あくしゅうタイプの ちーぎゅうに しますか?
「すいません、三種のチーズ牛丼特盛りでお願いします」
俺は某丼チェーンの店先で人差し指を天井に向けて頼んでいた。厨房がざわつく。店内のヘアピンカーブみたいな形状をしたカウンターに促されるままに着席すると、たばこに似た香りの麦茶をすすり、着丼を待った。店内に入ると周囲の客が前の料理から目を離し、俺を凝視する。それは常識の範疇にないものを見たような視線、怪物でも見たような目である。仕方ない。俺は身長が低く、声は上ずっており、サラダを食っても体重が増加し続けるバグを抱えている130キロの豆タンク。
それでも隣の男よりはと思い、俺はエアコンの送風口を眺めた。涼しげな風がやってくるかと思ったが、全く来ない。エアコンの設定はどうなってるんだろうか、と見ると「微風」になっている。そしてトイレの入り口に置かれた観葉植物の左あたりにそれとなく「環境保護のため節電を実施しています。皆様にはご理解とご協力をお願い申し上げます」とある。
ちょっとは涼めると思ったんだがなあ。俺は落胆しても仕方がないので、いつものように評論家気取りで新作の味を投稿することにした。一応俺の投稿は、自分が太っている事があってか謎に信憑性があるらしい。
ダイエットのために食うのをやめていた日々。その過度な食事制限で、俺はぶっ倒れる寸前だった。そんな時にどうしても飯が食べたくなり、やけくその勢いで外食に行き、ジンギスカンを暴食。気がついたら、数千人の単位でフォロワーが増えていた。謎のブレイクで盛り上がってしまった俺は今日もこうしてランチを投稿することにして、今に至る。
まずは店内の様子を見ておく。後で撮影許可ももらおうか。
漏れは、ヲタクである。といっても熱量も深淵にいるガチヲタとは比べものにならないほどの「にわか」に過ぎない。正直末席として語ってもいいのかすら怪しいレベルで、今期のアニメを見てはそれとなく感想を呟く程度の、インターネットの浅瀬で潮干狩りをしている程度の存在だ。ただ漏れの清潔感のなさは折り紙付きである。ただ、これは決して漏れが風呂に入らないわけではない。
漏れは高身長以外ほぼ全てが終わっているのだ。肌は化粧品を試してもことごとく荒れるので皮膚科の通院は欠かさない。ファッションセンスはどうしても90年代前半のファッションに似る。なぜかだ。そして今日もピンクベースのポロシャツに濃紺のジーンズを合わせて腕まくりをしていると巨漢の男が一つ席を空けた隣に座ってきた。
隣の男は妙に警戒しているように見える。初心者か。カウンター席のテーブルを腹と胸の間に食い込ませている男の脂肪はまさしく力士のごとくもりもりにつきまくっており、何を食べればそう風船ヨーヨーのように太れるのかはわからない。まあでもぱつぱつのスーツを着ているし、社会人なんだろうと思う。フリーターの漏れとは比べものにならないほど良い物を食ってきたんだろう。妬ける。同じ社会人だとは思いたくないぜ、畜生。
とりあえず目を合わせないように、届いたばかりの三種のチーズ牛丼・特盛りをいただく。中途半端にならないように丁寧に割り箸を使い、はじめの一口をいただき……
「うえ、何だよ」
おろしたてのシャツが、もうシミを作ってしまった。漏れは手先が不器用なのだ。よくこぼす。最悪だ。とりあえず小声で店員さんに謝りつつ(多分聞こえていないだろう)、テーブルに置いてあるティッシュを二・三枚抜き取って拭いた。
僕は前の男性二人を見て、やや困り眉を作りながら次の講義について考えていた。次は環境社会学の授業で、教室はCK203か。早く来てくれないと面倒だ、何せ里見の奴は講義に少しでも遅刻してきた奴を積極的に指名するという悪趣味な性格をしている。折角僕の推している作品とコラボしていて、会計後にもらえるというグッズのためだけに来店しているのだ。気分悪い退場をしたくない、なのに何か前の男二人は妙な空気を醸し出しているのでどうにもスマホにも集中できない。
なんだこいつら。一人は挙動不審に周囲を見渡しまくっているし、すげー音を立てて呼吸して常に熱気を放っている。もう一人はずっとぶつくさ独り言を呟きながら、なんか漫画でしか見たことないような首の角度で牛丼を食べ続けている。
