命がけでキスする理由・5
驚いて彼の寝室に一歩足を踏み入れる。
「あの、何を……?」
ルナリアの疑問にジェレルが答える間もなく、作り付けの棚が壁ごと真横へ移動し始めた。棚があった場所は遮るものがなくなり、壁の向こう側の空間とつながった。
「えっ、私の寝室……!」
「知らなかったのか?」
「寝室が隣り合っているのは知っていましたけど……」
「君のほうからも開く」
「そうなんですね」
「不満そうだな」
「そんなことはないですよ」
「その格好のまま廊下を歩かせられないだろう」
ルナリアは驚いて自分の格好を確認する。
「でも入浴の後はいつもこういう格好で部屋に戻りますけど」
ジェレルの目つきが鋭くなる。
普段から目つきが悪いのに、睨むように見られると背筋が寒くなった。
身震いするのを見たジェレルはルナリアのそばに来て、背中に腕を回した。
「湯冷めするぞ。今日は疲れただろうから、もう休むといい」
半ば強引に背中を押され、ベッドの前に連れて来られたルナリアは、ジェレルの言葉に従って布団に潜り込んだ。
「向こうの部屋か?」
ルナリアがベッドに入ったのを見届けると、ジェレルは隣室へ向かう。
この状況で目を閉じて眠れるわけがない。慌ててベッドから這い出たルナリアは、ジェレルの後を追った。
「あー! その……ごめんなさい!!」
「これか?」
目ざとく壁に短剣が刺さった跡を見つけたジェレルは、その箇所を指で触れた。
ルナリアは思わず両手で顔を覆った。
「見事だな。角度が少しでもずれると刺さらない」
「それほど難しくはないです。大きな蜘蛛で、おまけに鈍足だったから、狙いやすかったですし」
おそるおそる目を出して答えると、ジェレルが笑いをかみ殺していた。
「どうして笑うんですか?」
「私の妻は勇敢だな、と思ってな。ためらわずに短剣を投げられるのは、自信があるということだ」
「自信は……あります」
「ほう。頼もしいな」
「あの……、これから変なことを言いますが、どうかお許しください」
笑顔を見せているジェレルに、ルナリアは真面目な顔で向き合う。
「私に剣の稽古をお許しください」
ジェレルの顔から笑みが消える。断られる覚悟はできていたが、妙にドキドキした。
急にジェレルがルナリアの前に歩み寄り、何も言わずにルナリアを軽々と抱き上げた。そして寝室へ戻り、ルナリアをベッドの上にそっと下ろす。
目を丸くしたルナリアがジェレルを見上げると、彼もベッドの上に腰を下ろした。
「ベッドの上でする話ではないが」
そう言ってジェレルはルナリアを見る。
「剣の稽古なら私が付き合おう」
「えっ、いいのですか!?」
てっきりダメだと言われると思っていたので、ルナリアは嬉しくて跳ね起きてしまう。
ジェレルが困った顔のまま笑う。
「ダメだと言っても、君は部屋の中で剣を振り回すだろう。無理をしてけがをされても困る」
「そんなこと、しません!」
「短剣を投げたくせに」
「それは緊急事態で仕方なかったのです。もしかしてジェレル様、私をおてんばだと思っているのですか?」
興奮気味に話すルナリアは、ついジェレルのほうへ身を乗り出していた。
ジェレルは顔を背けて笑い出す。
「どうして笑うのですか!?」
「君はまさか、自分を深窓の令嬢だと思っているのか?」
「もう、ジェレル様!」
軽口の応酬が楽しくて、ルナリアは自分がベッドの上にいることをすっかり忘れていた。
急に振り返ったジェレルがルナリアの両手首をつかみ、彼女のほうへ体重を移動した。ルナリアの視界はぐるりと回転し、背中が布団に着地する。と同時にジェレルの顔が自分の真上にあった。
「君は……私をなんだと思っている?」
手首をつかまれたまま、ベッドの上に縫い止められた体勢で、ルナリアはジェレルの顔を見上げている。彼女を見下ろす彼の顔は、陰になっているせいか暗くて表情が読めない。
急にルナリアの心は不安でいっぱいになる。
(どうしよう……)
ドクドクと鳴る胸の鼓動が痛い。
怒らせてしまった――?
