3
翌日、ムカデが来る前に楓は椿油とつげ櫛を出してきた。
「せっかくだから、少し髪を飾って出迎えましょう。もちろん、昨日の口紅もつけて」
楓は縛っただけの髪を解き、椿油を手に馴染ませる。ざっくりと髪全体に油をつけて、ところどころ絡まっている髪を指先で解きながら櫛をかけていく。櫛をかけ終わると、着物の懐から簪を取り出した。
「うまく出来たと思うわ。触ってみて。ただしそっと。ごめんなさいね、ここって鏡がないの」
「そうなんですか? あそこの鏡台は?」
そう言って桔梗の刺繍のかけ布が掛けられた鏡台を指差す。
「あれ、今は使えないの。せっかくの美人さんも映らないわ」
「そうなんですね。あの素敵な刺繍って……」
そこまで言いかけたとき、ガラリと扉が開く。
入ってきたのは、ムカデだった。ドカドカと小娘に近づき、正面で胡坐をかく。
小娘は慌てて姿勢を正し、自分の中の愛想をかき集めて微笑んだ。
「お、おはようございます、ムカデ様。け、今朝も寒い、で、ございますね」
「字を書いたそうだな」
「は、はい。ぜひ見ていただきたく存じます」
こちらの言葉を遮るように言われ、小娘は戸惑いながら紙を探そうとした。それを嗜めるように、楓が三つ折りの紙の束を渡してくれる。
楓から受け取った紙を、頭を下げながらムカデに渡した。
ムカデに読まれている間、頭が上げられない。ほんの短い間が永遠のように感じられ、小娘はクラクラする。
やがて、ムカデは紙の束を床に置いて立ち上がった。初日の二の鉄は踏むまいと、俯いたまま叫ぶ。
「いかがでしたか! 私、一生懸命書いたんです! 今日のために髪も結ってもらいました! あなたのために頑張ったんです! なにかおっしゃってください!」
出て行こうとしたムカデは、振り返って笑う。それが小娘に向けられたものなのか、自分に向けられたものなのか、楓にはわからなかった。
「つぎは、繕い物腕でも見せてくれ。そうだな。そこの鏡の掛け布。その桔梗のように、花の一つでも縫えたら契りを交わしてやろう」
その言葉のあと、扉はピシャリと閉められた。
顔を上げた小娘はみるみる青ざめ、ぎこちなく楓を見た。
「楓さん、どうしよう。私、針仕事だけはダメなんです。どうしても、どうしてもうまくできないんです。まっすぐ縫うことだけでやっとなんです。それなのに、刺繍なんて、無理です……絶対無理」
一方、楓も同じように青ざめていた。
「契りを交わしてやろう」と、確かにムカデは言った。どうしてだか、そのことが異常なほど恐ろしい。
この子がムカデと結ばれるように。
この子が幸せになれるように。
そう願ったのは本当だ。
それなのに、自分の中でドロドロとした熱が渦巻いている。
「楓さん!」
我に返ると、ムカデの妻になる娘が泣き出しそうな顔をしている。絶望をにじませた瞳が、まっすぐこちらを見ている。それを見ると、庇護欲が醜い感情を押し流してくれた。
「心配しないで。針も糸も揃ってるから。落ち着いてやれば、難しくなんかないのよ」
「で、でも!」
「大丈夫。大丈夫だから」
「でも……」
「いいから、自分でも唱えてみなさいな。『大丈夫』って」
「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
震える声で何度か唱えると、不思議と小娘心は落ち着いてきた。大きく深呼吸をすると、両手を握りしめて顔を上げる。
「わかりました! 頑張ってみます!」
弾けたように笑う顔をみて、楓は胸を撫で下ろした。それと同時に、押さえ込んだ熱がまた再燃焼する。
渡したくない。
「すこし、水を汲んでくるわね……」
防寒着も身につけず、何も履かない足で外に出る。体が震えているのは、寒さなのか恐怖なのかわからなかった。
ふらふら歩いていくと、昨日のように、井戸の淵にムカデが座っていた。
その姿を見つけると愛おしくなり、おもわず手を伸ばす。
ムカデは立ち上がってその手を取り、楓を抱き寄せた。
「楓、愛しい我が妻よ」
「はい」
その名前を呼ばれると、頭がふわふわとした。
名前を捨て、顔を捨て、人ならざる者の妻となって。
彼が自分だけを見ていてくれていると思い、忌々しい家から逃げられると思い、誘われるがままに手を取った。それが呪いだとは思わず。
「お前は俺のものだ。お前は、永遠にそばにいてくれるな?」
「はい、もちろんです」
「契りを交わしたときも、お前はそう言った。それなのに、今さら別の娘を俺に押し付けようとする。これはどういうことだ?」
急に突き飛ばされ、楓は雪の上に転がった。服も髪も雪まみれになる。顔を上げると、ムカデが眉間に皺を寄せ、苦々しげに楓を睨んでいる。
