七章 真相の底
一.
話は少し戻る。
アビが紙と筆を受け取るため、ほんの少し納屋から離れていた間だけ、雪加は嘴広鸛と二人きりで話をする機会を得ていた。
「広鸛、大事無いかえ?」
雪加は縛られてもいなかったので、両手を縛られたまま床に転がされていた広鸛を抱き起すと、彼の手の自由を奪っている縄に触れた。
しかし鴉威独特の結び方をしているようで、解き方が分からない。
そして彼も助けてほしいとは言わなかった。
「ご案じなさいますな。下手に解けばあの男が姫様を咎めるのは必定。このままで構いません」
「すまぬな、広鸛」
「それより雪加姫がご無事でこれほど嬉しいことはありません。天帝は美しきを愛でるお方。雪のように白けき肌を持ち、光り輝く翡翠の如き姫様には、天帝の格別なご愛顧があることを改めて知りました」
「……それはまぁよい」
雪加の美しさを讃える歌を詠み、翡翠姫の名を世に知らしめるきっかけを作ったのはこの男である。
高貴な姫君として暮らしていた頃は、広鸛の言葉はただひたすらに耳触りが良かったが、年始の変以降、雪加は耐えがたい苦難の日々を送ってきた。さすがにこの男の舌の軽さも見抜けるというものである。
それでも雪加は固く戒められた広鸛の手を握ってやった。
木京の片隅で身をひそめて暮らしていた彼のことを、命の危機に晒すきっかけを作ったのは他でもない雪加なのである。
それに旧知の人に会うことができて、それ自体は純粋に嬉しい事だったのだ。
「そなたは今までどこにおったのじゃ?」
「実は、姫様の乳母を務めていた女に助けられまして」
「秋沙に?! 秋沙が木京におるのかえ?!」
雪加が歓声を上げてしまったのは当然のことだった。
秋沙には数年前から会っていないが、雪加は心の底から慕っている。
何しろ生母である崔皇后は雪加の美しさを愛で、可愛がってはくれたが、実際に身の回りの世話をしてくれたのは乳母なのである。
雪加を産んだ時にはもう高齢だった皇后には、育児を行うだけの体力が無かったのかもしれないが、それでも彼女はどちらかと言うと雪加を着せ替え人形のように扱っていたフシがある。例えば幼い雪加の髪型を今流行りの新しいものにしようとしたのに娘が途中で飽きてしまい、むずがって動いたら、激しく折檻した。
それは皇后陛下のご母堂様としての愛ゆえなのです、姫様にはいつも美しくあって欲しいと願われているからこその振る舞いです、と秋沙から諭され、雪加もそういうものかと納得していたものの、やはり心から甘えられたのはいつでも側にいてくれる秋沙であった。
だからこそ秋沙の娘として、彼女から特別に大切にされている鴎花に対しては嫉妬心を覚え、彼女の痘痕をことあるごとに嘲笑ってきてやったのだが、それにしてもまさか、彼女がこの木京にいるとは!
「この屋敷の裏口を出たところに寺があります。五重塔があるので場所はすぐに分かりましょう。その寺の山門から入った左側に大きな松の木があり、その下に半分傾いた小屋がありまして。寺のご厚意でそこに彼女と共に住んでおります」
「なんと……」
「秋沙は姫様をお助けしたい一心で、盲た身で木京に出てきたと申しておりました。私も雪加姫を蛮族どもの手からお救いしたい気持ちは同じ。相通じる想いが天帝に届き、我らを引き合わせたのでしょう」
こんな話を広鸛から聞いていたので、雪加は翌朝、アビが彼を連れて出て行くと同時に行動に出た。
アビは鍵をかけていったから雪加は勝手に出ていけないと思い込んでいたようだが、この納屋は造りが大分古く、漆喰で固められた壁がボロボロと剥がれ落ちることには、前日から気付いていた。
そして案の定、一人きりになった雪加が壁を力いっぱいに押してみると、一ヵ所だけメキメキと壊れるような音がする。ここが弱いと判断した雪加はこの後一刻ばかりの時間をかけて壁をこじ開け、表へ抜け出すことに成功したのである。
外は良く晴れていた。彼がこの納屋に近づくなと命じているせいなのか、見張りもいない。
こうして雪加はこっそりと屋敷の裏口から抜け出し、広鸛から教えられた寺へと向かうことができたのだ。
秋沙に会うのは何年ぶりだろう。
眼病を患った秋沙は後宮での務めを果たせなくなり、娘を残したまま実家に帰っていたはずだった。
それが木京に来ているとは知らなかったが、彼女ならきっと雪加を助けてくれるだろう。
そして雪加の無事を喜び、幼い日のように優しく抱きしめてくれるに違いない。
広鸛の言っていた家はすぐに見つかった。昨日、明家の屋敷へ来る時に五重塔が近くにあることは目にしていたし、確かに寺の山門を入ってすぐのところに粗末な小屋が建っていたのだ。
小屋の脇には広鸛が割ったらしい薪がうずたかく積まれており、広鸛はこの寺で下男として奉公し、秋沙と共に薪小屋に住まわせてもらっていたようだと分かった。
小屋の辺りに人の気配は無いし、すれ違った人がいても、町娘の格好をした女に違和感を抱くことはない。
雪加はさっそく家の戸をそっと開けた。
この小屋は元は薪小屋であるため明り取りの窓が無く、家の中にはすきまから漏れてくる光しかないのでとても暗い。そしてその狭く埃っぽい暗闇の中では、誰かが蠢く気配があった。
視力を失った彼女に灯りは不要だったのだろう。雪加の目が暗さに慣れると、中年の女が土間の上に茣蓙を敷いて座り、自らの足指を使って縄を編んでいることが分かった。
その身なりは貧しく、束ねた髪の毛にも艶が無かったが、彼女の面影には覚えがあった。
秋沙は元々宮中で噂になるほど、美しい女であった。
その品のある、整った顔立ちはどれだけ薄汚れた格好をしていても、隠しきれるものではないのだ。
「……秋沙?」
「そ、その声は?!」
目を病んでいても、音は聞こえる。それに光の方向も分かるようで、秋沙は顔を上げて雪加の方を見た。
焦点の定まらぬ黒い目が声の主を求めて彷徨い、その姿を見た瞬間に雪加の喜びは頂点に達した。
「そうじゃ、妾じゃ! 雪加であるぞ」
「ど、どういうことで?!」
突然抱き着いてきた雪加に、秋沙は大いに混乱しているようだった。
無理もない。眼病を患っている彼女は雪加の顔がろくに見えなかったのだ。
それに気付いた雪加は、とりあえず戸を閉めて部屋を元通り薄暗くした後、秋沙の手を取り、自分の腕を触らせた。
いくら目が見えなくても。このきめ細やかな絹のような肌を感じれば、きっと雪加であると分かってくれよう。
そして雪加の考えの通りに、秋沙は白く濁った眼を大きく見開いたのだった。
「なんと、姫様……よくぞご無事で、かような場所へ」
「うむ。秋沙も元気そうで何よりじゃ。妾を案じて木京へ出て来てくれたのだと広鸛に聞いたぞ」
「まぁ、広鸛殿に」
「その心がけ嬉しゅう思う。あぁ、秋沙。目も見えぬのに、本当によくぞこごまで来てくれた」
雪加は改めて秋沙の首に抱きついたが、彼女の方はいまだ喜びよりも戸惑いの中にあり、おろおろと虚空に手を伸ばした。
雪加ではない、他の誰かを探している。
「で、では鴎花は? 一緒では無いのですか?」
「今は妾一人じゃ。あの者は今、妾に代わり僭王の妃を務めておる」
「えぇ?!」
「安心いたせ。あの男は鴎花を翡翠姫だと勘違いしておる上に変わり者でな、痘痕のある女が愛しゅうてならぬらしいのじゃ。ゆえに後宮へ残しておいても鴎花が命を取られることはあるまいて」
鴎花が翡翠姫になり替わろうとして雪加を軟禁していたことは伏せ、優しい表現で現状を説明してやったのは、大好きな秋沙のためだった。
秋沙にとって鴎花は実の娘なのだ。彼女には主君である雪加を大事にする気持ちとはまた別に、母娘の情というものがあるだろう。
それを察してやるくらいの優しさは雪加にもある。
だのに秋沙ときたら、鴎花がこの場にいないことを悟った途端、突然手首を翻し、雪加の頬を叩いてきたのだ。
「な、何をする?!」
不意をつかれた雪加はその場に倒れたが、秋沙はこれまでとは打って変わり、眉を吊り上げて雪加を睨みつけてきたのだった。
「身分をわきまえなさい。姫様を蛮族に差し出して、自分だけがのうのうと抜け出してくるとは、どういう料簡ですか!!」
「何じゃと?!」
雪加は何を叱られているのか、さっぱり分からなかった。
雪加は叱られるようなことなどしていないし、大体、秋沙は今、なんと言ったのだ?
姫様を蛮族に差し出して……?