何か失敗してしまった――?
頭の中がパニックで、彼に答えるべき言葉がでてこない。
ジェレルはルナリアの手首を握る手に力を加える。ギリギリと手首を締められていくうちに、足の先から重苦しい不快感が駆け上ってきた。
「ジェレル様……やめ……」
ジェレルがハッとして飛び退いた。
「すまない。怖がらせるつもりはなかった」
「……大丈夫です」
「悪ふざけが過ぎた。もうしないから安心しろ」
バツが悪いのか、ジェレルはルナリアを見ようとせずに彼の寝室へ戻っていった。
しばらくゴソゴソと着替えるような物音が聞こえてきたが、そのうち彼の気配が遠くなり、パタンとドアが閉まる。おそらくジェレルは居室から出て行ったのだろう。
ルナリアはジェレルの寝室につながる空間をぼんやりと見つめていた。それから急に恥ずかしくなって頭から布団をかぶる。
(突然のことで驚いただけよ。ジェレル様も悪ふざけとおっしゃっていたし。でも今日いろいろあって……そういえば、キ、キス……してしまったけど!?)
頬が発火したように熱くなった。
(もう、あんなに人目のあるところでいきなりキスするなんて、ジェレル様らしくないわ。でもあんなことでもなければ私にキスなどしないはず。そう考えるとジェレル様らしいとも言えるのかも)
思わず苦笑いしてしまう。
ジェレルとの結婚式は、ルナリアの両親のことはもちろん、ダーラウで多くの人が命を落としたこともあり、国王と王妃の前で誓いを交わしただけの簡素なものだった。誓いのキスはしていない。
密かに挙げた式に不満はなかった。ただ実感がないというのも事実だ。
(人前でキスしたら、この人が自分の夫だという実感は……確かに強く感じるものね)
否応なく記憶に刻まれるキスだった、と苦笑いを浮かべたまま思う。
(それに……嫌じゃなかった)
ルナリアの中でジェレルの存在が日に日に大きくなっている。それはもう認めないわけにはいかない事実だった。
(笑うと、とても優しい顔になるのね。知らなかった……)
普段は目つきが悪く無愛想なのに、笑うと目尻が下がって柔らかい印象になる。
そんな彼を知ってしまったら、せめて自分と一緒にいるときはいつも笑っていてほしいと思う。それがどんなに身の程知らずな願いだとわかっていても――。
王宮からそう遠くない山林の中にある山小屋へ馬を走らせたジェレルは、無言で馬をつなぐと茫然自失のまま山小屋のドアを開けた。
そんなジェレルを心配し、少し離れてついてきたティオも彼に続いて山小屋へ入る。
ドアが閉まった途端、ダンッと鈍い音が山小屋に響いた。
「あれは何の真似だ?」
ウェイロンがジェレルの胸倉をつかみ、勢いをつけて背中を壁に押しつけたのだ。
ジェレルはウェイロンを睨む。いつにも増して鬼気迫る鋭い目つきだが、ウェイロンのほうも怯む様子は一切ない。
「何のことだ?」
「なぜキスをした? お前、死ぬ気か?」
ウェイロンの言葉にティオは息を呑んだ。ウェイロンはトレヴァーの馬車を追いかけてきた一団の中にいて、ルナリアを巡るジェレルとトレヴァーの応酬を目撃していたのだ。
魔導士ユージーンもさすがに黙っている。
「プライドのせいか? それとも本気で取られたくないと思ったか?」
「ウェイロン、私を殴れ」
ジェレルの突飛な発言に、思わずウェイロンは彼の胸倉をつかむ手を緩めた。
「なん……だと?」
「いいから、そのまま何も聞かず、私を殴れ」
「できるわけないだろうが!」
ウェイロンは乱暴に手を離して、ジェレルから一番遠い席に腰かけた。
ジェレルが服の乱れを直して顔を上げると、ユージーンが声をかける。
「何があった? 本当は聞いてほしいんだろう?」
ジェレルはきまりが悪そうに伏し目がちのまま、定位置に座った。
ティオがジェレルの前にグラスと彼の好きなワインを置く。
