六章 疑念の先
一.
「姫様……一体どういうことなのですか。アビが、姫様を娶りたいと申し出たそうですよ」
浮き島での平穏な朝は、鴎花の訪問で破られた。
彼女は小舟を鴉威の従者に漕がせてここまで来たらしい。
小屋の引き戸を壊さんばかりの勢いで部屋の中へ単身飛び込んで来た鴎花は、本来主君に果たすべき儀礼も忘れて詰め寄ってきた。
この痘痕娘は浮き島を出て以来、ただの一度も顔を出さずに主君を放りっぱなしにしていたくせに。
それなのに蛮族の戯言を真に受けた時だけすっ飛んでくるとは、本当に嘆かわしい心根の持ち主である。
「蛮族ごときが妾を娶りたいじゃと? 何と寝ぼけたことを言い出したことか」
雪加自身もその話は初めて聞くものであり、本当は大いに驚いていたのだが、それを露にするのは癪だから鷹揚に笑い飛ばしてやる。
鴎花がこの話を聞いたのは四日前、イスカが戦から戻ってきた日のことで、本当はもっと早くに真相を問いに来たかったらしい。
だが香龍宮にイスカがずっと滞在していたので、彼が政務に戻るまではどうしても出てこられなかったそうだ。
「……あの者は姫様と私の素性を知っております」
鴎花は重々しい口調で秘密を打ち明けたが、それくらいは雪加も知っている。故に「だからなんじゃ?」と冷たい目を向けてやった。
「彼はそれを他へ明かす気は無いと申しておりましたが、しかし翡翠姫を娶るということは、中原を治める資格を得るということにつながります」
「うん?」
「ですから、口に出すのも憚られることながら……あの、まさかアビは、陛下にとって代わろうと叛心を抱いているのでは、と思い……」
どうやら鴎花は随分と見当違いな慌て方をしているのだと、話の半ばで気付いた。
どんな時でもあの僭王を第一に考えるあまり、彼女の頭はおかしな方向へ進んでいるらしい。
「なんと愚かなことを言うものか。あのとち狂った男が、そんな真っ当な野心を抱くなどありえぬわ」
雪加は高笑いを投げ付けたが、それに対し鴎花は弾かれたようにその場へ膝から崩れてしまった。
「……姫様はアビのことをよくご存じでいらっしゃるのですね」
放心してしまった様子の鴎花は、どうやら雪加とアビの仲について確信を得たようだと分かった。
雪加は反射的に目を釣り上げたが、鴎花はむしろそんなとげとげしさをも包み込むような、憐れみをこめた目で乳姉妹を見つめてきた。そして雪加の腕に縋りついてきたのだ。
「一体いつからなのです? ここへ一人きりになった時からですか? もっと前? 姫様は確かに気の短いところがおありですが、いくらなんでも度が過ぎるとは思っていたのです。もしかして、鴉威の者達に捕らえられてからずっとあの者に無理やり……」
「離しやれ!」
雪加は苛立ちそのままに、鴎花を突き飛ばした。床に倒れ込む彼女を見下ろし、拳をわなわなと震わせる。
「控えよ。妾は翡翠姫ぞ。蛮族と関わり合いになることなど、ありえぬわ。余計な勘繰りは無礼である」
「しかし姫様……あの者も何も縁が無いのにわざわざ姫様を嫁にしたいなどと言ってこないでしょう。やはり無理やり迫られ……」
床へ転がされてさえ、鴎花は雪加を痛ましげに見つめてくる。主君が蛮族に乱暴を働かれていながら、何も気付くことができなかったことを悔いているのだろう。
しかしそのような目で見られること自体が、誇り高い雪加には耐えがたいのだ。
「何もないと言ったら何もない!」
「ですが……」
「しつこい!!」
癇癪を起こした雪加の手が、とうとう鴎花の頬を打った。
あまり大きな音を立てては舟の上で待っている鴉威の従者の耳に入ってしまう。
それは避けねばならないと頭では分かっているものの、高貴な身の皇女が蛮族と情を交わしたと疑われるのは雪加の自尊心が許さないのだ。
甲高い声で叱られた鴎花は平伏した。そしてようやく話をしても無駄であると悟ったようで、這々の体で浮き島から出て行くことになった。
そんな彼女と入れ替わり、小舟に乗ってやってきたのはアビだった。
「なんじゃ、そなたまで来たのか。今日は朝から客が多いのぉ」
軽い身のこなしで舟から降りた黒衣の青年に対し、雪加は胡散臭げな目を向けた。
彼がここへ来るのは戦が終わって以来、初めてのことである。
綱を使って舟を岸辺の杭に繋ぎとめているその動きを見る限り、どうやら怪我らしい怪我もせず五体満足で戦場から帰還したらしい。
しかし雪加は無事を喜ぶことはしてやらなかった。
逆に残念そうに眉をひそめて睨みつけてやる。
「なんじゃ。せっかく妾が鴉威の禁忌を犯して踊り続けてやったのに、戻ってきたか」
雪加は出陣前夜、泳いで浮島までやってきたアビから、戦の間は舞いをしないように指示されていた。
鴉威の女達は夫や息子が戦へ行っている間の歌舞音曲を禁忌にしているという。特に出陣する時に女の舞いを見てしまうと、心が惑い、討ち死にしてしまうらしい。
それを聞いた雪加はアビが出陣する日には、一日中踊り続けてやったし、その後も体力の続く限り舞った。
なのにこの男は無事に戻ってきてしまった。残念でしかない。
「そりゃ悪かったな。ただ今回、俺の出番はほとんど無かったんだよ。だから手柄も無ければ、死ぬことも無かったって訳だ」
アビはニヤニヤ笑いながら家の中へと勝手に入っていった。
狭い部屋の真ん中には、竹を組んだ二階への梯子がかかったままになっていた。いちいち片付けるのは面倒だからそのままにしているのだが、アビは当然のようにその梯子を使って二階の寝間へ上がる。そして雪加が後についてこないと知ると「なんだよ、久しぶりで照れてるのか」とからかってくるから「そんなわけあるか、痴れ者め!」と怒鳴り返してやった。
雪加が渋々梯子を上ってみると、そこが自分の寝間であるかのように横柄な態度で寝そべっているアビがいた。
「お前もさっきは派手にやったな。王妃様のお美しいお顔が、真っ赤に腫れ上がってたじゃねぇか」
たった今、雪加が鴎花の顔をひっぱたいたことについて言っている。きっと舟で岸辺に戻った鴎花と顔を合わせてからここへ来たのだろう。
しかし妙である。
「面布で覆ったあやつの顔のことまで、そなたが何故知っておるのじゃ」
「決まってる、あの布きれをめくって痘痕面を覗いてやったからだよ。偽物の分際で散々好き勝手してくれてるんだから、それくらいはやり返してもいいだろ」
雪加にはよく分からなかったが、アビは鴎花に対して何かしらの不満を抱き、そして嫌がらせをすることで大いに留飲を下げたようだった。
それにしても、この男が日の高いうちに訊ねてくるとは珍しい事である。
いつもは人目を避けるべく、夜になってからこっそりと泳いでくるのだ。そして雪加を散々に愛でた後、暗いうちに戻っていく。
雪加に訝しげな目を向けられたアビは状況を説明した。
イスカは帰還後の三日間を休暇と決めてしまったから、その間、従者であるアビは暇になり、ずっと自室にいたそうだ。
そして今日からイスカは政務を再開することになったのだが、アビは全く気乗りしないので仮病を使った。しかし部屋でこれ以上寝ているのも暇だから、雪加に会いに来たのだという。
「仮病を使っておきながら、わざわざ目立つようにここへ来たというのかえ?」
「それで八哥に罰してもらえるなら本望だ。それにお前との仲を隠す必要もなくなったんだ。お前を嫁に欲しいと八哥にも言ってしまったからな」
鴎花からも聞いていた話だったが、この男から軽々しい口調で言われると余計に腹が立つ。雪加はむくれた顔でアビを睨みつけた。
「随分と勝手な話を進めてくれたようじゃな」
「何度も言うけど、俺はお前が嫌いなんだよ。だから、お前が一番嫌がるようなことをする」
嬉しいだろ、と笑いながら、アビは雪加を抱き寄せると、白磁の頬へと口を這わせてきた。
それは愛しくてたまらぬと言わんばかりの触れ方だったが、この男はこれを雪加を辱めるためにやっていることを雪加はよく理解している。
優しく扱われることで雪加が少しでも彼に靡けば、蛮族ごときに心を蕩かされるなんて翡翠姫も大したことないな、と嘲笑うことができるからだ。
その意図を分かっているから、雪加は絶対に隙を見せない。心を石のように固くして、この男の為すことに一切応じないよう、気持ちを常に引き締めている。
そればかりではない。この頃の雪加はアビに反撃することすら覚えていた。