こいつらと一緒の空間にいるのは嫌だ。なにより人間加湿器の放つ熱気が環境保護とかいう名目で弱めにかけられた冷房を凌駕する熱量を放っているのはマジかと疑う。
早く来てくんねえかな、三種のチーズ牛丼。
僕は口が開きっぱなしになっているのに気づき、急いで口を閉じた。
「あぶねえあぶねえ、ちゃんと閉じないと出っ歯がネズミ並みに成長してしまう」
既に中学時代では濃い顔とひげのせいでボ○ッキーというあだ名をつけられてしまった僕は、流石にこれ以上の歯列と口臭の悪化は避けたい。嫌われたくないのだ。
「客観的にみれば、前の奴らと同じわけだしな、嫌だな」
そんなことを考えた矢先である。厨房から突如光があふれ、牛丼屋にいたはずの僕、いや僕たちは謎の空間に飛ばされたのであった。
モッツァレラ・チェダー・ゴルゴンゾーラで構成された三種のチーズ牛丼。それを食べ損ねたまま。
目が覚めた時には出口のない空間に入っていた。和室風の空間で、押し入れが一つだけある。窓の内鍵を開けようと動かしてみても、鍵がさび付いているのかぴくりとも動く様子はなかった。ただその場の窓に映る景色はもやのような乳淡色。ミルクの香りの入浴剤でも入れた風呂のようである。
「さっきまで間違いなく、店内にいたよな」
業務用携帯をかけようとしてみる。いつもだと外線で2コール以内にはかかる、そのはずだった。しかし全く反応はない。
「お客様のおかけしました場所は、電波の届かないところにいるか……」
本社でも同じだ。
くそ。左上の圏外との表示が無情にも俺の心を打った。折角投稿してある程度のインプレッションをもらい、小遣い稼ぎにでもしようと思ったのに。
土間に向かい、金属製のドアノブをぐりんぐりんとねじってみる。そしてこの130キロの体重で押したり、引っ張ったり。
開け、と念じながらも、無情にもドアは微動だにしなかった。
「何だってんだよ」
開かない木製の玄関ドアを殴りつけると、外からサラウンド音声で声が聞こえてきた。
「こんなん、モンスターウォーズじゃなくて、バケモンじゃねえか!」
聞こえる声は妙に女性っぽい。俺は助けを求めようと、声を張り上げる。
しかし、声が出ない。発言は許可されていませんと言う文字が空中に浮かんできた。
「なんだ、ここはどうなっているんだ」
壁を挟んだ向こうから男が言った。同感である。しかし、挨拶をした俺の声は届いていないようだ。大丈夫ですか、と問うた返事は帰ってこない。
「しかしのう、この三種のチーズギュードンの中から一種を選んで貰わなければ、旅が進まんのだぞ」
ある程度年配であろう方の声が聞こえる。博士キャラと言えばといった声優の声にやや似ている。声真似の上手い人くらいだろうか。それでも俺は声優マニアではなかったから、名前までは思い出せない。俺の中学時代の友達なら盛り上がっていたのかもしれないが。
「こいつらと一緒に旅をしろっていうの、嫌だぞおれは!」
窓からうっすらと見える褐色の棒は、明らかに俺たちのことを指していた。
三種のチーズ牛丼、だと?俺たちがか?俺たちはチーズ牛丼を食べようとした側だ。それが、どうしてこんな目に遭っている?そしてチーズ牛丼そのものとして呼ばれているのか。
理解が混乱してきた。
「属性も相性も、性格も違うが……例えばこっちの奴は持久力がすごいぞ。こっちはパワーが強く、こっちは器用そうじゃのう。どうじゃ、選ぶ気にはなったか?」
「選ぶって、どうしてもなわけ?」
少年は渋っているようだ。俺と他の人間を少なくとも一人、どういう方法でか拉致監禁してこのような状況にしたらしい。そしてその少年たちのオモチャとして扱われるようだ。
異星人のオモチャ扱いか。俺たちのいうチーズ牛丼とは違って、こっちのチーズギュウドンはそのような存在らしい。俺は淡々とサラリーマン生活をしていればよかったものを、B級グルメ系投稿者で食いつなぐ星になれるのではという儚い希望を抱いてしまったばかりに、こういう仕打ちだ。なんということだろう。
「お前が貰わないなら、おれが先に貰うぜぇ」
別の少年の声がする。妙にきざっぽい言い回しで鼻につく彼の声は、誰だかは分からない。しかしそれが隣の男を連れ出したのは分かった。
「ちょお、回ってる、マワテルから、うあああ」
大声で悲鳴が聞こえてきたからである。
「仕方ない、こっちで。属性も相性も分かんないけど適当でいいや」
適当?
