坂の家
部分直しです。
その先に大きな古い家が。
「ここは落人の里だ」シートベルトを外しながら平野がそんなことを言った。「壇ノ浦で滅んだ平家の残党が隠れ住んだ。それでこんな辺境にある。さ、降りてくれ」
屋敷(家と呼ぶより、その方が相応しかった)は、くねった坂の上にあった。
題名「坂の家」
「そろそろ着くぞ」
ハンドルを切りながら平野が言った。
土讃線の琴平駅で降り、迎えに来てくれた平野の車に乗り込んだ。それから山道ばかりを走り続けている。
「晩飯は妹がこしらえる。たっぷり山の幸を味わえ」
「妹さんも、よくこんな所にいられる」
「住めば都さ。お前には分からん」
「そうかもな」
大学の同期だった平野に誘われてやって来た。
学科をトップで卒業した平野は教授の推薦を蹴って郷里で就職した。
林業に従事する──そう聞いた誰もが驚いたものだ。
「あれだ」
車が駐められた場所に幹が三つに分かれた高い松があった。
その先に大きな古い家が。
「ここは落人の里だ」シートベルトを外しながら平野がそんなことを言った。「壇ノ浦で滅んだ平家の残党が隠れ住んだ。それでこんな辺境にある。さ、降りてくれ」
屋敷(家と呼ぶより、その方が相応しかった)は、くねった坂の上にあった。
「気を付けろ。昨日の雨で緩んでいる」
門をくぐった。一度、大きな母屋を仰ぎ見て、それから中に入った。
「ご到着だ」
八畳ほどの土間に真っ黒い三枚の引き戸があり、その一枚が開いて年配の女性が顔を覗かせた。
「母さん。大学で一緒だった福井人己。ハムの製造会社に勤めている」
平野が言った。
●
座敷に通された。
「すぐ、お夕飯にしますね」
母親はそう言って奥に下がった。
床の間に見事な青磁の香炉が置かれていた。
歴史が好きな私は古文書なども少しは読めたりする。だから、この青磁がいいものであることも何となく分かる。
「それは平家の公達が使っていたもので、出すとこに出せば、」
平野が指を一本立てた。
「百万か?」
「馬鹿を言え。一億だ。元々は清盛公の持ち物だった」
「本当か──」
「嘘を言うか。特別な日しか出せんのだぞ」
「特別な日?」
「ああ。お前が来るからな」
「……」
「ははは。ま、そんなこと、どうでもいい」時計を見て、「まだ少し早いか」
「トイレはどこだ?」
「向こうだ」
教えられた廊下を進むと障子の開いた部屋に突き当たった。
中に若い女性がいた。
「ど、どうもお邪魔してます。トイレを探してるんですが……。場所を間違えたかな……」
すると彼女は、
「こちらです」
トイレまで案内してくれた。
私といえば彼女の美しさに驚いていた。
抜けるように肌が白い。そして腰まである黒髪。何より笑顔がよかった。
座敷に戻ると平野が、
「あったか?」
「妹さんに会ったよ」
「そうか」
「平野の平は、平家の平だな?」
平野はタバコの火を消した。
「その通り。我々の先祖は、重盛公の姫君をお守りして、この地に落ちて来た」
「しげもり? ──おい。重盛と言えば、確か清盛の息子で、言うなれば平氏の中心人物じゃないか」
平重盛の娘──ひょっとして平野にもその血が入っているのかも。平野の妹の美しさが、それを証明しているように私には思えたのだ。
それにしても、あんな美しい妹がいたとは……。
そう言えば平野は家族の話をしたがらなかった。