腸を煮えくり返らせながらも、翡翠姫としての余裕たっぷりに微笑んだ雪加は、逆に男の首を抱き、彼の耳朶を甘噛みしてやったのだ。
「そなたもとんだ天邪鬼じゃな。そろそろ素直に申したら良かろう。妾を辱めんと抱いているうちに、心底恋しゅうてたまらなくなっただけなのじゃ、と」
「なんだと」
「その怒りっぷりこそ、図星である証拠じゃ。ほほほ、妾を貶めようとして、自らがその罠に嵌るとは実に愚かな事じゃな」
雪加の言葉に、案の定アビはいきり立った。
「勝手なことを言うな。俺はお前を傷つけたいだけだ。お前のことなんて一寸たりとも好いちゃいない」
「そうじゃな。ではそういうことにしておいてやろう」
雪加が余裕を見せれば見せるほど、アビが苛立つことを知っている。
(……いい気味じゃ)
これまでこの男には散々な目に遭わされてきただけに、少しでも仕返しができて雪加は嬉しくてたまらない。
しかし少しからかわれたくらいでこんなにムキになってしまうなんて……まさか本当に図星なのではなかろうかと疑いたくなるではないか。
……いや、雪加にそのように思わせることこそがこの男の狙いなのだろう、きっと。
「ちっ……なら、好いてないことを証明してやる。来い」
言葉を尽くしたところで自らの劣勢が覆らないことを悟ったアビは、急に何かを思い立ったようだった。雪加の手を引き、自分が乗ってきた舟へと乗せる。
そして連れて行った先は、なんと雪加がかつて住んでいた伽藍宮だったのである。
***
雪加はひどく驚いていた。
崔皇后の寝室の床下に、地下への隠し通路があったことをアビに見せられたからだ。
「なんと……」
床板を剥がした先にあったその穴は人一人がようやく通れるくらいのものだった。側面は小さな石を組んで作られており、奥の方は真っ暗で何も見えないが、先まで道が続いているようだ。
ひんやりとした空気が立ちのぼって来て、水の流れる音が僅かに響いており、華やかな宮殿の雰囲気とは全く異質な空間だった。
「最近見つけたんだ」
アビは予め準備していた縄梯子を穴に向かって下ろしながら説明してくれた。
「皇后がどうやって脱出したのか気になっててさ。偶然ここが俺の居室として割り当てられたから、部屋の中を徹底的に探してみたってわけだ」
「母上様はここから……」
「そういうことだろうな。この先は水路になっている。伽藍宮の池の水の出口だ。あの池、長河から水を直接引いているし、泳いでみて分かったけど、池にしては水の流れがやたらと速い。どこへ水が流れ出ているんだろうかと思ったらここだったってわけだ」
「……」
「皇后陛下は恐れ多くも自分だけがお逃げあそばした後、置き去りにした女官に穴を塞がせたんだろ」
厭味ったらしいアビの言い方も耳に入らないほど、雪加は呆然としていた。
母はあの混乱の最中、自分だけが逃げていった。
娘である雪加のことを置き去りにして。
あの時、同じ屋敷の中にいたのに、ここしか脱出口は無かったのに……腹を痛めて産んだ娘のことを、頭の片隅にも考えてくれなかったのだろうか。
「お前も来いよ」
縄梯子を使って先に降りていたアビに呼ばれた。
暗くぽっかり空いた穴は恐ろしさしかなかったが、それでも雪加は恐る恐る足を入れてみた。
この先が後宮の外に繋がっているのなら、今後のためにも通っておくのは悪いことではない。
それにあの夜、母が通った道というものを見てみたい欲求もあった。
娘を残し、自分だけが逃げ出すのはどんな胸中であったのか……少しでも知りたいではないか。
雪加がアビに支えられながら、なんとか着地すると、彼は持って来た松明に火をつけた。
降りた先は階段になって、さらに下へと降りられるようだった。この階段に沿って水が流れているらしい。足下から響いてくる水の音はますます大きくなり、石造りの階段は一段下りるごとに、足音が辺りに反響して大きな音を立てた。
しかし、階段を降り切ってしまうと、そこは行き止まりだった。
代わりに目の前には貯水槽のような広い水の溜まり場が広がっていた。
「水路の行き着く先がここだ。ここには瑞鳳宮のあちこちからの排水も集められているみたいでさ。大雨の時はここに水を貯めて、水害を防ぐつもりなんだろ」
雪加達が立っているのは、その貯水槽の壁にあたる部分のようだ。
アビの言う通り、この辺りだけ天井が高く、大雨の時にはこの空間いっぱいに水を貯めることができるだろう。
真っ暗で奥の方は何も見えないが、水が勢いよく流れ落ちているような轟音が辺りに響いており、アビはその音に負けないよう、叫ぶようにして雪加に語った。
「行き止まりではないか」
雪加もまた、怒鳴るようにして声を上げた。
てっきりこのまま地上への道が繋がっていると思っていたのだ。しかしこの先には人が歩けるような足場が無い。
「いや、まだ続いている」
雪加の言葉を否定したアビは、松明を貯水槽の水面の方へと向けた。松ヤニを燃やした程度の弱い光では奥まで照らし出すことはできなかったが、その方向から水の落ちる音が聞こえてくる。
「この音の感じ……多分、水が落ちた先には空洞がある。そして方角を考えれば、木京の街の中のどこかへ繋がってる」
「ここに飛び込めと?! 無茶を言うでない」
「俺もやったことは無いんだ。でも皇后が本当にここを使って脱出したのか、お前も知りたいだろ。付き合え」
言うなり、アビは雪加の首筋めがけて手刀を振り下ろした。
その容赦ない一撃で雪加は意識を失い、次に目覚めたときには、まず一番に激しい息苦しさを覚えたのだった。
ゲホゲホと何度も激しく咳き込み、肺の中にまで入り込んだ水を吐き出す。
恐ろしく苦しかったその時間が終わり、なんとか呼吸が落ち着いてきた雪加が次に感じたのは、自分がずぶ濡れで、身体が冷え切っていること。水が流れ落ちる、轟音が周囲の石壁に反響して鳴り響いていること。辺りに光は全く無いが、ここには人が寝転がることのできるくらいの空間があり、すぐ側にはアビが座っているということ……。
「……ご苦労さん」
手探りで雪加の頭を撫でてきたアビもまたびしょ濡れだった。
この男、どうやら気を失った雪加を連れて水の中へ飛び込み、そして落ちた先で二人分の身体をここまで押し上げたようだ。
「これで例え泳げなくても、誰か介助してくれる奴がいれば、あの水の流れの中でも死なずにここまで来られるって証明できたぜ」
「な……っ?!」
「いやぁ、追い詰められていたとはいえ、あの真冬に水の中へ飛び込んだ皇后の度胸ってのは褒めてやらなきゃいけないよな」
アビは闇の中でケラケラと笑って見せたが、まさかそんなどうでもいい実証実験のために雪加の身を危険に晒したとは。
腹を立てた雪加はアビの胸の辺りを強く押して立ち退こうとしたのだが、何か強い力に遮られ、逆によろめいて彼の胸の中に倒れ込むことになってしまった。
あぁ悪ぃ悪ぃと笑った彼は、濡れた手で短剣を使い、互いの腰に結んでいた麻縄を切り落としてくれる。どうやら水の中で自分の両手が空くように、工夫していたらしい。
「意識があるままの奴は連れていけねぇんだよ。溺れる時は信じられない力でしがみついてくるだろ。それで二人とも溺れるのがオチだ。お前の水練の能力は知らねぇけど、あの池の真ん中から脱出しようとしないってことは、どうせ大したこと無いんだろ?」
アビが雪加の身体を抱き締めたまま言い訳する。
軽い口調のわりに彼の身体は小刻みに震えていて、それが寒さによるものだけではないことに雪加は気付いてしまった。
「……相変わらず無茶苦茶ばかりしおって。下手したら妾だけでなく、自分も死んでいたのだぞ」
「俺の命なんか惜しくも無い」
冷淡なことを口にしたアビは、雪加の手を掴んで立ち上がらせた。
立ち上がってみると、天井の方に一ヵ所だけ光が漏れているところがあり、その下に階段らしきものが見えた。
そしてその真下の空間へ手を伸ばしてみると、そこには上へ向かう階段のようなものがあったのだ。
「よし、これを登るぞ。濡れ鼠のままでいたくなけりゃついてこい」
闇の中からアビが命じてきた。
こんな男の言いなりになるのは、雪加にとってもちろん不本意なことである。しかし水には流れがあるので、ここから後宮へ戻ることは叶わない。
そう、これは仕方のない事である。
そうやって自分の心を宥めた雪加は、アビに示された地上への階段を、手探りでゆっくりと上り始めたのである。
***
下から見えた光は、壁に埋め込まれた採光用の窓から漏れていたものだった。
