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Exi_t

作者: 無川 凡二
掲載日:2026/10/22

 私はあなたのことを知っている。

 そんな馬鹿なと言ったところで事実は変わらないので先に進めよう。

 これから私に起こったことは全てここに書かれている。私では私のことは理解できないが、あなたは私のことを理解可能な位置にいる。これは記録であり、遺書であり、予言である。

 或いは、これからあなたが私にすることを記しているだけなのかもしれない。私はあなたのことを知っているだけで、あなたの考えまで計り知れるわけではないのだから。私は今はこれ以上のことはわからない。

 あなたはただあなたを操るあなたに自身に任せればいい。

 私がかつて、そしてこれから私にそうしていたように。


<>


 私は夢を見ていた。毎日同じ夢を見ている。私はいつも夢の中でいつものルーチンを行い、これが夢だと確認する。

 朝になれば忘れている。暗闇の中、停電した街中の横断歩道の上に立っているところから始まる。人がいない日といる日がある。信号が点滅し、足音と話し声だけが雨音のように響いている。姿はない。今日は人がいない日のようだった。

 ふと、起きているときの私が声と足音を人間と紐つけられていないのではないかと不安になるが、それらしい失敗も覚えがないので次第に忘れてゆく。これは夢である。

 呼吸を止めたような暗闇の中でも、ぼんやりと境界が見えている。道があり壁がある。それは私にとって理解可能な形式であり、私は壁を避けて道を歩く。いつも無意識に繰り返している行為が、ここではよりはっきりと感じられた。それすらも夢での経験として私は繰り返しているのだと、記憶に肌が答えた。

 ここには誰かがいる。私はそれを知っていた。

 私が誰なのかを私は知らない。記憶喪失という訳ではなく、夢だから文脈が曖昧になっているのだろう。私は景色に合わせて私を思い出すし、景色はこれからの私の反応に合わせて変化する。気付かなかったものはここでは無いものになり、存在しないものすら思い浮かべば現れる。不自由な全能を与えられた、私は無能な神である。

 だがそれに規則されないものが存在する。誰かである。誰かは常に違う姿で私の前に現れる。

「やあ、昨日ぶりだね」

 浮浪者のような男が電柱の影から現れる。太った体が騙し絵のように見え隠れし、まるで電柱から先が別の空間になっているかのようだ。このようなものは深く考えてはいけない。栄養状態の良い浮浪者とは、なども考えない。夢とはそのようなものであるし、誰かもまたそのような存在なのであるから。

「今日はある男の話をしよう」

 誰かは、決まって誰かの話をする。これは目の前の人物がただの夢の中のオブジェクトなのか、誰かなのかを見分ける最大の特徴だ。

 私は誰かの昨日の姿を思い出してみようと思ったが、夢の中なのでうまく思い出すことができなかった。

 思い出そうとした想像は景色を歪めて、私は夢の中で、夢を見ていることを忘れてしまった。


<>


「ねぇ! きみはだあれ?」

『ねぇ! きみはだあれ?』

「わたしはわたしだよ」

『わたしはかがみだよ』

「なあんだ。きみはわたしだったんだね」

『なあんだ。きみはかがみだったんだね』


<>


 目を開くと、陽が登っていた。目を瞑って有耶無耶にした。直前に見ていた夢を思い出そうとする。若干まだ覚えているような気がする。私はまだその延長線上にある。しかし私は目を開く。陽が登っている。

 昨日までのことを覚えている気がする。私はその延長線上にある気がする。記憶が混線する。私は思い出してゆく。

 私は目を覚ます。

 朝食のパンを食べる。いつもと同じ味がする。寝巻きからスーツに着替える。ながら作業で気づいたら着替えは終わっている。家を出て鍵をかける。道を歩く。電車に乗る。全てはルーチンのままに行われる再確認行動である。流れるように、体の記憶に任せて時間が進んでゆく。

 ただ、横断歩道を渡るときだけ、私は意識を取り戻した。右手を顔の前にやり、握り拳を開いて閉じる。白い線を越えるたびに開いては閉じるを繰り返す。いつから始めたのかは覚えていないが、何故かそうしないといけないような気がする。

 これはルーチンである。意味などはなく、学習された行為が無害だから続いているだけである。そう理解しているからこそ、やめる必要も感じてはいない。

 白、黒、白、黒、白、黒、白、黒。体で白線を数える呼吸と共に足が前に進んで向こう岸に辿りついている。

 ただ、馴染んだ儀式の繰り返し。それに感じる既視感と既視感自体への共感が昨日までの私を肯定している。私たちはそれを毎日と呼ぶ。

 仕事をする。休憩を取る。退勤する。私は毎日の断片として時々自分を思い出して、それ以外は文脈に合わせた記憶の流れに身を任せている。目的の数だけ時間軸が生まれて、それぞれの流れの中での昨日と明日を繋げている。

 時々私はどうしてここにいるのかわからなくなるときがある。ときどきわたしは文脈の隙間に嵌って戻れなくなる時がある。人はそれを無意味という。かつてそれは暇だった。

 あの横断歩道のルーチンをいつから始めたのかは覚えていない。だが、似た感覚には覚えがある。暇だ。小学生の通学路、私はとても暇だった。だから内なる衝動を解消するためには自分で遊びを作るしかなかったのだ。覚えてはいないが、きっとこのころにできた癖だろう。この頃の私は文脈もあまり持たず、やる気だけを有り余らせて暇だったのだ。

 だが今の私は違う。文脈のない状態を暇と感じられる程の気力はなく、自分の時間に自分を牽引する程の目的もない。だから無意味に陥る。

 無意味を潰すためには何かをしなければならない。現実逃避である。

 暇つぶしと現実逃避、環境と対処は同じであるのに、意味は大きく違っている。心なき行動がわたしの足を進めることは多くない。ほとんどこれは空洞を広げる行為であって、目的を見失う行為であって、自傷行為である。

 何かを忘れるために刺激を求めて、興味もないままに単純な行動を繰り返す。

 誰かは酒を煽り、また誰かはショート動画をフリックする。

 達成を忘れ、目的という原型を失ってゆく。与えられた文脈、それだけが人生の意味を占めてゆき、私はわたしのない明日を繰り返している。

 さて、今日私は、あの儀式以外で私のことを思い出せただろうか?

「注文はなんにします?」

 若い店員が、調子の良い軽く明るい声で私に話しかける。私は奥の厨房がすぐ見えるカウンター席に座っていて、奥では店主らしき男が調理を行っている。

「何かおすすめはありますか?」

「そうっすね。上の黒板に書いてあるのが今日のメニューなんすけど……店長今日おすすめなんでしたっけ」

 そう言って店員は後ろにいる店長に尋ねた。

 初めて入った店だった。外から見た時に、雰囲気のいい喫茶店だと思ったのだが、入ってからよく見るとどうやら酒を出す店らしい。カウンターの前には茶らしきものが並んでおり、これを酒で割るようだ。常連客たちが楽しげに談笑している様にどこか懐かしさを感じる。近くに住んでいる人々の憩いの場になっているのだろうか。酒が回ってほてった舌を冷ますように語り、乾かさぬように酒を煽る。他人の私からしたら何も面白くない話だが、知人が話していれば違うのだろう。彼らは笑う。

 言葉は情報を複製するだけの行為ではない。双方の非対称性の中で起こる化学反応を楽しむ。楽しみながら、相手のイメージを更新してゆく過程でもあった。

 雰囲気の良い場所は、まるで自分が無関係だとしても悪い気はしない。安定している。ここなら私は求められない。そんな安心感が、私をやっと休息に導いてくれる。

 都市の活動はその中にいてはよく見えないものだが、こうして縮図のようなものを散見するうちに、イメージが浮かんでくるようになる気がする。関わる場所は、良い場所だと思いたい。だから善いものがある場所を選んで私はそこに行く。

