アイリン、エミリアの場合
「正義だのなんだのって……ヒーローにでも憧れているの? だったらかなり場違いだと思うけれど」
ビルの屋上で、風に吹かれながらアイリンはそう漏らしていた。風が乱す髪を背中に送りながら、また目の前に現れたその影に辟易する。
「それとも何? 元々正義の集団だったとか、今更正義に目覚めたとか言いたいわけ?」
漆黒の戦闘服に身を包むその男は、顔を石膏のような仮面で隠している。必要最低限の穴は目の部分だけだった。
そして異様なのが、まるでスカートのように腰からぶら下げる無数の短剣。そして剣士のように両腰から伸びる鞘には、脇差よりやや長い刀剣が収まっていた。
それを見るには明らかな近接戦闘型。
しかし見て認識する以前に、アイリンは彼の存在を知っていた。
「刹那って、言ったかしら」
アイリンが着る白いステンカラーコートは、いつも着ている白衣のようだった。彼女はそのままポケットに手を入れ、傍らのエミリアを一瞥する。彼女は彼女で白いタートルネックにベージュのチノパン姿で非常に寒そうだが、エミリアはそれを感じた様子もなく腰から拳銃を抜いていた。
しかし、近接戦闘を得意とする者を相手では些か分が悪い。何よりも装備がただのベレッタM92が一挺だけというのが、あまりにも不利すぎた。
「正義、というのは……そうだな。今回出撃した仲間との共通点だ。我々は、特に正義というものを目指した。別にお前の言うような事を考えたわけではない」
「なら何故そんな正義の味方が、何もしていない私たちに突っかかるんだ? まるで悪役じゃないか」
「そうだな。だが言っただろう、”正義を目指した”と……。目指しただけで慣れるのなら、こんな所にいない」
その台詞には一切熱がなかった。まるで自嘲でもするかのように、それまでの自分を思い出して嘆息するような言い草だった。
「なら今この街に来た私たちを抹殺するのが目的なのか?」
エミリアが問う。素直に訊ねる姿は彼女にしてはどこか不用意に感じたが、この男が相手ならば大丈夫だろうとアイリンには思えた。
信用するというわけではないが、必要でない嘘をつくようには見えなかったのだ。もっとも、その素顔すらも見えない恰好なのだが。
「貴様等の拠点へ案内してもらえれば言うことはない」
「なるほど。こちらも、そっちの活動拠点を教えてもらおうと来たんだけれどね」
「ふふん、これは目的の一致と言うのかな」
「ある意味、一致しているのでしょうね」
ポケットから取り出した通信端末は、未だ圏外。機関から武装を要請しようにも、まず通信が出来無いから手の出しようがなかった。
ならばここでこのまま闘うしか無いのだろうか。おそらく、他の二組も同様に襲われている筈だ。応援は期待できないし――殆ど、それぞれで戦えるのは一人だけと考えて良いだろう。この場は一人だからまだしも、複数で来られれば勝ち目は無いに等しいだろう。
アイリンは短く息を吐いて、ベレッタを構えた。
「知らない人にお家を教えちゃダメって小さい頃習わなかったかしら?」
「お前は、刹那と言った……、この名前を知っていただろう」
「貴方と知りあっているのは時衛士。あたしは知っているけど、知りあっては居ないわ」
「屁理屈以下だな」
「なんとでも言って頂戴」
刹那と呼ばれた男は、さながら忍者のように黒い戦闘服のまま、前をしっかりと見えているのか定かではない恰好のまま、やや上半身を前屈する。腰の脇差より眺めの刀に右手を掛け、構えた。
エミリアは拳銃に、加えてナイフを手にする。アイリンの少し手前に彼女は進んだ。
「ったく。本来はデスクワーク専門なんだけれど……」
嘆息。
この男を相手にどうしようかという心配より、戦闘自体が不得手で面倒だと言うようなため息だった。
「なら挑発するなッ!」
顔も向けずにエミリアは罵倒し、
「そう時間もない。行くぞ」
刹那は動き出した。