その脇にはかがむとようやくくぐり抜けられるくらいの、跳ね上げ式の鉄の扉があった。
これがまた上手く設計されていて、内側から押せば開くが、外からは開かない。
この扉を潜り抜けた先は、民家と民家の隙間だった。一見すれば、どちらかの家の壁にしか見えないように作ってある。
「ここはやっぱり木京の中みたいだな。それも庶民が住んでいる街の辺りみたいだ」
這いつくばって表に出たアビは辺りを見回して言った。確かに家屋のつくりは粗末で、大勢の人が近くにいるような物音や話し声がいくつも聞こえてくる。煮炊きをするための煙も家の隙間から立ち上っており、風に乗って漂ってくる匂いの中には、気品というものがまるでない。
準備の良いアビは麻縄や松明だけでなく小銭も持ってきていたようで、すぐ近くの民家に入って交渉し、二人分の着物を揃えてきた。
「こいつが間抜けで、そこの井戸に嵌ったんだよ。助け出すのにこっちまでずぶ濡れさ。参るよな」
怪しまれないようにするためだろう。頭の先から爪先まで濡らしている様を不審そうに眺めてくる華人に向かって、アビは雪加を指さしながら明るい口調で言い訳していた。
雪加はそんなアビを無言のまま見つめた。
彼が兄以外の人間に対し愛想良く振る舞っているのを見るのは初めてだったのだ。雪加に対しては暴君でしかないくせに、見知らぬ人に対してこんなに和やかで友好的な態度を取ることもできるのかと思うと、妙に悔しいような腹立たしいような気持ちになってきた。
こうして濡れた衣服を脱ぎ、なんとか町衆としての身なりを整えると、アビは街の雑踏の方へと歩き出した。
「ふぅ……さすがに疲れたな。なんか食っていこうぜ」
雪加の返事も聞かぬまま、彼は先へと進んでいく。
後宮で生まれ育った雪加には、ここが木京の街のどの辺りなのかもさっぱり分からなかったが、行きかう人の多さには圧倒されていた。
都で暮らす民草とは、こんなに大勢いるものなのか。
路傍に座る鼻を垂らした子供や大八車を引く男達、天秤棒を担いで何かを売り歩いている人もいれば、店を構えてその前に立って呼び込みをしている女もいる。
これだけ大勢の人が集まっていれば、どさくさに紛れてアビから逃げ出すことも可能なのではないだろうか。
そして雪加が「妾は翡翠姫じゃ。助けよ」と叫んだら……。
想像しかけて、すぐにやめた。
雪加の言葉にすぐさま納得してくれる者などいないだろう。高貴な姫君が町娘の格好をして歩いているのでは、信じろという方が間違っている。
そして華人達が戸惑っている間にアビがやってきて「悪ぃな。こいつは頭がイカレてんだよ。気にしないでくれ」と上手な華語でとりなすのがオチだ。
せっかく逃げ出す好機であるのに、雪加はアビの後をついていくしかない。
この男に振り回されている自分が悔しくてたまらないが、一方でこの男についていけばいいという安心感もどこかにあり、それはきっと初めての場所で慣れないから、誰でもいいから縋りつきたい気持ちなのだろう、と思う。
雪加がアビを頼りにするなど、ありえないことなのだから。
雑踏を歩くうちに、アビは湯気の立ちのぼる露店の前で立ち止まると、何かを注文した。買ってきたのは緑色をした包子で、両の掌で包み込むくらいの大きなものだった。
「翡翠饅っていうんだ。生地に菜っ葉を練り込んでるから翡翠色なんだよな。最近、木京で流行りらしいぜ」
道の端へと移動したアビは、その翡翠饅とやらを半分にちぎり、雪加の手に載せた。
中に入った肉の餡が露になった包子からは、湯気と芳香が立ち昇り、これを雪加はしげしげと眺めた。
この男は椅子も机も無いところで食事をしろと言うのだろうか。
そんなはしたない真似を高貴な翡翠姫に強要するとは、やはり蛮族の考えることはおかしい。
しかし彼は美味しそうな顔をして半分になった包子を頬張るのだ。
「翡翠姫が翡翠饅を食ってる絵面なんて笑えるだろ」
「くだらぬ。そんな駄洒落のために妾を連れてきたのかえ」
文句を言った時に、雪加の腹が鳴った。
そう言えばあまりにひどい目に遭ったおかげで忘れていたが、ひどく腹が減っていたのだ。
その食欲を美味しそうな湯気で呼び覚まされてしまったらしい。
赤面する雪加を笑い飛ばしたアビは「四の五の言わず、とにかく食え」と言って雪加の手を掴み、包子を口の中へ強引にねじ込んできだ。
そして目を見張る。これは……今まで口にしてきたどんな食事よりも美味しいではないか。
お腹が減っているせいなのか、作りたてだからなのか。
軟禁中の今はともかく、鵠国が健在であった頃だって、こんなに感動する料理にはお目にかかったことがない。
しかし美味しいなどと素直に言ってやるのは嫌なので、雪加は敢えてしかめっ面を作り、残りの包子をゆっくりと口の中へと運んだ。
先に食べ終えたアビはそんな雪加をじっと眺めながら、民家の壁にもたれかかった。そしてふぅ、と大きな息をついて、板葺きの屋根の隙間に覗いた青い空を眺める。
「……さっきの話の続きだけどさ、お前を娶るのは八哥の為なんだ」
「うむ?」
「八哥は戦で得た捕虜達を、全員生かしたまま南へ送り返した。でも今までの八哥だったら、そんな生ぬるいことはしなかった。東鷲郡を攻めた時だって、武器を持って歯向かう奴らを皆殺しにしたんだ。それくらいやらないと、鴉威は舐められる。逆らっても殺されないと思えば、華人達はこの先、いくらでも逆らってくるだろう。そうならないためにも、捕虜は殺すべきだった」
情けない話だぜ、とアビは吐き捨てるように言った。
「俺は八哥の果断即決できるところが好きだ。鵠国の宰相を斬り捨てた時のように、逆らう華人の頭には即座に剣を振り下ろす。その威によってこそ、鴉威は生意気な華人どもを治めることができるんだ。なのに今の八哥は華人の顔色を伺うようなことをしている。俺はそんな八哥を見たくない」
「……」
「なぁこの国の王になるためには、天帝の血を引く女が必要なんだよな?」
突然のアビの問いに対し、雪加は何を今更、と眉をしかめつつも頷いた。
「それが天帝との盟約じゃ。人の子らを統べる者が天帝の娘を捧げなければ、この地は天帝の元に戻り、水の中に沈むことになる」
「そうだよな。だとしたら、逆に八哥が翡翠姫ではない女を娶っているのは、いいことなんじゃないかと思ってさ」
「ん?」
「だからさぁ、今の話は逆に言えば、王妃が天帝の娘でなければ、この大地を水没させることができるって話になるだろ。この憎たらしい大地が無くなれば、八哥は鴉威に戻れる。華人達に惑わされることもなくなる。そのためにも俺は、お前が八哥のお手付きになる可能性をきっちり消しておきたいんだ」
「馬鹿馬鹿しい。なんとまどろっこしいことを。それが目的なら妾を殺めれば良いだけであろう」
雪加の指摘に、彼はぷいと唇を尖らせた。そういう時だけは、この男も年相応の幼い表情になる。
「仕方ないだろ。お前は死ぬ気が無いんだから」
おかしなことを言うものだ。
雪加が死なないと決めているから殺せないと?
この男はどうして大嫌いなはずの雪加本人に、生死の決定権を預けてしまっているのだろう。
アビが雪加を大切に思っているわけではないのは、よく知っている。
先程だって、先がどうなっているかも分からない水路へ放り込んだのだ。死んでもいいと思っているからこそできた行為である。
それなのに死なないという雪加の意思を尊重して、面倒な策を弄すこともするなんて……。
「本当に……訳の分からぬ男じゃ」
翡翠饅の最後の欠片を口の中へ押し込みながら、雪加は胸の内から自然に込み上げてきた言葉をそっと呟いた。
そう、まさにその時だったのだ。
大勢の人が行き交う雑踏の中から、蟾蜍が潰れたような、言葉にならない悲鳴が上がったのは。
「雪加姫?!」
「え……??」
「私ですよ。嘴広鸛。分かりませんか? 貴女の許婚です!」
猫背で歩いていた彼は声を震わせ、目深に被っていた編笠を外しながら迫ってきた。
顔の輪郭を描くように生やした無精髭はみすぼらしく、身に纏った着物もボロボロで浮浪者同然のいでたちである。
雪加はその変わり果てた姿に、咄嗟に声も出なかった。
宮中にあってはその美男ぶりをもてはやされていた彼が……鵠国を守る羽林軍の総都督でありながら行方知れずになっていた広鸛が、まさかこんな街の中で突然目の前に現れるなんて、雪加には信じられない思いしか無かったのである。
二.