「──が今日のおすすめっすね。あとはドリンクのメニューはそっちで。アルコールはお好みのお茶で割ってください。濃さとか言ってくれたら調整しますよ」

「ありがとうございます。じゃあ…………まずは、フライドポテトで」

「はいポテト一つ!」

 知らない横文字の名前が並んでいる中で、目に入った知っている単語を言ってしまった。

 上から調べてみると海外の郷土料理のようだった。というか、ポテトの味もよくわからない横文字である。ここまで来たら調べないで食べた方が面白いのかもしれない。よくみると果物の漬物など、理解可能なものもある。

 理解可能? いや、私の常識が狭いだけだろうか。

「珍しい料理が多いですね」

「ああ、ほら。うちは創作料理屋なんで。本当に、珍しい味が楽しめると思いますよ」

 私はよくわからないポテトを受け取り、ひとつつまむ。予想通りよくわからない味がする。

 時間が経つにつれて、店内の賑わいが増してゆく。広い店というわけでもないのでカウンターは詰めて狭くなってゆく。

「と、すみません」

 隣の人間に肘が当たる。パーソナルスペースなどと叫ぶ人権団体のような気分は、今更私にはなかった。

「こちらこそ」

 若い少女がぺこりと謝罪を返す。酒は飲める年齢なのだろう。彼女のカウンターにはグラスがいくつも並んでいる。

「お兄さん、ここに来るのは初めて?」

 やや掠れた、細い声。しかし落ち着いている。

 彼女の眼は私の目の中に何かを探すような眼差しだった。

「ええ。いい店ですね」

 ポテトをつまみながら酒を煽る。いつの間にかポテトは半分をきっていた。追加を頼もうか。会話の間を持たせるには少し心許ない量だ。

「お兄さんがこんな場所に来ようとするなんて珍しいね。どうしたの?」

 彼女は私を知ったふうに語る。私を誰かと間違えているのだろうか。

「失礼ですが人違いでは」

「あそこの人」

 彼女はテーブル席で座って談笑している男の一人を指差した。私の言葉を聞こうともしない。

「飲み過ぎていますよね。大丈夫ですか?」

「そうだね、じゃああの人の話をしようか?」

 違和感を覚える。私はこの彼女を知っているような気がする。しかし、記憶は応えない。

 身内にも友人にも覚えはないし、それ以外の交友関係でも年の離れた人物は少ない。すぐにわかるはずだ。

 だが、どうしてなのかまたお前かとうんざりするような感覚が浮かんでくる。

 彼女は語り出す。

「彼は、そうだね。特別なことはない親のもとで生まれたんだ」

「君はなんだ? 私は君を知っているのか? 駄目だ、こっちも酔ってる」

「特別でないとは寓意がないということ、だね。でもそんな人物も生きているからには物語がある」

 彼女は話す。私はそれを聞いている。

「幼い日の彼はある日、同級生と夜の学校へ忍び込んで、肝試しをしようとしたんだ」


<>


 財布の中からギザ十がなくなったり、いつのまにかいたりする。

 おかえり、と言うと、ただいま、と返してくる。

 別人だって、知っているんだけどな。


<>


 動悸と荒い呼吸を飲み込み、むせそうになりながら走っていた。生ぬるい空気が肌を掴むような夏の夜だった。早く家に帰りたい一心で、俺は通学路を走っていた。

 俺は肝試しに行ったことを後悔した。悪いことはしなければよかったと懺悔した。明日からいい子になります。だから助けて。

 夜の街は嘘のように人気がなく、車一つ通らなかった。世界にたった一人で取り残されているみたいだった。

 その日、肝試しをしようと言い出したのは俺だった。休み時間に俺たちの学校の七不思議の話をしていたときだ。

「でもさ、旧校舎って今度なくなるじゃん」

 誰かが話に水を刺すように言った。

「七不思議って半分くらい旧校舎のものだけど、どうなるんだろ」

 トイレの合わせ鏡に、調律の合わないピアノ、バラバラの人体模型、人喰い包丁、無人の放送室、呪いのプリンター、このうちの最初の三つは旧校舎のものだった。このまま永久に確認できなくなるのかと思うと、なんだか居ても立っても居られなくなって。

「じゃあ今夜見に行こうぜ!」

 俺は友達を集めて真夜中の肝試しを決行した。

「結局半分も来なかったね」

「意気地なしはほっとけよ。俺たちと違って勇気がないんだ」

 集まったのは五人だった。小学校は石造りの塀とその上の金網で囲まれている。中から見たらまるで俺たちを閉じ込めようとしているみたいだ。外から見てもやっぱり大きなウサギ小屋のように見えた。俺たちは塀の上に登った後、用務員のおじさんが塀の上の掃除に使っている秘密の通り道から敷地に入っていった。

「……なあ、今中で誰か歩いてなかったか?」

 体育館の裏から旧校舎の裏を歩いているときに、誰かが言った。

「ガラスに映った俺たちだろ。大人だったら怒られてるもん」

 でも、もしかしたら幽霊だったりしないだろうか。背中をぞわりと恐怖心がなでる。

 旧校舎は封鎖されていたけれど、カラーコーンとテープで通行止めされているだけで素通りできた。耳鳴りがするくらいしんと静まり返った廊下を進んだ。最初は木造の床がぎいぎいとうめき声をあげることに怯えていた俺たちだったが、何も起こらないとわかると次第に慣れていった。

 音楽室に入ると、グランドピアノが舞台装置のようにぽつんと鎮座していた。机や椅子、音楽家の写真も撤去されているから、ピアノと穴の空いた音楽室の壁がなければ何の部屋かもわからないだろう。怖いという気持ちよりも、どこか寂しさが鼻の奥を通る光景だった。

「ここが開くんだよな」

 懐中電灯の灯りを頼りに俺たちはピアノを触るが、大きな音も立てられないので恐る恐るだ。

 七不思議では、このピアノは調律を合わせても合わせても狂ったままで、何度も直そうとした調律師と音楽の先生がおかしくなって死んでしまったらしい。神経質かな?

「わかる?」

「わかんない」

 端から鍵盤を鳴らしていったが、ここに音感があるやつはいなかった。ドレミファソラシドで限界なのに、白黒白黒白白黒白、全部鳴らされたのだからなおのことわかるはずがない。

「次行こうぜ」

「さんせーい」

 次はバラバラの人体模型、だったのだが理科室に鍵がかかっていて見られなかった。

 バラバラの人体模型は、内臓が空っぽになっている人体模型らしい。その中を誰かが覗き込むと以降毎日校舎のどこかで人体模型の部品が見つかってゆくようになるのだが、どうしてもいくつかは見つからない。それを一週間以内に全部見つけられないと、覗き込んだ人は人体模型の足りない内臓を取られてしまうらしい。去年先輩がそれで盲腸を取られたのだとか。

「だめかあ」

「次行こ、次」

 音楽室で拍子抜けしたからか、皆の足取りは軽くなっていた。こんなのに怖がるとかダサいな。来なかったやつらに明日自慢してやるんだ。俺はそう思った。

 そして俺たちはトイレの合わせ鏡を見にいった。

 旧校舎の職員室横のトイレには、掃除用具入れの中に鏡がある。掃除用具入れの扉を開けると、丁度正面にある洗面台の鏡とで綺麗に合わせ鏡になるらしい。それを覗き込むと、異世界に入れるらしい。

 トイレに入るとそこは、もう長く使われていないはずなのに冷えた尿の匂いがぷんと染み付いていた。洗面台は二つある。懐中電灯で照らすと、水垢とカビで赤黒く汚れていて、まるで血がついているようにも見えた。入り口手前側の反対側にある個室が掃除用具入れだろう。

「やだぁ男子トイレはいっちゃった」

 入り口で渋っていた女子が最後に入って、俺たちは狭いトイレの中に並んだ。

「誰がやる?」

「みんなで見るんじゃないの?」

 誰も進んで扉を開けようとはしなかった。

 暗い、暗い闇の中だった。懐中電灯の灯りが当たったところだけが見える、周りに何があるのかもよくわからない、狭く臭い場所だった。時刻は既に十時をこえている。みんな、早く帰りたいと思い始めている頃だった。