一体どういうことだろう。秋沙は目だけではなく、頭までおかしくなったのだろうか。
しかし秋沙は視力を無くした眼を雪加へ向け、その体を掴んで前後に強く揺さぶってきたのだ。
その白目は濁って光を失っていたが、正気を保っていなかったわけではない。
秋沙はこれまで雪加に向けていたのとは明らかに違う、荒い声音で、滾々《こんこん》と説き伏せるように訴えてきた。
「よく聞きなさい。そなたが鴎花なのです。正真正銘の姫様は、疱瘡の痘痕を残してしまった鴎花の方。そなたは私の産んだ娘です」
「え……」
秋沙が並べた言葉は雪加にとってただの単語の羅列であり、その内容は到底理解しがたかった。
しかし雪加がついていけていないことを気にかけないまま、秋沙は言葉を続けた。視力の落ちていた彼女は、雪加の呆然とする顔がろくに見えていなかったのだ。
「姫様が疱瘡を患い、あの痘痕を残してしまってから、皇后陛下は大いに嘆かれました。美しいものを何より愛でられるお方ですから、どうしても現実を受け入れられなかったのでしょう。故に、そなたに目をつけました」
崔皇后は、秋沙に対し鴎花と雪加を入れ替えるよう命じたのだという。その頃二人は二才と三才。鴎花の方が半年ほど早く生まれていたが、背格好はほとんど同じだったから入れ替えても分からない、と皇后は考えたのだ。
「姫様の痘痕を消すことができれば、すぐにも戻してくださる約束でした。それに私が応と言わなければ、そなたと姫様、二人ともを殺し、自分に娘などいなかったことにするとまでおっしゃられ、到底拒むことはできなかったのです」
「そんなこと……」
「しかし疱瘡でできた痘痕を消すことはあまりに難しく、どれだけ手を尽くしても叶いませんでした。その間も、そなたは恐れ多くも姫様の代わりとして成長してしまい……真実を打ち明けようにも幼いそなたに影武者としての演技などできるわけもありません。ならばいっそ、このまま自分が雪加姫なのだと思い込ませておいた方が万事うまくいくのではと私も考え、恐れ多いことながら姫様には私の娘と偽っていただくことにしたのです」
「……」
「分かりましたか? そなたは鴎花です。姫様の乳姉妹にして臣下なのです。そなたのこれまでの姫様への不遜な態度、不忠をお詫びするためにも、これからは姫様の為に心を込めてお仕えしなければいけません」
秋沙は自分の産んだ娘が皇女様を蔑ろにしていることを、いつも苦々しく思っていたらしい。
しかし皇女として育っている娘に対し、あからさまに咎めることはできなかった。
その鬱屈した想いが、全てを打ち明けた今、怒涛のように溢れて来て止まらなくなってしまったのだ。
「分かったら、今すぐ後宮に戻って姫様を救い出してくるのです。翡翠姫が蛮族の王に囲われているとは噂に聞いておりましたが、まさかそなたではなく、姫様の方だったなんて……本当に、なんということでしょう。このような日が来るのなら、二人を入れ替えたことも意味があったのかと心を慰めていたものを、まさか私の娘が姫様を差し出して我が身の安泰を図っていたとは、なんと嘆かわしい……」
「……ならぬ。そんなことは認めぬ」
ゆらゆらと体をふらつかせながら立ち上がった雪加は、首を小刻みに横に振り、唇を戦慄かせた。
そして足を床に強く叩きつけ、地団駄を踏む。
踏みすぎて靴のつま先が土間を固めた土にのめり込むほど、そう何度も。
「妾こそが翡翠姫である。中原の宝玉と謳われし、美しい姫は妾の他におらぬ……」
「これ、鴎花!」
「鴎花ではない!!!」
この暗闇を切り裂くほどの甲高い声を上げた雪加は、秋沙を黙らせようとして、ほとんど無意識のうちに彼女の首に手をかけていた。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! 妾は翡翠姫じゃ。そんな戯言は認めぬ!! 翡翠姫なのじゃ! 妾は他の何者にもならぬ。何を今更……」
己の指が秋沙の皺の多い首に食い込み、爪の先から血が滲んでこようとも、雪加は腕に込めた力を緩めることをしなかった。
そうだ。
こんなこと、今更認めることはできない。
雪加は鵠国の第五皇女なのだ。高貴な翡翠姫だからこそ、アビに乱暴を働かれようが、辱められようが耐えてきた。
それが実は翡翠姫ではありませんでしたと言われても、はいそうですかとあっさり引き下がることなどできようか。
年始の変の折、崔皇后が雪加を連れて脱出しなかったことの理由を、唐突に理解した。
痘痕を嫌って実の娘すら切り捨てたような人が、美しいだけの着せ替え人形を大切にするはずがない。
だが雪加が翡翠姫でなかったのなら、これまでの人生とは何だったのだろう。
雪加が皇女として恥ずかしくないようにと諭され、懸命に学んできた歌も踊りも、高貴な振る舞いも、全てが全て無かったことにされるなんて、そんなことは到底我慢ならない。
雪加は翡翠姫である。翡翠姫であるべきだ。
この事実の方が間違っている。
ならば秘密を知っている者さえ、いなければよいのではないか? そうすれば雪加は今まで通りに翡翠姫でいられる……!!
「うわぁあああああ!!!!」
雪加は全身に溢れてきた想いを、ありったけの力で指先に込めた。
白磁の頬には涙が溢れ、制御が効かなくなった激情だけが体中に満ち溢れる。
やがて秋沙の身体は力を失い、その腕がだらんと垂れ下がった。
喉元から僅かに漏れていた呻き声も、止んでしまう。
それでも雪加はいつまでも母の首を絞め続けた。
真実をこの暗闇の奥底に隠してしまうこと……今やそれだけが雪加の心を支配する思いだったのである。
***
こうして雪加はふらふらとした足取りで明家の屋敷へと戻ってきた。
この時すでに夕刻で、雪加の脱走を遅れて知った明家の者達は慌てていたが、当人が自力で戻って来てくれたので大いに胸をなでおろしていた。
彼らは雪加のことをとりあえず壊れた壁を直してでも納屋へ戻そうとしたが、雪加はそれを拒否した。
「無礼であるぞ。妾は翡翠姫である。客間へこそ案内せよ」
雪加にとって幸運だったのは、この言葉を王檣の妻が真に受けてくれたことである。
彼女は今年の年始の宴で、雪加と顔を合わせたことがあったのだ。
いや、下級貴族である王檣の妻ごときが皇女と親しく口をきくことができるわけは無く、正確には挨拶に来た彼女に対し「苦しゅうない」と声をかけただけである。だから雪加の記憶には引っ掛かっていなかったが、彼女の方は皇女様の顔や声を覚えていた。
そして雪加があまりに尊大な態度を取るものだから、彼女は逆に恐ろしくなったようだった。
「これまでのご無礼、どうぞお許しくださいませ、姫様」
畏まった彼女は、雪加を客間へ連れて行き、要求通りに美しい衣装を用意し、化粧も施してくれた。
こうして翡翠姫に戻ることができた雪加は、夜遅くになってイスカの招聘を知ると、堂々と後宮に乗り込んだというわけだ。
「……長い間、妾はこの者に騙されていたのじゃ。妾を守るためと口先では言いながら、鴎花はその痘痕面すら利用し、陛下に取り入ってのぉ……全ては己が翡翠姫になり替わろうと欲したが故の、醜い企みだったのじゃ」
翡翠姫としての正装に身を包んだ雪加は、イスカの眼前で鴎花の罪を語った。
その一方的ともいえる説明に対し、鴎花は何も口ごたえしなかった。
彼女は平伏し続け、最後には「全て姫様のおっしゃる通りです」と言っただけだった。
鴎花は自分こそが翡翠姫であることを知らないのだ。だから本物のお姫様が乗り出してきたことで、すっかり参ってしまったのであろう。
そして二人の翡翠姫が対峙するのを目の当たりにしたイスカもまた、言葉が出てこない様子だった。
自分の信じていた、そして愛していた女が、実はその身を偽っていたと分かったのだ。その衝撃は計り知れない。しかも主君を幽閉してまで翡翠姫を名乗っていたとは、不忠の極みだ。
ここまで鴎花を追い詰めても、雪加に罪悪感は皆無だった。
雪加こそが翡翠姫なのだ。
そうあるためには、鴎花を蹴落とすしか無いではないか。
そして翡翠姫でいるためならば、蛮族の王妃であることも厭わなかった。
なりふりを構っている場合ではない。
雪加にとっては翡翠姫であることの方が、蛮族なんかの妻に身を落としたと蔑まれることよりも大切なのである。
鴎花はおぼつかない足取りで立ち上がると、部屋の隅に控えていた小寿ともう一人、雪加が見たことも無い褐色の肌をした年配の女の二人の前に立って命じた。
「今より、そなたらはこの姫にお仕えなさい。このお方こそが真の翡翠姫であられます」
「そんな……」
鴉威の女の方は、華語がいまいち分からないためか状況を飲み込めずに首をかしげるばかりだったが、小寿はその大きな体を震わせ、目には涙さえ浮かべている。
彼女には何か訴えたいことでもあるのだろうか。口を無駄に開閉させていたが、感情が高ぶり上手く言葉にならない様子だった。
いいのです小寿、と鴎花は彼女が口をきくことを目で制した。
「私は姫様の乳姉妹にして侍女にすぎません。それなのに陛下の情け深さに触れ、翡翠姫でありたいと願ってしまいました。全ては、過分な願いを抱いてしまった私の罪です」
あまりの急展開に狼狽え、ただただ涙を流すことしかできない小寿をむしろ励ますように、鴎花は淡く微笑んだ。
その背後から幼い男の子が顔を出す。いつの間にここへ来ていたのだろう。元々は隣室で寝ていたが、大人達が騒ぐから起きてきたようだ。いや、外はもう明るくなっていた。いつのまにやら朝を迎えていたのだ。
「杜宇も、元気でね。お母様を大事にしてあげるのですよ」
自分がかがむことで幼子と目線を合わせた鴎花は、小寿の息子に優しい口調で話しかけた。
そしてイスカに対しては改めて畏まり「本当に申し訳ございませんでした」と額を床にこすりつけて詫びた。
その後顔を上げた彼女は、しかめっ面をした彼が噛みつくような低い声で「待て」と命じるのも聞かず、屋敷を出て行ってしまったのだった。
***
こうして鴎花が屋敷を出て行ったことに対し、雪加は何の感想も抱かなかった。
むしろこれから自分が翡翠姫として振舞うことの方が重要で、一日も早くこの地位を固めてしまいたかったのである。
物心ついた時から皇女として育って来た雪加は、本物の翡翠姫がどのような振る舞いをするものなのか、はっきり分かっていた。
鴎花のように家事はしない。
ましてや獣臭い山羊の世話なんてするわけがない。
軒下に吊るされていた謎の白い塊もすべて取り払わせた。
代わりに用意させたのは香炉である。
気品溢れる香を炊き、生活臭が漂っていた屋敷の中の空気を、翡翠姫に相応しいものに一掃する。
そして部屋の中の香りが自分好みになると、雪加は琵琶も用意させた。
皇女として楽器の扱いは一通り習っていたが、一番得意としていたのが琵琶なのだ。
弦を弾き、久しぶりに奏でる嫋嫋とした琵琶の音色は、自分でもうっとりするほど美しく、そういえば広鸛もこの音色を絶賛してくれたと思い出す。
あの男は今頃どうしているだろうか。
そしてアビは?