適当に決められた俺は、ゆっくりと浮上した。キザな少年よりは丁寧に扱われているらしい。
「待てよ、みろく」
「何だよ、ゴミクズ」
暴言がすごい。キザな少年より、随分と性格が悪かった。友達じゃないのか?
感覚としては、不可解な謎が残っていた。異世界のような、そうでないような。ただこの状況を見るにどう考えても異世界だしな。
「折角手に入れたチー牛だ。バトルしようぜ」
「バトル?」
「なんだ知らないのか?」
バトルっていうのはなあ、と急に解説をはじめようとするキザな少年。
「チー牛を一体ずつ戦わせて、最後の一体を倒されたほうの負けだ。公式にC・リーグに登録すれば、公式大会に出られて、その中で地方チャンピオンになることができれば、最高の栄誉がもらえるんだぜ」
「ほう、それで」
「おれは今日ここでチー牛を貰うために、姉からの理不尽ないびりにたえてきた。毎日の風呂掃除、意味のわからん国外アイドルのステージの予約、日頃の携帯料金とギガの強奪などなど……血も涙もないあの所業。そして今日、この日をもってお前を打ちのめし、あいつとおさらばだ。順風満帆なスタートダッシュを決めてやるのさ!」
後半は、一切関係ない八つ当たりである。
「いや、テメエの事情は知らんし。てか、急に室内で戦わせるの非常識じゃね?」
「大丈夫じゃ。この研究所は直下に核ミサイルを落とされても破壊されない程度の隔壁を備えておる」
薄毛を書き上げながら、研究所の耐衝撃性能を誇る博士は高らかに笑う。
いや、博士。何許可出してんだよ。俺を別の誰かと戦わせて遊ぶのか?それがこの世界におけるチー牛の概念なのだろうか。
「へー、すげえな」
「ワシの研究所はわざの研究にも使っているからの、そう簡単には壊れやせん」
数多くの作品に触れてきた俺には、フラグにしか見えない。
とはいえ、何か既視感のある展開だ。言わずとも知っている人は知っている。宇宙人に連れ去られたとか思っていたけれども、これは違う。俺はかつてニ○厨であった。その名残で覚えている。これは、かの有名なゲームの流れを完全にパクっている。バから始まる商品を軸に改造された動画とか、そういうタイプの世界だ。
「著作権的にヤバいだろうが、これ。大丈夫か?」
転生したのか、転移したのか分からんが、確実にわかった。これ、俺はチートとか授かっているのかもしれない。もしくは特別なわざとか出せるようになっているはずだ。
元ネタが元ネタなら、体当たりで岩をも破壊できるはず。ダイナマイトよりもすごい衝撃で。
「いけ、モッツァレラ!」
少年が叫ぶと俺のいた部屋がぐらぐらと揺れ始める。立っていられないほどの揺れだ。俺は地面にへばりつくようにして伏せると、まばゆい光が差し込んだ。
「何だ!」
叫んでいた声は光のほうへ消えていく。振り返ると渦のようなものができている。さっきは完全にしまっていて、俺の体重ではうんともすんとも言わなかった扉が全部開いている。
あらがいがたい暴風が、部屋の中を駆け抜ける。頭の中に画像が表示された。