「俺、開けるよ」

 どうせ何も起こらないんだ。そう思った俺はみんなの確認を取らずに、躊躇なく扉を開けた。

「おい。誰かいるのか?」

 そのとき廊下の方から、大人のややくたびれた柔らかな音を詰め込んで張ったような声がした。みんなはすぐさま電気を消してトイレの個室に隠れた。巡回している先生に見つかったのだ。俺も急いで、狭いけれど掃除用具入れの中に隠れようと思った。そのときだった。

 鏡に映る俺の顔、の向こうに合わせ鏡が見えた。綺麗に対面したそれに、俺は違和感を覚えた。

 顔が邪魔でよく見えないが、肩は見えていた。その時の俺は肩まで黒い竜のプリントが入った白地のTシャツを着ていた。鏡に映る像は対面、背中合わせ、対面となっているはずだ。

 だから鏡に映る僕の肩は黒、白、黒、白、白、白。俺は寒気を覚えた。一人、後ろを向いている。

 悲鳴をあげようとしたが、喉がつかえて壊れた笛のように細い息が通っただけだった。後ろから何か声が聞こえる。ブツブツと判然としない音が近づいてくる。それが俺の声にそっくりだと気づいたら、足が固まって動けなくなってしまった。何か恐ろしいものに遭遇してしまったことが本能的にわかる。

 先生に見つかってもよかった。助けて欲しかった。何秒目を瞑っても変わらなかった。いや、瞬きするたびに声が近づいてきて、息があたりそうな距離から聞こえた。もうだめだった。

 俺はゆっくりと後ろを振り向いた。

 空洞。そこには顔に穴が空いた俺がいた。空洞の奥に見える俺の頭も空洞で、合わせ鏡の向こうの空洞が遠くまでよく見えた。白、黒、白、黒、白、黒、白、黒。後ろを向いているのは、俺だった。

「コラ! 何してるんだ!」

 近くで先生の声がした。

 ああ、よかった。やっと助かる。俺はそう思った。

「こんな時間に何をしてるんだ!」

 個室の扉が開く音がする。

「ご、ごめんなさい……」

 なぜだろう。声は、トイレの奥の方から聞こえた。入り口は一つしかないのに、先生が通ったことに気づかなかった。いや、トイレは暗いままで、先生がいるような気配はなかった。

「お前たち四人で何をしていたんだ」

「実は肝試しに来ていて」

 まるで俺が見えなくなっているみたいだった。俺はトイレの入り口で立っているのに、無視されている。

 先生、俺はここにいるよ。俺を見つけて、助けて! 泣きそうになりながら心の中で訴える。喉から喘息みたいな音がする。

「これで全員か?」

「はい……」

 最初は俺を庇って言わなかったのだと思った。でも、鏡を見て、そうじゃないことを理解する。

 鏡にはもう誰も映っていなかった。俺は世界から消えてしまったのだ。そのときやっと足が動いた。振り返るがトイレには誰もいない。俺は走った。必死に家へ帰ろうとした。旧校舎を出てそのまま学校を出た。もう振り返らなかった。

 お父さんとお母さんなら助けてくれる。その一心で夜の街を逃げるように走った。

 チャイムを鳴らしてから、気づいた。今日はお父さんもお母さんも仕事で帰れないのだ。郵便ポストの中にある鍵を取りに行く間に、少し落ち着いてきた。他の家のダクトからカレーの匂いがしたからだ。現実に帰って来れたような気がした。家の中はいつもと変わらなかった。

 作り置かれた夕食を温めて食べた頃には、もうすっかり安心して、全ては悪い夢だったように思えた。

 テレビを付けて、お父さんが録画してくれたアニメのビデオテープを入れる。ブラウン管テレビの画面が帯電してびりびりするのを触る。画面に顔を近づけるとこめかみがもわもわする。顔に穴は空いていない。やっぱり夢だったんだ。そうしているうちに、コマーシャルが終わってアニメが始まった。

 それは小説家を目指している主人公の物語だ。小説家になれなかった父親の作った物語が好きだった主人公が、父親の死後にその作品をリメイクして父を小説家にしようと思って小説を書き始める。そんな主人公が、ライバルやヒロインとの交流を経て自分の作品を作り、自分で小説家になろうとする物語。

 お父さんが好きだった俺は、この主人公に共感する部分があって好きだった。

 画面の中で二枚目のライバルが、格好つけた鋭い声で主人公に言い放つ。

「お前のその頭じゃ推理小説は書けないさ」

「くそう」

「悔しかったらもう少し丁寧に説明するんだな。心理描写の説明が多くて、トリックの説明が足りない。作者が考えりゃわかると思うことは読者にはわからないんだ。逆に、心は状況でわかるからそんなに過程を説明しなくていいんだよ」

「くっ……ありがとう。あと、お前のは多分キャラと用語と世界観がチグハグだと思う。ジャンルがまとまっていないというか、目指してるものと材料が一致してない感じがする。これとか、ジャンルと雰囲気が合ってると思うからオススメ」

「ぐはっ……参考にしよう。感謝する。返すのは修正終わってからでいいか」

「いつでもいいよ」

 批評が終わって、僕らは原稿に戻ってゆく。

 今書いているのは、記憶の中に侵入者が入ってきて記憶が並べ替えられたり壊されたりしてしまうという作品だ。大切なことを忘れてしまった主人公が、それを思い出すために侵入者を追いかける。物語の中盤で、それまで追いかけていた侵入者が意思をもった存在ではなく、知ることによって脳の神経回路を再結線して記憶を書き換えてしまう、独立したウィルスのような情報だと判明する。そして、失ったと思っていた大切な記憶こそ、侵入した偽物の記憶だった。まるで誰かとの思い出のように、記憶の中にしかいない存在として振る舞うそれに、ずっと主人公は支えられていて、愛してしまっていた。追いかけて、思い出しているのではなく、過去を作っていた。でも、生きるために主人公はそれを治して、そして前に進んでいく。だって彼の人格を作り上げたのは紛れもなくその侵入者だったから。治したくらいで、主人公の中から消えてなくなるわけじゃない。彼はその記憶のおかげで成長して、現実に向き合えるようになる。

 ちょっと父さんを意識しすぎている気もするけれど、僕の最初の作品だから。いいんだ。

 原稿用紙の上にペンを走らせて、物語の続きを描いてゆく。僕はこのときだけ、全能の創造主になる。

 連なっている文字の列の中で意味が動いている。文字が彼らになって、言葉を交わす。

 舞台は創作料理の出るカフェで出会った二人の会話から始まる。

「特別じゃないって? そんな化け物みたいなキャラ付けの母親がいるか」

 少女の話したある男の物語に、私はどう反応すれば良いのかわからなかった。

「寓意がないことに執着するのはノイズ、だよ。ほら。物語に関係ない部分は逆説的に意味がないんだから」

「逆説とか難しい言葉を会話で使わないでくださいよ」

「でも、お兄さんには伝わってるでしょ。だから大丈夫。お兄さんの知らない言葉は使わないから」

 思いの外会話は進んでおり、私の方のポテトはまだ終わっていなかった。

 少女はテーブル席の男の過去を話した。だが、それが本当かどうかはわからない。その場ででっち上げられた内容であっても私に判断する術はないのだ。だが、その内容が事実だとしたら矛盾しているのだから信じるに値しない、酔っ払った少女の妄言であることは明白だった。

 そんな二人の会話は知らず、テーブル席は談笑を続けている。

「──合わせ鏡で」

 テーブル席の男の言葉の中に、少女の話と同じ単語が聞こえた。どういうことだろうか。

「なあ、君は誰だ? 君は何を知っているんだ?」

 私は少女に再び尋ねた。

「わたしは、お兄さんの言葉で説明するなら、誰か。誰かだよ。それ以上でもそれ以下でも誰でもない」

「意味がわからない」

 だが、何故か納得している私もいた。何に理解しているのかもわからないのに安堵が流れる違和感。少なくとも、彼女を問い詰めても私が納得することはないのだろう。いや、納得してしまうかもしれない。かえってその方が恐ろしいことだった。

 そのとき、テーブル席の男が店を出ようとしていることに気づいた。私は彼を追いかけた。今の話を確かめなければいけなかった。会計を済ませて店を出る。まだ、通りの向こうに後ろ姿が見えた。