簡単にいえば、セツナの機動は人間離れしていた。
一瞬にして目の前から消えたかと思うと、背後の階段室の壁を蹴って肉薄。また何も無い虚空で脚を踏み抜くと、まるでそこに足場が在るかのように、その場でまた一段階の跳躍。肉体強化がどうのこうのというレベルの話ではない。特異能力というモノではおそらく括れないであろう、その機動に、彼女らは敢え無く翻弄された。
それでも辛うじて対応できたのは、ひとえにエミリアが居たからだ。
「アイリン、上だ!」
彼女がセツナの動きを予測して助言する。その言葉を聞いて反応するセツナの行動を、今度はアイリンが推測し、銃口を向けた。
空に舞い上がるセツナは虚空を蹴り飛ばして地上へ迫る。その最中に、アイリンは発砲した。
弾丸は掠ることはない。セツナはやがて地面に着地すると、そのまま抜いた忍刀を構え、真正面からエミリアへと切迫した。
発砲、発砲。
二人の重なる射撃は、その瞬間にもう一本の忍刀を抜いたタイミングと一致していた。
そして振り抜かれる鋭い斬撃。閃く白刃に、恐ろしく高まった動体視力と、その持ち前の高速度が、飛来する弾丸に合わせて虚空を切り裂く。
その最中に、銃弾はまるで吸い込まれるようにして刃の腹に触れて――溶けかけたバターにナイフを挿し込むように、鉛弾は酷く滑らかに、横一閃に両断された。
忍刀は弾けることも、折れることもなくセツナの身体の前で交差する。
彼の背後で、小さくなった弾丸が地面で弾ける音がした。
「よりにもよってあたしたちの相手がコレって、冗談にもなりゃしないわね」
発砲。眼前で薬莢が弾けるように飛び出て、孤を描いて地面に落ちる。だが、その銃弾が彼の肉薄速度を緩める要因になることは決してなかった。
「喋るな。舌を噛むぞ」
「弱音の一つくらい、励まし吹き飛ばしてくれるのが相棒ってモンでしょう?」
「無責任な言葉は吐けないタチでね」
彼女は言いながら、射撃をやめる。その場に空になった弾倉を振り落とし、新しいソレを入れ替えて――その拳銃をアイリンに投げ渡した。
鋭く突き刺さるような陽の下で、彼女の褐色の肌は艶やかに照り、その純白の毛髪は煌びやかに光る。その下にある表情は、アレほどの機動を見せつけられても余裕が残っていた。
それはアイリンの言葉を受けて無理に作ったものかも知れなかったが、それでも気持ちを受け取り、アイリンはただ静観した。
「しかしお陰で”慣れた”。お前が居なければ、既に死んでいたかも知れないな」
ナイフを片手に、エミリアは切迫するセツナに対峙する。
「ここは私に任せろ!」
その叫びと同時に、甲高い金属音がこだました。
一本の刀とナイフが接触する。その柄を両手で握り押し返すエミリアに対し、セツナは接触する刀の峰にもう一本の刀の鍔を押し付け十字を作る。力点が一部に集中することによって、一本を両手で握る以上の力が発揮されて――。
「くッ!」
エミリアは堪らず刃を弾いて距離を取る。が、その後退に合わせるように地面を蹴ってセツナが追撃する。一切の間も置かない、容赦無いソレだった。
横と縦、十字砲火のように襲いかかる二種の斬撃。崩れる体勢、無防備になりつつ在るその肉体に白刃が迫った。恐ろしいまでの速度で、反応できても逃げる隙があるわけでもない。
が、そこからでも繰り出せる技はあった。
セツナが対になる刀を振るう前に、その刃へと手を伸ばす。そして添うように腕を内側に潜り込ませ――後退の勢いを片足で踏ん張り、殺す。そして転じて前方へとその身を弾いた。
「む……?」
エミリアが優しく、男の後頭部を包み込むように抱く。
そして促されるように振り上げられる膝が、有無をいわさずその仮面を装備する顔面に叩きこまれた。
「ぐおっ……!」
彼は仰け反り、エミリアの拘束を強引に力で剥ぎ取った。
エミリアはさらに前屈姿勢のまま深く踏み込むように、ナイフで突きを繰り出す。