風速40キロってどんな感じですか、A:130キロの僕でも吹き飛びます
それは奇しくも、同じ体重であった。
部屋の中に渦巻く台風ができたような感覚で、手足は剥がれていく。そうしてなすすべもなく俺は入り口に吸い寄せられていった。
「はあ、はあ、はあ」
確かに病院のような白磁の床。段ボールと本棚が壁面を埋め尽くしている状況。これは大学の研究室の様子に少し似ている。だいたいは家具や何かもセットであるのも普通だったが、意味深な機械が奥のほうに鎮座している。
荒い息を吐いて俺は後ろを振り返る。そこにいたのは、帽子を深めに被った少女だった。
「早くいけ、モッツァレラ」
「あの」
「いけっつってんだよ」
すごい剣幕で少女に怒鳴られる。俺は仕方なく相手に向かった。キザな少年とおぼしき少年は頭が整髪料を一缶くらい使ったみたいな髪型をしている。
そしてその隣にはさっきまで店内にいた客が、愕然と口を開いて立っていた。
「あ、あの」
ゆっくりと俺は客に近づいていった。
「名前、なんて言うんですか?」
「うおおおおお」
右頬に対話を拒否した男のストレートが決まった。俺の頬の皮はトルコアイスさながらに伸び、一瞬ぐらついたものの、20年物の脂肪で骨のほうに伝わる衝撃はそこまでない。
「ウオオオオオオッ」
「もう一発入れろぉ」
周囲の研究者たちからは歓声が上がる。肥満男性と痩身男性の殴り合いが、そんなに面白いか?よくある喧嘩にしてもスピード感がないだろ、素人だし。そう思っても研究所の従業員たちは片手にカップ麺をもちながらバトルを眺めている。昼休憩を消費してまで見るもんじゃないのに。
「なるほど。コイツが使えんのは[叩く]か。あんまし効いてなさそうじゃねえか」
キザな少年が顎に手の甲を乗せると、男はその近くに戻っていった。俺の反撃を受けないように、ヒットアンドアウェイで距離を取っている。
「ちょっと、何するんですか」
俺は男に声を上げた。
「分かってんだよ、分かってんだけどさ、体がきかねえの。わかる?」
「そうなのか?」
「漏れの意志に関係なく、動くんだ。やめてくれ」
元ネタが正しければ、このバトルは相手が瀕死になるまで戦わなければならない。ということはだ。実際の人間のダメージ量の可能性も否定できない。
ただ見ず知らずの相手とはいえ、それを殴ったり蹴ったりするのはどうしても気が引ける。
少し痛みが響いている頬をさすりながら俺は考えた。どうやったら相手を楽に倒せるか。
「おい、モッツァレラ!」
後ろから少女の声が響く。
「テメエ、本気だせよ、え?何だよさっきの[わざ]はよ。本気で倒しに行かねえと終わらねえだろうが!」
「あの、でも相手は人間ですし」
「はあ、テメエらはチー牛だろ、人間じゃねえよ」
人間じゃない?そう言われても俺には今の体は人間そのものに見える。そして目の前にいる少女もそう変わらないフォルムだ。某人気ゲーム作品とはそこが大きく違う。俺たちのことを「チー牛」という名前で呼んで、そして使役するらしい。
この世界ではチー牛という存在は人間扱いされていないのか?