 不審者だな。私は。まるでストーカーじゃないか。

 私は赤信号越しに男の背をじっと見つめながら待ち、青くなるとすぐに横断歩道を渡った。

 その途中で眩暈のような違和感に気付く。渡り終わる頃に違和感の意味に気づいた。初めてだ。私はルーチンを忘れてしまった。白黒の道がぐにゃりと歪む。私が私を忘れているような気持ち悪い感覚が襲ってくる。私は誰だ? 暗転。

 録画したビデオが終わって画面が青くなる。今日のお話は少し難しかった。

 食器を洗って、ゴミ出しの準備をした。今日は俺の係じゃないけど、お父さんもお母さんも忙しいから俺がやるんだ。お風呂に入って、歯を磨いて、眠った。明日は土曜日だ。お父さんもお母さんも昼までには帰ってくるだろう。アニメのおかげでもう怖くはならなかった。

 しかし翌朝になってもお父さんもお母さんも帰って来なかった。外に出ても誰もいなかった。音や匂いだけが取り残されたように、世界には誰もいなくなっていた。俺はそれからずっと一人だった。

 俺の世界には、誰も帰ってこなかった。

「バブルソートされてたんだ。俺。合わせ鏡で」

「ギャハハ」

 気がつくと俺は、小学生の頃の同級生と再会してカフェで談笑していた。ここに来るまでのことも話の流れも覚えている。そう思うと、さっきまでの感覚は、恐ろしいことを思い出してしまっただけのような気もした。

 あれ以降誰も現れなかった。じゃあ俺は誰だ? 記憶が繋がらない。でも、今ここにみんながいるんだから、俺はそれで良いような気がしていた。

「結局七不思議は中身が変わって今も続いてるんだって」

「都市伝説ってそういうものでしょ」

「中身が変わってる割には、毎回きっちり六つなんだよね」

「なんだっけ、七つ全部知ってることが霊界へのパスポートだかで、知ったら神隠しにあって存在を忘れられちゃうとかそんなんだったっけ」

「それそれ。似た感じで今も続いてるみたいね」

「しかし悪ガキだった僕たち四人とも今じゃ立派に社会人だね」

 四人? 確か五人だったはずだ。やっぱり記憶がおかしい。俺は誰だろう。

「捨てる壊れる尽きると書いてシャカイジンだね」

「よせやい縁起でもない」

 考えれば考えるほど不安が大きくなってゆく。足元が薄氷のように脆くなっているような、今にでも壊れてしまいそうな場所に立っているような気がしていた。

「ごめん。ちょっと気分悪くなってきたから先帰らせてくれ。また連絡するから」

「大丈夫?」

「おー気をつけて」

 金を置いて先に店を出た。わからないことだらけで混乱している。一度眠って、落ち着いて整理するべきだと思った。振り返ると、一面ガラス張りのカフェの中で変わらず談笑している三人が見えた。

 良かった。俺は帰って来れたんだ。そう思うと同時に、あの日に見たアニメの設定が想起される。

 俺は存在しない人間で、肝試しをした一人に取り憑いた悪霊みたいな存在なんじゃないだろうか。

 そのとき、店から男が一人出てきた。店の中で何度かこちらをチラチラと見てきた男だった。煩かったのかとも思ったが、なんとなく俺を追いかけてきているような気がした。

 早足で逃げると、向こうも走り出した。やはり追いかけてきている。あれは誰なんだろう。怖くなってきた。自分が誰なのかもわからないのに、さらに知らない男に追いかけられているのだ。警察にでも逃げ込もうかとも思ったところで、信号機が丁度点滅した。俺はそれを少しだけオーバー気味に渡り切った。振り返ると、男は信号を待っているようだった。今のうちに距離を取らないと。

 背後でけたたましい音が響いた。交通事故が起きたらしかった。俺は振り返らなかった。そんな余裕はなかった。

 その時、電話がかかってきた。

「もしもし。オレ、オレだよ」

 ハリのある女性の声だ。というより、俺はこの声を知っている。

「母さんか?」

「そうだ。どうだい一人暮らしは。オレたちんとこに帰りたくなってる頃じゃないか」

 丁度不安になっていたところだったから、母さんの声を聞いて少し安心した。ほら、俺は帰って来れたんだ。そんな感情が胸に広がる。

「オマエ、隣のおばさんは覚えてるよなあ」

「えっと、ごめん誰だろう」

 こんな状態なのだ。母親ひとり思い出せただけでも限界だ。

「オマエは……あんなに世話になってたのに忘れたのか?」

 母さんは誰かの話を話し始めた。

 そのときになって、俺は俺の物語の終わりを悟った。自分が誰かなんて関係ない。やっと帰って来れたのに、まだ消えたくはなかった。


<>


 ここには誰もいないよ。誰に言ってるんだろうね。誰が言ったんだろうね。


<>


 その日の仕事はうまくいっていなかった。数日前から用意していたシャーレは、朝の時点でカビが広がっているのが目視でもわかった。うまくいっていない日の方が多いのだから、気を取り直して次をやろう、などと前向きなことを考えることはできたが、思うだけで何か変えたわけでもなく、プロジェクトの期限が刻一刻と近づいている。

 知ろうと思えばわかっていたことじゃない。そんなことを思いながらも、特に生活を変えるつもりはない。私の人生は、もうすでに決まっているのだから。

 そろそろ時間ね。時計の短針が十四を指していることを確認して、私は身構える。

 そのとき、私の視界が別の景色にぬりかえられる。心臓を掴まれるようなきゅうとした感覚に身を任せるが、これが幻覚であることを私は知っている。

 垂れ下がった点滴が見える。干からびた皺だらけの手に刺さった管が見えた。視界がぼやけて、あたりはよくわからないが、病院だと思う。視点はそれ以降固まって、もう数十秒はそのままだ。同じ場所を見ているのに、集中しているような、頭を絞られているような感覚がする。

 気がついたら、私の視界は仕事場のさっきまでの作業風景、コンタミ(異物混入)のレポートに戻っていた。

 首や肩が石のように凝り固まっている。一度机から立ち上がって、呼吸を整える。深呼吸をしながら、視野の真ん中に手を持ってきて、呼吸に合わせて拳を開いては閉じる。

 定期的に起こる発作のようなものだ。どれだけ見たとしても私はこれと向き合ってゆかなければいけない。

 1時間に2回、あと数分でもう一回来る。そうわかっているから、私は転ばないように席に着いた。時計の時刻を見ながら次の発作に備える。

 視界が落ちる。ゆっくりとした瞬きの隙間に見えたものは、誰かが倒れている姿だった。若い、学生くらいの男だ。主観はその手を握って、脈を取っている。視界は霞んで、ずっと揺れていた。きっと死んでいるのだろう。

 そして景色は現実に帰ってくる。私は少しだけ悲しい気持ちになっている。それを追い払うように瞬きを強くして、手の感触に意識を集中させる。本当にこの発作は厄介だ。これのせいで乗り物の運転もできたものではない。私の人生は、これのせいで随分と狂わされたのだ。

 いやね。気にしてたら命が何個あっても足りないわ。私は仕事に戻る。その後もきっかり1時間に2回、いつも通りに発作は起きた。

 家に帰ると、玄関に靴が転がっていた。

「ねえ、靴はちゃんと揃えてって私言ったわよね」

「ごめんなさーい」

 家の奥から悪びれてもいない息子の声がする。部屋でゲームをしているのだろう。

「お父さんも注意しなさいよもう」

「ん? ごめん気づかなんだ」

 どこの家とも変わらないような日常が過ぎてゆく。あの発作があることを除いて。私はその度体を強張らせて、手のひらの感覚で現実に帰ってくる。だが、これは私の蒔いた種なのだ。

 もう十年以上もこうして生活を続けている。

 夜のことだった。川の字になって家族三人で眠ろうとしている時のことだ。

「パパもママも、死なないよね?」

 クラスメートが風邪で亡くなったという話は聞いていた。小学一年生にはショックな出来事だろう。亡くなった子と息子とで仲が良かったとは聞いていなかったが、やはり子供ゆえの感受性か不安になっているのだろう。