「重盛か……」
「ああ。直系は途絶えたがな」
それで清盛の香炉がここにある。私の想像は、きっと当たっている。
料理が運ばれてきた。テーブルに山の幸が並べられた。
「さあ。どうぞ召し上がって」
母親が言った。
「遠慮するな。都会人には珍しいご馳走のはずだ」
平野の言う通り、こんなのを街中で食べようと思えば料亭にでも行くしかない。
以前、田舎の旅館でこの手の料理が出されたことがあった。天ぷらの隣に、よく見る市販の餃子が添えてあったりで、何となく興を削がれたが。
母親は娘を残していなくなった。
「おい。酌をしてやれ」
平野が妹に命じた。
「いいよ」
私は断った。だが彼女は、
「どうぞ」
と、嫌がりもせずに酌をしてくれたのである。
「もう行っていいぞ」
平野が言うと、
「はい」
と言って下がって行った。
「どうだ? 素直だろ」
「ああ。名前は?」
「敦子だ」
敦子……。そう言えば平家の公達に敦盛というのがいたな。
「ところで親父さんは?」
「急な用事で出掛けた。暫く帰らん」
「そうか。こんな山奥に女二人を置いて……」
「何だ? 心配してくれるのか? 大丈夫だ。オレがいるし、それに平家の霊が守って下さる」
「平家の霊?」
すると平野は、
「霊とは魂のことだ。なあ。人が死ねば、その魂はどうなると思う?」
「どこにも存在しなくなるんじゃないのか?」
「そう思うか?」
「じゃあ、どうなる?」
「その前に、そもそも魂とは何か? ──それは宇宙の対極なんだ」
「脳が一つの小宇宙ということか?」
「そうじゃない。──例えば磁石にはSとNの二極がある。それから電極にはプラスとマイナス。人間にも男女の違いがあったりする。では魂の対極は? それは宇宙そのものではないのか? 魂とは物質に対極するもので、つまり宇宙の最初から存在するんだ。それが人の姿を借りたり、或いは人間以外のものに宿ったりする。要は、我々は宇宙の対極である魂の入れ物なんだ」
「……」
少し呆れた。
「ま、いいさ。ところで料理はどうだ?」
「美味い。来てよかったよ」
「道中、文句を言った甲斐があったか」
「まあな」
食事の後、風呂に呼ばれた。その後、十一時ごろまで話をして、長旅で疲れているし、そろそろ寝ようかというときになって、
「隣の部屋で寝ろ。オレは奥で寝る」
平野が言った。
「いいとも」
「じゃ。おやすみ」
一人になって隣の部屋の襖を開けた。枕元に古い屏風が立ててあった。見ると、壇ノ浦合戦図。壇ノ浦は平家終焉の地だ。
横になったとき激しい雨が降り始めた。
雨戸を通して雨粒の叩きつける音が聞こえてきた。
●
? 甘い香りがする。
そのとき誰かが布団に入って来た。
平野の妹──。
たまらなくなって背を向けた。
どうして彼女が? 頭が、おかしいのか?
それとも──彼女の内面は容姿とは全く異なり魔性を得ているのか……?
いや違う。恐らくこれは、この辺りの風習なのだ。その昔、辺境の地では客をもてなすために女性をあてがっていたと聞く。
だが、そんなこと有り得ない。平野は都会で暮らした経験もある現代人だ。
全く見当が付かない……。
しかし今、私の隣には彼女がいる。
雨音は、ますます激しくなる。
それにこの香り。
ひょっとして、あの香炉か?
香を焚いたのは彼女なのか?
一体、どうすればいい……?