ムカデの表情がひどい動悸を引き起こした。
今まで、彼に拒絶されたことはなかった。
どんなことも受け入れてくれたし、どんなにからかっても黙って許してくれた。
彼に嫌われたら、楓にはもう生きる理由がない。
その辛さに、楓はぎゅっと目を閉じた。
瞼の裏は、赤と黒の禍々しい景色が広がっていた。暗闇に血のような赤が侵食していく。チカチカと、ときどき明るくなる。
火と煙だ。自分が生まれた土地が、火と煙に包まれる。火種は海の向こうから運ばれたものだ。
昨日や一昨日と変わらない光景だった。
大きく深呼吸をすると、意を決してムカデを見上げる。
「あたくしの千里眼が、天狗にも劣らないことを知っているでしょう?」
「またその話か」
冷たい言葉は変わらない。しかし、ムカデは楓を抱えるように起こして雪を払ってくれた。こんなときでも気遣ってくれるのだ。
彼に対する愛が溢れ、それがむしろ引き裂かれるような苦しみになった。
「何度も言っただろう。未来はすぐ変わる」
「未来は変わるわ。そのときそのとき、人が選択するから。でも、運命は変わらない」
今の自分の言葉は、震えていただろうか。
本当はこんなことしたくない。なにもかも知らんぷりして、今まで通りひっそり暮らしていきたい。
「あたくしの千里眼が見たものは、この国の運命よ。生まれた家がその運命に押しつぶされないために、あの子が必要なの」
内側でジワジワ蔓延る恐怖は、自分の言葉で押し込める。
まだ眉間に皺を寄せるムカデの目をしっかり見た。こんなに見つめ合ったのは初めてかもしれない。
「勝手にしろ」
そういうと、雪景色の中に溶けていった。
ムカデがいなくなり、力なく柱によりかかる。柱と屋根が軋んだ。見上げると、屋根のところどころが腐って細くなっている。雪もまだ溶けていないし、本当に屋根が崩れ落ちるかもしれない。
「あたくしが妻ではダメなのよ……」
自分の言葉が苦しい。振り返り、柱を殴った。何度も何度も、拳を柱に叩きつける。
かじかんで感覚が無くなっていた手は、やがて熱を持ち始めた。
目を閉じると、瞼の裏に家の中で針仕事をする少女が見える。ときおり針で指を刺し、痛そうに舌で舐めていた。
傍には、鏡のかけ布があった。楓がこの小屋に来て、自分の名前を縫ったものだ。
最初はあんなに泣きそうな顔をしていたのに、やると決めた後はこんなにひたむきに取り組んでいる。
初めて会話したが、この短い時間でも強くて誠実な子だとわかった。
ここに来ることはわかっていたが、夜中に徒歩で来るなんて思わなかった。
家の中で抑圧されて育てられたはずなのに、家族を愛する気持ちは忘れていなかった。
こんないい子が、自分を取って代わるなんて信じられない。
こんないい子に、これから呪いを渡そうとしている自分が信じられない。
北風が吹きすさんでいる。粉雪が舞い上がり頬を叩いた。深呼吸して姿勢を正す。近いうちに死ぬつもりだが、まだ凍え死ぬつもりはない。
深夜まで針仕事を続けたこの小娘は、疲れたあまり、夕飯も食べずに眠ってしまった。
その頭を撫でていると、理由もなく嗚咽が込み上げてきた。
ずっと昔の「永遠にそばにいる」という誓いは嘘ではない。
人の体では永遠が無理だとしても、「永遠」を実現させる方法も知っている。
若い肉は甘くて美味しい。生きる力が湧いてくる味がする。
自分はそれを知っているのだ。
知っていながら諦めるのだ。自分で生きる道を諦めなくてはいけないのだ。
「泣いているのか」
いつのまにか、扉の前にムカデが立っていた。
「もう、涙なんて出ないわよ」
「そういうものか」
飄々と返す夫に腹が立って、俯いたまま横目で睨む。すると、夫もこちらを横目で見つめてきた。
こんなときでも、自分の夫は魅力的に見えた。
「さようなら。旦那様」
カラカラと扉が開く音で目が覚めた。
体を起こすと、傍にムカデが座っている。途端に目が覚めて、慌ただしく髪や服装を整え始めた。こんな時に限って楓がいない。
「いい。そのままでいろ」
静かに制すると、ムカデは布切れを手に取る。それは、昼間に自分が刺繍を入れていたものだった。
「いい刺繍だ」
その一言が一瞬で心を満たす。ムカデは無造作に鏡の掛け布を取った。二つの布を並べて、自分が縫った方を愛しいように撫でる。
「針仕事は苦手だったんだろう。よく頑張った。撫子の花が咲いている」
鼻の奥がツンとした。急いでお礼を言おうとしたが、唇が震えてうまく言葉が紡げない。 その様子を見て、ムカデは微笑んだ。布切れを畳んで横に置いて、背中に手を回してくる。顔と顔が近づく。心臓の音がうるさい。