雪加は彼らのことをふと思い出し、そして鼻で嗤った。
翡翠姫は威国の王妃になったのだ。過去の男のことなんて、何の未練があろうか。
もちろん生母である秋沙を殺めたことへの罪の意識もない。
(……あれは夢か現か)
秋沙に再会したという事実ごと、意識の中から消し去ろうとしている。この手指に残る、脈打つ肌を締め上げた感触なども全ては幻。気にしてはいけない。
大丈夫、こうやって優雅な白檀の香りに包まれていれば忘れていける。翡翠姫としての日常が雪加を支えてくれる。
こうして一日かけて優雅な暮らしを満喫した雪加は、日が暮れる頃には自らの奏でる琵琶の音色と共に、イスカを出迎えることになったのだった。
「お戻りなされませ、陛下。今日も一日、天帝のご加護と共に御身があらましたことを、お慶び申し上げます」
膝に置いた琵琶を抱き締めるようにして、雪加は夫である国王に対し優雅な礼を施した。
「さぁ、お着替えなされませ。そのように粗末な麻の衣は陛下には似合いませぬ。明日にも国王に相応しいものを妾が揃えましょう」
雪加が折角提案してやったのに、この男は目つきを険しくしただけで、返事もしなかった。
袖口に刺繍のあるこの着物を、よほど気に入っていたのだろうか。
雪加は仕方なく、別の話を持ちかけるしかなくなってしまった。
「では、すぐに食事の支度をさせましょうほどに。しばしお待ちを」
雪加は仏頂面のイスカを壁際の椅子へと案内したが、彼はそれを無視して、部屋の中央、絨毯の上に胡坐をかいて座った。
この蛮族の王は床なんかに座る習慣がいまだ改まっていないのかと、雪加は呆れたが、ここは文句を言うべきところではないか、と思い直す。この男に臍を曲げられては面倒だ。
それにこれは何も分かっていない蛮族に、作法を教えてこなかった鴎花が悪いことでもある。
雪加はやむなく彼に付き合ってその傍らに侍った。そして気を取り直し、艶やかに微笑む。
「今日は湯あみをいたしました。この身体は陛下のもの。美しく保っておくことも妾の務めでございますゆえ」
「……俺は風呂が好きじゃない」
しだれかかってくる雪加の身体を押しのけ、イスカはようやく口を開いた。
鴉夷には湯に入るという習慣が無かったのだ。
たくさんの湯を沸かすためには燃料が必要で、家畜の糞を集めて煮炊きや灯りに細々と使っていた鴉夷では、そんなもったいないことができなかったのである。
「あいつも好きじゃなかった。湯を使えば、全身の痘痕を下女達に晒すことになるからな」
イスカが鴎花のことをまだその名で呼んでいないことに雪加は気付いた。
同様に、彼は雪加の名も一度も呼んでいなかった。
その違和感には喋りながらイスカも気付いたようで、彼はこの直後自らその点について弁明した。
「俺はお前のことを雪加と呼べない。今更お前が雪加だったと言われてもぴんとこない」
「よろしゅうございます。妾は陛下が慣れてくださるまでゆっくり待ちますゆえ」
雪加はイスカと距離を置いて座り直すと、鷹揚に微笑んだ。
翡翠姫とはそういうものだ。美しい女はただこうやって笑って座っていればいい。それだけで男は崇めてくれるものなのである。
しかしイスカはそんな雪加を一瞥しただけで、興味無さげに顔をそむけるのだ。
(……あぁ、なんと女々しい男であろうか!)
あの痘痕面よりも雪加の方が何百倍も美しいのに、どうしてそれを認めようとしないのか!
そして雪加こそが翡翠姫であると判明したのに、どうしてこの男はいまだに鴎花への未練を引きずっているのだろう。思いがけず美しい娘を手に入れたと、素直に喜べばいいものを!
微笑を浮かべていたはずの頬が引きつったところへ、小寿とウカリが食事を運んできた。
二人とも声を発しない。恭しく一礼を施すと、己の務めを淡々と果たした。
侍女とはそういうものであると、雪加が教えたのだ。
下女上がりの小寿も鴉夷で育ったウカリも、翡翠姫に対する礼儀をまるで知らず、雪加は呆れかえっていた。
鴎花が侍女をきちんと躾けてこなかったせいであろう。
大体、幼い子供を連れて奉公に上がるとはどういう料簡か。
子供はちょろちょろ動き回って小寿の足元ににまとわりついては「妈妈、妈妈」とうるさい。
折を見てこの二人は辞めさせ、もっとまともな女をつけるようにさせようと思っている。
彼女らは絨毯の上に膳を並べると下がっていったが、イスカは出された料理に一切手を付けようとしなかった。
料理人達が腕を振るった華やかな宮廷料理の数々をつまらなそうに眺めている。
そんな彼は、酒を注いでやるべく再び傍らへ座った雪加に対し、冷たい声で尋ねた。
「……お前にはあいつの代わりに俺の王妃になるという覚悟があるのか?」
「もちろんでございます」
「だが、鴉威の者達は王妃の身体に痘痕があると知っている。つまり痘痕がある者が王妃だという認識だ」
「その認識は改めてもらうしかございませんね」
「いや、お前にも痘痕があればいいだけのことだろう」
「ほほほほ。それは、無理な相談でございましょう。疱瘡は一度かかれば、二度とは罹患いたしませぬゆえ」
雪加は一笑に付したが、イスカは笑わなかった。ただその蒼い瞳の奥に冷淡な光を見せただけである。
イスカは膳に添えられていた長い箸を一本だけ掴むと、膝を使って半分に折った。表面には漆を塗って艶やかに仕上げてある箸も、その内側はただの木片であり、断面は当然、刺々しいものになる。
「そうだな。だが、似たようなものなら作ることができよう」
雪加が彼の発した言葉の意味を理解した時には、もう遅かった。
そしてこの直後、香龍宮にはこの世のものとは思えない絶叫が響き渡ったのである。
ニ.
一方、香龍宮を出た鴎花は地下牢へ赴いていた。罪人である自分を幽閉してもらうためだ。
しかし牢屋というものは、そもそも自主的に入るような所ではない。
後宮の出入り口には華語を解する者がいたから鴎花の気迫に押されて表宮まで案内してくれたが、その先にいた牢屋番は鴉威の言葉しか分からない者ばかりで話が通じない。
しかし不毛な押し問答をしているところへ、アビが護送されてきたのだ。そして彼が「堅い事言うなよ。本人が入りたいって言ってるんだから、いいじゃねぇか」と間に入ってくれたため、昼過ぎになってようやく入牢することができた。
ただ一点、おかしなことになってしまったとすれば、話の流れでアビと同じ牢の中へ入ることになってしまったところだった。
もちろんそれは、アビがそうなるよう仕向けた為である。
「……で?」
澱んだ空気と冷気に包まれた地下牢の中、胡座をかいて座ったアビは、さっそく身を乗り出して鴎花に尋ねた。
「状況がさっぱり分からないんだよ。何がどうなったら、お前が自ら牢屋入りを希望するような話になるんだ?」
彼は鴎花からその辺りの話をじっくり聞きたかったらしい。
どうしてこの男と二人きりで向かい合う羽目になっているのか、いまいち腑に落ちないものの、鴎花はここに至るまでの説明をした。
「ふうん……まさか、あいつが自分から翡翠姫だって認めるなんてなぁ」
鴎花から話を聞き終えたアビは感心したように、大きく息を吐いた。
ここに入る時、アビが牢屋番達に頼んで譲ってもらった茣蓙の上で、互いにかなり近い距離で座っていたため、吐き出した彼の生暖かいため息は全て鴎花に当たった。
「しかも今まで自分の身代わりになってくれていた忠臣をあっさりお払い箱とはな。全く、大したタマだな」
惚れ直した、とまでは言わなかったが、それに近い表情をアビは浮かべていた。
「まぁ、雪加のことはとりあえず置いておこうか。ここにいない奴のことを話しても仕方ないもんな。それでお前は? なんで入牢なんて希望するんだよ? そもそも、あの八哥がお前を手放す訳がないだろ。翡翠姫は飾り物の王妃にでもして、お前は妾の立場で側に残っても構わないはずだぜ」
「いいえ。私は陛下を謀っていたのですから、許していただけるはずはありません」
鴎花はイスカが翡翠姫を娶る意味をよく知っていた。
天帝の血を引く娘を得ることで、中原の王となる大義名分を得られる。
そして翡翠姫が子を産んで、その子が王となれば、威国は中原に根付くことができるだろう。
しかし鴎花ではそれが叶わない。
そうと知っていて、鴎花は翡翠姫を演じ続けた。これほど重い罪は無いと思う。
「ですが、私には二つだけどうしても聞き入れていただきたいことがあるのです。ですからそれが叶うまでは、ここでおとなしくしていようと思うのです」
「要するに殊勝な態度を取って、八哥から温情を引き出そうって肚なんだな。随分な策士じゃないか」
「何とでも仰ってください」
鴎花はむくれた顔をし、膝を抱えて座り直した。この茣蓙、二人で座るには狭くて、それでもアビとの距離が近過ぎて、どうにも居心地が悪い。
「それであなたの方は、どうしてここに?」
「俺か? 俺は八哥をあるべき方向へ正そうとして失敗しただけさ」
鴎花からは具体的な話を聞きだしておきながら、アビ自身ははぐらかす気らしく、何も言ってくれない。その上、彼は急に恨みがましい目つきになって鴎花を睨めつけてきたのだ。
「大体さぁ、お前が悪いんだぜ」
「え?」
「お前と出会ってから、八哥は八哥じゃなくなった。華人なんかと馴れあうようになったのは、八哥がお前にのめり込んだせいだ」
「陛下は中原の王として相応しい、華人と鴉威の者、両者の上に立つ人物になろうと努めておられるだけです」
「八哥は鴉夷の王なんだから、華人のことなんて気にしなくていいんだよ。もっと言えば、俺のことだって斬り捨てればよかった」
「え?」
「俺は罪を犯したんだ。八哥が罪人を斬るのは当然じゃないか」
「それは……陛下に罰してほしい、ということですね?」
鴎花は首をひねりながら聞き返した。アビの言葉の中に潜む、イスカへの甘えを微かに感じたのだ。
絶対的な指導者に己を預けることで、自分は何も考えずに済むようになるということか?
もしイスカが罰してくれなかったら、アビは自分で自分を裁かねばならなくなる。そうまでして、自分の罪と向き合いたくない、と……?