決めた。
完全無視する。それ以外になかった。
明け方近くになって彼女は布団から出て行った。
全て夢だったと思うことにした。
●
七時に朝食を出してくれた。
食欲がないのか平野は箸さえ取ろうとしない。
「どうした?」
平野は一瞬、顔を歪め、
「何でもない。ちょっとな」
食後、誘われて散歩に出た。
昨夜の雨で山の空気が一層浄化されていた。
風はそよぎ、空には一点の曇りもなく、山の輪郭が切り絵のように鮮やかだった。小鳥の囀りも心地よく、全く時間を忘れてしまいそうだ。
「悪くない」
思わず口にした。
「何だ?」
平野が問うた。
「こんな辺境も悪くない」
「ほう」
「それに分からなくもないな」
「何がだ?」
「敦子さんの気持ちさ」
「ほう?」
「都会の便利を忘れれば田舎暮らしもいいかもしれん」
「都の暮らしを知らなければ、か」
「都だと?」
すると平野は、
「八百年前、オレの先祖は主君の姫君を育てるのに、この地を選んだ。そのとき姫はまだ七つだった。肉親は一人もいない。痛ましい……。見ての通りの辺境だ。暫くの間、姫は泣いて暮らした。都に帰りたいと駄々もこねた。だが帰ってどうなる。姫君ゆえ殺されはしなかったろうが、都にあるのは一生涯続く日陰者の生活だ。それなら、ここに留まった方が、よっぽど増しだ。オレの先祖は姫のためならどんなことでもした。姫の希望は可能な限り叶えた。そのためには山賊まがいの──」
「山賊?」
だが平野は、
「いや。よそう。今度は向こうの山を案内しよう」
歩き始めた。
昼前に屋敷に戻った。
平野の妹が食事を運んで来た。長さ、五、六センチほどの妙な黒い干物が添えられていた。
それを箸で摘まんで、
「何だ?」
平野に聞いた。
「山椒魚の干物だ」
こともなげに言った。
「山椒魚? それって天然記念物じゃないか……」
よく見ると四本の足があった。からからに乾いてるのでグロテスクというほどではない。
「それは大山椒魚だ。こいつは問題ない。だが数が少ないので滅多に見付からん」
そう言って口に含んだ。
「大丈夫か……?」
「何を言ってる。すごく貴重なんだぞ。漢方で買ってみろ。一匹が二、三万する」
「そんなにするのか?」
四、五匹が皿に載っている。これだけで十万以上だ。
「一体、何に効くんだ?」
「食欲不振、精力減退、疲労回復。勿論、副作用はない。何だ? 食べんのか?」
いつまでも箸を付けようとしない私に向かって言った。
「いや……」
「実はな、我々一族の秘密の狩猟場がある。乱獲さえしなければ実入りのいい副業として成り立つんだ。だから遠慮するな。それとも気持ち悪いか?」
仕方がない。一匹を口に放り込んだ。特に味はなかった。味のないスルメみたいだった。
「全部食え」
「妙に精力が付いても困る」
「なあ。昼から釣りをしないか?」
「いいな」
渓流なら見てるだけでも楽しい。
「そうだ。敦子も誘ってやろう」
「ああ。にぎやかな方がいい」
喜んで同意した。昨夜の出来事は、あれは夢なのだ。
「よし。さっそく敦子に言ってこよう」
平野がいなくなった。
昨夜のことを確かめるため私は香炉の灰を嗅いでみた。
同じだ……。
「どうした?」
声がしたので振り返ると、平野が妹を連れて私の後ろに立っていた。
「行くぞ」
「も、もう行くのか?」
「ああ。沢山釣って今夜のおかずにしよう」
三人で渓流まで下りた。
敦子さんは釣りをしないらしい。
大小様々な岩がある。私の背丈を超えたのも多かった。
餌は小麦粉に魚の好きそうなものを混ぜただけのものらしい。
ポイントを探って移動している内に平野達とはぐれてしまった。
一人で釣りを続けた。喉が渇けば持たせてくれた水筒のお茶を飲んだ。
一匹も釣れないのはセンス以前の問題か──?