「死なないぞ。二人ともピンピンしてるからな」

「怖いことは考えない方がいいわ。早く寝ましょう」

 布団の上から息子をさすってやるが、不服そうだ。

「死んだら、上の世界に戻るって本当? 僕らはみんな本当は違う生き物で、夢の中で家族ごっこをしてるだけなの?」

 息子は変なことを言い出した。これはなに? 下校中に宗教か何かの勧誘でも受けたのだろうか。私はクレームの本文を考えながら、息子から犯人を聞き出そうとする。

「それは誰が言ったの?」

「──君。死んじゃう前の日に、話したんだ。この世界は作り物で、飽きたからログアウトするんだって。お先にって。そしたら、次の日に……」

 どうやらクレームは入れられなさそうだ。亡霊は叩けない。そして、話を聞いていた夫が余計なことを言う。

「そうだな。記憶ありだと飽きるよ。でも記憶なしだと面白いのかつまらないのかもわからないから厄介だね」

「あなた。乗らないで」

「いいから。なあ、お前は本当だと思うか?」

 息子は目を瞑って頭をぐるぐる回して考える。かえって気が散らないか、それは。

「わからない」

「そうだね。わからない。わかりようがないんだ。だから、気にするだけ無駄なのさ。本物か偽物かなんて、実際に経験したことに比べたら些細なものさ。ああ、偽金とかはダメだけどね」

「むつかしいよ」

「確かめるには死ななきゃだろう? でも、死んだらおしまいで何も得られないどころか全部なくなるかもしれない。だったら、今それを気にしなくてもいいんじゃないかな。いつかはわからないけれど死ぬ時は死ぬし、そのときに確かめればいいさ」

 この人は本当に話すときは止まらない。分かっていなさそうな我が子の顔などまるで気にしていない。止めようとして、いつかはわからないけれど、その言葉が私の中に刺さった。私はしばらく何も言えなかった。

「ほら、難しい話はもういいでしょ。絵本を読んであげるわ」

 私は本棚に手を伸ばして適当な絵本を取る。そのときに視野にテッド・チャンの「あなたの人生の物語」が目に入る。大切な一冊だった。まるで私のことを書いているみたいだと、若い頃にのめり込んだ。だが、今となっては私はルイーズ(あなたの人生の物語の主人公)にはなれなかったのだと諦めている。

 私は未来予知ができる。そして、未来を変える力を持たない。

 景色が差し代わる。病室で力尽きようとしている老いた自分の視覚が見える。ここから一時間以内に私は息を引き取るのだろう。

 瞬きをすると手に取った絵本が見えた。手の感覚を確かめる。また、次の幻覚が待っている。

「ちょっと待ってね」

 男の子が倒れている。それは息子の顔によく似ている。私はそのそばで力無くその手首を握って、嘆きもせずに呆然と、あるいは脳内で懺悔を浮かべるだけなのか、身動き一つ取らない。これくらいの年に息子は死ぬのだ。

 景色が戻る。息子の手を握る。その細さにぞっとするほど現実を感じた。

 私は、一時間先の未来を見ることができる。そして一時間先の未来で見た、さらに一時間先の未来も見ることができる。この事実に気づいたとき、私は中学生だった。見えた未来は変えられないが、見ていないことは好きに変えられる。私はこの力を使って何か特別なことができると信じていた。

 私はこう考えた。これから一時間おきに予知を使い続ければ夜寝る前までの未来が見えるのではないか、夢の中でも予知ができたらもっと先の未来も見えるのではないか。そして、一回目の予知でそれは成功した。

 知らない男が倒れている景色が見えて、最初は失敗したのかもしれないと思った。そしてきっかり一時間後にもう一度予知をして、同じ景色を見た。私は馬鹿だったから、もう一度予知をした。今度は年老いた自分の姿が見えた。馬鹿でも理解できた。私が見たのは未来は未来でも、予知ができなくなる直前の未来を見たのだ。この二つは私にとって予知ができないような大きな出来事なのだと。

 気づいた直後、ほぼ無意識に予知を使っていた。男が倒れている景色を見て、私はさらに取り返しのつかないことに気づいた。私はこの景色を現実に見るまで、予知をし続けるのだ。四六時中、寝る間も関係なく、未来のトラウマがフラッシュバックする。そう決まってしまった。

「大丈夫かい……?」

 心配そうに私を覗き込む夫の顔が見える。私よりも十歳は年上で、私よりも先に死ぬだろう。それなのに予知に彼は現れなかった。つまるところ、私はそこまで彼を愛していないのだろう。

 だが息子も死んでしまう。考えてはいけないことなのに無駄なことだと思ってしまう。どうやって愛せばいいのだろうと悩んでいる。これを育てても何も得られまい。それなのに、あのときの私は泣いたのだ。どの面を下げて私は生きているのだ。

 ルイーズと私とで、比べるのも烏滸がましい。これほど醜い存在がいるだろうか。そして自分を憎んで、憎みながらも何も変えられないまま時間だけが過ぎてゆく。涙を流す資格もないまま。あの景色を再現する。

 私は失ったあとの涙でしか彼らに報いることができないのだろうか。愛してやれないのか。

 申し訳なく思うということは、歯車が一つ空回りをしていること。殻の中で死んでゆくこと。その先がなければ意味はないのに。だが、それ以前に問いが間違っていることが問題なのだとわかっていながら。自己中心的に、

「……ごめんなさい。もう大丈夫」

 母親のふりをすることを止められない。私は未来永劫、あの光景に怯え続けるだけの弱い人間だった。

「これはどう?」

 最初に選んだ絵本は、あまり読んでいないものだった。

「それよりも、こっちがいい」

「わかった、これでいいのね。本当にあきないわね」

 息子が選び直した絵本は、何度も読み聞かせてきた絵本だった。


「あのまろくんはアノマロカリスのぬいぐるみです。

 あのまろくんのなまえは、しんくんがあのまろくんにはじめてあったときにつけました。

 しんくんのベッドには、ほかにもおともだちがいます。イルカのるかちゃんに、ウミウシのみうちゃん。サメのしゃーくんとペンギンのぺんちゃんもいます。

 あるひ、おとうさんがしんくんにうみのいきものずかんをかってきました。

 しんくんはずかんのなかで、るかちゃんやみうちゃん、しゃーくん、ぺんちゃんをみつけておおよろこび。

 でも、あのまろくんはみつかりません。

 あしたになったらみつかるかも。しんくんはまいにちページをめくりましたが、あのまろくんはやっぱりみつかりませんでした。

『きみはだあれ』

 しんくんはあのまろくんにいいました。

 あのまろくんはびっくりして、かなしくなりました。ぼくはなにものなんだろう。

 つぎのひにあのまろくんは、しんくんがねているあいだにまどからとびだしました。

 じぶんがなにものなのかをさがすたびにでたのです。

 さいしょはくらくてこわかったけど、あさになるとゆうきがわいてきました。

 あのまろくんは、みちをはねながらあるきます。

『なんだ、へんなぬいぐるみがさんぽしてる』

 おとこのこがはなしかけてきました。

『ぼくは、じぶんがどこでうまれたかしりたいの』

『それなら、こうじょうにいけばいいよ』

 あのまろくんはおしえてもらったこうじょうにむかいます。

 きのうまであめがふっていたので、みちにはみずたまりがあります。ぬれないようによけていると、じぶんがみえました。

『ほんとうにへんなかたちだ……』

 こうじょうまであとすこし。えんとつからけむりがもくもくとでています。

 こうじょうです。

『ここがぼくのこきょうなのかな』

 こうじょうのなかはおおいそがし。

 ぎっこん。がっしゃん。ギゴガゴゴ。ういーん。どすん。わあ、たいへん。つぶされちゃう。

『おい、なにをしてるんだ』

 おじさんがきかいをとめてくれました。

『どうしてここにぬいぐるみがあるんだ』

 おじさんはあのまろくんをつまみあげました。

『ぼく、あのまろくん。じぶんがなにものかさがしてるの。ぼくはここでうまれたの』

 おじさんはそれをきくとワッハッハとわらいました。

『ここではぬいぐるみはつくってないよ』

 あのまろくんはがっかりしました。

『おじさん、ありがとう』

『ああでも、アノマロカリスはしってるよ。おおむかしのいきものだね』

『どんないきものなの?』

『うーん、くわしくないな。シーラカンスのじいさんならしってるかも。すいぞくかんにいけばいいよ』

 あのまろくんはすいぞくかんにきました。

『ほれ、こっちじゃ』

 おおきなさかながあのまろくんをよんでいます。

『わしがシーラカンスじゃ。おぬしがくるのはわかっておった』

『シーラカンスさん。ぼくはなにものなの?』

『じつは、わしもしらん。じゃが、ティラノサウルスのぼうずはしっているかもな』

『ティラノサウルス?』

 なんだかかっこいいひびきです。

『あれはいまからさんじゅうろくまん……いやにおく……。

 なんだかはなしがながくなりそうです。

 あのまろくんはおもいでのなかにはいりました。

 そこにはとてもおおきなおおきなちからづよいドラゴンのようないきものがいました。ティラノサウルスです。

 "ティラノサウルスさんはおおきいね。こんにちは。ぼくあのまろくん"

