仄暗い夜の海に沈む真実・1
ルナリアの1日は講義や実習であっという間に終わる。
王太子妃修行という名目で代々の王太子妃はウィンスレイド王国の歴史、近隣諸国との外交や貿易などの座学から、ダンスの練習、芸術鑑賞、刺繍などの実習まで、興味のあるなしに関わらず、必ずこなさなくてはならないと定められている。
体調が優れないときは休むこともできるが、休んだからといってやらずに済むものではない。後々、国の母とも呼ばれる地位につくのだから、貴族社会でたしなみとされるものについてはひととおり習得しておくべきであり、それができない場合は王太子妃としての資質を問われることになる。
ルナリアにとって王太子妃という身分は降ってわいたようなものだったから、この修業が苦痛に感じられることもあった。特に芸術鑑賞や刺繍など、じっとしている必要のあるものは性分に合わないと彼女自身つくづく思う。
だが、幽閉生活を強いられているおかげで、幸か不幸かルナリアにも耐性がついてきた。どうせ剣を振り回すことも、馬で遠出をすることもできないのだから、この機会におしとやかにふるまうことを覚えるのも悪くはない。
それに両親の死を聞かされてからずっと、ルナリアの心は半分くらい麻痺したままだった。
何かを感じ、心を揺さぶられることが怖い。自分でも制御不能なほど、感情がたかぶったり、落ち込んだりしてしまいそうで――。
だからこの頃はただじっと座って、抜け殻のようにぼんやりしていることが多い。そうすれば意外とどんなことも無感情でやり過ごせる気がするのだ。
ウィンスレイド王国では昔から午後に1時間ほど休憩時間がある。王宮で働く者たちも、この時間は好きな飲み物を手にして寛げる時間だ。
ルナリアは王宮の中庭を通り抜け、商人たちに開放された一角へ足を運んだ。
少し離れた場所から商人たちの様子をうかがっていると、視界の片隅にこちらへ手を振る人物をとらえた。武器商人のウェイロンだ。
「王太子妃殿下がわざわざこちらへ出向いてくださるとは光栄です」
愛嬌のある笑顔で挨拶されると、ルナリアも悪い気はしない。むしろ心が浮き立つような感覚があり、なぜか少し後ろめたい気分になった。
ウェイロンは王都で流行のゆったりしたデザインの服装を好んで着ている。半年前ならルナリアも王都を自由に歩けたから、その頃が懐かしく思えた。額に布を巻き、そこからはみ出た明るい栗色の髪が、緩くウェーブを描きながら耳を覆うように垂れている。
軽い優男にしか見えないウェイロンだが、よく見ると衣服も革製品も上等なものを身につけていた。さすがは王宮ご用達の武器商人だ。
「今日の午前は神話についての講義だったのですが、ウェイロンさんなら神話や伝説のこともご存知かと思って……」
ルナリアは恥ずかしくなって苦笑いを浮かべた。
王太子妃が自国に伝わる神話をよく知らないと告白しているようなものだ。
だが、ウェイロンは頼もしげな笑みを浮かべると、商談用の椅子をルナリアに勧めた。
「神話というのは邪神と月の女神の話ですか?」
「ええ。わたくしもウィンスレイド王国で生まれ育ったので、幼い頃より神話を読んだり聞いたりする機会はありました。ですが、今日の講義では『紅の秘宝』について『月の女神の力を結晶させたもの』で、それは『婚姻前の女性に宿る』と説明を受け、ふと疑問がわいてきたのです」
「ほう」
「『紅の秘宝』は実在するのですか? 神話に出てくる架空の道具ではなく?」
ルナリアが率直に疑問を口にすると、ウェイロンは「うーん」と唸った。
「私自身が見たことのないものを『ある』と断言はできないのですが、邪神を封じるために必要なものとされていますから、ないと困りますね」
「では『婚姻前の女性に宿る』というのはどういうことですか?」
「どう……と言われましても、前回は300年も前のことですし、当時を知る人に話を聞くこともできません。なぜか『紅の秘宝』については詳しい記述が残されていないらしいので……」
ルナリアは肩を落とす。
それを見たウェイロンは慌てて「ああ、でも」と続けた。
「『紅の秘宝』は誰にでも見えるものではない、と言われていますね」
「実体がない、ということですか?」
「見える人もいるのだから、実体はあるのでは? 我々の目に見えなくても存在しているものは、この世にいくらでもありますからね」
「言われてみれば、確かに……。では月の女神の力とは、どのようなものなのでしょう? 魔法や魔術と同じでしょうか?」
つい質問に熱が入ってしまったことに気がついて、ルナリアは「すみません」とあやまった。
「ウェイロンさんがお話ししやすいので、つい……」
「王太子妃殿下にそう言っていただけて光栄です」
「あの、わたくしのことはルナリアと呼んでください」
「これはこれは、ありがたき幸せ。ではルナリア様、神の力は魔法や魔術とは異なるもの、と知り合いの魔導士から聞いたことがあります」
「そうなのですね」
ルナリアは神妙な表情で頷いた。
さすがは武器商人、顔が広くて物知りだ――と感心する一方で、自分ももっと見識を広げなければならないと感じた。
そろそろ休憩時間が終わるため、ウェイロンに礼を述べ、侍女のサラとともに自室へ戻った。