やっと釣れたときには、だから本当に嬉しかった。
十五センチくらいの美しい魚だった。
ひょっとして平野に自慢出来るかもしれない。そう思いながら魚篭に入れた。
ここで続けることに決めた。
その前に、一旦、竿を置いて大きな岩に登ってみた。足掛かりがあるので割と簡単に登れた。
高い場所に立つと何だか自分が偉くなったような気がする。
辺りの様子を眺めたとき私は腰が抜けるほど驚いた。
近くに彼女がいた。裸になって水浴びしていた。
平野の姿はなかった。
ようやく私は悟った。奔放なのだ。彼女は見掛けとは全く違う。
川の水は澄んでいる。そして裸でも耐えられる季節だ。
だから彼女の裸を見てはいけないのだ。
岩から下りて再び釣りを始めた。
●
平野の屋敷には、それでもテレビがあった。テレビは敦子さんの部屋に置かれていた。広い屋敷に一台きりなのだそうだ。
彼女の部屋は六畳ほどで本棚には人形が飾られていた。綺麗に整頓された女の子らしい部屋だった。
電波の届きが悪く見られる番組は限られていた。
私達三人は少し季節外れのコタツに入っていた。
平野が席を外したので二人きりになってしまった。
彼女は全く悪びれてなかった。
あれは本当に夢だったのかもしれない。
平野は、なかなか戻らなかった。
その間、彼女と話していた。
どこにでもいる普通の女の子だった。ドラマ、音楽など、驚くほどの情報通だ。
と、
コタツの中の私の手が握られた。
ちょうどそのとき平野が戻って来た。
「やあ済まん。ちょっとお袋の頼まれごとをね」
彼女の手が私から離れた。入れ替わりみたいに彼女がコタツから出た。
「何だ?」
平野が言った。
「夕食のお手伝い」
そう言って部屋から出て行った。
「もうそんな時間か……」
平野が時計を見た。
「何か言ってたか?」
平野が聞いた。彼女との会話を話してやると、
「ふーん。でも間が抜けてるだろ?」
「そうか?」
「そうさ。頭は悪くないんだがな……。明日、帰るのか?」
「ああ。ちょっとあってな」
連休は明後日までだが、明日帰れば帰省している姉達に会える。
「そうか」
それっきり平野は黙ってしまった。
●
夕食は六時に始まった。今日は三人で食卓を囲んだ。
奥の居間である。
結局、私は一匹しか釣れなかった。平野が七匹も釣ったので全員に二匹の魚が行き渡った。
私が釣ったのは゛あまご゛という魚だった。
「オレから離れていたとき何してたんだ?」
平野が妹に聞いた。
「内緒」
彼女はそう答えた。
「お前、一生ここにいろよ」
唐突に平野がそんなことを言った。
「ああ。それもいいかもしれん」
「本当!」そう言ったのは敦子さんだった。「嬉しいわ!」
「林業を手伝わんか?」
「それも面白そうだ」
平野の言葉に調子を合わせた。
確かに数日くらいならここで過ごすのもいい。山菜も新鮮な川魚も魅力的だ。
食事を終えると平野と二人で座敷に戻った。少し後に敦子さんも顔を覗かせたが九時には自分の部屋に戻って行った。
平野との話も一通り済み、他にすることもなく、風呂に入った後はもう寝るしかなかった。
●
気付いたのは真夜中だった。
布団の中に彼女がいた。
そして今夜もあの香りが漂っている……。
今度ばかりは、さすがに無視出来なかった。
「眠れないの?」
どうにも馬鹿みたいな問い掛けに彼女はうなずいたみたいだ。
「昨日も来たね」
「ええ」
熱い息を吐いた。
本気だ。そう感じた。
夕食のとき平野は、「お前、一生ここにいろよ」とか、「林業を手伝わんか?」などと言っていた。
確かに彼女は魅力的だ。それでも引き換えになるものの大きさを考えると……。
私は彼女の手を取ると、
「こうしてよう」
手を繋いで、そのまま朝まで過ごした。
やはり明け方近く、彼女は布団から出て行った。
危ういところで切り抜けられた。
だがそれは間違いだった。
朝食のとき、いきなり平野が言った。
「何故だ? どうして敦子に手を出さん? スタミナ切れかもしれんと思い山椒魚まで出してやった。お前、まさか女に興味ないのか──? いや。そんなはずはない。一体、どうしたんだ?」
