終わりを使い切る
力を手に入れたのは、特別な理由があったわけじゃない。
ただ、目の前に現れたそいつが「望みを叶えてやる」と言って、対価として寿命を要求した。俺は少し考えて、頷いた。悩んだのは、本当に少しだけだ。
悪い取引じゃないと思った。むしろ素朴に、得だと思った。
寿命なんてものに、俺はもともとあまり執着がなかった。長く生きることへの欲求が、他の人間より薄かったのかもしれない。あるいは単純に、疲れていたのかもしれない。何もかもに。どこがどう疲れているのか説明しろと言われても困るが、朝目を覚ますたびに「また一日か」という感覚があった。それが何年も続いていた。
だから取引は、むしろ清々しかった。
力を使うたびに、反動がある。痛みだとか、消耗だとか、そういうやつだ。最初の一回目で、それを知った。なかなか堪える痛みだったが、俺は不思議と嫌じゃなかった。将来分の苦労を今日に前借りしている感覚。どうせ使い切る寿命なら、早めに消費しているだけだ。損得で言えばむしろ効率がいい。
そいつ——力をくれた相手——が何を考えているのか、俺は知らない。
悪魔なのか、神なのか、それとも全く別の何かなのか。聞いたこともないし、聞こうとも思わなかった。俺の目的のための道具として現れたなら、向こうの事情は関係ない。向こうも俺を道具だと思っているだろう。それでいい。対等だ。
力を使うたびに寿命が削れていく。それを、俺は知っている。漠然とではなく、確かな事実として。なのに不思議と、怖くなかった。終わりが近づいていることへの感覚は、恐怖よりも安堵に近かった。
残りで何をするか。それだけが、今の俺の仕事だ。
元々、特に夢も、やりたいこともあるわけではなかった。
力を手に入れた当初は、欲しかったものをどんどん買っていった。ずっと手が届かなかったものを次々と。部屋に積み上げていった。しかしじきに飽きた。買ったものは使われないまま積み重なり、畳まれない服がその上に重なっていった。部屋が散らかっていくのを、俺はとくに直そうとしなかった。
何回も力を使っていくうち、分かったことがある。
痛みに耐えた後、ふと感じた。強い感情や、体の力みが、以前より減っている。怒りが湧きかけて、途中で消える。笑いかけて、途中で止まる。健康が失われているわけではない。ただ、自分の何かが減っている。充電が切れかけた機器みたいに、できることは変わらないのに、どこか薄くなっていく感じ。これが「終わっていく感じ」なのだろう、そう考えた。
段々と力を使う敷居は下がっていった。外に出るから雨を止めるとか、今食べたいものを手元に出すとか、散らかった部屋を片付けるとか、本当にくだらないことに使っていった。
芝生の上に寝転がって、空を眺めていた。何か目的があってそうしているわけではない。
初夏の公園だった。寒くもなく熱くもない。少し前まで咲き誇っていたはずの桜は影もなく、これからの夏のために青々とした葉を揺らしていた。青い空に、高い雲がゆっくりと動いていく。
最近、毎日の時間の経過がひどくゆっくりしていた。身体は動くが、動かすのがだるかった。公園まで来ることはできる。でも、自分の中に残っている何かが、もう残りわずかだった。おそらく、力を使えるのはあと一回だろう。そう感じていた。しかし、やりたいことも思いつかなかった。
ぼんやりと空を眺める。風が空と自分の間を通り抜けていく。遠くで木がざわめいている。
ゆっくりと形の変わっていく雲を眺めていたら、ふと思いついた。
雲の形を変えてみよう。イワシでも羊でもなく、自分の好きな形に。
空の一点を見つめて力を込める。ゆっくりと雲が形を変えていく。遠くで誰かの声がした。はっきりとは聞こえない。ただ、声が上がっている気配だけがした。
力を抜く。雲の形が崩れていく。顔が緩んでいた。なぜか笑っていた。頬を、涙が一筋流れた。
視界の端が暗くなっていく。背中の地面の感覚はいつの間にかなくなっていた。手や足の感覚も無く、自分がどんな形をしていたか分からなくなる。
目を閉じた、気がした。
そして、終わった。