いまだ幼さを残す顔立ちをしているくせに、この青年は一体どんな業を背負っているというのだろうか。
「あぁそうだよ。俺は罪人だからさ」
アビは頷くと同時に、眉尻をびくんと跳ね上げた。自分と同じ色の瞳に仄暗い影が走るのを鴎花は目撃することになった。
「……そうだ。お前を滅茶苦茶にしてやろうか。そうすれば、八哥は俺を斬ってくれるかもしれない」
突然の思いつきをアビはすぐさま実行に移す。鴎花の身体を押し倒して茣蓙の上へと組み伏せてきたのだ。
しかし鴎花は咄嗟に体を丸くしてそれを拒んだ。
「困ります。私は陛下以外の方に、この身体を捧げるつもりはありませんから」
「……俺も別に痘痕だらけのお前なんか抱きたくない」
鴎花が悲鳴の一つも上げず、淡々と拒絶したので、アビはつまらなくなってしまったようだ。元々その気も無かった彼は、鴎花の身体を放り出して、そのまま茣蓙の上に寝そべる。
それは構わないのだが、そうすると鴎花が座る場所が無くなるので困ってしまう。
「あの……一人で茣蓙を占領しないでください」
「これは俺が貰って来たんだぜ」
「ですが石床の上に直接座るのでは、体が冷えます」
「じゃあ、お前はここから出ればいいじゃないか」
「そういうわけにもいかないとは、先ほど説明したとおりです」
「面倒な女だな、お前も」
「とにかくそこに座らせてください。私がお腹を下して、そこの壺の中を汚物でいっぱいにして耐え難い悪臭を放ってもいいのですか」
「……しょうがねぇなぁ」
鴎花があまりにしつこく要求するので、アビは起き上がると、渋々半分を譲ってくれた。そして今度は背中合わせで膝を抱えて座ることになる。
そしてこんなやり取りをしているうちに、鴎花にはアビのことがなんとなく分かってきた。この青年はやたらと鴎花に敵意を持ち、ことあるごとに突っかかってくるが、実は鴎花自身のことを嫌っているわけでは無いらしい。
単にイスカのことが好き過ぎるだけなのだろう。だから兄を変えてしまった鴎花のことが気に入らない。ただそれだけなのである。
少しばかり彼に気を許した鴎花は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「あなたは姫様のことを、どのように考えているのです?」
「それ、今の俺に聞くのか?」
アビはむっとした顔をして、直後にこれ見よがしなため息をついた。そのくせ一度喋り始めると、止まらなくなるのだ。
「俺がどう思っているかなんて、何の意味もない話だぜ。あいつは今はもう、八哥の正妻に収まって翡翠姫でござい、ってふんぞり返ってるわけでさ。お前を身代わりにしてまで蛮族の王妃にされるのを嫌がってた奴が、自ら八哥にすり寄るなんて、どういう神経してるんだよ。とんでもない尻軽女じゃねぇか」
文句が溢れてくるということは、それだけ彼女を失ったことに不満を抱いているということだ。
実はこの男は雪加のことを本気で好いていたのだろうかと鴎花は疑ったが、その直後「俺はあいつのことなんて嫌いだよ。大っ嫌いだ」と真っ向から否定されてしまった。
「だってあいつさぁ、俺の母にそっくりなんだぜ」
「お母さまに?」
「あぁ。華人がこの世で一番優れた民族だって思い込んで、それを俺に押し付けてくる人だった。高慢ちきで、気位ばかり高くて……そうさ。俺は嫌いだからあのお姫様を抱いたんだ。華人としての誇りを、完膚無きまでに壊してやったんだ。なのにあいつは全然揺るがない。いつまでも誇り高い翡翠姫のままで、一向に死のうとしない。全く……そんなとこだけ、母と違うなんて、おかしくないか?」
「そんな理由で姫様を……?」
それはあまりに身勝手な言い分であり、鴎花は驚いてしまった。
「あなたが翡翠姫を娶れば、この中原を治める王としての権利も生じるのに。そういうことを考えたわけではなかったのですか?」
鴎花の問いかけに、アビは一瞬呆けたような顔をし、次の瞬間、笑い出した。
「なんだそりゃ。俺がそんな真っ当な野心を抱くかよ」
「……それ、姫様も同じことを言っていましたね」
鴎花が指摘すると、アビは途端に憮然とした顔になり、明後日の方向を向いてしまった。
彼女が自分のことを意外に理解していると知り、どうにも決まりが悪かったようだ。
そして視線を動かしたおかげでアビは、この牢屋の鉄格子が一本だけやたらと錆びついていることに気付いたのだ。
この時、アビと鴎花は地下牢の奥深くにいた。
アビは鴎花と心置きなく話をできるように、他の囚人が近くにいない場所へ入牢させてほしいと希望したからだ。
アビはその気になれば愛想よく振舞える男であり、更には牢屋番達とは同郷のよしみもあったので、希望通りの牢屋へ入れてもらっていた。
もちろん手鎖は無し。灯りだってちゃんと二人分の灯明皿を用意してもらっていた。
「これ、壊れるんじゃないか?」
アビは錆びた鉄格子に興味を抱いたようで、これを強く揺さぶり始めた。
この鉄格子だけが妙に錆びている原因は、天井から滲み出していた水滴のせいだった。
天井の傾きの都合などもあるのか、ちょうどその鉄格子の真上で水が溜まり、格子を伝って流れ落ちてくるようになっていたのだ。
長年かけて水に濡れ続けた鉄の棒は赤茶色に変色していて、アビが力を込めて動かすと、一番弱っていた下部が崩れるように壊れた。こうなればあとは簡単で、全身の力を込めて押し付けることにより、棒の上部の根本が外側に向かってくの字に曲ってくれた。
「牢屋破りができるな」
鉄格子一本が無くなった空間は、人がギリギリ通り抜けられるくらいの大きさだったのだ。強引に自分の頭と肩をねじ込んでみて、擦り傷を作りつつも出られると分かったアビは喜んでいたが、自主的に入牢した鴎花にとっては脱獄などありえない話である。
「そんなことをしてはいけません」
「堅いこと言うなよ。このままずっとここにいるのも飽きるだろ。体を動かさないでいると、そのうち筋力が落ちて動けなくなるんだぜ」
「……」
「じゃあお前はここに残れよ。引き止めたけど、俺が勝手に出て行ったって報告すりゃいい」
そう言って出ていったはずのアビだったが、この後しばらくして、血相を変えて戻ってきた。
そして渋る鴎花を「いや、それどころじゃないんだ。大変なものを見つけてさ……とにかく来てくれ」と無理矢理説き伏せ、この地下牢のさらに奥底へと連れて行ったのだ。
***
地下への階段を一段下りるごとに、周囲がより一層淀んだ重い空気で満たされていくのを鴎花は感じた。
寒さや、通路の灯りが乏しいせいだけではあるまい。
この牢屋に入れてこられた人達の苦しみや、呪詛の念がこの最深部に蓄積している……そんな気がするのだ。
あまりに長い階段を降りたので、鴎花はこのまま地の果てまでたどり着いてしまうのではないかと疑ったが、しかし人の作ったこの空洞には終わりがあった。
そして一番奥底、行き止まりの牢屋の中には一人の囚人が捕らえられていた。
茣蓙にくるまって石の床の上に転がった体は小柄で今にもへし折れそうなほど細く、彼の左手首は鉄の鎖で壁と結び付けられている。
鴎花達が階段を降りてくる気配に気付いて顔を上げるから、死んでいるわけではないようだ。
牢屋番達も世話だけはしているようで、食べ終えた皿は残っているし、寒さに耐えられるように着物も多めに与えられている。それでも彼には灯りすら用意されておらず、その待遇は劣悪であると言っていい。
囚人はゆっくりと上体を起こしたが、その動きは緩慢で老人のようだった。
一体誰なのだろうと、灯明皿を掲げて顔を覗き込んだ鴎花は、次の瞬間、悲鳴を上げてしまう。
「こ、皇帝陛下?! 燕宗陛下であられますか?!」
「マジか。本物かよ……」
鴎花の口から漏れ出た言葉には、傍らのアビも絶句していた。
彼は興味本位で牢屋の中を歩き回るうちに、この地下牢の主のような男を見つけたのだった。しかも声をかけてみたら鵠国皇帝を名乗るものだから、その真偽を確かめるべく、首実験のために鴎花をここまで連れてきたのだ。
「今度は誰じゃ……? そなたも華語を解するのかえ?」
弱々しい声で灯明皿の先にある鴎花の顔を見つめてくる彼は、髭が生え放題なだけではない。蓄積した汗と垢とが入り混じり、饐えた悪臭を放っている。
本当に燕宗であるのなら、年齢はまだ四十代のはずであろう。
それがなんとまぁ、ここまでやつれ果ててしまうとは!
