アイリン、エミリアの場合 ② そして集結へ
正直な所、装備も潤沢ではないし、体調も万全じゃなかったこともある。
状況が状況だからあまり力を出し切れなかったし、もし別の、正式な場所で出会っていたのならば己の全てを以て対峙することが出来たことだろう。
言い訳にすぎないが――その全てが自分の思う通りに整っていたとして、
「ほんとに……」
それでもエミリアは、いま目の前に居るこの男に勝つことはできないだろうと理解した。
「何者だ、貴様……!」
膝蹴りのお陰で刹那の仮面はひび割れ、右眼があらわになっている。だがいくら日中の屋上と言えども、ただそれだけで彼の顔の全貌が判然とするという事は決してなかった。
エミリアはまた屋上の階段室の上で直立し腕を組むセツナを睨み、そして――先程の接触時の発火によって刃が溶かされたナイフを投げ捨てる。また右腕には霜が立って、軽度の凍傷をもらっていた。
「我が名はセツナ。覚えてもらえると光栄だ」
「そういう事を言っているんじゃないんだがな……」
氷雪。火焔。そして二段跳び。現在までに見せられた特異能力は最低でもその三つだった。
およそ考えられない複数の能力持ち。さらにそれをうまい具合に使いこなしていて、あの余裕な態度を見るに、最低限だが露呈してしまった能力の他にもいくつかの能力を保有しているからと考えて良いだろう。
その上腰の、無数の短刀にはワイヤーが付いている。射出は彼の手動の投擲によって行われるが、背中に背負っているのであろうウィンチが高速でワイヤーを巻き取り、すぐさま彼の手元に戻っていく。その数は十以上であり、また両手に握る忍刀も、ただそれだけで厄介だ。
加えて異常なまでの、人外じみた身体能力。その反応速度も極めて高く、エミリアは対応するのでやっとと言う程である。
それらまで見て、彼女の頭の中にふと浮かぶ。
もしかすると、これがいわゆる『忍者』なのではないか、と。
――武器ももう無い。徒手空拳は嗜んでいるが、とてもこの男を相手にしてそれを出すのはあまりにもおこがましい。
ある種の畏敬さえ覚え始めるその戦闘能力には、エミリアも今すぐに白旗を上げたい気分だった。
そして同時に、ここまでボロクソにやられてしまえば自信がなくなってくる。なにせ、本領発揮するまえに潰されそうなのだ。
外傷は特に無いが、太刀打ち出来ぬように全ての手数に手数で返される。威力も向こうが遙かに上だし、傷を与える暇もない。だからこそ、ここまで追い詰められる事が可能だった。
肩で息をしながら、汗ばむ額を腕で拭う。セツナは依然、動く様子は無かった。
「これが協会が創りだした付焼刃なんていうのなら、もう付焼刃なんて呼べなくなるわねぇ」
アイリンは、柵に寄りかかって呑気にそう呟いていた。
が、その言葉は否定できない程に事実であった。
付焼刃と呼ばれるようになった所以は、機関に対抗すべく付焼刃的にその特異能力を持つようになったからだ。が、今ではその能力が完全に圧倒してきている。敵の能力と、来るタイミングやらを完全に察知し策を企てなければまともに対応できない。
対応できたとしても、その戦闘に勝利できるかはまた別問題となりうるのだ。
そして協会はその当初の目的通り、機関の脅威と相成ることが出来ていた。
「にしても……生きて帰れるかしら」
端末を見ても依然、圏外から変わる様子がない。
仲間の方もいい加減心配だが、船坂が居る異常それは杞憂となる筈だ。しかしそこから、さらに電子妨害装置を探しだすまでは行けないと彼女は思う。ここにコレほどの、単一なれど太刀打ち出来ぬほどの戦力を加える事を考えれば、ほかも同様だろうと可能性として考えられるが故である。
そもそも彼女らが合流したとして、まともに戦えるのが船坂とアンナの二名。他の三名はお荷物となること請け合いだ。
「生きて返す。私が約束する」
声が届いたのか、エミリアは肩を激しく上下させながら応えてくれる。が、そのやせ我慢を見てアイリンは思わず肩をすくめた。
「意地っ張りね」
「すぐ諦めるよりはいいさ」
「確かに。あたしはエミリーのそんな所が好きなんだし」
「そういう事は帰ってからにしてくれ」
嘆息するように大きく息を吐く。
