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そのまま

番外編 発表

作者: こまこま
掲載日:2026/05/19

フロントの部屋は、いつもより少しだけ静かだった。


けど、張り詰めた空気というより——

「お、来たか」みたいな空気のほうが近い。


テーブルの向こうにいる上層部の男が、軽く手を上げる。


「おう、昂汰」


その呼び方で入るのが、この場所の距離感だった。


昂汰も軽く会釈する。


「お疲れ様です」


「で?」


ニヤっと笑う。


「例のやつやろ?」


隣の広報も苦笑しながら頷く。


「聞いてるよ。結婚やろ?」


昂汰は一瞬だけ目を細めて、


「はい」


短く答える。


「おめでとうやなぁ」


その一言が、やけに自然だった。


誰も驚いて止める感じじゃない。

むしろ「そらそういう年やろ」くらいの空気。


「いや、ほんまよかったやん」

「ずっと独身キャラやと思ってたけどな」

「ようやく捕まったか」


軽く笑いが起きる。

軽い冗談みたいな言い方やのに、

みんな、ちゃんと嬉しそうやった。


昂汰は一瞬、黙る。

それから、少しだけ口元を緩めた。


「捕まった、っていうか」

言いかけて、軽く首を振る。

「いや」

「必死に捕まえました」


その瞬間、

部屋の空気がふっと笑いに変わる。


「なんやそれ」

「お前らしいわ」

「逃げられてたんか」

「そら大変やったなぁ」


笑い声が重なる。


昂汰も小さく息を吐く。


「まあ、ほんまに大変やったんで」


そう言った声は、

いつもより少しだけ柔らかかった。


少し間を置いてから、

上の人間が真面目な声に戻す。


「で、どうするんや」


昂汰は迷わない。


「正式に出します」

「ちゃんと守りたいんで」


その言葉に、誰も反対しない。

むしろ当然みたいな顔やった。


「そうだな」

「変に隠すよりええ」

「詩ちゃんやろ? こっちはみんな知ってるしな」


その名前が出た瞬間、

昂汰の目が一瞬だけ揺れる。


「……はい」


短く返す。


その空気のまま、広報が紙を一枚置く。

「発表は今日中に公式で出すわ。コメントだけ一言もらっていい?」

「はい」



「…じゃあそれで」

ただ一言。

「私事で恐縮ですが、このたび結婚しました」



「ほな、こっちは段取りしとくな」


「はい、お願いします」


そう言って立ち上がる。

一歩出かけてから、

振り返る。


「ありがとうございます」


その一言だけ、少しだけ深かった。


廊下に出た瞬間、

空気が少し軽くなる。


スマホを取り出す

「…あぁ、詩?」


“発表”するから。

よろしくな


ポケットのスマホが震えていた。


通知はすでに動き出している。


公式発表の前。

チーム内のみでの発表。


ロッカールーム。

空気が一瞬だけ止まる。


「えっ」

「結婚?」

「マジで?」


一気に広がるざわつき。

スマホを見ていた若手が顔を上げる。


「昂汰さん、結婚したらしいっす」

「相手誰なんすかね」


笑い混じりの声。

でも、どこか遠慮がある。

その中で誰かがぽつりと言う。


「……詩さんって、もう球団おらんよな?」


一瞬だけ、空気が揺れる。

けれど誰も深くは触れない。

“元関係者”としては、あまりにも印象が強かった名前だった。





ロッカールームは、いつも通りうるさいはずだった。


なのに、その日はちょっとした緊張感が漂っていて。


「……昂汰さん」

「これ」


画面を見せられる。


《結婚発表》


昂汰は荷物を置きながら、短く言った。

「あぁ」

「さっき報告してきた」


「いやそこじゃなくて!」

すぐ突っ込まれる。


「相手ですよ相手!」

一瞬だけ間が空く。


昂汰は普通に言う。