鴎花は驚きながらも灯明を石床の上に置き、その場に平伏した。
「直問をお許しくださいませ、陛下。私は五姫様の侍女を務めておりました、鴎花と申します」
鴎花のこの言葉に、これまで虚ろであった燕宗の様子が一変した。
落ち窪んだ目を見開き、骨ばかりになった体を激しく震わせる。
「おお……なんということじゃ。かような場所で我が娘に出会うとは」
「いえ、あの……私は五姫様……雪加姫様ではありませんが?」
鴎花は最初、燕宗が雪加と間違えているのだと思ったのだ。
年齢もほぼ一緒で、背格好も近い。灯明皿の微かな灯りしかないこの暗闇の中では、見間違えてもおかしく無い。
しかし彼は決して間違えているわけではないと首を横に振って言った。
そして鉄格子の間から右手を伸ばし、凸凹だらけの鴎花の顔をなぞったのだった。
「そなたが鴎花であり、その肌に痘痕を残しておるのなら、我が娘、雪加で間違いない。そなたが幼き日に疱瘡を病んだ後、皇后はそなたと乳母の娘である鴎花を入れ替えたのじゃ」
こうして鴎花は、燕宗の口から自分と雪加が入れ替えられた驚きの経緯を聞かされたのだった。
燕宗によると、この事実を知るのは皇后と秋沙だけ。伽藍宮に仕える者達は二人の子供の入れ替えが行われる直前に全員が辞めさせられてしまったからだ。
だが皇帝だけは辞めさせるわけにもいかない。
燕宗は感染性の高い病であることを理由に半年近くも伽藍宮への立ち入りを拒まれていたが、さすがに自分の娘が別人になっていることくらいには気付く。
それでも彼は敢えて何も気付かないふりをしたのだ。
「あの時、皇后は狂っておった。娘の体に無数の痘痕が残り、そんな醜い子では朕が愛想をつかすと思い込んでおったのだ。あの折は他の妃に見目麗しい娘が生まれた直後であったからのぉ。それに嫉妬した皇后は、朕の寵愛がそちらへ向かうと懸念したのであろう」
そんなはずがあるわけないのに、と燕宗は鴎花の手を取り、さめざめと泣いた。
「痘痕を背負ってしまったそなた自身の辛さを思えば、その父が愛想をつかすことなどあろうはずがないではないか。申し訳ないことをした。苦しみの中にあるそなたを助けてやれず、ほんに愚かな父であった」
燕宗は懺悔の言葉を繰り返し口にし、全身を震わせて涙を流すのだ。
鴎花の在りし日の記憶の中にある燕宗は、線が細い印象ではあったが、決して貧相な男ではなかった。皇帝だけに、身なりも立派で気品もあった。
しかし今、鴎花の手を握っている彼の右手は薄汚れ、皺だらけで、そしてもう何ヶ月も着替えていないらしい着物は袖口も擦り切れていて、その姿はまるで生ける屍のようであった。
「陛下……」
その悲惨な身なり故に、鴎花の胸には憐憫の情が湧き、血のつながった父であるという彼の手を強く握りしめた。そして燕宗もまた痘痕で覆われた鴎花の手の感触を確かめるように、何度も握り返してくれたのだった。
「朕が悪かった。あれは気性が荒く、朕も手に負えなんだのじゃ。下手すれば、鴎花として暮らしているそなたを殺めてしまうやもしれぬし、それならばいっそ皇后が飽きるまでこのままでいても良いかと……いや、違うな。朕は面倒ごとが嫌だっただけじゃ。後宮は一見すれば華やかじゃが、裏での争いごとが絶えぬ場所。朕は女達を宥めて回ることにうんざりしておった。ゆえに何も関与せぬことに、何があろうと見て見ぬふりをすることに慣れ切っておった。そんな朕の弱さが、そなたを見捨ててしまったのじゃ」
この干からびた身体のどこからそんなに涙があふれてくるのかと思うほど、燕宗は泣きながら悔恨の念を語った。
ゆえに鴎花も鉄格子の隙間から手を伸ばし、彼の小さな体を抱き締めたのだった。
「もう良いのです。陛下のお気持ちはよく分かりました。そんなに嘆かないでくださいませ」
確かに、自分の娘一人守れなかった燕宗は愚かだったのかもしれない。
でも、こんなにやつれてしまった人を咎められるほど、鴎花は心が強くない。
むしろ燕宗が鴎花のことをいつも気にかけてくれていたことを思い出す。
秋沙は時折「これは父上様からの下さりものですよ」と甘い菓子などをこっそり食べさせてくれたではないか。
鴎花は父親、つまり秋沙の夫に会ったことが無かったが、あれは燕宗が用意してくれたものだったに違いない。
争いごとが苦手な、温厚すぎる性分の彼には、娘に菓子をやることが精いっぱいだったのだ。
「陛下が父上様であると分かっただけで、私はもう十分嬉しゅうございます。それより陛下こそ……かような場所にずっと閉じ込められていたとは、さぞやお辛いことだったでしょう」
「これも朕が悪いのじゃ。朕は陶芸をやりたくて我慢できず、新年の宴の最中に抜け出して一人で景徳寺まで行っておった。そこで偶然、鴉夷の王と鉢合わせしてしもうてな」
「え?!」
「向こうも大層驚いておったが、とりあえず朕を縛り上げた。そして年始の変の後、改めて朕が本物であると確認するとこの地下牢に入れたのじゃ」
燕宗の説明では腑に落ちないことがあまりに多かったが、一緒に聞いていたアビは腕を組み、唸るようにして「そうか……そういうことか」と呟いた。
「皇帝が見つからなきゃ、鴉夷の軍勢はいつまでもそれを探して中原に居座ることになるからな。それで八哥はこの事実を公表してこなかったんだ」
兄の意図を読み取ったアビは、その策略に身震いしていた。
「八哥は中原を治めないと鴉威に将来は無い、って言い続けていたけど、周りには早く故郷に帰りたいって意見も多かった。それだから八哥は皇帝がまだ見つかっていないっていう危機感を与えて、望郷の念を封じ込めようとしたんだ」
見つかるはずのない皇帝を探せと命じることで、鴉威の兵士は中原から離れられなくなる。
イスカは故郷の人々を欺いてまで威国を建国し、鴉威の永続を図ったのだ。
「なるほどのぉ。そして鴉威の王は偶然身柄を押さえた朕を隠すことで、朕が逃げ出したと印象付けたのであろうな。元々が陶芸好きの政務を行わぬ皇帝であるから、それを疑う者はあるまい。そして民を見捨てて逃げた皇帝であれば、人心は離れるものじゃ」
燕宗は決して暗愚ではない。
状況を客観的に捉えたその呟きに対し、アビは「まぁ、確かに……そういうことだろうな」と頷き、燕宗の考えが正しいことを認めた。
華人達が蛮族の統治を渋々ながら受け入れているのは、元の支配者が悪かった反動も一因である。
彼らが燕宗に絶望したからこそ、今の威国は存在しているのだ。
「……」
鴎花はなんと言って良いか分からなかった。
イスカはまさに一国を治めるのに相応しい男なのだと思う。ここまで徹底した手を打てる彼をそら恐ろしくも感じたし、そのために貶められた燕宗はあまりに哀れではないか。
彼の背後の石壁には、規則正しく刻まれた正の字が並んでいる。
鴎花達がかつて表宮へ軟禁されていた時と同じように、燕宗も牢へ入れられてからの日にちを壁に傷をつけることで記録していたようだ。
三十ずつで一括りになったその傷跡は何列も連なっていて、同じように幽閉生活を送った経験のある鴎花には、その一刻みごとに燕宗の深い絶望感が滲み出ているように感じられてならなかった。
「……陛下。実は四ヶ月ほど前、郭公殿下が南で郭宗として即位されました。お父上様が無事でおられることさえ分かれば、きっといかなる手段を使ってでも陛下をここから連れ出してくださいましょう」
鴎花は燕宗を励ますつもりで言ったのだが、これを聞いた彼は逆に落胆してしまった。
「郭公が皇帝に……そうか。ならば朕はますますここから出られまいな」
「どうしてですか?」
「皇帝は地上に一人で十分じゃ。むしろ朕が表に出てしまうと、皇位を巡って争うことになろう。朕にその意思が無くとも、周りがそれを放っておかぬ。そのことは郭公もよくよく理解していよう」
「そんな……父上様ですのに」
「父だからこそ面倒。そういうこともあるのじゃ。霍書には書いておらぬがな」
信じられないとばかりに目を見張る鴎花に対し、燕宗は寂しそうに目を細めた。
「ましてや朕と郭公は仲違いしておったからのぉ。あれとは親子の情など合ってないようなものじゃ。もしも朕が生きていることを、内密に知らされでもしたら、郭公はむしろ朕をこのまま地下で殺めてくれと願うじゃろうて」
「あ……」
その呟きを耳にした瞬間、鴎花の傍らでアビが息を呑んだ。
今の燕宗の言葉に何か思い当たることがあったのかもしれない。
どうしたのかと鴎花が聞くと彼は「いや……うん。俺の兄貴ってのは、やっぱり辛辣な手を打ってくる人なんだなぁと感心してさ……」と、奥歯にものを詰まらせたような言い方をして頭を掻いた。
「朕は皇位など、どうでもよいのじゃがのぉ」
長い幽閉生活で、左手にはめられた手鎖を動かす力ももはや残っていない。
燕宗は自由になる右手を使い、目に浮かんでいた涙を拭った。
「元々、皇位は兄上のものであった。なのに兄上は不慮の事故で亡くなり、朕は皇帝になってしもうた。しかし朕はただ美しい壺を作りたい……それしか願ってこなかった。こんな状況になってすら死を選べぬのは、いまだ傑作と呼べる壺を作れておらぬ未練故じゃ」
「陛下……」
燕宗の切ない想いを前に、鴎花は胸が締め付けられた。
燕宗は確かに皇帝としては無能な人物かもしれない。
だが皇帝であることを彼自身は望んでいなかったのだ。
鴎花は表宮の思惑など知らないが、恐らく祥丞相などは皇帝として無気力な燕宗を御しやすいと利用していただけなのではないだろうか。
イスカは燕宗を鵠国皇帝として捉えているが、鴎花の眼には周囲に翻弄されているだけのか弱い人物にしか思えない。
だからこそ傍らにいたアビに、つい縋ってしまったのだ。
「なんとかなりませんか?」
「うん?」
「陛下を助けて差し上げたいのです」
「お前なぁ……自分の身も助けられないのに、よくもまぁ他人の心配なんて……」
呆れかけたアビはそこまで言ったところで押し黙った。そして改めて考え込む。
「いや、俺とお前が組めばできないことも……ないか?」
アビは何かを思い付いたらしい。
掻きむしるように頭を抱えつつも、ブツブツ呟きながら策を練り始めた。
先ほどは鴎花を指して策士だと評価したアビだったが、彼こそが本物の策士であったことを、鴎花はこの後思い知るのだった。
三.