「だからさっさといけっつってんだよ!相手を潰せ」
もしこの世界のバトルのシステムが何もかも同じなら、急所を狙って一撃で相手を倒したほうが、楽になるはずだ。「たま」を一蹴するのは少々気が滅入る。俺がいうのはアレだがよれたシャツには牛丼のシミが残っている。アイツはこぼしながら食べてたうえに、一度口の中に入った汁だとか食材の破片だとかにスーツを一瞬でも触れさせるのも嫌な感じだ。汚そうなのは明らかだし。
「かわせ!」
俺もできる限り動いて拳を振るうも、当たらない。相手の痩せた男は、キザな少年のかける号令に従順に動いていた。
俺は運動不足がたたってか、頭で考えているのと、自分の体の動きが全く合わなかった。手足の振りなんか、ドッジボールの球速よりも遅いのだ。当たるわけがない。後ろでは少女がうるさくわめいている。
「テメ、真面目にやんねえと潰すぞ、ミキサーかけっからな、ああ?」
たいそうお怒りのようだ。俺はしゃあねえ、と業務モードに切り替える。
頭をさっぱりさせて相手の出方をうかがった。向こうさんはこっちの攻撃がなかった間は二三発、続けざまに「叩く」の連発だったのが、急に立ち止まった。
「やめてくれえ」
騒ぐ男の動きに、一瞬だけ身が止まる。同じ日本からきた見ず知らずの同士である。同情とやらで動きが鈍った。
その一瞬の間隙を突いたのだろう。
俺の急所にあたるみぞおちに、短い腕がぐにゃりと入る。
「うっ」
視界が白む。
にやりとあくどい笑みが向こうに見えた。
なるほど。そっちがその手を使うというなら、俺にもやることはやらせてもらう。
みぞおちを決めた男の反対側の腕を俺は掴んだ。格闘技をやっていないやつの打つパンチは、「引き」がない。だから、振りがでかくあと隙が長い。はじめから俺はそこだけを狙っていた。
焦る男。だが、もう遅い。胸板を全力で叩けば、男はひゅっと息を吸って俺の手を離れる。
痩身の男は2メートルとは言わぬくらい、はるか後方に吹き飛んだ。その場に崩れさるのではなく、普通そんな入るもんかと驚くほどに。
どでかい歓声が上がる。
「っしゃオラぁ、追撃入れろぉ!」
少女の声をうけ、俺は走ろうとする。しかし、膝が重い。足が体重が重くなりすぎたのか、俺の関節は悲鳴を上げて減速し、その場に座りこんだ。
「く、くそ」
一方で痩身の男も、倒れたままで起き上がれない様子だった。事態は少し膠着する雰囲気が出ていた。その時、キザな少年が持っている端末を読み上げ、首を捻った。
「この、[えんじょう]ってのは何だ?」
キザな少年に使役された男は、使い主に頭を左右に振って懇願していた。
「やめてくれえ、使いたくない。もうアレはいやだあああ」
「炎上、だと?」
名前からしてヤバそうな雰囲気しかしない。なんとか避けられないだろうか。アニメのように華麗な回避スキルが備わっていたりすればいいのに、もし燃えた木片をそのままぶつけられたら、大やけどではすまない。それこそ瀕死になってしまう。キザな少年が不敵に笑う。
「それなら、使うしかないよなあ!」
語尾をギターに似た高音で締め、少年は手を掲げた。
「チェダー![えんじょう]を使え!」
呼応したように少女も叫ぶ。
「モッツァレラ、[体当たり]で迎え撃て!」
体当たりで?そんな無理だ。火に対して攻撃で相殺できるのかもしれない。しかしゲームじゃない。俺にとってはこれはあくまで現実だ。そのままいけば拳や皮膚に火傷が残る。それは嫌だ。
「やめろおおおお」
「おい、また[わめく]を使うな!指示を聞けっつってんだろが!」
「優勝経験が足りんからのう、仕方ないようじゃ」
「るっせえ!」
俺の前ポケットに潜めたスマホが震えだした。さっきまで圏外だったはずのスマホには、連続して数々の通知が重なってくる。画面に表示された通知は罵詈雑言の嵐である。