「詩」


「……え?」

また静かになる。


「詩?」

「詩ってあの詩さん?」

「いや詩って一人しかおらんやろ」

「え、マジすか?」


確認の連鎖。

昂汰は普通に頷く。

「せやけど」


「え、詩さんって“あの”詩さん?」

「元栄養士の?」

「ずっとチームおった?」

「自主トレ来てた?」

「え、ガチで?」


一気に情報が繋がっていく。


誰かがぽつりと言う。


「……あの詩さんって、昂汰さんの専属みたいな人やろ?」


「専属って言い方やめろや」


即ツッコミ。

でも空気はもうニヤニヤしている。

別の若手が笑いながら言う。


「いやでも納得っすわ」

「何がや」


「距離感」

「どの距離感や」


「いや全部っす」


さらに一人。


「てか昂汰さん、前からバレてませんでした?」

「何がや」


「いや“あの空気”」

「どの空気や」


「見てたら分かるやつです」

「分からんわ」


そのやり取りを見て、

ベテラン組がニヤニヤし始める。


「で、結婚ってことはアレか」

「アレ言うな」


「ちゃんと捕まえたってことやな」

「捕まえるって言い方やめろ」


「昂汰さん、逃げられてたんすか」

「うるさい」


誰かが小さく笑う。


「いやでも正直、ずっと“そういう感じ”やと思ってました」

「何がやねん」


昂汰の声が少し低くなる。

別の声。


「え、俺も」

「今さらやけど」

「ずっと詩さんのこと“昂汰さんの人”やと思ってたんすけど」

「やっぱそうやったんすね」


一瞬、止まる。


「……いや」

「…まぁ、そうやけど」


ロッカールームが一瞬静かになる。

そして。


「やっぱそうなんすね!!」


爆発。



「いや納得しかないやん!」

「ずっと一緒やったもんな!」

「むしろ遅ないですか!?」

「結婚するからここ辞めたんすか?」


好き勝手な祝福が飛ぶ。

昂汰はタオルを取りながら、ぼそっと言う。


「うるさいねん」


でも止まらない。


「で、詩さんって今何してるんすか?」

「元気なんすか?」

「球場来るんすか?」


一気に質問が飛ぶ。


昂汰は少しだけ間を置く。


「元気や」


一言。


それで空気が少し柔らかくなる。


「よかったっすね」


誰かが言う。


その瞬間。


別の若手がぽつり。


「でも正直さ」

「昂汰さんの結婚相手って聞いた瞬間」

「もっとこう……謎の人想像してました」

「誰やねん謎の人」


笑いが広がる。

その中で、ベテランが一言。


「いや俺らは逆やろ」

「最初から詩ちゃんしか浮かばんかったわ」


一瞬、静か。


そして。

「それな」

同時に頷く空気。


昂汰はその会話を聞きながら、

無言でロッカーに座る。


「……好き勝手言うな」


小さく言う。

でも口元は少しだけ緩い。


そのとき。

誰かがニヤニヤしながら言う。


「で、昂汰さん」

「プロポーズどうやったんすか」


「……普通や」


即答。


「絶対嘘やん!」


一斉に笑いが起きる。

昂汰は立ち上がってタオルを投げる。

「うるさい」


でもその顔は、

いつもよりちょっとだけ赤い。


その言葉で、さらに笑い声があがる。

ロッカールームはいつも通りに戻っていく。


でも少しだけ違う。


“昂汰の隣にいる人”が、

もう名前で共有されている空気。


そして昂汰だけが、

そのことにちょっとだけ慣れていない。





数日後。


球団公式。


《このたび、弊球団所属選手・早瀬昂汰が一般女性と結婚いたしました》


コメントも添えられていた。


「これからも野球に真摯に向き合いながら、支えてくれる存在と共に歩んでいきます」




それを見た瞬間。


宿舎のソファで、昂汰は固まる。

「……は?」


声が出る。


「いやいやいや」

“書いたことと、違うやん”