なんとか振り抜いた刀はそれに応じ、衝突してまた乾いた金属音を響かせた。
ナイフが腕ごと叩き落され、同時に地面に向かう刀はその瞬間にはソレ以上の機動を行えない。が、残った一本は、まるで彼女を倣うように腰の位置から、崩れた体勢を整え捻りを加えて突きを放つ。
しかしナイフは動かせねども、彼女にも自由な腕一本が残っている。否、残っていると考えれば振り落とされた右腕以外は全てが自由だ。
「く……おらァッ!」
咆哮と共に力の伝達が全身へ加速する。
その虚空を穿つ鋭い刃に呼応するように、低く構えたエミリアの肉体が動いた。
眼前に迫る剣先。彼女は怯える事無くそれに迫り、一息。その身体は不意にセツナの視界から消えるほどに深く潜り込んだ。
激しい剣戟。されどひるむ最中に放たれた甘い一撃。それ故に懐をあらわにし、彼は容易に潜りこまれていた。
肩に重点を置いた構え。
その刹那、彼の肉体、その腹部に全体重をかけたタックルが叩きこまれた。
衝撃。彼の腹部にめり込むその肉体が、その瞬間に踏み込んだことによって勢いさえも付加してセツナの全身へ痛みを伝播する。さらに無防備になる肉体は、そのまま彼女から離れ始めていた。
エミリアから剥がれ、セツナは大地を蹴って後退。その勢いやダメージを軽減させるために残された手段はそれだけであり――そして行動して気づいた。同時に聞いた。
発砲音。
エミリアの奥で、銃を構えた姿があった。既に火花は散り終え、先ほどの突きなんて技がチャチに見えるほど素早く鋭い弾丸が、音速を超えて肉薄した。
さらに発砲。発砲。発砲。
構え、撃つ。急ぐわけでも慌てる様子もない、落ち着き、しっかりと狙いを定めた射撃。
やがて弾丸は、後退の為に大地を蹴り僅かに宙に浮かび上がるセツナの脇腹を突き抜けた。
「……!」
舌打ちする時間すら無く、彼はさらに虚空を蹴る。勢い良く浮き上がる肉体は、頭上にある太陽によってその身を影にした。
弾丸は、先ほどまで彼が居た位置を抜ける。これでもうアイリンの射撃は狙いを定める時間は無く逃れられたのだ。
が――気づけば再び銃を手にしていたエミリアは、振り上げたその腕を上空に向けている。
弾道はもちろん、セツナへと予測された位置だ。
そして発砲。
繰り返される射撃。同様に迫る9mmの弾丸。
振り下ろされる、一閃。
弾丸はセツナに切迫した瞬間に両断され、弾かれ、落とされる。撃ち出された弾丸の数だけ、彼の周囲で火花を散らして弾丸は散っていった。
「……厄介な連中だ」
落ち着いて階段室の上に着地したセツナは、警戒しながらそう漏らした。
「もう終わりだと思ったのだけれど、無理だったわね」
燃えるような赤髪を掻き上げながら、拳銃の残弾を確認してアイリンが言う。
エミリアは頷いて、大きく息を吐いた。
「今ので無理だと思うと、とことん嫌気が差す」
「あら、エミリーが弱音なんて珍しいわね」
「弱音を励まして吹き飛ばしてくれるのが相棒なんじゃなかったのか?」
してやったりと言わんばかりのエミリアの返しに、彼女は思わず苦笑する。
「エミリーならできるわよ……っと、これでいいの?」
「ああ。私も本気を出さざるを得ないようだしな」
機関内部の戦闘員。その上位に位置する上位互換という集団。その中でさらに上位に属するのが彼女、エミリアだ。
そのエミリアの本気というものを、アイリンは正直な所あまり見たことがない。任務には真剣に取り組んでいるが、対峙する相手によってリミッターの限度を変えているようで、その本気の度合が度々変わってくるからである。
だから、まさに本領発揮というものに対して、彼女にはピンと来ずに首を捻るばかりである。
まあ、いざとなれば逃げればいいか――なんて考えていると、エミリアはまるで水泳選手がプールに飛び込む前に身体の調子を確認するように、跳ね、身体を解すように揺れた。
「相手をしてやる。かかって来い!」
台詞の後、戦闘はさらに苛烈を極めた。