「トレヴァー卿のことは以前から気に入らない男だと思っていました」
「……今夜はずいぶん素直だな」
面食らったようにユージーンがつぶやき、ティオは壁際で息をひそめている。
ウェイロンが「フン」と鼻を鳴らす。
「結局、トレヴァー卿に見せつけたかったんだな」
「そりゃそうさ。相手は自分のいない隙にかわいい妻を堂々と奪う気なんだ。ジェレルが黙っていられるわけがない」
「トレヴァー様は別邸でファンヌ嬢と一緒に暮らしているそうです。そこにルナリア様を連れていこうとしていたのだとしたら、あまりにも節操がなさすぎます」
汚らわしいものを見るときのような顔つきでティオが言う。
「まぁ、そんな男に『ジェレルは君を愛してなどいない』なんて言われたくないよな。わかる。わかるぞ、ジェレル。それで、いったい何をした? キスだけじゃ飽き足らず、ついに押し倒したか?」
ユージーンがこれ以上ないほどニヤニヤしながらジェレルに視線を送る。
途端にジェレルの頬が赤らんだ。
「えっ、殿下!?」
「おい、まさか……」
「……ウソだろ」
ジェレル以外の3人は口々に驚きの声を上げた。
「私は……決してそういうつもりではなかっ……」
「うん、まぁ、仕方ない。それで死ぬなら本望だな、ジェレル」
「師匠、違います! 私は決してそういうつもりでは……」
ユージーンに言い訳したところでどうなるわけでもないのだが、誤解されるたままでいるのもジェレルの気が済まない。
「不用意に近づきすぎたのです」
「ジェレルも男だったな。安心した」
「王妃様は泣いて喜びますよ」
「邪神を封じる前に殿下が天に召されないことを祈る」
ユージーン、ティオ、ウェイロンは、それぞれ慰めともつかぬ言葉をかける。
そこで急にユージーンが手を打った。
「邪神といえば、気になったことがある。ティンバレン大公家別邸の場所だが、あの奥はフォガムの森、古の地名は『永闇の樹海』だったな」
すぐに反応したのはウェイロンだった。
「魔導士様はフォガムの森に邪神が封じられているとお考えで?」
「神話には、邪神の復活が『奈落の祭壇』で行われると書かれていることが多い。このウィンスレイド王国内には人が近寄らない神域がいくつかあるが、フォガムの森以外は案外たやすく立ち入ることができると気がついたのさ。ダーラウの山林だって馬で入っていけた」
「確かにそうですね。神域の中でフォガムの森だけは異質です。樹海の中では方向感覚が狂い、『入った者は生きて出られない』と言われています」
ティオが同調すると、ウェイロンは迷惑そうな顔で私見を述べた。
「どうして神話には邪神を封じた場所を書いていないんだ。前回は300年くらい前なんだろう? 地図も書いておいてくれたら、邪神が完全復活する前にさっさと封じておしまいじゃないか。なんで肝心なことを記録しておかないんだ!?」
「毎回、詳細に記録する者はいたようだ。しかし、なぜかそれらの記述が消えてしまうらしい。王家の歴史の講義中に聞いた話だ。執拗に書き残すことにこだわると、その者は命を落とすらしい」
しばらく沈黙を守っていたジェレルが応じる。
ユージーンがため息交じりに補足した。
「都市伝説だと思いたいが、ウィンスレイド王家の歴史は光ばかりじゃなく影の部分が濃いのも確かだよ。文官が不慮の事故で亡くなることが多いのは偶然か? ……どうも陰謀のにおいがする」
「そういえば宮廷画家!」
ティオが急に叫んだ。
ウェイロンはきょとんとしたが、ジェレルとユージーンはハッとする。
「ジェレル、歴代の宮廷画家の名前を調べられるか?」
「……はい」
返事をするジェレルが一瞬ためらったのを魔導士ユージーンは見逃さなかった。しかしユージーンは鋭い目つきでジェレルを一瞥しただけで、賢しげに口をつぐみ、グラスに残る酒を静かにあおった。