アビもさすがにこの展開は予想していなかった。
この時の雪加は美しい顔を惜しげもなく晒していたが、一度ずぶ濡れになったおかげで化粧も落ちているし、町娘と変わらぬ格好をしていたのだ。まさかその正体を見抜いてくる人物がいると思うはずがない。
だが彼は雪加の許婚であるため、元々彼女の素顔を知っていたらしい。そして高貴なお姫様が往来で立ったまま包子を食べていることに驚きすぎて、うっかり声をかけてしまったそうだ。
そして彼は傍らにアビがいることに最初、まるで気付いていなかった。
だからこそふらふらと雪加に近づいてきて、そのままアビにあっさりと捕まってしまったのだ。
「なんだ、お前は?」
「うわ……?!」
自分の腕を掴んでいるのが、褐色の肌をした青年だと気付いた広鸛は慌てて逃げ出そうとしたが、もちろんそんなことをアビが許すわけが無い。
とりあえずここでは目立ちすぎると判断したアビは、男の腕を掴んだまま細い脇道へ入り込んだ。
路地の先には五重塔が見える。近くに天帝を祀った寺があるのだ。この辺りには来たことがあるな、と周囲の景色と自分の記憶を擦り合わせつつ、アビは民家の壁際に広鸛を座らせた。そしてその手を後ろで結ぶ。
「お前、雪加の許婚とか言ってたな?」
「いや、それは……」
あまりの急展開に、男は思考が追いついていないらしい。誤魔化すべきか認めるべきかも決めかねている様子だ。
状況がよく分かっていないのはお互いさして変わらないが、捕らえられた方と捕らえた方でその心境は雲泥の差だ。
アビは改めて広鸛を見下ろした。
生やし放題の髭と薄汚い身なりで隠しているが、年齢は三十代前半くらいでまだ若く、肌が抜けるように白い。そして先程から異様な汗をかき続け、アビと視線を合わせない。
その傍らに立つ雪加は、そんな許婚の変わり果てた姿に衝撃を受けた様子だった。捕らえられるきっかけを雪加自身が作ってしまったことに対しても、動揺しているようだ。
「嘴といえば、確か鵠国では名だたる大貴族様だな。しかも武を司る家柄……そうか、嘴広鸛。思い出した。羽林軍の総都督じゃないか」
「……」
「お尋ね者の戦犯がこんなところにいるとは驚いたぜ。何やってんだ?」
雪加の表情を見ていればこれが本物の嘴広鸛であろうことは疑いようがないが、この男はこんな街中で一体何をしているのか。
両手を後ろで縛られた広鸛は、正体が露見したことで誤魔化し切るという手を捨てたらしい。
ガタガタ震えつつも、許嫁の手前、虚勢を張って答えた。
「わ、我は来たるべき鵠国の再興に備え、この木京に潜伏していたのだ。鵠国再興の鍵は我にあり。蛮族どもよ。我の策略の前にはうぬらの蛮勇など取るに足らぬものであるとすぐに悟ることになるであろう。うぬらの血が長河を赤く染め、悲嘆の声が地を覆いつくす前に、この都から出て行き、荒涼たる蛮土へ戻るが良いぞ」
「……嘘をつくなよ。要するにお前は、年始の変での敗戦の責任を取らされるのが怖くて、表に出られなかっただけだろ。だから南に走ることもできず、震えて隠れていたんだ」
アビの指摘のとおりである。
広鸛は年始の変の数日前、北方の守備隊から鴉威の反乱の知らせを受けていた。
本来ならすぐさまこれを燕宗に報告し、木京の備えを厚くすればよかったのだ。
しかし広鸛はどうしても武勲を立てたかった。
平和が続いていた鵠国で、武官が認められるのは難しい。
強い敵を打ち破る。それも華麗に。
広鸛は皇族の末端に名を連ねながらも、あくまで傍流であり、出世など望めぬ身であった。
それが達者な口先と美男子ぶりだけで崔皇后に気に入られてここまで昇進し、有力貴族の嘴家へ養子に入り、更には皇女を娶ることも許されたのだ。広鸛はこの上に確かな実績をどうしても加えたかったから駆けてきて疲れ果てているはずの蛮族達は、その圧倒的な機動力を生かして広鸛の本陣を急襲。驚いた広鸛は味方の兵士を残したまま、戦場から逃げ出した。
この戦いで鴉威の民は羽林軍の旗を多数手に入れ、その旗を掲げて木京まで駆け抜けたのだ。
かつて石蓮角は羽林軍と鴉威の軍勢を見間違え、玄武門を開けっぱなしにしてしまったことを悔いていたが、そもそもこの男が戦場から逃げ出さず、さらには敗戦を知らせる伝令を走らせていれば起こらなかったことなのである。
アビは広鸛が羽林軍の指揮官だったことしか認識していなかったが、少し話をしただけでその薄っぺらい人となりを見抜くことができた。その長ったらしいだけの実が無い喋りっぷりだけでも分かる。この男は舌しか取り柄が無いのだろう。
こんな奴は殺してしまってもなんら差しつかえ無い。
しかしあまりの駄目っぷりに、殺意を削がれてしまったのもまた事実だった。
それでも放っておくには都合が悪い。
彼は雪加の許婚であり、彼女の正体を知っているのだ。この男の口から余計な言葉が飛び出すと、王妃が偽物であることを伏せているアビの立場すら悪くなってしまう。
少し考える時間が欲しい。
しかし後宮の奥深くで面布をつけて暮らしていた雪加と違って、広鸛は少なからぬ華人達に顔を知られている。長時間表にとどめておくのは危険だった。
悩んだ挙げ句、アビは嘴広鸛を一旦、明王檣の屋敷へと連れて行くことにした。
五重塔がある寺の近くに、確か彼の屋敷があると思い出したからだ。
アビの母の弟である王檣は、野心家であった。元は下級貴族でしかなかったが、年始の変の後、アビの叔父であることを理由にすぐにイスカへの恭順を示し、それによって今は名ばかりとはいえ高い地位を得ている。
故にその屋敷も広大であり、アビは門番に身分を明かすと、市中で捕らえた謀叛人の取り調べをしたいから、どこか使っていない小屋を一つ貸して欲しいと頼んだのだ。
主である王檣は瑞鳳宮へ出仕していたからこの時は屋敷におらず、代わりにその妻とやらが応対してくれた。
「そういうことでしたら、こちらをどうぞお使いくださいませ」
彼女は褐色の肌をした甥っ子に対し、丁寧に応対した。夫の出世が国王の弟である甥っ子との血縁によるものであることをよく理解していたのだ。ゆえに彼女はアビの要求通りに納屋を貸し出してくれ、人払いもしてくれた。
「よし、もう喋っていいぜ」
貸してもらった納屋の中に誰もいないことを確認すると、アビは広鸛の口に巻き付けていた布切れを外してやった。
この男も明家の者達にわざわざ自分の身分を明かし、敗戦の責任を問われるようなことはしないと思ったのだが、念には念を入れたのである。
一緒に連れてきた雪加には特に口止めをしなかったが、それでも彼女はこれまでのところだんまりを決め込んでいた。
自分が翡翠姫であると騒いだところで、威国に恭順の意を示している明家の中では助けを得られないと判断したのだろう。この無鉄砲で世間知らずのお姫様も、少しは周囲の状況を考えることができるようになったようだ。
「ここに来るまでに考えたんだけどさ、お前には郭まで行ってもらうよ」
手を後ろで縛ったままの広鸛の正面に立ち、アビは話しかけた。
その軽い口調は、ちょっと隣町までお使いに行ってきてくれと言うのと同じくらいの調子だったが、もちろん言われた方は愕然としてしまった。
「郭へ?」
広鸛の顔には脅えの色が広がった。
郭宗の前へ顔を出したが最後、羽林軍の総都督として、国を滅ぼした責任を取らされると恐れたのであろう。
しかしアビはそれなら心配いらないと説明してやった。
「お前は奮戦虚しく威国に捕らえられたのだと誤魔化せばいい。そして永らく地下牢に入れられていたが脱出。しかもその際に威国の重要書類を手に入れたと言えば、むしろ手柄になる」
重要書類というのは、木京周辺の防御態勢についての書面である。
木京の街を守備する兵士の人数や装備、最近使っている狼煙の種類など、今から細かく書き上げて渡してやるとアビは約束した。
「そういう軍事機密をお前に預けるから、郭宗には再度木京を攻めるように上奏して来い」
「ど、どうしてそんなことを……」
「理由をお前が知る必要は無い」
戸惑う広鸛に対してアビは冷淡な返事をした。
しかしこれは、明らかに威国を裏切る行為なのだ。広鸛の困惑は抑えきれない。
「いや、待て。我にもそれを知る権利くらいはあろう。この話に乗るかを決めるためにも、うぬの意図は教えてもらわねば困る」
「はぁ?」
殺される訳では無いと分かって少々気が大きくなった広鸛は、交渉の種を探したい一心で申し出たのだろう。
しかし不快さゆえに大きく顔を歪めたアビは、次の瞬間、広鸛の胸を蹴り飛ばしていた。
「うぐっ!」
「勘違いするなよ。お前がこの計画を遂行できなくとも、俺は全く困らないんだ。だがお前はこれを成功させる以外、生きていく道が無い。乗るか乗らないかなんて、決める権利はお前に無いんだよ」
「く……」
「国を滅ぼした大罪人として、人々から石を投げつけられて死にたくなけりゃ、余計なことは考えず全力で臨め」
アビは倒れたまま起き上がれない広鸛の顔面を踏みつけて言い放った。物分りの悪い華人に自分の置かれた立場を分からせてやるには、これくらいしなければいけない。
「……妾も聞きたい。南から兄上の軍勢を木京へ招き入れるつもりかえ? そのようなことをすれば、そなたの大事な兄だけでなく、鴉威の者も大勢死ぬことになろうぞ」