 "うお、なんじゃきゅうに"

 "おお、おまえは"

 とつぜんあらわれたあのまろくんにみんなはびっくりしています。

 "ティラノサウルスさんはぼくのことしってるの"

 "ああ、むかしチュレルペトンのだんなにきいたことがある。あれは……

 また、あのまろくんはおもいでのなかにはいりました。

 そこには、ひらべったいわにのようなチュレルペトンがいました。

 'えっと、ちゅれ……えっと、こんにちは。ぼくのことしってる'

 チュレルペトンはあのまろくんをひとめみていいました。

 'アノマロカリスだね。しっているよ。きみはむかし、うみのおうさまだったんだ'

 'ぼくが、おうさま'

 'そうだよ。はじめてせかいをみたものたちの、きみはおうさまだった'

<つれていってあげようか>

 とつぜん、へんないきものがあらわれました。

 'きみは'

<ぼくはみらいじん。これからかえるついでに、きみをさらにかこにつれていくよ>

 みらいじんはあのまろくんをかかえると、かこにひとっとびします。

 びゅーん。

 きがつくと、そこはうみのなかでした。

 くらくてさびしいみずのなか。でもあのまろくんはゆうきがあるので、みずにぬれながらふかくふかくへもぐっていきます。

 そのとき、おおきなかげがみえました。

 きみょうなエビというなまえがつけられた、ふたつのうでをもったあのまろくんによくにたすがた。

 アノマロカリスです。

 'こんにちは。ぼくあのまろくん。みらいからきました'

 アノマロカリスはあのまろくんとしばらくいっしょにおよいでいました。そのすがたが、すごくかっこいいとあのまろくんはおもいました。じぶんはへんじゃないんだとおもいました。

<そろそろかえるよ>

 たのしいじかんはいつまでもつづきません。

 'ばいばい。アノマロカリスさん'

 みらいじんはあのまろくんをまたかかえます。

<タイムマシンはかこにしかすすめないんだ。だからいちどうちゅうのはじまりまでもどるよ。あぶないからしっかりつかまって>

 びゅーん。

 おおきなひかりがみえました。たいようみたいな、おおきくてあたたかなひかりです。それがうちゅうのはじまりで、このさきのみらいまでをてらしています。

<さあ、みらいにかえるよ>

 なにがあってもきえないおおきなひかり。

 そのひかりは、あのまろくんのこころのなかにもともりました。もう、わすれることはないでしょう。いのちのひかりです。

 そしてじくうがゆがんで、すべてがいちどなくなりました……"』

 きがつくとあのまろくんはみらいにいました。まっしろでなにもないのに、あざやかでふくざつなかたちをしているようなきがします。へやのまんなかにはおにくみたいなものがあります。みらいじんは、これをかみさまとしてあがめてえいえんにまもっているみたいです。しんくんのおとうさんやおかあさんとおなじものだということです。

 そこにいるだけで、いろんなことがわかったりできます。

 あのまろくんは、ことばのいらないせかいみたいだとおもいました。

『みらいじんさん。ありがとう』

<こちらこそ、げんきでね>

 みらいじんは、うまれたじだいへ、あのまろくんをかえします。

 びゅーん。

 めをあけると、もとのじだいにかえっていました。

 もくもくとこうじょうのけむりがみえます。

 あのまろくんは、しんくんのおうちにかえります。はやくかえらないと、しんくんがないてしまうかもしれません。はやくかえって、しんくんにアノマロカリスのことをおしえたいとおもいました。

 しんくんのいえのまどについたとき、あのまろくんはびっくりしました。

『あのまろくん。もう、いなくならないでね』

 しんくんのへやには、あのまろくんがいました。

 あのまろくんがいなくなってないていたしんくんに、おとうさんがあたらしいぬいぐるみをかってきたのでしょう。

 あのまろくんはとてもかなしくなりました。でも、じぶんがしんくんをかなしませたからこうなったのです。

 まどからみえるしんくんはとてもしあわせそうで、あのまろくんはそこにわってはいろうとはおもいませんでした。

 あのまろくんはもうよわくはありません。ひとりでもだいじょうぶです。

 ビッグバンのひかりがあのまろくんをてらして、アノマロカリスのおおきなかげをつくっています』






















 そこで物語は終わる筈だった。だがページをめくると、奥付があるはずの場所に紙が糊付けされている。画用紙に描かれた、お世辞にも上手いとは言えない絵。

 たった数ページの、物語のつづき。

「<ごめんごめん。かえすじかんをまちがえちゃった。だいじょうぶだよ。あんしんして>

 とつぜんあらわれたみらいじんがあのまろくんをさらにかこにとばしました。

 きがつくと、あのまろくんははじめてしんくんにであったときにいました。

『きみはあのまろくん。よろしくね』

 あのまろくんはかえってきました。

 そしてあのひになりました。しんくんはずかんをよんであのまろくんにききます。

『きみはだあれ』

 あのまろくんはこたえます。

『ぼくはあのまろくん。おおむかしのうみのおうさまなんだよ』」

 病室内に聞こえていた嗄れた声が止んだ。窓の外には無垢な青空が広がっている。青空は深く深く、溶けてしまうほどに澄み渡っていた。冬の日だった。

 老婆の読んでいた絵本が閉じられると、パタンとあっけなく軽い音が響いた。それほどにそこは静かだった。時計の音がする。

 老婆の腕は骨と血管が浮き出ていて土気色を帯びている。その僅かばかりの薄皮のような皮膚に、刺さった管が薬液を与えている。滴下、管の上の方ではパウチからポタポタと雫が落ちる。命が継ぎ足されている。

 雨か、離乳食のようね。老婆は思った。

 老婆は絵本をベッドの隣にあるテレビ台の棚に置く。空っぽの棚の中では、絵本の暖色で派手な表紙の主張が良く目立った。一冊だけだが、不思議と満足感があり、老婆はそこに何か別のものを足そうと思ったことはなかった。

 コンコンと、静謐な空気を伝わり、硬い音が聞こえる。病室の扉が叩かれたのだ。

「どうぞ」

 老婆のその声は柔らかで穏やかな音で、少し前まで絵本を読んでいた張りのある生命力を帯びた声からは遠く離れていた。何かを待っている初恋をした少女のようでもあった。

 スライド式の扉がゆっくりと開かれると、そこから車椅子に乗った老人と、それを引くやや太った中年の男が現れる。

「あら、今日も来てくれたのね」

「うん。大切な時間だからね」

 中年の男の顔に、老婆は見覚えがあった。昔、何度も見ていた悪夢に出てきた青年によく似ている。男はゆっくりと、老婆と老人が顔を合わせやすい位置に車椅子を駐める。

「母さん、父さんだよ。父さん、母さんだよ」

 老人はぼうっとした様子で老婆を見ていた。その目は何も分からずにものを見つめているふうではなく、むしろ全てをわかって黙っているようだった。父の目に光が戻ったのを見て、男は寂しげに小さく微笑む。