イスカが地下牢から火急の知らせを受けたのは、ちょうど香龍宮にて雪加の一件の後処理について指図していた時だった。
「アビが人質に取られて、俺に助けを求めている?」
しかもよくよく聞けば、それは鴎花による犯行であるという。
鴎花が地下牢へ姿を見せたことは、午前中に報告を受けていた。
王妃らしい人物が入牢したいと言ってやってきたがどうしたらよいかと、牢屋番の長から問われたのだ。
イスカは本人の好きにさせてやれと答えた。
彼女の居場所さえ分かればそれでいい。
イスカにはこの時余裕がなかった。
政務は溜まっていたし、これから鴎花を、そして真の翡翠姫を名乗る雪加をどうすればいいのかを考える時間も足りなかった。
それで一旦、彼女のことを後回しにしたらこの様である。
「……すぐ行く」
イスカは眉根を寄せ、苦い顔をして頷いた。そして知らせに来た牢屋番の男と共に地下牢へと向かい、歩きながら詳しい状況を聞いた。
事件が起きたのは、牢屋番達が夕餉を配りに各牢屋を回っている折のことだそうだ。
地下牢の奥の方からけたたましい悲鳴が聞こえてきて駆けつけると、脱獄してのけた鴎花によってアビが人質に取られ、イスカを呼んでこいと暴れだして手に負えない、とのこと。
しかしイスカが実際にその現場に到着してみると、受けた説明とは若干の差異があることに気付いた。
二人が陣取っていたのは地下牢の細い通路。灯明皿を足元に置き、通路を塞ぐように立っているから、背後へ回り込むことができないのはともかくとして、暴れているのは実質アビだったのだ。
「うわぁ、みんな近寄るな!! 俺が殺されるだろうが!! 早く八哥を呼んできてくれ!!」
鴎花は背後から腕を回してアビの首を抱き、鉄の棒のようなものを首筋に当てているようだが、どうにもアビの付属品的な雰囲気は否めない。
助けに入ろうとしている牢屋番達を寄せ付けぬよう、手足をばたつかせているのはむしろ人質の方である。
そしてアビばかりが喋って鴎花が何も言わないのは、言葉が通じないと知っているからだろう。ここにいる牢屋番達は全員、華語がろくに分からないのだ。
「……何をやっているんだ、お前らは?」
二人の前へ歩み出たイスカは、呆れ返りつつも冷静さを装って問いかけてみた。
「陛下……まずは、人払いをお願いいたします」
強張った顔つきをした鴎花は後ずさり、近づいてきたイスカとは距離を取りつつ要求してきた。
これだけの大立ち回りを演じておきながら、当の本人が今にも倒れてしまいそうなほど膝を震わせている。
この茶番劇を成功させようと、彼女も必死なのだろう。
「……分かった」
イスカは鴎花の要求を呑んで牢屋番達を下がらせ、そして自身は今降りてきたばかりの階段の上に腰を下ろした。
距離を取っているし、イスカが座っていれば少しは警戒感を緩めてくれるはずだ。
「まずはその物騒な物を下ろせ。お前達の下手な芝居は見るに堪えない」
イスカが鴎花に声をかけると、彼女はアビと視線を交差させ、それから彼をあっさりと解放した。手にしていた錆びた鉄の棒も捨ててしまう。
しかし命の危機から脱したはずのアビは、途端に唇を尖らせて文句を言って来た。
「下手ってなんだよ。これでも迫真の演技だったのに」
「どこがだ。皆も呆れていたぞ」
大体、アビが鴎花に捕まるという設定に無理があるのだ。
これまで自らの命を顧みず、数々の武勲を上げてきた勇敢な男が、どうして細腕の女に屈しているのか。
しかし無理がある設定だからこそ、牢屋番達はこれがどういう状況なのか理解できず、とにもかくにもイスカを連れてくるに至った。
演技力は無くとも、この異母弟には油断ならない知恵があることをイスカは知っている。
二人の狙いが一体何なのか、気を引き締めて向き合わねばなるまい。
「それで何が望みなんだ? 翡翠姫と偽っていた事を許してほしい、元に戻してくれとでも言うのか?」
鴎花が今更そんなことを願うとは思えなかったが、イスカは敢えて彼女を試すようなことを口にした。
それに対し、鴎花は冗談で応じる余裕など無いようだった。石床の上に膝をつき、畏まって平伏する。
「私からのお願いは二つあります」
「言ってみろ」
「燕宗陛下を解放してくださいませ」
「……」
どうして彼の存在を知っているのだ、とそのまま聞きかえすのは愚かな行為であろう。
カマをかけられている可能性がある。
しかし彼女は至って真剣な様子だった。燕宗が捕らえられていることを疑っていないのだろう。
(……この牢の奥で顔を合わせたのか)
イスカは奥歯を強く噛みしめた。
最奥の牢屋周辺には他の囚人を入れるなと命じていたから、まさか鴎花が燕宗の元までたどり着くとは思っていなかったが、現実として彼女は皇帝と出会ってしまったようだ。
そしてその存在を知ってしまったがゆえに、アビを巻き込んでまで彼を助けようとしているのだ。
「……」
腕を組んだまま押し黙ってしまったイスカに対し、鴎花は平伏したままひたすらに恩赦を願った。
「燕宗陛下は壺を作ることだけが生き甲斐なお方です。陛下に仇なすようなことは決していたしません。万一陛下に怪しい素振りでもあれば、この命はいつでも差し上げます。ですから、どうぞお願いいたします」
「……お前はいつまで翡翠姫ごっこをやっている? 皇帝はお前の父親でもなんでもないんだぞ。どうしてそこまでしてあの男を助けようとする?」
「方便であろうと、一度は父とお呼びした方です。お救いしたいと思うのが当然です」
「華人の当然は、俺には理解できない」
「お願いいたします」
鴎花は余計なことを言わない。ただひたすらに頭を下げる。
そういうひたむきさにイスカが弱いことを彼女は知っているし、下手に理屈を並べ立てるのでは解放されるわけが無いとも理解しているのだろう。
確かにイスカが燕宗を解放してやる利点は何一つない。
燕宗のことはイスカが木京へ攻め込む直前、都の北に位置する景徳寺の境内で小休止を入れた折に捕まえた。
彼を見つけたのは全くの偶然である。
その時アビは斥候として他へ走らせており、イスカは代わりにピトとフーイの二人を連れていたのだが、寺の中で粘土をこねて壺を作っていた三十代か四十代くらいの髭を生やした男が、馬蹄の轟に気付いて寺の中から出て来たのだ。
そしてイスカらが鴉威の軍勢であることに気付いた彼は、驚きすぎてうっかり自らが燕宗であると口走ってしまった。
皇帝の顔など知らなかったイスカは半信半疑ながら彼を捕まえ、直前の戦で手傷を負っていたピトとフーイに見張りを任せてから木京へ乗り込んだのだが、後日この男が本当に皇帝であると分かり、以来地下牢に入れているのである。
ピトとフーイだけでなく、鴉威の者達のほとんどが華語を使えないことが幸いして、今のところこの秘密を守ることができている。
もちろんイスカ自身も秘密の漏洩には用心して手を打ってきた。
燕宗を捕まえた瞬間を目撃しているピトとフーイには、王妃の見張りという新たな役目を与えることで自分の手元に置き、余計なことを言わぬかその動向を注視しておく。そしてうっかり燕宗本人が身分を明かしてしまわないように、牢屋番達も鴉威の者だけに限り、華語を操れる者は置かなかった。
そうまでして燕宗の身柄を確保しておいたのは、全て威国の為である。
アビが予測した通り、イスカは鴉威の民が帰郷を望む声を封じるため、そして華人達が鵠国への忠誠心を失うように仕向けるために燕宗の存在は明かさないことに決めた。
さらには彼の存在を郭宗だけに伝え、父帝を解放されたくなければ和平を結べと圧力をかけた。
燕宗が皇帝として無能であることは分かっていたが、有用な駒であることは間違いない。地下牢から出すなど、もってのほかである。
しかしこうやって目の前で平伏する鴎花の姿を見ると心が揺らぐ。
燕宗の存在を、よりにもよってアビと鴎花に知られてしまったのは、大きな痛手だった。
二つの言葉を自由に操れるアビは、燕宗が密かに捕らえられていたことを華人達にも鴉威の民にも広めることができる存在である。
そして鴎花は今ここでイスカが応と言わなければ、今後もかつての主君である燕宗を救い出そうと試みるはずだ。
そういう女なのである。
無論この二人を今この場でイスカが斬り捨てれば、何も問題は無い。これからもずっと秘密を守ることはできるだろう。
実際、イスカは皇帝を捕らえたその場で、景徳寺の住職を斬って捨てていた。
死人に口なし。
秘密を守るためなら、そして威国の安定を願うなら、剣を振るうことは躊躇うべきではない。
それは分かっているが、この二人に対してまで、そんな非情な選択肢を取れるはずは無いのだ。
「……燕宗は粘土をこねるだけでなく、登り窯の扱いにも長けているのか?」
これはとりあえず確認するだけだぞ、と自らの心に言い聞かせて、イスカは問いかけた。
なのに鴎花にはピンとくるものがあったのだろう。前のめりになり、唾を飛ばす勢いで答えた。
「はい、それはもう! 陛下は登り窯の改良についても率先して行っておられました。ですからその構造についてもよくご存じでいらっしゃいます」
「……」
「陛下は壺を焼く時には、薪をくべるところからなさっておられましたし、釉薬を塗ることも人任せにせず、ご自分で全て……」
「……」
「燕宗陛下は陶芸のことだけを愛しておられる方なのです。どうか……どうか、お聞き届けくださいませ……お願いいたします」
最後は泣き落とされた。
いけない。
こうなるとイスカはもう勝てる気がしない。
大体、鴎花の傍らに正座し、黙然と兄の決断を待つアビの視線も痛い。
兄がこの女の願いを聞き入れないわけが無いと、この聡い弟は確信を抱いている。
平伏する鴎花が漏らす嗚咽の声と、アビの強い視線に揺さぶられたイスカは頭を抱えた。そして低い唸り声を上げつつも、妥協案を示してやるしかなかったのだった。
「……鴉威の地にも粘土がある。燕宗があれから壺でも椀でも、何かしらのものが作れるのなら考えてやってもいい」
「!!」
「だが鴉威の地は木京より遥か遠く、寒さも厳しい。柵や手鎖で拘束されていなくても脱出は叶わぬ。二度とこの中原の土を踏めぬものと思え」
泣いていたはずの鴎花が一瞬で喜びの色を顔いっぱいに広げたものだから、これはそんなに甘い話では無いぞと釘を刺したつもりだったが、彼女は意に介さなかった。
彼女は元々燕宗に陶芸を続けさせてやることだけを願っていたのだ。場所はどこであろうと問題ない。
「ありがとうございます! すぐにも陛下にお伝えしてまいります!」
大いに感謝し、階段を駆け下りようと身を翻そうとした鴎花に対し、イスカは自らが身に着けていた銀の首飾りを外して渡した。
細い鎖を編んで作られた首飾りは、その編み目の中に二本の小さな鍵が忍ばせてあった。イスカがこれまで肌見放さず保管していたものだ。
「これがいるだろう。あの牢屋の入り口と手鎖の鍵だ」
