なろうテンプレと商業主義が物語を腐らせた ~創作に失われた魂の在処~
私は、生粋の「なろうアンチ」だ。
その立場に何ら後ろめたさはないし、むしろ創作という営みを志す者として当然の立脚点だと考えている。
これから記す論述では、一人のなろうアンチの視線に立ち、いかに現代のなろう一強の創作界隈が、物語の腐敗を招いたかについて糾弾する。
まず前提として、昨今のアニメ・漫画・小説などの創作業界では、なろう系作品の大量流入によって、深刻な質的劣化を起こしている。
異世界転生、追放劇、チート無双、ハーレム構成――これら類型的なテンプレートの確立は、創作界隈でレベルの低い作家の参入を許し、数多くの「ゴミ」が生み出される原因となった。
だが一方で、それらの質的問題を抱える作品は、一部の信者からは異常なまでに称賛の的となっている。そしてそうしたなろう作品は数多くの信者を抱えていることを理由にメディアミックス化を果たし、その結果なろうに興味がない一般人からも「人気」を博している一大ジャンルだとみなされている。実際にそうしたなろう作品がアニメ化されると、「覇権!」「神作!」などとSNSで祭り上げられ、さもその作品が世間全般で認められた傑作だと共通認識をされる。しかしいざ視聴してみると、とても『作品』とすら呼べるような水準を満たしていないアニメがほとんどであり、それを批判した者が信者たちに反論され炎上するという事件はもはや風物詩と化している。
そのようになろうが特定の層からは絶賛される一方、なろうの低品質さをあげつらい、なろうの粗製乱造を疑問視する声は少なくない数見受けられる。
だがそうした主張は「少数のアンチの意見」だと黙殺され、なろう系は批判すら許されない市民権を得たコンテンツなのだと、暗黙の内に了解されている。しかし、私はその「世間が認めているのだからお前も受け入れろ」という同町圧力に対して、強烈な違和感と反発を覚えているのだ。
なろう系作品の大多数は、創作への誠実さも深みのあるテーマも存在しない。登場人物は記号的な役割を果たすだけの駒であり、物語は既存のRPG的世界観と展開の焼き直し。成長も葛藤も描かれず、読者に快楽を供給するための“願望充足装置”としてのみ存在している。
そこには創作に宿るはずの魂や情熱は一切込められていない。こうした作品群が『物語』を名乗ること自体が私にとって、創作文化への侮辱であるとすら感じるのだ。
さらに問題なのは、この創造性の欠片もない消耗品が商業主義によって正当化されているという事実だ。
制作費が安く済み、再生数が稼げ、マーケティングが容易。
だからこそテンプレに依存した企画が大量に通り、いつのクールでもアニメ枠が埋め尽くされる。
その結果、オリジナリティや表現的挑戦を重んじた誠実な作品は片隅に追いやられ、「売れないもの」として無価値の烙印を押される。
私はこの構造的な不公平と、その背後にある聴衆の浅はかな価値基準に対して、明確に「否」を突きつけたい。
単に「売れた」という具体的な尺度以外では、作品に対する明確な価値を見出さず、「売れなかったその他」として全て駄作だと切り捨てる風潮に、ひどく憤りを感じるのだ。
なろう信者がよく口にする「嫉妬乙w」という言葉もまた、批判への真正面からの向き合いを放棄したレッテル貼りに過ぎない。
私のようななろうアンチが憤るのは、単になろう作家が「商業的に成功した」から嫉妬しているのではない。
努力も思想も放棄した作品が、単に周りがそういっているから「高評価に値する」と扱われてしまう社会的認識にキレているのだ。
こうした現象に怒りを感じるのは、創作に魂や心血を注いだ者にとって、同じく受け手が魂を揺さぶられた作品にこそ、評価が与えられるべきだという願いが根底にあるからだ。単に大衆の需要に迎合して、顔色を窺いながら媚びへつらう者だけが評価の全てを掻っ攫う。そんな画一的な評価軸でしか作品の価値が計れないのだとしたら、ほとんどの創作がその存在意義を見失ってしまうだろう。
創作とは本来、創作者の拘りや情熱を注ぎ込む自己表現の場であるべきだ。
しかし現代においては、「テンプレの再配置だけでいい」「受ける要素だけ抽出すればいい」という効率重視の姿勢が過剰に正当化されており、むしろそれが今の創作活動のスタンダードだと見なされている。
こうした風潮が完全に主流となると、創作者が本来持つべき矜持も、創作に真剣に取り組む誠実さも、ただの独り善がりな自慰行為として切り捨てられる。もはや創作者自身のオリジナリティの追求は冷眼され、たとえ社会に挑戦するような作品を発表しても、たとえ芸術的に優れた作品を発表しても、世間が気に入らないというただ一点の理由により、そうした創作は世間で日の目を見る資格すら与えられないのだ。
大衆に迎合した商業至上主義の流れは、無自覚のうちに創作本来の意義を崩壊させる。そうしたなろう一強の体制が、どこまで潜在的な創作者の芽を潰してきたか計り知れない。
私は「なろうアンチ」として、今後もこの風潮に抗う姿勢を崩さない。
なろう的構造がやがて飽和と形骸化によって限界を迎え、誠実な物語が再び正当に評価される日を、私は創作者の一人として強く待ち望む。