傍らで聞いていた雪加が、鼻血を流す広鸛を助け起しつつ、口を挟んで来た。
青い顔をしている。威国に仇なすアビの行動が全く理解できず、不安しか覚えなかったのだろう。
アビはふんと鼻を鳴らした。
「伝えるのは羽林軍を中心にした華人の兵士のことだけだから問題ない。死ぬのは華人だけってことだ」
「……」
「一応、お前が川を渡るための船と路銀くらいは用意してやるが、その先は勝手にしろよ。いいか、もう一度言うが、お前が途中で野垂れ死んでも、俺は痛くも痒くも無いんだ。お前は自分の命を助けるため、全力でやり遂げろ」
軍隊の指揮官としては無能ながら、この男の良く回る舌と元の肩書には利用価値があるとアビは考えたのだ。羽林軍の元総都督ならば、単身で乗りこんでも郭宗と直々に話す機会くらいは得られるだろう。
この男は戦場から逃げ出したことを悔やみ自害して果てるわけでもなく、薄汚い格好をしてまでコソコソと生き延びている。そんな奴なら自分の命を守るためには何でもするはずだ。
咄嗟に思いついた考えではあるが、嘴広鸛を手に入れたという僥倖を生かさない手はないのだ。
話を終えると、アビは早速広鸛に渡す機密文書を作ることにした。
イスカの側にいたので、アビは詳細なことまで知っている。ゆえに瑞鳳宮へ戻ることなく書くことは出来そうだが、そのためには紙と筆が必要だった。
王檣の妻に命じて用意させようと思ったアビは納屋の外に出たが、扉のすぐ外に小綺麗な格好をした12、3歳の少女がそわそわとした様子で立っていたので、話を聞かれたかと疑った。そして反射的に彼女の腹を蹴り飛ばしてしまったのだった。
地面に転がった少女は悲鳴を上げ、それを聞きつけた母親が屋敷の方から血相変えてすっ飛んでくる。
「人払いを命じたはずだぞ! 何者だ!」
少女を助け起こす王檣の妻に対し、アビは怒声を浴びせた。
それに対し妻は、地面に頭をこすりつけて詫びた。
「申し訳ございません。私の娘でございます。人払いをと命じられておりましたからこそ、滅多な者ではいけないと思い行かせただけなのです」
「余計な気を回すな」
「ですがお側に置いていただければ、何かにつけてお役に立ちましょう」
確かに。今のように必要な物がある時の連絡係としては、彼女は適任であろう。
しかしアビはこの女の魂胆を見抜いていた。
娘とアビの接点を作ることで、縁談にまで話を進め、明家と王弟との絆を今以上に深めたいに違いない。夫に実力が無いことは妻も分かっていよう。地位を固める為には血縁関係を利用するしかない。
アビは芥でも見るような目で、地面に伏せている王檣の妻とその娘を見やった。
娘が話を聞いていたかどうかが分からない。
秘密が露呈する恐れがあるなら即刻斬り捨てたいところだ。しかしさすがに王檣の娘を手にかけるわけにはいかないか。そしてこの母親もそこまで考えて娘を行かせたのだろう。
憤懣やるかたないアビは、唾棄と共に言い放った。
「王檣の娘なんかに興味は無い。遊ぶための女ならもう連れてきているからな。お前らは俺の指示した通りに動いてりゃそれでいいんだよ」
「……失礼いたしました……」
「分かったらとっとと引っ込め。あぁ、でも紙と筆は今すぐ持ってこい。娘ではなくてお前自身がな。俺はここで待っていてやるから」
華人達の目が納屋の中を探らぬよう戸を閉めたアビは、その前に胡坐をかいて座った。
そして母娘が大慌てで退散する様を、無様な奴らだなと舌打ちしながら見送ったのであった。
三.
アビはイスカの従者であり、部下というものを持っていない。
だからこういう、事を起こしたい時には叔父である明王檣の手を借りねばならず、日が暮れる頃、職務を終えて瑞鳳宮から戻って来た彼に対し、協力を依頼する流れになった。
もちろん何をするのかは伝えないし、嘴広鸛の素性も明かさない。ただ、金子と郭までの地図を用意させ、人手も少しばかり貸してくれるように言っただけだ。
アビは叔父が嫌いだった。
明家の連中は僅かな褒美と引き換えに、後宮の女官だった昭君を蛮族の元へ嫁がせることに同意したのだ。
もちろん皇帝の命令は絶対であり、下級貴族でしかなかった明家に逆らうことなど許されなかったのだろう。それは分かっていても、夫の息子との婚姻を断って欲しい、帰国したい、と文を送り続けた母に冷淡な対応をしたのは、間違いなくこの家の者達なのである。
その辺りのことに王檣自身がどれだけ関わっていたのかは知らないが、出世欲しかない無能な叔父と睦み合う気には到底なれなかったのである。
こうして夜遅くまで念入りに準備をしたアビは、翌日のまだ夜が明けきらぬうちに、捕縛した嘴広鸛と王檣から借りた三人の下僕らを連れて木京を離れた。
雪加は納屋に置いていくことにした。さすがに彼女を連れて行くのは面倒だったのだ。
納屋の外から鍵をかけておき、もちろん鍵はアビが持っておく。
飲み水と握り飯だけは置いていき、明家の者達には誰もここへ近づかないよう釘を刺しておいたから、これで二、三日は放っておいても大丈夫だろう。
アビは叔父を全面的に信用しているわけではなかったが、彼が甥とは一蓮托生、と理解していることは分かっていた。
そこに温かい肉親の情はない。
二人の間には血縁以上に、支配する者とされる者の差が横たわっているからだ。
鵠国が滅んだ直後はその血縁を盾に、王檣から馴れ馴れしい態度を取られることもあったが、アビは叔父に対して常に絶対服従を求め、そのように振舞ってきた。
おかげでこの愚かな男もこの頃は自分の置かれた立場を理解し、ようやくおとなしくなってきたところだった。
やはり華人に対しては高圧的に臨まなければいけないな、と再認識している次第である。
さて、木京を囲む城壁の南端は長河をかすめているくらいだし、その岸辺まではすぐに出られた。アビは川沿いの小さな村で小舟を一隻買い取ると、そこで夜を待った。
日が高いうちに南へ渡ろうとすると、川を監視する兵士に見つかってしまうからだ。
しかも手に入れた舟は小さくて、流れの早い長河では漕いでもなかなか前へ進まないから、できるかぎり舟に乗る距離を短くしてやらねばならない。もしも下手なところで渡らせれば、流れに負けて北岸へ逆戻りしてしまうこともありえる。
そこでアビは辺りが暗くなると下僕達に小舟を担がせ、葦切へ歩いて渡った。
つい先日、戦に巻き込まれたばかりの川の中の小島は、南へ渡るための最短路であり、この島には平時でも浮橋が北岸側から一本かけられている。
天帝を崇める民らが、この豊かな大地を与えられた盟約の地へ詣でるためだ。
しかし昼は賑やかなこの島も、岩だらけの小島であるがゆえに人が住める場所はほとんどなく、故に夜にこの島に残っているのは、参拝客を見込んで店を構える商売人と、川を許可なく超えようとする不届き者を見張る兵士くらいのものだ。
アビと嘴広鸛、それに下僕達は、そんな人気のない島の中を無言のまま歩いた。
この島は切り立った岩で覆われているので馬は使えないし、小舟を浮かべられる岸辺も限られていた。
月明かりだけを頼りに、岩の上を歩くのはとても難しく、小舟を運ぶ下僕達だけでなく、手を後ろに縛られた広鸛は特に歩きにくそうにしていたが、アビは容赦なく彼らを追い立てる。
この島を見張っている兵士らに見つかりたくなかったのだ。
何しろアビが今やっていることは、威国への裏切り行為である。
もちろんアビ自身にそんなつもりはない。イスカが鴉威の長としてあるべき姿へ戻るための、やむを得ない処置なのだ。
アビの密書に踊らされた郭宗が南から攻めてきたら、華人同士が相打つことになる。そして郭宗は当然勝利するだろうが、彼が戦で疲れて弱体化したところを鴉威の兵が倒せばそれでよい。
そうすれば華人の兵士達を一掃できて、鴉威の兵だけが残る。
それでいいではないか。
イスカも華人より故郷の民の方が強いことを改めて悟り、今のように華人どもと協力する必要性なんて感じなくなるはずだ。
そんな思いを噛み締めながら、アビは暗闇の中を先へ進んだ。
葦切は元々が切り立った岩で形成された小島で、それが水の流れに触れる側面は随時浸食されていくから、ますます崖が険しくなる。
それでも唯一島の東側だけは流れが若干緩やかになっており、どうにか岸辺へ降りることができる場所がある。しがみつくように岩を降り、苦労して小舟を川に浮かべた時には、朧月が天の頂へと上っていた。
ここは岩陰になっているので、島の警備をしている兵士らに見つかることも無いだろう。警戒感を緩めたアビは下男らに松明を持たせると、広鸛の縄を解いてやり、彼を舟に乗せた。
そろそろ夏も終わりを迎えるせいなのか、先だって戦でこの川まで来た時よりも、水面を撫でるように吹き抜けていく風は冷たく、大汗をかいてここまで来た身には心地よかった。
「俺が手伝いをできるのはここまでだ。この先はお前一人きりだからな。抜かるなよ」
「……うぬは雪加姫をこれからいかがする気か?」
小岩の上に立って広鸛に櫂を渡すと、小舟の中に座った彼が尋ねてきた。
彼が雪加の許婚であったことをすっかり失念していたアビは虚を突かれ、そして次の瞬間ケラケラと笑い声を上げた。
「安心しろ。これからも俺が存分に愛でてやるさ」