あまりのことに言葉の意味が分からなかった。
「説明しろ! 何故、抱かん? 敦子に魅力を感じんのか?」
「そんなことはない……」
私は、しどろもどろだった。
「なら、どうして!」
「どうしてと言われても……」
言葉に詰まった。
「いいか!」平野は言った。「敦子に手を付けるまで帰さんからな!」
「馬鹿な──」
「帰りたいなら言うことを聞け! まあいい。今夜こそ必ずそうしてもらう」
「今夜だって──」
「連休は明日までだろ。嫌なら一人で帰れ。歩いてな」
「無茶な!」
「聞け。我らの先祖は、重盛公の姫君をお守りして、この地まで逃れて来た。年頃になると青年をさらい姫との間に子をもうけさせた。その後、直系は途絶えたが、まだ完全に滅んだわけではない」
「お前がそうだろ」
最初に想像した通りだ。
「オレじゃない」平野は続けた。「敦子がそうだ」
「なら相応しい相手を見付けて婿を取ればいいじゃないか」
彼女なら絶対に見付かる。
「分からん奴だ。姫にそうしたように敦子にも同じ方法で婿を与える」
「ここに住めと?」
「そうじゃない。抱いてくれるだけでいいんだ」
私は理解した。求められているのは私ではなく、二人の間に生まれる子供なのだ。平野はそのために私を連れて来た。
「しかし──。敦子さんはそれでいいのか?」
男の私が躊躇するのだ。
「いいも悪いも、これが決まりだ」
「それほどまでして、一体、何を守ってる?」
「血だ」平野は言った。「平家の血だ」
「そんなものを……」
「どちらにしろ今夜も泊まってもらうからな。おい。どこに行く?」
席を立った私に平野が言った。
「トイレだ」
●
屋敷から出た。悪いが逃げることにする。
平野の車で来たのだから歩くしかなかった。
車で二時間以上の道程──。
荷物は諦めることにした。財布と携帯は持っている。
坂を下った。後を追って来る気配はなかった。
高をくくってるのか──?
少し惜しい気もする。馬鹿な男の感傷だ。
道を覚えてはなかった。幾つもの分岐点がある。その一つを間違えば一体どれくらいロスが出るのか──。
ないとは思うが山中で飢え死に……。
まさか。今、始まったばかりなのだ。
一時間ほど歩いた。その間、誰とも出会わなかった。
昼になっても目に見える進展はなかった。同じような山の峰がいつまでも視界に居座り続ける。そんな具合だから、街に近付いているのか、それとも遠ざかっているのか、全く見当が付かない。
携帯は一度も繋がらなかった。
古い小屋を見付けてその前に座り込んだ。
すっかり日が暮れようとしている……。
仕方ない。ここで寝ることにしよう……。
鍵は掛かってなかった。
土の床。もちろん電気もない。
脱いだ上着の上に横になった。
とうとう誰とも出会わなかった。本当なら今頃は自宅でいる。
連休は明日まで。楽天的に考えれば時間はまだたっぷりある。
もし平野の言うことを聞いていたら……。
今夜も夕食をご馳走になって、それから……。
だが、これが正解だ。
寝よう。考えても仕方がない。
日の出とともに歩こう。本当に、とんでもない一日になってしまった。
●
誰かに頬を叩かれて目を覚ました。
顔に懐中電灯の光が──。
「平野!」
平野がいた。
「探したぞ。一緒に戻ろう」
「放っておいてくれ。勝手に一人で帰る」
「それはいいけど、この調子では会社に間に合わんぞ」
「本当か……?」
「下手をすれば捜索願いを出されかねん」
「道を教えろ!」
「何の目印もない山の中で道を聞いてどうする?」
「……」
と、
いきなり平野が土下座した。
「頼む。敦子と寝てくれ。お前には何の負担もかけん。頼む。この通りだ──」
「平野……」
「助けてくれ」
私は平野という人間を知っている。滅多に嘘は付かない男だ。今のは恐らく本当だろう。
気付けば古い仕来りを守り続けている旧家の業に、すっかり同情してしまっている。
「分かった……」
私は言った。
「本当か?」
「ああ。本当だ。但し、明日は帰るからな」