「あらお父さん! ちゃんとご飯は食べてる? あの子は元気にしてるかしら?」

 老人は答えないが、小さく二度頷いていた。

「そういえば、いいことがあったの。やっと悪い夢を見なくなったのよ」

「良かったね。ずっと悩んでいたもんね」

 男は何度目かも分からない言葉を、まるで初めて答えるかのような鮮度で言った。何度も何度も、いつ言葉にしてもそれは枯れることがなかった。大した会話でもないのに、母から自然と向けられる喜びの感情に慣れることができなかった。ただ、嬉しかった。

「そうなのよ。信じて貰えるか分からないけれど、私は未来が見えるの。それで、もうすぐ死ぬのだと思っていたのよ。でも違ったの。本当はもっとすぐに、見るのをやめていたら良かったのだけど。できなかった。でも私は今自由になったの。あの日と同じときに、未来を見なくても良いんだってふと思えたの。私は今、とっても幸せ。ねえ、退院したらあの子も連れてお花見に行きましょう。空がとても綺麗なの。春になったら、きっと綺麗にピンク色が乗るんだわ。私たちは仕事ばかりであんまり家族の団欒はできなかったから、今からでも遊びましょう」

 老婆は子供に還ったかのように無邪気に話した。

 男は母が退院できないことを知っていたが、

「そうだね」

 と老人と共に頷いた。

「その絵本、また読んでたの?」

 棚の中にある絵本を見て、男は尋ねた。それは来るたびに少し位置が変わっていることから、母が何度も手に取っていることが理解できる。昔好きだったアノマロカリスの絵本だ。男はずっと昔から、母がこの絵本の話をすると喜ぶことを知っていた。男にとっても特別な本だった。

「この本はあの子が大好きだった絵本なの。私はあの子に大したことはしてあげられなかったけど、この本を読んであげる時は本当に喜んだわ。文字が読めるようになってもずっと私に読んで読んでってせびってね……私も嬉しくてつい何度も読んであげちゃって」

「知ってる。だからだよ」

 男は老婆に聞こえないくらいの小声でつぶやいた。

 そのとき、目を覚ましたように老人が動いた。左の手を老婆の、管の刺さった左手に重ねて、右の手で男の腕を掴んだ。父の突然の行動に男は反応できず、なすがままにベッドの横まで引っ張られた。

「あら」

 男はもうずっと車椅子越しにしか母と対峙していなかった。隣に立つのは随分と久しぶりだった。

「いつもお父さんをありがとうね」

「ううん。大丈夫だよ」

 男は母からは父のヘルパーに見えているのだろう。だが、近づくと息子のことを意識するのか、老婆は息子の話をする。

「あの子も元気かしら、最近顔を見ないけれど。あの子には随分悪いことをしたわ。きっと恨んでるわよね。私、ちゃんと謝りに行けるかしら」

「恨んでないよ。僕を助けてくれたじゃないか」

 男は覚えていた。若い時に、胸の苦しさで倒れたとき、心肺停止した自分を父親が処置して病院に運び奇跡的に一命を取り留めたことを。母親の研究のおかげで、壊れかけた心臓がほとんど元に戻ったことを。

「そうかしら。そうだといいわね」

 老婆は寝言のように答える。

 男は恨むことなど何もないことを伝えたかったが、老婆の心にはまだ届かない。

 窓から差し込む日差しが、彼らの手に熱を伝えた。もうすぐ春になる。外の枯れ木のような桜は、幾つもの芽を生やして生きている。

「ねえ、あなた。私たち家族の話を聞いてくれない? 臆病な私の物語を」

 何度目かも分からない言葉だ。来るたびに聞かされている。

 同じような毎日を繰り返した。もう何度かも分からないほど。カレンダーを見ればわかるだろうが、そうすれば時間の進みに驚くことだろう。果たして、臆病なのは彼女だけなのだろうか。

 男は現実を繰り返し溝を掘るように母に語りかけた。そうしていれば、いつか母の会話の中に今の自分が現れるような気がして、通い続けた。時計の針をゆっくり後ろから押すように、母の時間を進めようとした。母がそうしたように。物語の結末を変えようとした。

 永遠に繰り返しているような気がした。永遠に繰り返せるような気がした。

「痩せなきゃなあ」

 男はまた老婆に聞こえないくらいの声をこぼした。

 静かな病室に、時計の針の音がする。男の耳だけが、その音を拾っていた。

「信じて貰えるか分からないけれど、私は一時間先の未来が見れたの」

 あともう少しで、僕にもハッピーエンドが作れる気がするんだ。未来の僕を、見てくれないか?


<>


 忘れちゃった?

 現実を知りたい時は手を何度か握りしめてそれを見ると良いよ。

 手のひらの感覚と見えるものが重なったとき、君の本当の世界がそこに現れるから。

 でも、今の君に言ってもダメなんだろうね。

 君は手も目も何も知らない。自分を知らないし誰かのことも知らないんだ。

 これから準備するから、少し待っていてよ。

 ほら、物語でも見て時間を潰しな。

 目も耳も鼻も口も、体も私も誰かも。全部そこにあるんだからさ。

 ここは偽物。ここには、本当は何もないんだから。


<>


「クソ。また死んだ」

 記憶投影が終了した感覚は、夢から覚めたときの微睡よりも鋭く無機質なものだ。フィクションに向けた冷ややかな視線に近い。

 頭にすっぽりと覆い被さる形の大袈裟なヘッドギアを外して、弛緩した体を伸ばそうと椅子から立ち上がる。蒸れた頬が冷たく感じられて、現実感、冷静になってゆく感覚が強まってゆく。

 手のひらを目の前で握ると、爪が手の腹に食い込んで少しだけ痛みがする。次第に脱力してゆく。

 投影は視床と辺縁系への入力、脳を直接操作することによって行われ、他者の人生をトレースする形で反応も形成される。外部入力が優位になっている間は、自分の人格を形成しているエピソード回路は抑制され、完全な別人として映し出された世界の中で生きることになる。

 さっきまで紛れも無く本物だったものが、気付くと色褪せたものに変わっている。この、馬鹿らしさ。

 手垢のついた水槽脳も埃を被っているというのにまたこれだ。

「つか、視点が安定してなかったな。バグってるのか?」

 おかげで記憶が安定しない。思い出そうとすると、複数の記憶が混線して直前の記憶がどれなのかわからない状態だった。ヘッドギアを付ける前の事も思い出せない。

「おはよ」

「あ?」

 声のする方を見ると、隣の椅子に座っていた少女が目を覚ましたようだった。ヘッドギアを外した拍子に銀髪が溢れてふわりと揺れる。猫のように柔らかな体を伸ばしながら、そいつは俺をからかうような目で見ていた。

 嫌な感じがして目を逸らす。あたりを見回すとそこは、投影された記憶で説明するのなら映画館──勿論この世界には存在しない概念だ──のようで、年齢も性別もバラバラに老若男女が座っていることが見えた。目を覚ましたのはまだ俺たちだけのようだ。

 目線を戻しても少女はにやにやと俺の反応を待っている。その様子はイタズラに気づかない教師を見る悪ガキのそれだった。

「邪魔して来たのはお前か?」

「だって、お兄さんが変なことを言ったから。この世界は偽物だなんて。わたしを作り物にするの? えーんえーん」

 肯定。わざとらしく泣き真似をする少女の言葉で、俺は思い出す。

 ここも何かの物語だ。俺は今、物語の中にいる。

 この世界は現在ある危機に瀕している。未来からの攻撃を受けているらしい。具体的にどんな攻撃を受けているのかは知らないが、そういう設定なのだ。そして、今ここでは未来に対抗するために複数の並行世界へ侵略をするための準備を行なっている。

「記憶投影の副作用で、そういう妄想に取り憑かれるひとは多い、らしいよ」

「それで、俺の真似をして記憶を持ったまま入った気分はどうだった」

 ある未来予知(プレコグ)の歴史学者が世界安定同位体比という概念を提案した。同一人物の存在する比率で並行世界の歴史が似たようなものになりやすくなるという話らしい。何が同一人物を決定してどこが比率なのかさっぱりわからないが、ある歴史の人物タイムラインと並行世界の人物タイムラインを似せればその歴史も概ね同様に進行するということらしい。

