おきもの
薄暗い冷たいところにいた。
俺は喋ったつもりだったが、言葉は発せられず、泡になった。
俺は悟った。
ここは水の中だ、と。
小さな魚が、群れをなして俺に向かってくる。
これはドクターフィッシュだろうか
その前に息、息をしなければ……
俺はもがいた。
手足を描いて、水上を目指す。
だが、全く手応えがない。
息は苦しくなるばかりだった。
『……いちゃん』
どこからか声が聞こえてきた。
自分が答えようとすると、泡になってしまう。
『……にいちゃん』
妹の声だ。
「ひろこ」
「起きて、駅に着いたよ」
急に周囲は明るくなった。
新幹線の車内。
水の中だと思ったのは…… 夢だろう。俺も、妹の寝顔を見ながら寝てしまったのだ。
妹についていくと、ホテルについた。
「村にいくのは?」
「全然予定分かってないんだっけ? 村にいくのは明日よ」
少なくとも今日は話が終わらないのか。
明日が勤務な訳ではないが、俺は勤め先の上司にメールを入れておいた。
部屋に入ると、妹の話を聞いていく中で、妙な緊張があったのか着替えもせず、そのまま寝ていた。
ようやく、夜中過ぎに起きて、俺はシャワーを浴びた。
髪を乾かし支度をしてベッドに入ろうとすると、スマホにメールが届いた。
開くと、それは上司からの返信だった。
『勤務日に来れなかったら欠勤にするぞ』
さすがブラック企業、と俺は思った。
有給休暇はまだ使い切っていないし、勤務状況だって悪くない。
一日二日休んだって問題ないはずだ。
こっちに非はないのに……
俺はとても憂鬱な気分で、眠りに入った。
翌朝、ロビーで妹と会うと言われるままバスに乗った。
場所が場所なので、海沿いの村なのだと勝手に思っていたが、バスはどんどん山を上っていった。
小学校か中学校かわからないが、廃校の前でバスは止まると妹に引っ張られてバスを下りた。
「この道を入っていくっぽい」
「レンタカーできた方が良かったな」
「私が免許もってないから、そういう発想にならなかったよ」
俺たちが歩いていくと道の真ん中に、車が入らない為のバリケードが立っていた。
もしかしたら、この先は車が通れないのかもしれない。
レンタカーで来たとしても、ここから歩くなら同じだ。
道は上り、下りを何度か繰り返し、バスを下りた廃校がどこなのかもわからなくなっていた。
用意していた飲み物が尽きた頃、ようやく見える景色の中に村らしき斜面が見えた。
「あそこか?」
「……」
「どうした」
妹はスマホを持った手を上にあげたり、横に伸ばしてみたりしている。
俺も自分のスマホを取り出してみた。
「俺のも圏外だ」
「地図、ダウンロードしておけば良かった」
「けど、途中に分かれ道はなかったし、入ったところを間違えなければあれが『水野原村』だろう」
妹は、少し休憩しようと言い、日陰にある朽木に腰掛けた。
火流矢さんや俺たちの名前を言わず、探しに来たとも言わずに村に入ろうという。
「探しに来たと言わないと、いつまで経っても見つからないんじゃない?」
「来るなって、強く言われてたのに来ちゃったから」
「名前、なんていうかぐらい言っておこうか? 例えば…… 佐藤? 佐藤にする?」
妹は頷いた。
「お兄ちゃんが佐藤基樹で、私が佐藤ひろこ。ここから住山の名前を使うの禁止ね」
「ああ、分かった」
俺たちは、再び歩き出した。
しばらく進み、村が近づいてきた時だった。
俺は道の横に桃を割ったような形の『石祠』が置いてあった。
土に埋まっている分は分からないが、地面に出ている部分は膝下ほどある。
「えっ!?」
最初に気づいたのは数個だったが、奥に連なるように多数の石祠がある。
「佐藤さん!?」
妹が何を言っているのか分からなかった。
「お兄ちゃん、佐藤さんって呼んだんだから、振り向かないと」
「あ? ああ、そうだったな」
「何を見つけた……」
俺の横にきてその石祠を見た妹は、絶句した。
俺は説明するように言った。
「何か、誰かに向けているという訳でもなさそうだ。ただ雑に置いてあるような感じだ。整然とおいてあっても、それはそれで気持ち悪かっただろう」
そう言って俺は妹の顔を見た。
ひどく表情が引き攣っていた。
何か、思い当たることでもあるのだろうか。
俺の視線に気づくと、妹は道の先を指差した。
「早く行きましょう」
俺は『何か知っているのか』という言葉が言えなかった。
さらに歩いていくと、ようやく一軒の家の前にでた。
何世代か前の建物だ。
どの建物も瓦の屋根で、太平洋戦争前の昭和の家に見えた。