そのとき、ふと気がついた。
「楓さんはどこ?」
「……あ?」
呟くと、ムカデは怪訝そうな顔で見返してきた。微笑みが消えた途端、身体中が冷たくなってきた。彼の機嫌を損ねたと思うと、たちまち恐怖と絶望感が膨れ上がる。手足が震え、内臓が潰れそうに痛い。
自分の知らない感覚に飲み込まれそうになり、それでも胸の違和感を放置できなかった。
「楓さん!」
ムカデを突き飛ばす。ムカデは思った以上に軽くて、簡単に転がっていった。囲炉裏に突っ込みかけているのも無視して、裸足のまま外に飛び出した。
雪はもう止んでいた。雪がぼんやり反射して、夜の山の中も景色がわかる。
「夜の山って、こんなに明るかったっけ?」
ここに訪れたときは灯りを持っていても真っ暗だった。どういうわけか、今の自分は暗闇でもはっきりものが見えている。そのはっきりとした視界で、井戸端に倒れた人が見えた。
「楓さん?」
駆け寄ってその姿を見た瞬間、ぎょっと眼を向いた。
濡れたように黒かった髪は雪と同化するほど白くなり、白い肌は土色になって骨が浮かび上がるほど痩せこけていた。
土色の肌の中、ギョロリとした目がこちらを見る。
「よかった。ちゃんと『楓』になったのね……」
外見も声も、なにもかも知らないものだった。
「ここは『楓』だけが足を踏める地だから、あなたが、『楓』になれてよかった」
「な、なんの話ですか……?」
「『種』を求めず次の代を残すのが、接木のやり方だから。一つの顔に別の体を接いでいくのがうちの一族だから。うまくいって本当によかった」
自分の声など聞こえていないのか、老女は一人で見えない話をしていた。
突然、骨ばった指がこちらの肩を掴む。
「聞きなさい。これから数年後、この国は大きな戦を起こす。それは勝てない戦。多くの人がそのせいで死ぬ!」
しゃがれた声が、予言を紡ぐ。どうしたらいいのかわからず、ただ聞くしかできなかった。
「家族が好きでしょう? 大切でしょう? だったら、あなたの家族を守りなさい。戦の火が降ってきたとき、この山に匿いなさい。麓の人たちも呼んで、匿いなさい。だって、あの方は……」
肩を掴んでいない方の手が自分の喉をかきむしる。歯の抜けた口が、唾を飛ばしながら吠える。
「もう何も思い出せなくなってる! ともかく、あの方の元に避難させなさい! あなたにしかできないのよ! あたくしじゃダメだから、あなたに頼むのよ!」
狂ったように叫ぶ老女に、とうとう怖くなって突き飛ばした。軽い老女は柱に激突し、痛みに唸る。腰が抜けてうまく立てないまま、老女から距離を取ろうとした。それをしゃがれた声が追いかける。
「どうかおねがい! あなたが言えば、全てその通りになるから、あなたの力で……」
次の瞬間、東屋の屋根が老女の上に崩れ落ちる。屋根の材木や瓦の下敷きになった老女は、それっきり動かなくなった。
自分の悲鳴が山中に響き渡った。叫びながら家の中に舞い戻り、バクバクする心臓を落ち着けようとする。何気なく視線を投げた鏡を見たとき、目を見開いてそれに駆け寄った。
鏡に写っていたのは、自分の顔ではなかった。黒い髪に白い肌。こちらを見る猫のような黒目。さくらんぼのように赤く潤んだ唇。鏡越しにこちらを覗き込むのは、「接木 楓」のものだ。
「楓」
振り返ると、ムカデが立っていた。近寄りながら刀を脇に放ると、自分を抱きしめる。
「よく聞け。おまえはこれから『接木 楓』だ」
抱きしめられながら小娘、もとい楓は自分の顔を触る。知らない感触は、夢では無いことを思い知らされた。
「『接木』の苗字をもつ人間は、代々お前の家から差し出された子供だった。代替わりするまで、その子供は『接木 楓』になり、その顔になる」
「わ、私は、私の名前は……」
その続きは言えなかった。当たり前のようにあったそれは、今は「接木 楓」しか出てこない。今までの名前が、一体なんだったのかまったく思い出せない。
「私は……私は……」
「お前は接木 楓。俺の妻だ」
彼の妻。
それを言われると胸が高鳴り、頭の中がぼやける。酔っ払ったような感覚に陥り、自分が誰だかなんてどうでも良くなる。
この人に一生を捧げよう。
愛おしさに浸りながら彼の首に手を回し、離れないように強く強く抱きしめた。
その後、外国との戦争がその国を襲った。
火薬が、鉄が、火が、罪のない民間人に牙を向いた。
そんななか、死傷者を出さなかった土地があった。
住む場所を焼かれても、住民はことごとく山の中に逃げ込み、生き延びたらしい。
それを言葉一つで率いたのは、神社の主だったと伝えられる。