できることなら、ここでセツナに軽く手を振って、また今度にしようと帰りたいところだが――そんな夢想を、頭を振ってなぎ払う。今ここでそんな妄想をしてしまえば、本当に立ち向かえなくなってしまうから。
「いつまでそこに居るつもりだ。降りてこい!」
「疲れたのだろう? 小休憩を入れてやったつもりなのだが……」
「いらん心配だ。いつまでも、戦ってみせる」
「そうか。聞きしに勝る兵士なのだな、お前は」
ひょいっと三、四メートルあるそこから飛び降りると、身軽に彼は着地する。衝撃を逃がすように膝を折り曲げ屈みこみ、それからなんでもないように立ち上がった。金属がすれ合うような音がするのはセツナの腰元の、無数の短刀からである。
「ねえセツナ。ちょっと交渉……って程じゃないけど、聞いてくれない?」
退屈そうに手元で空弾倉をいじくり回すアイリンは、少し声を大きく、やがてエミリアと数メートルの距離になるまで近づいて立ち止まるセツナへと訊いてみる。
彼は彼で、この騒ぎが一般人に嗅ぎ取られてはいないかと心配になりながらも、その様子は無いことを確認する。
「なんだ」
「旧・耐時スーツは肉体にそのまま癒着して着脱が不可。その代わりに超人化する、特異点へ進化させる装備だったわ」
「……ほう」
突拍子も無い情報漏えいに、それでもセツナは興味深そうに頷いた。また下手に切り捨てられるかもしれないと構えたエミリアだが、意図の分からないアイリンの発言には口に出さず、ただ体力を温存することだけに思考を切り替えた。
「一般的に出回っている耐時スーツは、適正者の数だけあるし、その分だけ形が違う。武器にも防具にもなる強化装備よ。もちろん着脱は可能。仕様が知りたいのなら説明するわ」
「否、良い。我には理解できないからな」
へりくだるというわけではなく、純粋に要らないから必要ないとセツナは捨てる。アイリンもそれを妙に勘ぐるわけでもなく、そう、とただ頷いただけだった。
そして彼女は、にっと口角を釣り上げる。いつものような、悪巧みをしている時の嫌らしい笑みだ。
セツナはそれを見ても尚、特にこれといった行動を起こすわけでもなく、腕組みを解いて諸手を垂らす。次ぐ言葉を、彼は律儀に待っていた。
「そして現在、機関は”適正者に於ける特異点”と”付焼刃に於ける特異点”……この両者、二つの種類の、ある意味で全てを超越する『特異点能力』というものを手に入れたわ。研究が捗るわね」
「そうだな。こちらとしては好ましくない現状だ。特に後者の人材を奪われた事は」
「スコール・マンティア。彼は良い男よ」
「らしいな。正直、我が出向けば結果は違っただろう」
協会はその上で二人の付焼刃を奪取された。もっとも捕虜や何やらの為に捕獲したというわけではなく、純粋にその二人が協会を裏切って機関へと逃げ込んだという事だった。
まだそれから一ヶ月程度しか経過していないから戦場に出すことはできないが、今の精神状態から見ればそのまま機関の力になってくれることだろう。
セツナがどれほどの地位に立つ男かは分からないが、恐らくは世界中で起こる全てを耳にしている、することが出来る立場にある筈だ。ただ単に戦闘員の頂点に立つだけの男が、正義だのなんだのと口にしながらここに来るわけがない。
アイリンは、直感的にそう思った。
「話は戻るわ」
コホン、と彼女にしては可愛らしく小さく咳払いをする。
エミリアは依然としてセツナの対面で警戒し、セツナはその焦点をアイリンに移す。
暖かな陽気の中、そよ風の絶えない屋上で。
言葉は続く。
「すでに理論は頭の中で出来上がってる。次の耐時スーツは本来の目的に添う装備で、最期の耐時スーツよ」
「言わずとも分かる。その名称は――」
「――擬似特異点スーツ。副産物と耐時スーツを合わせて作る、特異能力を発揮する装備……付焼刃なりきり装備って言い換えてもいいわね。そうなったら、こちらの方が付焼刃と呼ばれる事になるけれど」
言われまいとアイリンが続け、セツナは息を吐いてわざとらしく肩を落とす。
それから、セツナは尋ねた。
「情報はありがたいが、だからどうしたというのだ」