アビが初めて雪加を犯した時、彼女は男を知らなかった。つまりこの男とは何も関係を持っていなかったということだ。その事実を今更ながら認識したアビは、嗜虐的な笑みを浮かべて広鸛を眺めたのだった。
「お前は知らないだろうが、あの強情女も体を蕩かしてやれば、いい声で啼くんだぞ。お前が無事に役目を果たしてきたら、声くらいは聞かせてやるよ。楽しみにしてろ」
「こ……この夷狄め!! 美しき姫の身体を弄び、耐えがたき屈辱の海に投げ込むとは……許せぬ。八つ裂きにしてその腸喰ろうてくれるわ!!」
「ははは。そのためには郭宗を唆して、木京へ攻め込んで来いよ。待ってるぜ」
アビは広鸛の呪詛の言葉をニヤニヤと笑いながら聞いてやった。
これでいい。広鸛がアビへの復讐心に駆られれば、それは郭宗の元へ辿り着くための原動力となるはずだ。戦場から逃げ出すような臆病者だけに、これくらいの強い気持ちを持たせておいた方が安心というものである。
しかしアビが機嫌よくいられたのはここまでだった。
背後で下男達が突然跪き、その違和感に気付いてアビが振り返ると、たくさんの男達が続々と岩を降り、こちらへ近づいてくるところだったからだ。
「……何をやっているんだ、アビ?」
彼らの先頭に立っていた兄が、低い声で問いかけてきた。
それは込み上げてくる激情を堪え、冷静でいようとしている心情がよく伝わってくる声だった。
「八哥……」
アビは激しく狼狽えた。一体どうしてイスカがここにいるのか?
何がどうなっているのか、咄嗟に判断できなかったのだ。
まさか、明王檣が裏切った……?!
「そいつは何者だ?」
アビが憧れて止まない蒼い瞳が、訝し気に細められて小舟の上で止まる。
そして彼の問いかけと同時に、彼の背後で松明を持った人影がいくつも揺れた。
イスカを含め、男達は全員が武装しているようだった。長剣を帯びているし、鎧も着こんでいる。
対して今のアビは短剣一本しか持っておらず、部下は三人の下僕だけなのだ。
(このままじゃダメだ)
そう悟ったアビは、考えるより前に己の身体を跳躍させた。
「行け!」
川の中に足を踏み入れて広鸛の乗った小舟に飛びつくと、それを力いっぱいに押して岸から離したのだ。
水しぶきが跳ね、突然の衝撃に大きく揺れた小舟の上では、広鸛が転げた。
長河の流れは速いので、その流れにさえ乗れば彼はこの場を脱出することができたはずだ。
だから広鸛自身が櫂を操り、あともう一漕ぎでもしてくれたら、楽々追っ手をかわせたはずだったのだ。
しかし船の上で転げた彼はもたついてしまい、そこへ追いついたイスカの部下達によって取り押さえられてしまった。
それと同時に飛びかかってきた別の男達により、アビ自身の身柄も押さえられてしまう。
腕を両側から抱えられながら冷たい水の流れの中から引っ張り上げられたアビは、広鸛が小舟ごと岸に戻されるのを目にすることになった。
(……あぁそうだった。この男はこういう肝心なところできちんと動けない奴なんだ。だから戦にも負けたんだった)
それは彼と直接言葉を交わしたアビにも、十分に分かっていたことだったのに。
失敗した。こんなろくでもない男を使おうと思ってしまったアビが、ただただ浅はかだったのだ。
***
イスカは明王檣からの通報を受けて、この葦切へ来ていた。
数刻前、夕方の政務が終わる頃に恐れながらと目通りを願って来た王檣は、昨日からアビが良からぬことを企んでいる様子だと申し出た。
そこで彼は貸して欲しいと言われた下男の中に目端の利く者を紛れ込ませた。その者からの知らせにより、アビが今夜葦切から渡河を試みようとしているようだと判明したとのことだった。
イスカにもアビが何を考えているのかは分からなかったが、分からなかったからこそ、自ら動いた。弟のことである。余人の報告を受けるより、この目で状況を確認したかったのだ。
イスカは二十人ばかりの手勢を引き連れてここまで来ていたが、その中には華人も数名いた。
彼らは羽林軍の総都督であった広鸛の顔をもちろん知っていたし、彼が持っていた密書の内容を読むこともできた。
「なんでそんなことをしてくれたんだ……」
軍事機密が事細かに書かれていたことを聞かされたイスカは、天を仰いで嘆息した。
アビが羽林軍のことばかりを正確に書いている点から、その魂胆はすぐに読めた。華人の兵士達を囮にし、郭宗の軍勢をおびき寄せようとしたのだ。
こんな恐ろしい計画を立てた弟に対し言いたいことは山のようにあるが、イスカは彼を捕らえるだけにして一旦待たせておき、まずは広鸛と話をすることにした。
小舟から降ろされ、イスカの前に引っ立てられた羽林軍の元総都督は、予想通りというべきか、怯え切った様子で震えていた。
かつては美男子として瑞鳳宮でも名を馳せていたらしいが、今はただ、無精髭がみっともないだけの浮浪者である。
この男が部下達を見捨て、戦場から逃げ出したことはもちろん知っている。だからイスカは最初から好意的とは正反対の立ち位置で、広鸛を見下ろしていた。
「嘴広鸛とやら。お前は郭へ行こうとしていたんだな?」
「……」
「それで、この密書を手土産にすることで年始の変での敗戦の責を免れ、あわよくば郭宗に取り入ろうとしていた。そういうことだな?」
広鸛の懐に入っていた紙束を見せつけると、彼はそれはアビが仕組んだことで、自分は関係ないと喚いた。
「そ、それに、年始の変で木京が占領されたのは我のせいではない」
「ほう……?」
「我はその手前の戦に敗れただけ。都へのうぬらの侵入を許したのは木京の守備をしていた者達である。我が総都督であるからと、全ての責任を押し付けるのは間違っていよう。それに戦とはそもそも時の運ではないか。我とて百戦百勝とはいかぬのは当然のことで……いや、むしろ天帝が我に試練を与えんと欲しただけなのである。この苦難に満ちた試練に耐え、我はいつの日か祖国を解放し、木京に凱旋することになろう」
「……よく回る舌だな。羨ましいくらいだ」
イスカは呆れ果て、そしてアビがこの男を使おうとした理由を察した。
自己弁護のための熱弁を臆面も無く揮える総都督殿なら、郭宗への使者としては適任だろう。彼が新皇帝から好感を得られるかはともかくとして、密書を渡すことくらいはできそうだ。
「それで、お前はいつからアビとつるんでいたんだ?」
「き、昨日である」
「昨日だと?」
「木京の街中で鋭意潜伏中であったところを、無念にもあの男に囚われ、計画に協力するように命じられた」
「……なるほどな」
明王檣もアビが昨日の日中に屋敷へやって来たと言っていた。
そして郭への地図を用意させたそうだが、昨日になってそのような準備をやっていたということは、本当に偶然に嘴広鸛を街の中で見つけたのだろう。
そしてこの偶然を生かそうと考えた。
良い判断だとイスカは思う。
極秘の行動を起こすには、素早い判断と実行力が何より大切なのだ。
ただ弟は頼る相手を間違えた。
娘を蹴り飛ばされてまで、王檣が甥に従うわけが無いではないか。
むしろアビの行動を訴え出て、その手柄を自分の出世に利用することを考える方が自然だ。
そんな単純な心情すら読めなかったのは、アビが華人を嫌う気持ちが強すぎたからだろう。
弟の偏った気持ちが悔やまれてならない。
イスカは込み上げてきた苦々しい想いを飲み込むと、懐に密書をしまい込んだ。
「こいつはもちろん渡せない。だが、お前には代わりの情報をやる」
イスカは捕縛されている広鸛に近づき、その耳元に口を付けると、そっと囁いた。
「燕宗は生きている。俺がその身柄を預かっている」
「え……」
驚きすぎてうっかり悲鳴を上げそうになる広鸛に対し、イスカは声を出さないようにと蒼い瞳に力を込めて睨みつけた。
そして彼から顔を離すと、今の話は郭宗にだけ伝えよ、と念を押した。
そう。イスカもアビと同じく、偶然手に入れたこの元総都督殿を高貴な伝書鳩と認識し、利用できると考えたのだ。
「いいか? 故に和平に応じよ、と郭宗に提案するんだ。俺はこの長河を国境にして両国がともに栄えればよいと考えている。そちらが河南で鵠国を再興しようと、それを妨げる気は無い。新皇帝の即位を歓迎する」
「な、なんと……」
与えられた情報があまりに大きく、どう処理して良いか分からないでいる広鸛に対し、イスカは自分の懐に秘めていた短剣を差し出した。
柄を山羊の角で作ってある、鴉威の伝統の技法で作られた短剣である。
「羽林軍の指揮官であったお前の言う事ならば、郭宗も話くらいは聞くだろう。しかも俺を襲い、この短剣を得たのだと言えば信憑性も上がる。もしもできなければ、俺が南へ攻め込む時、真っ先にお前の首を刎ねるものと思え」
「で……では我からも、条件がある」
昨日からずっと、蛮族の兄弟にいいように扱われていることを、さすがの広鸛も悔しく思ったらしい。
そよ風でもなぎ倒されそうなか弱い声ではあったが、一応反論してきた。
「五姫様を……雪加姫を助けよ」
「うん?」
「アビは今、姫を明王檣の屋敷の納屋に閉じ込めている。あの男は昨日から……いや、恐らくそれ以前からずっと、姫の御身を……」
言葉を詰まらせ、悔しさに震えた広鸛の声が、イスカの身体をも共振させた。
この男は……一体何を言っているんだ?