「ありがとうございます、陛下。本当に……本当に感謝いたします」
こうして彼女が階段を降りて行ってしまうと、後に残されたのはイスカとアビの兄弟だけになってしまった。
妙に気まずい空気が二人の間には流れている。
イスカは強引な手で要求を呑まされてしまって憮然としているし、その強引な手を計画した張本人も、実は罪を犯して入牢中だったはずであり、そもそも鵠国の皇帝の世話を焼いている場合だったか?、という疑念がある。
「……へぇ。鴉威で粘土が採れるなんて初めて聞いたぜ」
地下牢の澱んだ空気以上に重く纏わりつく沈黙に耐えられなくなったアビは、苦笑を浮かべながら兄に向かって話しかけた。
「鴉威の地は痩せている。寒さも厳しくて、生えてくるのは草だけだ。まさかその地下に粘土が眠っているなんて、本当なのか?」
「それは明妃が教えてくれたんだ。そなたらは気付いておらぬかもしれぬが、この辺りの土は粘土であるぞ、と」
石段に座ったまま、イスカは弟に種明かしをした。
明妃は偶然にも、幼い頃に焼き物を作った経験があったのだ。故に鴉威の土の質がその時と同じものであることに気付くことができた。
しかし彼女にできたのはそこまでだった。一介の女官であった明妃には焼き窯の知識まで無かったので、みつけた粘土をこねて焼き、陶器を完成させるには至らなかったのだ。
「でも明妃はこの粘土を生かして、いつか陶器を作りたいと言っていたよ。鴉威に産業があれば、俺達も豊かに暮らせるのではないかと考えてくれたんだ」
「そうなのか?」
「確かに彼女は鵠国に帰りたがっていた。鵠国の役人が鴉威の地を訪ねてくるたびに大きな声で訴えていたんだから、それは俺も知っている。だけどそれは、陶芸の技術を持った職人を引き抜いて来るためでもあったんだ」
お前は小さかったから知らなかっただろうけどな、とイスカは懐かしそうに顎を撫で回しながら異母弟を見つめた。
アビはといえば、初めて聞く話に目を丸くしている。
「明妃のことは息子のお前の方が詳しいんだから、俺がわざわざ語る事じゃないんだろうが、夫の息子に嫁したことが華人として受け入れがたい苦痛だったんだろうとは想像できる。その愚痴を息子のお前にぶつけた点は褒められた話じゃないが、多分あの女性には、他に心を許せる人がいなかったんだろうな」
「……」
「遠い異国の地で華人は自分一人。言葉も分からぬ地で、どれだけ苦労したかは想像に難くない。そんな時、生まれてきたお前が、自分が教えたとおりの綺麗な華語を話してくれて、それにうっかり甘えたい気持ちになったとしても、無理からぬことではないかと思うんだ」
兄の意見に対し、アビは頷くでも否定するでもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
母が鴉威に窯業を起こそうとしていたという話は初耳であっても、それを裏付ける行動はたびたび目にしていたのだろう。
遠い異国に嫁ぐことは彼女の意志ではなかったはずだが、それでも鵠国と鴉威の架け橋となれ、という祖国の意図に明妃は忠実に従った。
イスカら次世代を担う子供達に華語を教えてくれたのも、鴉威と鵠国の距離を縮めたいと願ったからだ。
それでもアビは母を憎んだ。鴉威に馴染もうとしない母を詰り、自分に華人としての勉学を押し付けてきた母を恨んだ。
そうしなければ、彼の心がもたなかったからだ。なぜならば……。
「……俺はその母を殺めた」
独白は唐突だった。
イスカは弟の眼から一筋の涙が零れ落ちるのを目の当たりにすることになる。
漆黒の瞳から溢れて出て褐色の肌の上を伝って流れていく涙は、華人とも鴉夷の民とも同じ、透明で熱い液体であり、アビは次々溢れてくるそれを拭うことも忘れて、幼い日の出来事を語った。
「あの日、疱瘡にかかって寝込んでいた俺に向かって母が言ったんだ。今朝、七哥が命を落としたそうだよって。でもそれが俺のせいだって言うんだ。おかしいだろ? 俺は七哥より後で熱を出したんだから、言いがかりもいいところさ。でも母にとっては理屈なんて関係なかった。やっぱり俺の存在が災悪を招いているのだろう、なんておぞまい事をしてしまったんだ、っていつものようにくどくどと……そうだよ。いつものだから、俺は聞き流せばよかったんだ」
「……」
「なのに俺はあの日に限って口答えしてしまった。『俺に責任を擦り付けるなよ。そんなの、鴉威の風習だから仕方ないって受け入れた、自分のせいじゃないか。誇り高い華人ならこんな時はどう振舞えばいいか分かっていたのに、何もしないで周囲に流されちゃった自分が全部悪いんじゃないか……!』」
アビは込み上げてきた強い衝撃を抑えきれず、体を大きく前後に揺らした。
堪らずイスカは石段から立ち上がり、弟の身体を支える。
「翌朝、母は喉を突いて死んでたよ。俺の枕元で蹲るようにして、冷たくなってた。辺りには真っ赤な血が飛び散っていて、こんなの何かの間違いじゃないかって、俺がちょっと肩に触れただけで横倒しになった。そうしたら乱れた黒髪の下から、見開いた目の玉が俺をギロッと睨みつけていて……」
「もういい、分かった。落ち着け、アビ」
肩を抱き締めてくれる兄の胸に頭を押し付けるようにして、アビは九歳だった当時に戻ったように泣きじゃくっていた。
いや、その時は流せなかった涙が、今になって蘇って来たのかもしれない。
「二日後、俺達の姿が見えないことに気付いた親父がやってきて見つけてくれたけど、病死ってことにしてこれを隠したんだ。鵠国の皇帝の養女として嫁いできた女をむざむざと自害に追いやったなんて、公表できないからな。それで俺には全部忘れろって言った。でもさ……そんなの無理だよ。獲罪於天、無所禱也。罪を天に獲れば、禱る所無きなり。母を追い詰めた俺は、拭いようのない罪を犯したんだ。俺はもう、生ある限りこの罪から逃れられない……」
華人達の道徳書である霍書の一節を引用したアビは、イスカにしがみつくようにして嗚咽の声をあげながらも「妈妈……」と漏らしていた。
それは華人の幼い子供が母を呼ぶ言葉。
母や華人を憎むことで、心の均衡を保って来たこの弟は、本当は誰より母を慕っていたのだろう。
その母を自分自身が追い詰めてしまったことを心底悔やんでいた。
自らの命を軽んじるような行いも全て、この罪の意識から来ていたのかもしれない。
彼は頑なに自分自身を呪い続けていたのだ。
***
それから長い時間が過ぎ、鴎花は燕宗を連れて戻ってきた。
長い幽閉生活で足腰が弱ってしまった燕宗を歩かせるのは至難の業であったらしく、鴎花は彼の肩を抱くようにして一歩ずつ懸命に階段を上っていた。
それだから足音がしてからイスカ達のところへたどり着くまでに時間がかかり、その間にアビも涙を拭い、気持ちを落ち着かせることができたのだった。
心身ともにくたびれ果てていた燕宗は、自分をこんな目に遭わせたイスカに対し悪態をつくことも無く、むしろ陶芸を続けることを許してくれたことに感謝していた。
前王朝の皇帝を解放することの意味の重さを、彼はよく理解しているのであろう。
イスカは、鴎花に代わってアビに燕宗を背負うよう命じた。この調子で足腰の弱った彼を地上まで歩かせていたのでは、夜が明けてしまう。背負った方が早い。
「アビ、お前は鴉威の地まで燕宗を連れていけ。到着後の見張りもお前に命じる。絶対に中原へ戻って来ぬように目を光らせておけ」
燕宗にも聞かせるため敢えて華語で命じたイスカに対し、アビは素直に頷いた。
胸につかえていた母への想いを吐き出せたことで、気持ちもいくばくかは晴れたのではないかと思う。
イスカが下したのはかなり厳しい命令であったにもかかわらず、この異母弟は憑き物が落ちたかのようにすっきりした表情をしていた。
「餞別に、お前には身の回りの世話をする女をつけてやろう。いや、逆に世話を焼いてやらねばならぬような気がするが」
「それって……」
目を見張ったアビがその先の言葉を発するのを、イスカは首を横に振って制した。
鴎花には後で説明してやるつもりだが、今はまだ聞かれたくなかったのだ。昨日から今日にかけて、いろいろなことがありすぎた。もう少し落ち着いてから話をしたい。
イスカは牢屋番達を呼び、鴎花を一足先に香龍宮へ連れて行くように命じた。
そして入れ替わりに雪加をこの場へ連れてこさせる。
それからほどなくして鴉威の兵士二人に両脇を抱えられるようにして彼女は連行されてきた。
今はもう絹の衣ではなく、下女が身につけるのと同じ、木綿の粗末な衣を着ている。
更には顔の右半分を包帯で覆っており、その目は虚ろだ。地下牢へ連れてこられた上に、国王とその弟、さらには燕宗まで目の前にいるというのに、まるで感情というものを見せなかった。
それは折れた箸で突き刺された頬が痛むせいだけではないだろう。
翡翠姫としての自負を支えていた美貌を傷つけられ、心が塞ぎきってしまっているのだ。
この傷は自分がつけた、とイスカは華語で淡々と語った。
「俺の王妃としての自覚がどれほどのものであるか、確認したんだ。しかしこの女には王妃としての気概など無かった。血筋と美しさを誇るだけで、まるで実が無い」
連行してきた二人が彼女の腕を離すと、雪加は崩れるように石床の上に膝をついていた。
アビは燕宗を背負っていたものの、咄嗟に彼女に駆け寄る。
そんな弟の姿に、イスカは大きく頷いた。
「だからこの女はお前にやる。連れていけ」
「……」
アビはこの時、すぐに返事をしなかった。
目線を下に向けたままイスカの発した言葉を咀嚼し、その身に深く浸透させる。
そして再び顔を上げた時には、全てを理解したと言わんばかりに満足げに頬を綻ばせて、兄を見上げたのだった。
「……なるほど。こいつは俺への罰だな」
「そういうことだな。こんな手間のかかる女を娶ると、お前は絶対に苦労するぞ」
イスカがニヤリと笑うと、アビもつられて笑った。そして背中の燕宗を背負い直すと、今度は鴉威の言葉で言ったのだ。
「実はこの茶番劇では、俺からの願いもあの王妃様と同じで二つあってさ」
「うん?」
「それは俺の罪をきちんと罰してもらうことと、この手のかかる女を俺に欲しいってこと」
俺も物好きだよなぁ、と言ってアビは笑った。
泣いているようにも見えるその笑顔は年相応にあどけなく、イスカの胸を締め付けた。
しかし国王としては、威国に仇為すような真似をしたこの弟を無罪放免とするわけにはいかなかった。
「ありがとう、俺の願いをどちらも叶えてくれて。やっぱり八哥は最高だ」
最後は感謝の言葉で締めくくった弟は雪加を促して地下牢の階段を上り、そして旅装を整えると、夜が明ける前に木京を離れた。
これから三人が向かう鴉威の地は遥か遠い。
そして燕宗が永久追放であるなら、アビもまた同じということ。
もう二度と会うことも無いであろう弟の騎影が北へ向かって旅立っていくのを、イスカはいつまでも見送ったのである。
四.