「コレは貴方の目の前に居る女の子よりも遙かに機密性、重要性の高い情報よ。これが漏れれば、漏洩させた張本人はどうなることやら」
親指で首元に横一閃を走らせて、アイリンは苦笑する。
いくら開発技術部長と言えども、独断での情報漏洩は許されないのだろう。
もっとも、その発言が地下にいる機関の上層部に聞かれていれば、の話だが。
アイリンが一瞥する端末の通信状態は、依然として圏外を保っていた。
「なるほど。この娘の命の代わりというわけか。確かにその情報があれば不意打ちでの兵隊を消耗することなく、これから慎重に戦えるという訳だ。こちらとしては、そんな科学技術は不要だからただ戦術が立てられるというだけのレベルだが」
と、簡単にセツナは言ってみせるが、ただでさえ厄介な能力者軍団に戦術が加わるというものは、機関にとっては致命傷になりうるモノだった。
機関は世界の軍隊に対応するために、特殊部隊のような訓練を施して一般兵を育成してきた。下手に資金がかかって数も限られる適正者なんてものは本来必要ないのだが――だからこそ、付焼刃という能力者を闘うために育てられたワンオフの兵隊は、機関にとって極めて例外な存在だった。
そしてその適正者さえも、対峙するだけで苦労する付焼刃。
その付焼刃が機関を見透かし行動を仕掛けてくるとなれば、その結果は火を見るよりも明らかだ。
それこそ、エミリアの命が惜しくば情報を渡せと脅されれば、迷う事無くエミリアを見殺しにするレベルの。
「しかし解せぬな」
目を見開き、ただ困惑するエミリアを他所にセツナが口を開いた。
「この娘がそれほどに大事か」
「大事だから教えてあげたんじゃない。信じるか信じないかは、そっちの問題だけれどね。あたしが教えたという事実がどっちに転ぶか……そこがギャンブルが苦手なあたし唯一の賭けよ」
「ほう、中々に面白い女だ」
「惚れるとやけどするわよ」
「しかし魅力的な人間が多いのも事実。この娘、我に対応しただけでも賞賛に値する。時衛士もだ。”あの時”以来見かけないが――そちらに居る人材の方が羨ましいというのが正直な所だ」
「あら、それ褒め言葉ね。多くはあたしの判断で引き込んでるから」
やがて空の弾倉をポケットに仕舞い込む。
そうしてボタンも締めないコートの内側から抜いた拳銃を、当たり前のようにセツナへと突きつけた。
「ここまでやって引込みようが無いでしょう。一発をあげましょうか?」
「否、要らぬ。正直な所が我の良い所だと自覚しているのでな」
唯一見える彼の右眼は穏やかに薄く開いていた。
両手を、降参するというように上げて――ひとっ飛び。その身体はいとも簡単に再び階段室の上へと吸い込まれていった。
「貴方が”武士”でよかったわ」
「何を言っている。我は忍者だぞ」
「まあ、なんでも良いわ。また会えるといいわね」
「そうだな。今度はそこの娘と、時衛士と共に」
面倒くさそうに手を振るアイリンを、そして呆気にとられるエミリアを一瞥し、彼はまた跳躍。その身はさらに階段室の奥、何もない、高さ十数メートルの虚空へと消えていった。
アイリンは同じ上位互換なれど、実質的な上司である。そして友人でもあった。
「過ぎたことは言わない主義だが……あまりにも独断過ぎる」
それからややあって、端末は潤沢なほどに通信が行える状態にまで機能を取り戻した。眼下の喧騒は相変わらずだが、それでも携帯電話を片手に、空高く振り回すような者が居なくなった事を見れば、その影響が失われたことは確かであった。
「でも通信が切れてたから出来たことよ? 正直ピンと来てないだろうけど」
「ああ。話は理解できたが、それがどの程度重要なのかは分からない」
「価値が分からないにわか宝石マニアみたいなものね」
「例えが良くわからんが……助かったことは確かだ。感謝する」
セツナは手を下し命を奪う事はなかったかも知れない。だが再起不能レベルにまで傷めつけることは確実だった。それを未然に防げたのはひとえにアイリンの人柄と、その地位をセツナが理解していた事が影響していたのかもしれない。
エミリアはそれゆえに、怒りすることなく単純に感謝することが出来ていた。
彼女が情報を漏らした影響によって、新装備のお披露目時にあまりはしゃげなくなる事も知らずに。