「姫は天女と見まごう程の美貌の持ち主。天帝がこの世へ遣わしたもうた、地上で最も誉れ高き美姫であられる。その白磁の頬が悲しみの涙で濡れることを、我は見過ごすわけにいかぬ。うぬが和平を願うのならば、姫の御身をまずは郭宗陛下にお返しするのが、物事の順序というものであろう」
比喩と形容詞が多すぎて、華語が得意ではないイスカには咄嗟に理解しがたかったが、広鸛はとにかく美しい姫君の身の安全というものを求めてきたようだった。
「……お前にとやかく言う権利は無い」
イスカもまた、昨日のアビと同じ言葉を浴びせたが、その言葉には先ほどよりも力が無かった。
心がひどく動揺している。
しかしここは敢えて語気を強めて広鸛を睨みつけた。
「お前は俺の言ったように務めを果たせばそれでいい。その良く回る舌は郭宗の前でだけ使え」
こうして広鸛を再び小舟に乗せ、南岸へ向けて送り出したイスカは、岸辺を離れ、岩の上で待たせていたアビの元へ向かった。
会話の内容はもちろん聞こえていなかっただろうが、松明をつけた小舟が広鸛を乗せて再び川の中を進みだしたことは、夜目のきくアビにはしっかり見えており、彼は開口一番に兄を詰った。
「なんで、あいつを行かせたんだよ」
「お前こそ、どうしてこんなことをした」
厳しい声音で応じるイスカは、もちろんアビを許す気なんて無かった。
信頼を裏切られた気持ちが強い。
明王檣から報告を受けた時には、まず先に彼の言うことの方を疑った程に、この異母弟をイスカは可愛がっていたのだった。
しかし戦勝の宴で言い争って以来、アビは確かに様子がおかしかった。政務が無いから来る必要は無いと伝えていたが、それでもイスカの前に一度も姿を見せなかったし、政務を再開した昨日ですら病を理由に自室へ籠っていた。
イスカはそれを弟が拗ねているだけだと思って気にしていなかったが、王檣からの通報後に彼の自室を調べさせれば、床に穴が開いていて、そこから隠し通路が続いていたから驚いた。
イスカは通路の先にあった水の中へ部下達を潜らせることまではしなかったが、後宮に詳しい白頭翁を呼び出したことにより、この脱出路が木京の街中へ通じていることは判明した。
しかも浮き島に閉じ込めていたはずの鴎花がいなくなっていたことから、アビが彼女を連れて出て行ったことは推測できた。
アビは一体何をしたかったのだろう。
その行動には計画性があるようで、まるで整合性がとれていない。こっそり抜け出したいなら、穴は塞いでおくだろうし、そもそもアビなら鴎花を連れて堂々と後宮を出入りすることくらいできるはずだ。わざわざ危険な水路を通り抜ける必要性は無い。
しかしどれだけ行き当たりばったりの行いであろうとも、やっていい事と悪い事はある。
イスカはアビの手跡で書かれた密書を懐から取り出し、弟の眼前に叩きつけた。
「こんなものを持ち出せば、威国は無事ではすまない。お前は何を考えているんだ」
「襲われるのは羽林兵だけだから問題ない」
「彼らも威国の民だぞ」
「違う。あいつらは華人だ」
「威国の民を損なう者は、誰であろうと許さん!」
イスカはアビを叱責し、その頬を引っ叩いたが、倒れたアビはそれに対し目を剥いた。
殴られたことに反発したのではない。兄の反応が、彼の予想していたものではなかったからだ。
「なんだよ……どうしてここで剣を抜かないんだよ」
アビは倒れた姿勢のまま兄を見上げた。夜の闇より濃い黒い瞳が、今にも泣き出さんばかりに揺れている。
「俺を斬れよ。それが当然だろ!!」
まるで兄の手で斬り殺されることをこそ望んでいたと言わんばかりの異母弟の主張に、イスカは眉をひそめた。
アビが生母の苦悩故に、歪められた幼少期を送ってきたことは知っている。
それがこの自暴自棄ともいえる叫びに現れているように、ふと感じたのだ。
「俺は敵方にこちらの情報を渡したんだぞ。なんで手ぬるくなってるんだよ。八哥は腑抜けた華人どもに寄り添い過ぎて、鴉威の心を忘れてるんだ」
「黙れ。勝手なことを言うな」
「だってそうじゃないか。果断即決を信条とする鴉威の王が、殺すべき奴を殺せなくてどうするんだ!」
アビは声を張り上げた。
それはイスカの連れている部下達にも聞かせて、自分の罪を明確にするためであろう。
発言は鴉威の言葉によるものだったから華人達には分からないようだったが、それでも彼を見守るイスカと鴉威の者達の表情を見れば、これが異様な状況であることは察しがつく。
周囲が唖然としていることも構わずに、アビは叫び続けた。
「弟だからって、躊躇うのは無しだぞ。信賞必罰は皆を従えるための当然の習いだ。ここで俺を斬らなきゃ、みんなに示しがつかない。早く斬れって!」
「……地下牢にでも放り込んでおけ。こいつは頭を冷やす時間がいりそうだ」
興奮している弟を持て余したイスカは、側に控えていた部下に命じて連行させた。
それからアビの連れていた下僕達のうち、王檣が連絡役として紛れ込ませていた青年に話しかけた。
「アビが女を連れていたとは王檣からも聞いていたが、納屋に閉じ込めているというのは真か? どんな女だ?」
「はい。その素性は分かりかねますが、若い娘であったことは間違いないです」
「ではその女を瑞鳳宮へ連れて来るように王檣に伝えよ。それからお前には褒美をやろう。よくアビの居所を知らせてくれた」
「ははっ」
「もちろん王檣にも褒美を与える。期待しておくように伝えておけ」
そうは言ったが、甥を売り飛ばすような真似をした彼に、あまり良い感想は持っていない。
大体、通報するならアビが出て行った直後、朝早くに言いに来れば良かったのだ。
それを夕方近くまで渋っていたということは、今まで通りアビと組んでおいた方が得か、それとも甥を突き出した方が得か、秤にかけて悩んでいたということだろう。
甥から尊大な態度を取られることを元々不服に思っていたところに、娘を蹴り飛ばされた点が決め手にはなったのだろうが、あまりに判断が遅い。やはり彼に与えるのは名誉職だけで十分そうだ。
後始末を部下に任せたイスカは、一足先に瑞鳳宮へ戻るべく、僅かな供を連れて葦切を離れた。浮橋の袂に馬を残していたから、これに跨る。
アビについても考えなければいけないが、今のイスカの頭の中では、先ほど嘴広鸛に言われた言葉が回っていた。
あの男はあり得ないことを言っていたのだ。
昨日から雪加はアビと一緒にいた、と。
そして何より、痘痕面のはずの彼女が、見目麗しい姫君であると……。
イスカは大きく頭を振って考えることを止めた。
これ以上の思考は堂々巡りになるだけ。無駄でしかない。
胸に込み上げたわだかまりを解くためには、早く王妃の元へ戻るべきだ。
イスカは供をする部下に声をかけた。
「木京まで一気に駆けるぞ。ついて来い」
月明かりに照らされた道を、イスカは勢いよく駆けだした。
この疑念の先にある真実がどんなものであるのか。
それを知ることには、臆病とは縁が無いイスカですら躊躇ってしまう。しかし威国の王として、真実から逃げ出すわけにはいかない。
イスカは馬の尻に鞭をくれると、重い闇に沈む夜道を急いだのだった。
四.