スマホを持ったまま、

顔が一気に熱くなる。


「支えてくれる存在って……」


誰やねんそれ


だけど、

完全に“自分の言葉”やった。


じわじわくる。


「無理やってこれ」


頭を抱える。


「こんなん世間出たら……」


一人でソファに転がる。


「終わりやろ」


でも口元は、

勝手に緩んでいた。


そのあと、

もう一回だけ読み返して。


また赤くなる。


「……ほんまに出したんか」


静かな部屋で、

一人だけ盛大に照れていた。



その頃。



自宅。


ニュースアプリのトップに、

見覚えのある名前。


【早瀬昂汰、結婚を発表】


一瞬、呼吸が止まる。


「……え」


声が、漏れた。

タップする指が少し震えている。


記事を開くと、

見出しの下に、淡々と並ぶ文字。


“支えてくれる存在と共に歩んでいきたい”


その一文を読んだ瞬間、

心臓が、きゅっと縮む。


(支えて……)


頭の中で、

その言葉が何度も反響する。


知らないはずなのに、

知っている気がする温度。


記事の下にスクロールする。

指が止まる。


(……一般女性)


その文字だけが、

やけに遠く見えた。


ぼんやりと、

画面を見つめる。


呼吸が浅くなる。


(ああ、そうだよね)


そうなるのは、

分かってたはずなのに。


最初から、

そういう“外の話”だった。


仕事として関わっていた時間が長すぎて、

一瞬だけ錯覚していただけ。


そう思おうとして——


次の記事に目が止まる。


【関係者コメント:「必死に捕まえた」らしいですよ】


「……っ」


変な音が出た。


その瞬間、

心臓が一気に跳ねる。


(なにこれ)


記事を開く。


そこに書かれていたのは、

関係者談。

《ようやく捕まったか》って言ったんですよ。そしたら、「いや必死に捕まえました」って言ってましたよ。


(……これ)


一瞬で理解してしまう。

あの空気。

あの人たちの顔。

そのまま想像できてしまうのが、

余計に嫌だった。


スマホを伏せる。

でもすぐまた開く。


(何してんの私)


心の中でツッコミながら、

止められない。


もう一度だけ、

その言葉を見る。


「必死に捕まえました」


じわじわと、

意味が変わっていく。


“捕まえた”のが誰なのか。

(……ほんとに)

思考が途中で止まる。

耳の奥が熱い。


「……何それ」


“必死に捕まえました”


たったそれだけなのに、

頭が真っ白になる。

(なにそれ……)


胸の奥がじわじわ熱くなる。


(捕まえたって、なに)


息を吸って、

吐いて。

もう一度読む。


……やめてほしい。


顔が熱い。

でも目は離せない。


ベッドに倒れ込む。

スマホはまだ手の中。

画面は消えていない。


(昂汰さん……)


呼びかけるみたいに、

心の中で名前を出してしまってから、


余計に恥ずかしくなる。


「……もうやだ」


枕に顔を埋める。


でも、

口元だけが少し緩んでいるのに気づいて、


さらに自己嫌悪になる。


(なに笑ってんの私)


でも——

なんなの本当に。


その一文だけが、

ずっと頭から離れなかった。



スマホが震える。


「おう、見た?」


「見た……」


「どうやった?」


「……どうやったって何」


間。


「恥ずかしい」


昂汰は少し笑う。


「何が?」


「全部!」


枕に顔を埋めたまま

くぐもった声が飛ぶ


「コメントも」

「発表も」

「“一般女性”も!」


「まぁ事実やしな」


その一言で、詩は完全に沈む。


「……そういうとこ」


少しの沈黙。


「…もう、戻れないね」


昂汰は即答。


「戻る気ないしな」


詩は枕に沈んだまま、

耳まで真っ赤だった。


でもそのまま、

小さく息を吐く。


「……ずるい」


それだけ。


昂汰は笑って、


「今さらやろ」


と返す。


「…昂汰さん」

「ん」

「…〜っ、やっぱり恥ずかしいっ…」

ハハハっと笑い声


「…まぁ、正直俺もや」

けど、これで堂々とできるな


少しだけ弾んだ声だった。


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