妹からの電話
俺は一人で水族館を訪れていた。
本当は二人でくる予定だったのだが、俺があまりに仕事優先だったために、この日を迎えるまでに別れてしまったのだ。
そう。今日は先月から休日なく働いて、ようやく迎えた休日なのだ。
彼女と別れたのなら、ここにこないという選択肢もあったのだ。
それくらい体も心も疲れていた。
だが、それ以上に興味があって、やってみたかったことがあったのだ。
ようやく、その時がおとずれた。
「次の方、どうぞ」
俺は靴下を脱ぎ、パンツを捲って膝下を出していた。
促されるままにその場所に上がって、足を下ろした。
「うぉ!」
俺は小さい声だったが、思わず驚きの声をあげていた。
足が、スースーするような、こそばいような、独特の感覚があった。
ドクターフィッシュは、人数制限がかかっていて、なかなかやれなかった。
今日はようやくその念願が叶ったのだった。
「……」
急にガイドのお姉さんがやってきて、俺の足を覗き込んだ。
ものすごい数のドクターフィッシュが、俺の足に集まってきていた。
「あ、あの、これ何か異常なんでしょうか?」
「あっ、えっと、たまにいらっしゃいますよ(こんな数集まるの、私は見たことないですが……)」
「今、小さい声で何か言いましたよね?」
覗き込んでいたお姉さんは、そそくさと立ち上がって去ってしまった。
すぐにそんなことは忘れ、俺の角質に群がるドクターフィッシュを見て、癒されることに徹した。
隣に彼女がいることがベストだったが、致し方ない。
「時間です」
声がかかると、俺はゆっくりと足を引き上げた。
コーナーの端で靴下を履き直していると、スマホが鳴った。
嫌な予感がして、ゆっくりスマホの画面を確認した。
「なんだ、ひろこ」
ひろこは、俺の妹だ。
「いきなり『なんだ』とは何よ。すぐにN潟に行く準備して」
「俺はな、今水族館で……」
「お兄ちゃんしか頼れる人いないの!」
長年共に暮らした兄妹であり、その声が必死に伝えようとする思いが伝わってきた。
「わかった、行くから。で、一体何があった」
「あってから話す」
この時、俺は会社のことを完全に忘れ、妹のことだけを考えていた。
すぐに水族館を出て、ひろこから送られてきた内容の通りに俺は行動した。
待ち合わせの場所に立っていると、人ごみを掻き分けるように妹が走ってきた。
「切符買った?」
俺は買っていた切符を見せた。
「よし、いこう」
俺は妹に言われるまま駅の改札を抜けて、ホームへと進んだ。
新幹線に乗り込むと、妹は堰を切ったように泣き出した。
「彼と連絡が取れないの」
俺はことの重大さを認識した。
「えっ? 来月結婚式じゃなかったか?」
それが、どうしてそんなことになったのか。
「それより彼の命が心配なの」
「N潟? N潟に何かあてがあるのか?」
「連絡が途絶える前、行くと言っていた村がN潟にあるの」
「警察には届けたの?」
妹は力なく頷いた。
俺はなんとなくわかった。
「届けてないでしょ?」
「だって、行方不明者届けを出しに行った時に、どんな関係ですかって言われた時『友人』って答えちゃって」
「婚約者なんだぞ。友人どころの関係じゃない。ちゃんと届けを出来る立場なんだ」
今ここで言ってもしかなたい。
俺はそこで話を切り替えた。
「火流矢さん、携帯にも出ないってことだよね」
「行った場所はわかっているの。だからそこに行けば、わかると思う。ただ……」
妹の雰囲気が突然変わった。
彼から『絶対に来るな』とくぎを刺されていたらしい。
「今まで見せたことがないくらい、強い口調で言ってくるの。何か危険なことがあるんだよ。だから、お兄ちゃんしか頼れる人がいないの」
彼の姿は思い出せなかったが、歯を食いしばったような強い決意を示す姿が、俺の脳裏に浮かんだ。
「危険な分は俺が引き受けるから」
「ありがとう」
新幹線の中で、妹は様々な情報を俺に伝えてきた。
覚えきれないこともいくつかあった。
妹は気が張っていたのか、そのまま寝てしまった。
俺も窓の外を見ながら寝てしまった。