今日の王太子妃修行はすべて終了し、この後は特に予定がない。夜の食事までは昨日入手した恋愛小説を読んで過ごそうかと考えていた。
「ウェイロンさんって王宮で働く女の子たちの間で人気者みたいですね」
サラは無邪気に侍女や下働きの者たちのうわさ話を口にした。
気分が高揚していたルナリアは笑顔で応じる。
「それはそうでしょうね」
「聞いたところによると、王太子殿下と幼い頃からの親友だそうで……」
「そうなのね」
「何もかも正反対のような印象ですけど、殿下はウェイロンさんのことを誰よりも信頼されているようです」
外見だけなら軽薄そうに見えるが、ウェイロンは信頼のおける人間だとルナリアも感じた。
ジェレルとはまったくタイプが違うのに、彼と親友だと聞いても違和感はない。ふたりはどこか似た雰囲気がある。
「ところで明日は、弟君の……キ、キャーーーーーッ!!」
サラはルナリアのほうへ振り向きざまに悲鳴を上げた。サラの視線はルナリアを通り越し、窓の斜め上に釘付けになっている。
ルナリアは彼女の視線の先に巨大な蜘蛛をとらえた。体の部分が人間の頭より大きく、脚まで含めると視覚上さらに数倍のサイズに見える。これほど大きな蜘蛛が音も立てず、いつの間にか壁に張り付いていたのだから、サラが悲鳴を上げるのも無理もない。
しかしルナリアは顔色を変えず、瞬時に鏡台の上に置かれた短剣をつかむや否や、その蜘蛛へめがけて勢いよく放つ。
ズシャッと硬いものを切り裂く音とともに、ドスッと壁に短剣が突き刺さる。巨大な蜘蛛はたちまち白い煙に姿を変え、ルナリアが投げつけた短剣の先端は壁に埋まっていた。
「リ、リア様……!」
「サラ、大丈夫?」
「リア様、ど、どうなりましたか?」
サラは巨大な蜘蛛に恐れをなし、壁に背を向け、頭を抱えて床にうずくまっていた。
ルナリアはサラの前にしゃがみ込み、肩にそっと手を置く。
「もう大丈夫。あの蜘蛛、妖獣だったのね。消えてしまったわ」
「妖獣!? 王宮に妖獣が入り込んだのですか? 大変!! どうしましょう。ジェレル殿下がいないときにこんなことが起きるなんて!!」
そこにドアをノックする音が割り込んできた。
「王太子妃殿下、どうされましたか」
異変を察知した王宮護衛隊の警備兵がドアの外から声をかけてくる。
驚きと恐怖でパニック寸前のサラは、巨大蜘蛛がいた壁を振り返って、今度は腰を抜かした。
「あ、あの、壁に刺さっている短剣は、もしや、リア様のものでは?」
「そうよ」
「えっ、もしかして、リア様が退治なさったのですか?」
「運よく命中したみたい」
ルナリアにとってはそれほど難しいことではなかったが、通常短剣を投げるという使い方は想定されていない。だから苦笑しながら偶然当たったのだと説明した。
サラは信じられないものを見るような目でルナリアを見上げる。
再度、ドアがノックされた。
ルナリアはサラの肩を撫でてから立ち上がり、ドアのほうへ近づいた。少しだけドアを開くと、心配顔の警備兵に対し、申し訳なさそうに眉根を寄せてあやまった。
「うるさくしてごめんなさい。着替え中に大きな虫が出たので、驚いた侍女が大声を出してしまったの。もう退治したから大丈夫です」
「そうでしたか。お着替え中に大変失礼いたしました。何かあればなんなりとお申しつけください」
「ええ。ありがとう。頼りにしています」
ドアを閉めると、壁際に走り寄り、壁に刺さった短剣へ手を伸ばした。ルナリアの背丈より少し上だ。
勢いよく放ったので、短剣は思ったより深く壁に刺さり込んでいる。ルナリアは窓際に置いてあった椅子を移動し、座面に乗って短剣を壁から引き抜いた。
サラはますます小さくなって床に額をこすりつけている。
「申し訳ございません。リア様をお守りしなくてはならない私が、リア様に命を救っていただきました。ありがとうございます。ありがとうございます!」
「たいしたことではないから、もう立ってちょうだい。あと、ジェレル殿下には私からお話しするので、私が短剣を投げたことは内緒にしてほしいのだけど……」
「でもあんな化け物が出たのですよ。殿下にいち早くお知らせしなくてはいけません」
サラは使命感のためか勇ましく立ち上がった。直前まで怯えていたのが嘘のようだ。
口の軽いサラのことだから、内緒というのは難しいだろう。知られて困ることではないが、短剣を投げつけるのは行儀がいいとは言えない。むしろかなり野蛮な行為だとルナリア自身も認識している。
「ジェレル殿下はちょうどダーラウに到着した頃だわ。そこから戻ってくるとしたら早くても明日の夜。もう退治したのだし、伝令を頼むほどのことではないわ」
「いいえ。妖獣が王宮に入り込むなんてあってはならないことです。これでお知らせしなかったら、今度こそ私は処刑されてしまいます」
「今度こそ……?」
ルナリアがそう聞き返すと、サラの顔からサッと血の気が引いた。
「わ、私はそそっかしいので……いろいろと……その、大目に見ていただいたことがあって……」
「ねぇ、聞きたいことがあるの。正直に答えてほしい」
ルナリアの口調で逃げられないと察したサラは、恐縮し上目遣いで渋々頷いた。
その様子に心が痛むが、聞けるチャンスは今しかない、とルナリアは気を取り直す。