「お前は最悪だ」
「黙って店を巡る前に罪を償え」
アカウントに大量の荒らしが粘着していた。俺のアカウントを引用し、大量の転載画像と共に悪質なコメントが届く。コイツは詐欺師です、という発言まで。
「なんだよ、これ」
俺はスマホを取り落としそうになり、慌てて拾った。いわれのない中傷が俺のアカウントに大量に届いていて、もう通知が来ない瞬間がない状況になっていた。
炎上って、そういう炎上か。
「最悪だ」
俺がスマホの画面から目を離したところに、顔面に向かって蹴りが飛んできた。
「うぶぅっ」
「よっしゃあ、効いたぜえ!」
鼻っ柱に強烈な痛みと鉄の香りがする。ぐらぐらと頭が揺れた。膝がすとんと落ち、不思議とこの男に負けるビジョンが映った。
効果は思った以上にやばい。かなりダメージがある。精神的にも、積み上げてきた自信が完全に何者かの手によって打ち崩されてしまったこと、おそらく火付け元はあの客だと思われるが、それだとしても効き過ぎだ。この世界だからだろうか。
まったく、何でもありかよ。
「とどめだ、チェダー、[叩く]!!」
「なにボサッとしてんだ!」
後ろから少女が一喝する。
「さっさと終わらせろ![わざ]はバトルの間だけだ!」
とすればこの炎上もか。
客とはいえ、同じ店で食った仲間とか言えない。見ず知らずの相手にわけもなく燃やされたことで、相手の少年に対し、少しばかり、いや、かなり怒りが来ていた。
「俺の楽しみを、奪うんじゃねえええ!」
俺は体に力を込めた。久しぶりに真剣に運動する。今の俺は少し動いただけで汗が噴き出る。手足がきしみ、変な痛みがする。それでいて可動域は某バーガーチェーンのおもちゃくらいだ。が、それでもその一瞬に、瞬間的なダメージを与えることができればあの男に勝てる。
「いけ、モッツァレラ、[体当たり]だ!」
「了解!」
俺は溜めた力を解放し、体に熱気を纏って走り出した。案の上、肺の中にはあまり空気が残らない。酸素が一瞬で使われた感覚がある。それでも目の前の相手を倒せば、とりあえずアカウントの復讐は成るわけだ。
重戦車と化した俺の体は、見事に客の男を弾き飛ばし、そのまま俺は悪質タックルさながらに下半身をおさえ、そいつの上にのしかかるようにして、倒れ込んだ。
ややえげつない音がした。
「うぐううう」
しばらく俺の体の下で抵抗していた男だが、酸欠を起こしたのか、そのまま腕をだらんと落とし、戦闘不能となった。勝ち誇った顔で少女は顎を突き上げる。帽子の下から、少年を嘲るように言った。
「はっ、おれの勝ちだな、ゴミクズ。1000円よこしな」
「くっそお」
キザな少年は唇を噛みしめる。その手には怒りがにじんでいた。
「お前に負けるのはコレで最後だ。今度こそ、ウルトラスーパー強えチー牛そろえて戦ってやるから覚悟しとけよ」
財布を出すと、そこからあるだけの金を少女は抜き取った。どう見ても千円じゃあすんでいる様子がない。最初に貰ったらしい紙幣が見えるだけでも4、5枚以上はある。
「何しやがる」
「ゴミクズにこんな大金必要ねえだろ、また負けるんだし」
「これ、いいんですか」
俺は博士に向かって投げかける。博士は無言で文献を開き、ノートにペンを走らせている。集中しているのか、見ない振りをしているようだった。
勝者は敗者の金をむしり取っていい、そういうルールらしい。財布を雑に投げ返された少年の拳が硬くにぎられる。
「おれの名前はゴミクズじゃねえ、ロミクスだ。覚えとけ!」
もう一人のチー牛に謎のスプレーを吹きかけると、キザな少年は去って行く。少女は知らねえよと言った。
「じゃ、モッツァレラ。テメエの出番は終わりだ。目の前から消えてくれ」
彼女は腕を伸ばして俺に六面体を向ける。その中にドアのような部分があり、そこに出てきた時と同じ白い渦ができはじめた。中にはさっきまでいたあの四畳間が見える。