家は、この道沿いに数軒と、途中で山側に分岐する道を上がっていく道沿いに、また数軒と言った風に家が建っていた。
数えはしなかったが、合計しても十数件といったところだろうか。
もう、昼はだいぶ過ぎていた。
妹は一番近くにある家に近づいていった。
「どうするんだ」
「道を聞くの」
「……待て、俺が」
扉に近づくと、扉の端にある呼び鈴に手を伸ばした。
呼び鈴を鳴らす寸前、俺は足元に伸びてきた影に気づき、振り返った。
「何か御用ですか」
声に驚いて、よく見るとそこには妹と同じくらいの若い女性が立っていた。
女性は和服を着て、髪をアップにしている。
妹と同じくらいと判断したのは、顔や手、首元など見える部分の肌の張りツヤや、姿勢から受ける印象だった。
だが声はまるで八十を超えた老婆のような声で、そこに驚いたのだ。
微笑んでいる女性に、俺は言った。
「えっと、あの…… 道に迷ってしまって」
女性は急に表情を変えた。
「ここまで来て、道に迷ったと申しますか?」
声も、話すテンポからも若々しさは感じられない。
俺がビビっていると、妹が言った。
「兄の友人の火流矢さんのお家を探しているのです」
女性は『火流矢』を聞いた瞬間に、表情が変わった気がした。
何か考えたふうに少し間をとった後、言った。
「……さあ。この村は『水野原村』です。この村に火流矢という姓の方がいた記憶はありませんが」
「そんな」
妹はショックを受けて両手を胸の前で合わせた。
俺は言う。
「いや、けど村の名前は間違いないんです」
「……はて。まあ、けれど、私も知らないことがあるやもしれませんしな。わざわざここまでいらしたんじゃ。しばらくの間だけでも、その方が訪ねてきた家を探してみますかな」
「……ご協力いただけるんですか?」
女性は頷いた。
「全部の家を回るのは無理じゃが、少しはお手伝いできるじゃろ。ついてきなされ」
背を向けた女性の後ろについて、俺たちは歩き始めた。
次の家の前に着いた。
家は、遠くから見た時と同じように、最初の家と同じ年代に建てられた家のようだった。古い、戦前の建物に見える。
女性は何も呼びかけもせず、家の中に入って行ってしまった。
俺は戸惑う妹に待っているように手で指示し、女性に続いて家に上がった。
「あなたの家はこちらだったんですね」
「いえ、ここはしず子の家ですよ」
そう言いながら、彼女は家の中をキョロキョロ探し回っている。
「ご親戚の方とか?」
「まあ、親戚みたいなものじゃが……」
言動がとても怪しい。
俺は急に不安になった。
「あの、勝手に上がり込んでいいんですか?」
「……あなたのために協力しているんじゃろ?」
「いや、無断で他人の家に上がり込むのは問題がありますよね」
畳を擦っていた音がやみ、彼女は振り返った。
「わしのやり方に口を出すんかね」
「他人の家はマズイです」
女性は両手で『どん』と俺の胸を突いてきた。
「なら、早よ出んか」
俺は急いで玄関に戻り、家の外に出た。
妹が、急に俺の背中にくっついてきた。
彼女も家を出ると、引き戸を閉めた。
「しず子さん! しず子さん」
まるで今までしてきたことが無かったかのように、そう呼びかけた。
静かなこの村では、その声は村中に響いたように感じた。
家の前で待っていると、足音が聞こえてきた。
「かなこさん、そんな大きな声で叫ばなくても聞こえるよ」
俺たちの後ろから声が聞こえてきた。
振り返ると、やはり肌艶のいい和服を着た女性が立っていた。
しず子さんと思われる女性は、かなこさんとは違って少し丸顔だったが、背は高く痩せて見える。
「ねぇ!」
そう言って妹が俺の腕をつついてきた。
妹が家の前にあるものを指し示した。
「えっ……」
ここに来る道の途中で見た置物があった。
道端に無造作においてあったものと大きさは同じだったが、家の前で見るとかなり大きく感じる。家の周囲に奥にはかなり邪魔だと感じた。
なんだろう、わざわざここに置く意味はなんだ。
それと、妹がこれを怖がる意味が分からなかった。
村で最初に出会った『かなこ』と呼ばれている女性が、近づいてきた。
「……えっと、火流矢さんをお探しのお方」
かなこさんの後ろには、しず子さんが立っている。
「佐藤です」
「佐藤さん。あなたたちは上の本家に行った方がいい。村中を探し回るより早いはず」
後ろからしず子さんが言う。
「そうです。本家の指示なら、皆さん動いてくださるでしょう。訪ねて回ったら日が暮れてしまいます」
俺は言った。
「本家とは?」
かなこさんはニヤリと笑った。
「心配せずとも案内するから慌てるでない」