ち合わせていなかった。
汗で丸太が滑る。
足が重すぎて、丸太を踏み込めない。
「何をやっているクズ! やる気がないならママの所に帰ってくそまずいミートパイでも頬張っていろ!」
「くっ……」
こめかにみ血管を浮かべて、ツバを飛ばしながらダンへと近づいていく。
ヤコブはと言えば、その丸太ハシゴの頂点で降りられずに、一周目の初っ端から躓いている次第であった。
「さっさと登れ! タマでも落としてきたのか、おかま野郎!」
顔のすぐ近くに、そのイカついハーガイムの顔面が近づいた。ツバを吹き出し、顔にかかる。ソレ以上に凄まじい威圧と、ただでさえ限界にまで疲弊している肉体と精神をへし折らんとする罵倒が降りかかった。
「それとも何か? 貴様はパパの先走り汁から生まれた出来損ないか?」
震える膝を必死に動かし、百キロのおもりを付けられたかのように重い太ももを持ち上げる。顎を小刻みに震わせながら空を仰ぐように、呻きながら力を搾り出す。すると、持ち上がったまま、その足は見事に丸太を踏み込んだ。
「それはそれはご立派なご子息でございますね! 申し訳ないのですがさっさと上ってくださいませんかね!」
全ての体重を、丸太にかけた足に偏らせる。するとまるでテコの原理で、身体を浮かび上がらせ、もう片方の足も乗せる。そうして勢いを利用してダンは気力だけで登っていった。
――顎が上がる。とてつもない渇きを覚える。最早全身の感覚はなく、全てを吐き出しながら脱力して寝転がりたかった。
「そうだ、ガッツだ! 貴様のクソド根性を見せてみろ!」
天が近くなる。
頂上の丸太にまたがって微動だにしない巨体が近づいた。
「これは貴様の肉体を鍛えるものではない! 勘違いするなよおかま野郎! 貴様の精神を鍛えあげるものだ! 死ぬ気で駆け登って駆け落ちろ!」
「くっ、おおおっ!」
動くたびに数万の細胞が死滅している気がする。
脳みそが沸騰して、もう何も考えることが出来なかった。
だけど身体はまだ動く。全身から湯気が立って、まるでロボットの放熱気分だった。
――やがて頂上にたどり着く。ここまでで、体感的に数時間ほどが経過していた。
「貴様、何を止まっている!? やる気がないのかおかま野郎!」
激しく呼吸を乱す。丸太を乗り越え反対側へと移動する中で、コーラを抱いて傍観するヤコブが声を荒らげた。
「口からクソを吐く前と後ろにはサーをつけるんだよ」
親切に教えてくれる。だが、それが妙に鼻について、ダンは気がつくとその贅肉だらけの腹部に鋭く拳を投げ打っていた。
「うっ!」
喉が詰まったような声を漏らして、ヤコブはそこから真っ逆さまに落ちて行く。が、その最中に彼の背負うリュックサックが途端に展開。それは落下傘となって彼の降下速度を著しく低下――させることはない。
「うわあああああああ――ッ!」
それが展開しきる前に、鈍い衝突音と共にヤコブが地面に叩きつけられた。
「いってー!」
が、まるで無傷。
彼はわざとらしく右足を引きずるようにして、最早呆れてぼーっと眺めるハーガイムに見守られながら退場した。パラシュートはもちろん、そこに脱ぎ捨てられたままである。
そしてそれを一緒に見ていたダンの意識も、その地面に吸い込まれるようにして――。
ぷつりと途切れる。
彼の身体は無防備に、地上五メートルほどの高さから投げ出された。
「やれやれクソの根性も無いへたれが」
ハーガイムはかすれた声でそう漏らして嘆息する。それと同時に大地を弾いた肉体は軽々と丸太のハシゴへと向かい、そして跳躍。丸太を蹴り飛ばして垂直に跳び上がり、落下中の彼を両腕で受け止める。巨躯はさらに丸太を蹴り飛ばしてそこから大きく離れると、弧を描くようにして華麗に着地した。
膝を折り曲げ、衝撃を大地に逃す。その際にダンを大地に降ろして、また大きく息を吐いた。
「付焼刃、か。弱点は案外、身体面にあるのかもしれんな」
ハーガイムはまたいつものような無表情に戻って、野戦服のポケットからタバコを取り出し、火をつける。
「まあ海兵隊でもないし、少し手を抜いてやっても良いか」
ひとまず目覚めるまで放置して、それから考えよう。
胸いっぱいに吸い込んだ煙を吐き出しながら、ハーガイムはそう決めた。