鴎花が夜中に香龍宮へ戻ってくると、小寿は我がことのように喜んでくれた。
ウカリもやれやれといった顔をする。
二人とも雪加の侍女でいることには、よほど骨が折れたのだろうか。
そういえば軒下に吊るしていたアーロールが全て無くなっていた。そして部屋の中には香炉が置かれ、白檀の優雅な香りが満ち溢れていた。
どうやら雪加は威国の王妃としてではなく、鵠国の皇女として、思うがままに振舞ったらしい。
それでは通用しないと、これまでの鴎花の姿から学んでくれなかったのは残念であり、しかし彼女ならばさもあらん、とも思う。
誇り高い皇女として育てられた彼女は、それ以外の生き方を知らないのだ。
(……それにしてもどうして突然、翡翠姫であると名乗る気になったのかしら?)
その意図は今となってはよく分からないが、姫君として過ごすことができたのがたった一日だったことには、憐れさも感じる。
雪加はこれからどうなるのだろう。
先ほどのイスカは鴎花の前での明言を避けたが、どうやら雪加をアビに預け、その命まで取るつもりは無さそうだと思えた。
だがイスカはまだ雪加が本物だと思っているはずで、それなら彼女を手放すとはどういう料簡なのだろう。
翡翠姫を野に放てば、彼女を担いで反乱が起きる事も懸念されるわけで、イスカがそんな危ない橋を渡るとは思えないのだ。
しかし弟の想いを考慮すれば、兄としてむざむざと斬り捨てることができなかったのかもしれない。
では鴎花は?
イスカは鴎花を香龍宮へ戻したが、それはこれから改めて処分を下すためかもしれない。まだ安心はできない。
実は鴎花が本物の翡翠姫でした、と訴えれば全てが丸く収まりそうだが、彼が納得してくれるかが心配だ。
何しろイスカの立場から考えれば、翡翠姫は偽物だったと言われてから、一日も経たぬうちにやっぱし本物でしたと言われるのだ。いい加減にしろと怒り出すかもしれない。
それだから燕宗の解放を求める際には「本物の翡翠姫云々の話は伏せておけ、それでもお前が頼み込めばなんとかなるはずだから」とアビに言われ、鴎花もその通りにしていたが、今はもう告げてもいいはず。それにもしかしたら、アビや燕宗が既に話をしているかもしれない。
しかし鴎花が皇女だったなんて……実際のところ、肝心の鴎花自身がこの事実にまだしっくり来ていない。そんな状態でイスカにまで納得してもらえるだろうか。
落ち着かない気持ちのまま、鴎花は朝を迎え、更に夜まで待ちぼうけることになった。
イスカはアビを送り出したその足で、表宮へ向かってしまったからだ。
彼は恐らくこの二日間、徹夜が続いているはずだが、そんな時でも政務を優先する。
その勤勉さには恐れ入るしかないが、さすがにくたびれ果ててしまったようで、日が暮れてから香龍宮へ姿を見せた彼は開口一番に「今日はだめだ。まるで仕事にならなかった。書面を見ただけで意識が飛ぶ」と愚痴をこぼした。
その目の下には隈ができていて、本当に疲れ切っている様子である。
だからすぐにも寝かせてあげたかったのだが、鴎花も彼を待ちわびていたのでそうもいかない。
握り飯だけの軽めの夕飯を用意し、侍女達を下がらせた後、鴎花は改めてイスカに礼を言った。
「昨日は寛大なご処分、ありがとうございました、陛下」
侍女達は下がらせたが、どこで秘密が漏れるかわからない。鴎花は敢えて燕宗という固有名詞を省いて礼を言った。
「構わん。このところ体が弱っていくばかりだと報告を受けていて、身柄をどうするべきかと俺も内心困っていたからな」
握り飯にかぶりつきながら、イスカは頷いた。
燕宗の解放如何については悩み抜いたが、一度決断してしまえばくどくどと後を振り返らない。イスカの良いところである。
「ここまで生かしていたから最近は使い途も考えるようになったが、本当はすぐにも殺すつもりだったんだ。一人で勝手に都を離れて趣味に現を抜かすとは、あまりに浅はかではないか」
どうやら同じ人の上に立つ者として、燕宗の姿勢を許せない気持ちもイスカにはあったようだ。
「しかし俺が手を下すと華人達の恨みを買う。だからあの男が逃げたと印象付けた、もう少し後で……そうだな、世情が落ち着いて、威国の支配がゆるぎないものになってから殺せばいいと思っていた。だが時が経つほど、俺の中には躊躇いが生まれた……お前のせいだ」
恨めしいというよりは降参の体で、彼は深い吐息を漏らした。
「お前はあの男との思い出を楽しそうに話していたし、あの男が作った茶器も大切にしていた。それなのに殺めたら、お前は俺を嫌うだろ? それが怖かったんだ」
今や威国の民からも、河南に住む鵠国の者達からも軍神の如く畏れられているイスカに、まさかこんな情けない顔をさせてしまうなんて。
鴎花も罪な女になったものだ。
「まさにアビに言われたとおりだ。俺はお前と暮らすようになってから腑抜けたらしい。殺すべき男も殺せないとは情けない限りだ」
苦みを滲ませるイスカは、潔癖な面がある。
中原の王たらんと努力を惜しまない彼は、自戒の念も強く、だからこそいつでも政務を優先し、私情は後回しだ。
そんな彼が、鴎花に嫌われたくないというだけの理由で、燕宗を殺せずにいたとは……。
「……後悔、しておいでですか?」
「いや、それはない」
イスカは即答してくれたから、鴎花はにっこり笑った。そして彼の傍らへ移動し、甘えるようにもたれかかる。
鴎花も父を無慈悲に殺すような人を愛したのでなくて、本当に良かった。
イスカはそんな鴎花の頭をぽんぽんと撫でながら、少し低い声音で告げた。
「……あのな、お前の乳姉妹はアビと一緒に鴉威へ行かせた。もう中原へ戻ってくることはない」
それは覚悟していたことではあったが、実際に宣告されると、思いの外重く心に響く。
雪加とは生まれてからずっと一緒で、二人は表と裏の関係だった。大輪の芍薬のように華やかに咲き誇る雪加の影で、小さくなっていたのが鴎花で。
気持ちがすれ違うことはあったが、離れてしまうと、片割れがいない寂しさの方を強く感じる。
俯いてしまった鴎花に、イスカは更に言葉を重ねた。ここからが本題なのだ。
「俺にとっての翡翠姫はお前だけなんだ。天帝の血を引いていなくとも、俺にとってお前が必要なことは間違いない」
「陛下……」
この瞬間、イスカが鴎花の素性について何も聞かされていないのだと分かった。
鴎花は弾かれたように顔を上げ、どう説明しようかと思案を巡らせたが、これに対しイスカは拒まれると感じて焦ったようだ。
反論させないよう、鴎花の頭ごと抱きしめた。
「構わぬ。天帝の娘としての証があるわけでもないのだから、血筋などどうとでも偽れるんだ。実際のところ、お前はこれまで俺の王妃に相応しい役目を果たし、その出自を疑う者などいなかったじゃないか」
「それは……」
「いいか。俺はいつ起こるかも分からない伝承なんかの為に、お前を手放すのは納得いかない。だからこのまま、お前には翡翠姫を名乗ってほしい。そしていつまでも俺の側にいてくれ」
鴎花の心は大きく揺れてしまった。
ここまで言われて実は私が……などと言えるわけがないではないか。
いや、真実を明かしたくなかったというのが本当のところか。
今まで鴎花はイスカの側にいるため、翡翠姫であろうと、必死に振る舞ってきた。
しかし彼は鴎花が翡翠姫でなくても側に置いてくれるというのだ。
その気持ちが嬉しくて、本物の翡翠姫であることなど、些末な話であるように感じたのだ。
真相の底にあったのは、こんなにも満たされた気持ち。鴎花は鴎花のままでもイスカの側にいていいのだ。
「……そういえば、お前の一つ目の願いはあの男の解放だったが、二つ目の願いとは何だったのだ?」
ふと思い出したイスカに問われ、鴎花はあぁそうでした、と弾かれたように手を打った。
伝えることを忘れていたわけではない。
むしろ一刻でも早くイスカには言いたかったことである。
いろいろありすぎてすっかり遅くなってしまったが、鴎花は改めてイスカの大きな手を握った。
「地下牢にて、今後なにかあれば私の命を差し上げますと申しましたが、それは今しばらくお待ちくださいとお願いするつもりでした」
「うん?」
「あと半年と少し。そうすれば、身二つになるのです」
鴎花の言葉に、イスカは戸惑いを貼り付けたような顔をした。
ぬか喜びになってはいけないと咄嗟に自制したのだろう。首を横に振って、何度も今の鴎花の言葉を反芻する。
「悪い。華語が難しくて分からん。それは要するに……」
「はい。身籠りました、陛下」
「でかした!」
イスカは膝を打って喜んだ。二日間の徹夜で彼の全身を覆っていたけだるさも吹き飛んでしまったようで、一気に歓喜の渦に包まれたイスカだったが、彼はこの直後、表情を険しくした。
「そういうことはもっと早く言え! ……って、いや、違う。馬鹿か、お前は!!」
喜んだと思ったら、今度は青筋を立てて怒り出す。随分と忙しい人である。
「あんな冷たい牢獄に入って、体に障ったらどうするつもりだったんだ!!」
「私も気が動転していたのです。それに陛下を謀っていた罪は重いです。せめてこの子だけでもお許しいただくためには、自ら罪を認め、殊勝に振舞うしか手がないと思い……」
「あぁそうだな、この罪は重すぎるぞ。俺は大事な王妃と子供まで失うところだったんだからな」
破顔したイスカは鴎花を抱き締めた。
鴎花もまた、彼の腕の中で喜びに体を震わせる。
イスカの期待に応えることができた安堵と幸福感は、何物にも代えがたい。
これから彼とお腹の子供と共に過ごす、平和で暖かな日々が訪れるのだ。鴎花はそんな将来を夢想し、激しく胸を躍らせるのだった。