――不意に端末が無機質な機械音を鳴らす。画面には『船坂』という味気ない発信者の名前が表示されていた。
「もしもし、ええ、あたしよ。ああ……そう、場所は端末から探すから。命に別状がなさそうなら、こっちから連絡しておくわ。うん、多分あたしたちがそっちに向かってる間に――」
アイリンはエミリアを一瞥する。するとエミリアはその意図を汲み取って、そのまま階段室へと歩いていった。もう屋上に居る必要はないために、早急に船坂たちと合流するのだろう。
「うん、じゃ、そういう事で」
そう言って端末を簡単に操作し、アイリンは階段を下りながらまたどこかに通信する。
それから簡単に、アンナが、だとか、端末の発信状況を、だとかを端的に告げ、最後に「頼むわね」とだけ返して通信を切る。今度はまた操作して地図を表示させた。
「――エミリー、残念だけど、今日の計画はまた後日よ」
「改めて言わなくとも分かってる。こんな状況では気を休めるつもりにもならん」
「アンナも重傷みたいだし、当分先ね。でもかえって良かったんじゃない?」
「ん? なんでだ」
あたかも一般の来客ですと言わんばかりに屋上のひとつ下の階に降りると、エレベーターの下降ボタンを押してソレが到着するのを待つ。閑静な十二階のフロアは人の気配が一切無く、その装いも特に目立つことがなかった。
「そうすればトキくんとも一緒に行けるんじゃない?」
「……幾ら私とはいえ、教え子に手を出すほど情けなくはないぞ」
「飢えてはいるけれどね」
「少し黙れ」
果たしてエレベーターは到着し、扉は緩慢な動作でその口を開け始めた。
二人は乗り込み、一階のボタンを押す。また扉は閉まり、にわかに臓腑が浮くような、中途半端な浮遊感に身体は包まれる。
「帰ったらすぐにでも寝たい気分だ」
「だめよ。船坂はともかく、ミシェルと貴方はあたしに着いて手伝わなくっちゃ」
「……アンナが羨ましくなってきた」
エミリアは肩を落として、安堵故に襲いかかってくる睡魔に、為されるがままに大きく口を開けて欠伸をする。アイリンは微笑だけを携えて、肩を落とした。
「こんなに地下が恋しくなったのは初めてよ」
「まったくだ」
ぶっきらぼうに返し――。
「黒装束の男が現れて、捕虜ごと光の中に消えていった。おかしいぞ、アレは俺たちの特権の筈なんだがな」
公園に戻ると、身体中に包帯を巻きつけたアンナがベンチに横になっていた。
船坂はそうして残った連中を纏め、代表となってアイリンに説明する。
その説明からイメージするのは、セツナが簀巻きになる仲間の前に立ちはだかって煙玉を地面に叩きつける状況だ。しかしそんな”いかにも”な事はしないだろうが、それでも似たようなことは出来るはずだ。あの僅かな時間でここまで移動できるのだから、それが可能でないはずがない。
「まあ良いわ。正直、今回のことは無茶苦茶すぎるけれど……疲れたでしょう? 今は帰って休むといいわ」
「あ、ああ……しかし軽いな」
「こっちもこっちで色々あったのよ。ね、エミリー?」
「確かに。”いろいろ”あったな」
圧倒的な個人に太刀打ち出来ず、機密情報と引換に命拾いした、なんてのは口が裂けても言えないが。
もっとも、相手がその情報を知っているという事を利用することが出来るのだから、結果的には良かったのかも知れない。が、それを判断するにはまだ早すぎる頃合いだ。
「あたしたちが合流してから転送するらしいから、そろそろね」
「――や、やっと帰れるんですか……」
肩を落とすイリスを初めとして、ミシェルもサクラも、同様に疲労を隠せぬ顔で、それでも安堵の色を見せている。彼女たちとてまさかこんな事になるとは思いもしなかったことだろう。
余裕ぶっているアイリンでさえそこそこ疲れているのだから、彼女たちも随分疲弊してもらっていなくては、彼女の立つ瀬がなかった。
『転送、開始します』
アイリンのポケットの中から篭った声でそう聞こえた。
それから、彼女らを中心にして足元から眩い光が周囲を包み初めて――。
珍妙な組み合わせでのお出かけは、それに似合わぬ血なまぐさい戦闘を経て終わる。
空はまだ、その太陽が丁度頭上に登り上がったばかりの頃合いだった。