決断した。
「勿論だ」
平野の車に乗った。
「どのくらいで着く?」
「五分だ。一キロと離れてない」
「嘘だろ?」
正直、驚いた。最低でも二十キロは歩いたはずなのだ。馬鹿みたいに同じ所を、ぐるぐる回っていたらしい。
平野の言った通り五分で到着した。
「まず風呂に入れ」
入浴後、寝間に。
既に布団には彼女がいた。
香の香りが……。
●
起きたのは昼過ぎだった。彼女は布団からいなくなっていた。
すぐに食事を用意してくれた。三人で昼食をとった。
二人とも特別なことは何もなかったという表情をしていた。そしてそこに少しの嘘もなかった。
彼らにはこれが普通なのだ。
と言うより安堵している。
大切な務めを無事に果たしつつあるのだから。
今回も山椒魚の干物が添えられていた。
「全部食べろ」
平野が言った。
素直に従うことにした。
「もう一日いてもらう」
食事の後、平野が言った。
「どういうことだ?」
「初日を無駄にした」
●
今日も釣りに出掛けた。
途中で平野がいなくなった。
「平野は?」
すると彼女が私の手を取って、
「こっち」
そこは昨日、彼女が水浴びをしていた場所だった。彼女は服を脱いで裸になった。
「来て」
その後、私達は手を繋いで歩いた。風が彼女の髪を靡かせた。
美しい横顔。衒いはなかった。
私達は公認されている。
●
本日の釣果は五匹。全部、平野が釣った。私の皿だけ二匹載っていた。
「客だからな」平野が言った。「ん? どうした?」
「いや。ちょっと体が……」
息切れがして体中のエネルギーが切れかけているみたいだ。
筋も痛む。
理由が思い当たらないわけではない。だがそれにしても体力の消耗が激し過ぎる。
「釣りで疲れたんだ。風呂に入って寝ろ」
「分かった」
食事の後、風呂に。
裸になって気付いた。
ひどく痩せていた。軽く四、五キロは減っている。
以前、腸を悪くして痩せたことがあった。
が、たった一日では有り得ないことだ。
もしこれが彼女のせいなら、今夜は何もすべきではない……。
だが、
寝間に行くと、やはり彼女が待っていた。
●
夜中に目覚めた。
恐ろしい夢を見た。
私は得体の知れない怪物に絡まれて、しかも快感に喘いでいた。
彼女は健やかな寝息をたてていた。
枕元の時計を取ろうとしたとき、私は自分の腕が異様に細くなっていることに気が付いた。
骨の太さしかなかった。肉が削げ落ちていた。
胸に手をやると、まるで理科室の標本模型のように肋骨が浮き上がっていた。
脚もだ……。
有り得ないことが起きている……。
私は完全に悟った。
間違いなく彼女は人じゃない。
平野の先祖が仕えていた姫君の怨霊……。
そうとしか考えられない。
だが……。
逃げ切る自信がなかった。
必ず捕まってしまう。
どうにかして逃げなければ……それが出来なければ……ここで死ぬことになる……。
一体どうやって……。
そうだ。
芳一を真似る。
芳一は体中に経文を書くことによって平家の怨霊から逃れることが出来た。書き漏らしのせいで両耳を失ったが命だけは助かった。
幸い私はその経を知っている。
鞄にはマジックもある。
問題は背中など手の届かない場所をどうするかだ。
髪も剃らなければならない。
だが道具がない……。
シャツに書くのはどうだ? 頭はタオルで巻く。
一か八だ。
明け方、彼女が去った後、鞄からマジックを取り出した。
インクは十分だ。
これが駄目なら私は
●
「いない……。気配はするのに、福井の奴、どこに行った……」
平野達が私を探している。
「車は?」
母親が聞いた。
「ある。キーも居間のテーブルに残っている」
「きっと外よ」
「ああ。手分けして探そう」
平野と母親は部屋から出て行った。
私は彼らの傍らにいた。
なのに二人には見えなかった。
彼らも人間ではなかったのだ。
到底、信じられない。悪夢のような現実だった。
でも、いいことを聞いた。キーは居間のテーブルにある。
居間に向かった。
確かにキーはテーブルに置かれていた。