「いや、ちょっと待っ」
体は抵抗むなしく吸い寄せられ、四肢は宙に浮いた。ああ、またあの場所に隔離されるのか。そう諦めかけていたその時であった。背中のほうでぼふっと言う音をして体の動きが止まる。
吸収口が小さすぎて、入らないのである。そこへの台風ともおぼしき吸い取り力は俺の脂肪を吸い寄せ、引き上げる力があった。しかし、そこは開いているのに。体の全ては、収まらなかった。俺の体が余りにも横幅が大きすぎたらしい。
「クソ、テメエ特殊なチー牛だな、ったく、どうやって博士はこんなデカブツをねじ込んだんだよ」
それは、俺が知りたい。俺は別世界から来た存在で、目が覚めたらこの中にいたと説明しても多分一切聞いてくれないだろうし、聞く気すらなさそうである。
少女は地団駄を踏んでキューブから手を離した。中途半端にくっついたままの俺の体をおしこもうとしてあらゆる方向から俺の脂肪を掴んでは、うええ、キモ、などと言いながらねじ込む。
「俺としては入らないほうがいいんだけどな」
「ふざけんじゃねえ!入れよ!これだとおれがスキ好んでテメエを連れ歩いてると思われるじゃねえか」
「アンタが適当で選んだんじゃねえか」
少女は目を泳がせる。
「それは確かにそうだけどよ」
「ペットとかだとしてもよ、世話をするだとか管理するのは飼い主だっていうじゃねえか」
やや優位に経った状況だ。こうすれば俺も単なる使役対象ではなくなる。管理が難しいと思われてどっかの施設に連れて行かれるのかと思ったが看板に「チー牛は捕まえたあなたの責任です」というメッセージが書かれているのが目に入り、俺は少しにやけてきた。
「キッショ、笑うなよ。さっさと入れ」
「そう言われても入らないもんは入らないわけで」
「ああイライラする、一発殴らせろ」
そう言って、少女は俺の脇腹にフックをえぐりこんだ。正直さっきの対戦相手よりもダメージが痛い。普通に鍛えているのであろうほどの威力で、俺は意識が飛びそうになった。
「おれはコマンダー。あんたはチー牛。主従関係をわきまえろよ、ったく」
変わると思ったのだが、変わらないらしい。俺は恐々として少女を見上げる。彼女は黙ってキューブを握り絞めると、俺を解放した。腕の血管が浮いて見える。
俺のほうはというと、若干背中側の肉が、内出血を起こしていた。
「しゃあねえか。しばらくはこうしとけ、だがな、今おれは非常に不愉快なんだ」
年下の少女の機嫌を伺いながら俺は地面に手を突いた。
「あの」
「何文句あんだよ、テメエのせいだろうが!」
何もしてないのに、目線だけで勝手に怒られ、勝手に怒鳴られた。
少女は俺の胸ぐらを掴み、額につくほどに接近し、怒りをあらわにして俺の目の奥をのぞき込んだ。一般的にこんなに接近されれば距離としては緊張する距離だろうが、今は別の意味で緊張している。
「「決闘はいかに相手を早く殴り倒すか、それが全てだ。だってのに、テメエ何しやがった?命令無視に、戦闘放棄。しまいにはおれに偉そうに講釈垂れようとしやがって。テメエはこの世界での弱者だ。黙って使役されてればいいんだよ」
鼻を鳴らして、少女は俺の腹を蹴った。
「すいません」
何で謝ってんだろう。
「今度からは腹じゃねえからな」
バトルで殴られ、普通にしていても殴られる。俺は殴られる運命にあるらしい。潔くこの事実を受け入れるしかないというのか。この世界観もよくわからない。
「ああ」
「来い、ゴルゴンゾーラ」
渋々俺はついていくことにした。下手に逆らって機嫌を損ねると面倒だ。余計なことはしないでおく必要がありそうだ、とはいえ俺にそれができるかはわからない。
出来てたら、27の歳で童貞やってねえ。にしても、反抗期ってこんなに苛烈なものだったか。思い出したくもない記憶が蘇ってきそうだったので、一旦考えることをやめた。