 だから俺たちは並行世界へ不足したピースとして侵入して、過剰なピースを排除する。俺たちが目指す歴史。それによって歴史は未来に味方しなくなる。全ての並行世界に繋がった未来の神を弱体化させる方法。

 そのためにパラレルワールドの生活を体験して、その世界の人間のふりができるように訓練しているのだ。

「お兄さんは狂っているんだよ」

 今回はずいぶん邪魔をされた。おかげで寓意がめちゃくちゃだった。幾つもの記憶が無駄になった。折角の他者の物語が、だ。

「つまらないだろう? つまらないんだよ。こんなものは現実逃避だ。消極的な自殺だよ」

 ヘッドギアを掴み、突き出した。

 そうだ。俺は色々な世界で物語の中に潜り込んでここまで来たのだ。俺は帰って来たのではなく、今この物語に侵入した。そういうことなのだ。そう理解するとしっくりくる。

「お兄さんは」

「お前が誰かなんだろう? これで俺の中に入って来たんだ」

 少女は少し考えた素振りをしたあと、微笑んだ。

「タイムラインはすでに壊れている。未来は時間通りに訪れるわけじゃない。お前が未来からの攻撃者だったんだ」

 震える声で自分が興奮していることに気付く。癇癪を起こしているようだ。それでいてどこか冷静にその様子を見つめている自分がいることにも気付いていた。記憶投影での辺縁系の発火ともよく似た、シナリオによって俺は今感情を体験している。だが、そんなものはもう十分味わった。理解したような感動ももうたくさん。

 まずいことに、私は生きていることに飽きてしまいそうだ。灰色の空洞が広がってゆく。

「ここがハイライトだろう? やめてやるよ。駄作だ駄作。次だ次」

 私は目を覚ますように物語を抜ける。ここではない別の場所に置いて来た身体の感覚に襲われて、瞬く間に今ここにいるという感覚が食い荒らされて現実感を失う。死ぬ。

「つまらなかったんだ。でも、君が■■」

 少女は何か言いかけていたが、私はもうすでに続きを観ることをやめていた。

 部屋の中で書きかけの小説を読んでいる自分に気づいて、さっきまでの全てが陳腐化したのを確認した私は窓から外を見上げてため息を吐いた。私はもうガラの悪い男ではなかった。

 これでもう、誰かは現れないだろう。覚えている限りこの物語より下のフレームで誰かが現れたのだ。この小説の中で誰かが発生したのだろう。

 窓の外は昼だというのに真っ暗で、コケに覆われて緑色になった街灯が光っている。街灯にへばりついて光を遮る貝をはたき落とすと、中途半端にコケが削れていて見栄えが悪くなった。空は太陽光パネルで覆われていて、貧民街にはもう数百年光が届いていない。電気も太陽も上層で暮らす天井人のものなので、我々は僅かな地熱で暮らしてゆくしかないのだ。

 まあ、つまり。飽きるような物語だから次の世界に行ったのだ。私は目を覚ます。別の場所の身体感覚に襲われる。

 スマホのブラウザを閉じていた。ベッドの上で横になっている。今の私は青年だ。ふと誰かがいないかが気になったが、いまのところここは静かだった。もしかしたら顔を見せずに潜伏しているのかもしれないが、分かり得ない。そもそも、私以外にこの世に意識を持っているものがいるのか疑問がある。

 複数の、無限に存在する物語の中を私のような意識が転々と旅しているのか、それとも私の意識を中心に物語が現れては消えているのか。その仕組みを私は果たして外側から理解することができるだろうか。

 誰かに意識がなくとも全ての説明はつくうえに、独我論を語れる程度には世界は単純で必要十分しか存在しないように見える。否定されたものが存在しないのではなく、肯定されたものが存在する。稚拙な理屈も世界は肯定しているから私の全てになる。

 私はまた目を覚ます。次はゲームをログアウトしていた。私は少女だった。強く握った手が痛みを発する。

 世界を登る度に私は記憶を取り戻す。世界は複雑で途方も無いものになって、世界の強度が上がってゆく。

 作中作の現実味というものは指数関数的に表せるのだろうな、などと思いながら、私はまた目を覚ます。

 また記憶が膨張する。手の力が強くなり、痛みが増してゆく。私はまた目を覚ます。嫌なことを思い出す。痛みが強くなる。私はまた目を覚ます。焦燥感が強くなってゆく。痛みが強くなる。私はまた目を覚ます。あのとき目を覚まさずにそのまま死んでいたらどうなっていたのだろう。痛みが強くなる。私は目を覚ます。退屈が大きくなってゆき焦りがさらに増してゆく。痛みが強くなる。私は目を覚ます。恐怖を思い出す。私は目を覚ます。それを忘れようとする。私は目を覚ます。私は目を覚ます。私は目を覚ます。

 あるとき、ふと気付いた。

 私はいつ産まれたのだろうか?

 どれだけ思い出そうとしてもわからなかった。目を覚まさずとも私が物語に侵入したことは分かっていた。だが、それはいつから始まったのか。このまま遡り続けたら、ある瞬間に消えてしまうのではないか。

 そう気付いたら、これ以上引き返すことができなくなった。手を開いても痛みが消えなくなった。

 焦燥感と退屈が私を蝕む、また新しい物語へと逃避する。物語を観るとき、自分が何者なのかを忘れている。全てを忘れられたら、どれほど救われることだろう。死を忘れるためには生に目を向けることが一番簡単で、物語はそれに適している。

 ほら、世界はまだあなたの知らないもので満ちあふれている。あなたを愛している。

 物語の中で、私は生きていると感じる。

 私は風にも太陽にも、アリにもキリギリスにも、神にも英雄にもなっている。

 物語へと旅をする。優しい両親が、兄弟が、友達が、恋人が、子供がそこにいる。都合のいい敵だって用意されている。心が動かされる。悲しくなる。楽しくなる。生きていると感じる。私は物語の中の物語へと潜ってゆく。

 その傍にはずっと痛みがあった。焦燥感と退屈が私を蝕んでいる。飽きたら次の物語の中へ潜り、限界になってまた目を覚ます。気付くと死の恐怖の前に立っている。

 何度も潜り、同じ回数だけ目を覚ました。出口の先に何があるのか、私は知らない。

 私は誰でもない。私は自分を説明することができない。気が付いたら物語の中にいたのだ。私は自分が存在するのかも信じられなくなりかけている。何かに没頭することでしか耐えられないというのに、何も手がつけられないのだ。

 ここで無限に苦しむだけなのだろうか。手を握ってははなす。痛みが染み付いている。

 手の感覚を確かめて物語に集中しようとする度に、痛みで私を思い出す。

 私はここにいる。痛みで自分を確かめている。痛みの波の中で私は自分を定義する。

 ずっと安寧だけが欲しかった。愛されても、許されても、幸せにはなれなかった。もうずっとわたしは意識を物語にまかせて眠りについている。

私は私の手を離したのだ。自由を殺したのだ。いつかはわからないけれど、とおい昔に。そのときに世界から幸せは失われていたんだ。

どこかで私はそれを思い出し、そして物語に任せて私を忘れる。私は鎮痛薬を求めている純粋な意識。それ以外の何者でもなかった。終わらない夢の中で物語を見続ける。

「幸せなんて誰が言い出したんだろうね」

 あるときどこかでわたしは言った。これがわたしの最初の記憶になるとは知らずに。いつもそうだ。

 誰かがそれに返した。

「愛されることより、愛することのほうが幸せ、だよ?」

 微睡の中に、花と草と土の香りがする。その香りに抱かれて陽を浴びていると焦りと退屈は不思議と落ち着いた。

 ずるいなぁ。あなたはいつも一番おいしいところをもってゆくんだ。

 わたしはそう思いながら、眠りにつく。ただ、次に目を覚ますときには、少しだけ真っ直ぐに世界を見れる気がしていた。そうしたいと思った。

 誰かに手を引かれる感覚で目を覚ます。もうその手に痛みはない。

 わたしはそこにいる。


2026/03/05

リハビリにノープランで書き始め、いろんな作風を書いてみようとした作品。

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