キーを取って居間から出ようとしたとき、平野の妹が部屋に入って来た。
私は動きを止めた。
首を傾げてこっちを見ている。気配は感じても見えないのだ。
気のせいとでも思ったのか私を通り過ぎて台所に向かった。
私は音を殺して歩き始めた。
が、
あれが再び私に目を向けた。
足元を見ている──
何というミス、
足の裏に経文を書き忘れていた──
蛇のような大口を開けて迫って来た。
とっさの判断で棚の花瓶を振り上げ、あれの頭に打ち下ろした。
床に転がって異様な叫び声を上げた。
私は命の限り駆け出した。
車まで来れた。
ドアを閉めてエンジンを掛けた。
平野も母親もいなかった。
ドスンと車の屋根に何かが──
フロントグラスに逆さに顔が──
目は裂けて、そこから血が流れ出し、鼻は二つの黒い穴となり、顔中の血管が浮き出していた。
本性だ。
私は狂ったように叫びながら思い切りアクセルを踏んだ。振り落としたからといって何の呵責もない。
当然の報いだ。
屋根に張り付いて私のことを睨み続けている。
「見てろ!」
急ブレーキを踏んだ。
怪物が車の前に投げ出された。
「!」
そのまま腹を轢いてやった。
おぞましい悲鳴が車の下から聞こえてきた。
●
「友達から逃げて来た、と。そうですね?」
私はうなずいた。
定年間近だと思われる巡査から繰り返し質問された。
骨と皮状態で体中に経文を書き散らしている私のことを、彼はどう思っているのだろう……。
何もない場所に派出所を見付けた。迷わず助けを求めた。水を飲ませてもらい何とか息をつくことが出来た。
「この辺りに平野という家はないんだが……」
「近くではありません。でも場所は分からないのです」
「そう……。では何か目印になるようなものは?」
「幹が三つに分かれた高い松がありました」
「ああ。あそこか。車で一時間くらいか。昼には着けるでしょう」
「着けるでしょうって……?」
私を見て巡査がうなずいた。
「馬鹿な!」
思わず声を荒げた。行けるものか。怪物は死んでも、まだ平野達が残っている。
「同行しますよ」
巡査が言った。
違う! そんなレベルの話ではない!
平野家に監禁されていたと巡査に訴えた。怪物のことは一言も話してない。言ったところで信じてもらえない。
「拳銃もありますから」シンナーを出してくれて、「顔だけでも拭いてはどうです?」
●
「この上です」
そう言いながら私は坂を見上げることが出来なかった。
恐怖が残っている。
怪物の死骸はなくなっていた。
きっと平野達が始末したのだ。
「なるほど。では行きましょう」
巡査は坂を上がり始めた。
「あ──」
一人にされては堪らない。
慌てて後を追った。
が……。
何もなかった。屋敷のあった場所が、ただの草深い荒地になっていた。
「何にもないですな」
あっけらかんと巡査が言い放った。私は呆けたようにそこに立ち尽くした。
「帰りましょうか」
巡査に肩を叩かれた。
再び坂を下りて車に戻った。
しかし……。
屋敷が消えるなんて……。
「大丈夫ですか?」
気の毒そうに私を見ていた。
「ええ……」
「派出所に戻りましょう」
あれは夢だったか……?
いや。そんなはずは……。
こんなに痩せこけている。夢であるはずがない。
途中、眠ってしまった。
「着きましたよ」
体を揺さぶられて目を覚ました。
どういうことだ? 外が真っ暗だ。
「降りなさい」
「ここは……?」
あの松があった。
「行きますよ」
巡査が坂を上がり始めた。
訳が分からない。
それでも後を追った。一人は耐えられない。
坂の上に平野の屋敷が……
「お帰り」
中から平野が出て来た。
「お連れしました」
巡査は平野に敬礼し、
「二度とこのようなことのないように」
そう言った。
「敦子が待っている」
平野が言った。
次の瞬間、私は腕や首のない鎧武者に囲まれていた。
「言っただろう。平家の霊は存在するって。敦子にしたことは許してやる。さあ中に入れ」
私の肩を掴んだ。
武者達が哄笑した。
月が雲に隠れる。
私はその場に崩れ落ちた。
了