そんなついていく廊下の中で、呼び止める男が一人いた。さっきまでバトルをしていた部屋でインスタント麺をすすり、野次っていた研究員の一人。彼は片手で走っている間にずれたメガネを直し、手に持ちきれるかわからないほどのハコを持っていた。
「なんだ、それ」
「チー牛捕獲用のキャプチャーキューブ[四畳一間]と市販の傷薬です。そのうち使うことになると思いまして」
俺がさきほど戻されそうになったやつである。
メガネの研究員は手に持ちきれるかわからないほどのハコを持ち、袋に入れて少女に手渡そうとしてくる。だが。
「いらない」
少女はその腕を払いのけ、そのまま出口に向かって強く踏みしめながら歩いて行く。研究者の細腕から袋がこぼれ、その中に入っていた六面体が床に散らばって高い破裂音を立てた。
一切の容赦のない拒否。それでも研究者は慌ててそれを拾い集め、少女の隣に追いついてくる。
「使い方が分からなければ、私がお見せしましょうか」
「いい、分かってんだ。要らねえよ」
そういって、今度は研究者の胸板を突き飛ばした。はねのけられた男は硬い床の上で顔を歪ませる。
「こういうのは一応貰っといたほうが」
「バケモンが喋るな」
氷の刺す視線で、少女は俺を睨み付けた。えも言われぬ風格を感じて、俺は体が固まった。これは俺なんかがやるより確実に防御を下げる効果すらありそうで、もはや彼女が戦った方がよっぽど俺よりも強そうな気がしてくる。
「あいつ、まだいやがる」
研究員が寂しそうな立ち姿で自動扉の前にいた。清掃用の看板の隣で出口を塞ぐようにいる。こちらが近づくと、彼は頭を下げ恭しくこちらを見た。特に少女のほうをまっすぐ。
「無理言ってすみません、ホントは俺、さっきの戦いであなたのファンになったんです」
どこが?何が魅力的な要素だったんだ?おっさんの取っ組み合いだが?少女はポケットに手を突っ込み、猫背気味の背筋をややのけぞらせて、研究員を笑った。
「はっ、あんなんでか」
「ハイ!」
自信に満ちあふれた精悍な顔で彼は言う。
「なので、ぜひ受け取っていただきたいんです」
「迷惑、なんだけど」
「それでも、お願いします、あなたがチャンピオンと戦われる時にはかならず応援しに行きますから」
少女はポケットに手を突っ込み、至極不平そうに口をとがらせ、六面体の入った袋を掴んで外に出た。俺はその後ろを無言で歩いた。
さっき入店したばかりなのに、久しぶりに外に出た気がする。
「行くぞ」
研究所のビルにゴミ捨て場があるのを見つけると、彼女は袋を投げ捨てた。
「次の町に向かう」
そう言って歩いていった少女は、ひときわ幅の広い幹線道路に出たあと、近くのバス停で止まった。ゲームだとこういうのって徒歩で行くものだ。そうじゃないのか、と聞くと乱暴に髪の毛を弄ったあと切れ気味に返してくる。
「あのなあ?テメエを連れて遠く行くんなら普通バスだろ、歩いて行ったら遅えしよ、さっきからゼエゼエゼエゼエいいやがって。口閉じようもんならお前の鼻息無駄にでかいし、なんか熱気みたいなの出るし、クソキメエんだよ」
「キモい?」
分かってはいるが、面と向かって言われるとやっぱり傷つく。
「生理的に無理だ、つってんの。テメエ、いい加減自分のキモさを自覚しろよ、ゲームのキャラとかで許容されるキモカワ具合を超えてるから」
ひどくないか。
「なんかそれでもゲームとかだと道ばたで戦ったりしてレベル上げるだろ」
「ここで生きてるってことはゲームじゃないし、テメエなんかに構ってないで、急いで帰らんといけんの」
帰る?それは確かに帰りたいが、なぜこの少女がそんなことを知っているのだろうか。どうして……
「え?」
「は?」
俺と少女は目を合わせた。