イスカと過ごした三日間の休暇の翌日から、鴎花の侍女は一人増えていた。
イスカの妻になるべく、はるばる鴉威の地からやってきたウカリである。
アトリら他の女性達は華人達と婚姻を結び、近々この後宮を出て行くことになったが、彼女にだけは残ってもらうことにしたのだ。
これについては白頭翁とイスカと共に相談して決めた。
今のままでは先代族長の妻達を全て追い出した格好になり、鴎花は鴉威の者達から睨まれることになるかもしれない。
ウカリは五十代という高齢故にイスカと褥を共にする気が薄く、そんな彼女だけでも後宮へ残した方が、鴉威の者達からの反発を避けられるだろうと、白髪の老人は語ったのだ。
愛欲渦巻く後宮で宦官として長く務めてきた彼は、こういう時の人々の心の機微をよく知っており、鴎花とイスカも彼の意見を受け入れることにした。
そしてウカリ自身も、これから言葉の通じない華人に嫁がされるアトリ達の苦労に比べたら自分は恵まれていると感じたようで、痘痕面の王妃の侍女という立場も快く受け入れてくれたのだった。
こうして香龍宮へやってきたウカリだったが、カタコトながら華語を操ることもできるし、休暇から戻ってきたばかりの小寿とも衝突することなく、穏やかに過ごしてくれたから安心した。
そして鴎花には彼女に対しての期待もあった。ウカリから鴉威のことを学べば、イスカがもっと快適に過ごせると思ったのだ。
鴎花はその考えを実践し、さっそくウカリから料理を教えてもらった。
「それでアーロールが軒下に干してあったのか」
日付が変わった明け方近くに香龍宮へ戻ってきたイスカは、懐かしい故郷の食べ物を目にしたものだから目元を和ませていた。
アーロールとは山羊の乳を家畜の胃袋に入れて固め、これを干したものである。乳を主食にする夏場には日常的に食べられているものだそうだ。
「はい。気候が違うので上手く作れるか分かりませんが、これからはウカリと相談し、乳粥だけでなく、もっといろいろなものを作りますね」
「それは楽しみだな」
今夜は戻らないと聞いていたのに、明け方のわずかな時間だけでもイスカが香龍宮へ立ち寄ってくれたので、鴎花はそれを素直に喜んでいた。
たった今まで眠っていたので、夜着の上に薄いひはくを羽織っただけの格好のままイスカに茶を淹れる。
こんな時間に悪いが、どうしても茶を飲みたいとイスカに所望されたのだ。
湯を沸かすところまではウカリと小寿にも手伝ってもらったが、イスカが皆はもう寝ていいぞ、と言うので彼女らは部屋へ戻し、鴎花は彼と向かい合って、絨毯に置いた盆の上で茶を淹れた。
彼がこの時間まで何をしていたのかは知らなかったが、どうやら馬に乗って走ってきたらしいことは、汗をかいていたことで分かった。着替えた際に渡された麻の着物からは、むわっと広がる湿気と汗と馬の臭いが漂ってきたのだ。
「随分遠くまで行かれていたのですね」
「いや、それほどでもない。一昨日の景徳までの距離と変わらないくらいだ」
イスカが言う景徳とは、木京の北にある寺で、良い粘土が採れる焼き物の産地でもある。
いつだったか遠乗りに行こうと話していたのを覚えていた彼が、この三連休を使って鴎花を連れて行ってくれたのだ。
「景徳は曼珠沙華が一面に咲いていて綺麗だったな」
「はい」
鴎花はにっこり笑って頷いた。
これまで後宮を出たことの無かった鴎花には、瑞鳳宮の外に出るだけでもう、感動の連続だった。
その上、イスカの馬に乗せてもらったのだ。楽しく無いわけが無い。
雪加とアビの縁談など、気になることは多くあるのだが、こうやってイスカと二人でいると、それだけで満たされた気持ちになれる。
「このところようやく、華人達が花が咲いたの散ったのと騒ぐ意味が分かってきた。中原では季節ごとに次々と花が咲くから、気になって仕方ないのだな」
「ふふふ。中原の秋はまた美しくなりますよ。寒さで紅葉の葉が色づいて赤く染まるんです。それが散っていく様は、神秘的ですらあります」
「そうか。鴉夷は草しか生えないから、木が葉を落とすというところから、もう想像がつかないが、お前が言うのだからよほど綺麗なんだろうな。中原で迎える初めての秋なのだし、華人達を見習って、詩の一つでも詠んでみるか」
今夜のイスカは饒舌だった。
何か良いことでもあったのかしら、と鴎花が思ったくらいだ。
鴎花もまたイスカに話をしたいことがあったので、ちょうど良かった。
彼の話が終わったら聞いてもらおうと思いながら、鴎花は急須を傾け、白磁の茶碗に茶を注ぎ入れた。
「……なぁ鴎花」
「はい」
問いかけはごく自然で、茶を淹れることに集中していた鴎花は何の違和感もなく返事をしてしまった。
顔を上げてイスカの表情を見て、そこでようやく自分の失敗に気付いたのだ。
「あ……」
「やはり……お前が鴎花だったのか」
そう言った時のイスカの蒼い瞳は、怒りよりも悲しみの光を強く灯していた。
鴎花は急須を持ったまま固まってしまい、イスカは額を抱えて唸ってしまった。
恐らく彼はその一言を口にする最後の瞬間まで、自分の推察が外れていることを祈ってくれていたのだろう。
しかしその祈りは天に届かなかった。
「……鴎花が昨日から行方不明だ。アビが浮き島から連れ出したらしい。まぁ、それ自体はいいんだが、それを追っている中で、あの女の方を雪加と呼ぶ者が出て来てな」
彼が落胆していることは火を見るより明らかだったから、鴎花はもう何も言えなくなってしまった。
頭が真っ白とはまさにこのことで、せっかく淹れた茶をイスカに差し出すことはもちろん、自分が何をするべきかも分からなくなっていた。
「お前があの娘のことで、俺に何か隠しているのは前から知っていたんだ……」
イスカは喉の奥から言葉を絞り出していた。
声が震えている。
彼がこんなに頼りない声音を発するのを、鴎花は初めて聞いたかもしれない。
「でもそれは、あの娘が皇族の血を引いているから……お前にとっては従姉妹か妹なのではないかと思っていた」
「……」
「俺は皇族を皆殺しにしていたからな。あの娘の素性が露見すれば殺される。だからこそお前は侍女のふりをさせて手元に置いているのだとばかり……」
まさかあっちが翡翠姫だったとはな、と土気色の顔をしてイスカが言う声を聞いた時、鴎花はようやく持っていた急須を盆に戻すことができた。
それは鴎花がもう何度も思い描いてきたことだった。
いつか、この人に真実が露見してしまう瞬間のことを。
忌まわしきその時にはどうしたらいいのか、何も考えてこなかったわけでは無いのだ。
鴎花はイスカの前で額を床にこすりつけ、小さくなって詫びた。
「……陛下のおっしゃる通りです。私は翡翠姫の侍女の鴎花です。これまでずっと陛下を謀っておりました。陛下が翡翠姫を得ることの重要性を理解しておきながらも身分を偽ったことは、威国の存亡にも関わる大罪。どのような処分でも謹んでお受けします」
「そんな話はしていない!」
鴎花の頭の上にはイスカの苛立った声が降ってきた。
彼も大いに混乱しているのだ。
鴎花が偽物だった信じたくないあまり、本当に偽物であった場合の対処法を彼は何も考えていなかった。
その証拠にイスカはこの後に何と続けていいのか言葉が出てこず、二人の間にはこの後、重苦しい沈黙だけが流れることになった。
イスカを落胆させてしまったことが、何より心苦しい。
彼が鴎花を愛してくれたのは、翡翠姫故だったのに。
偽物だったと知って、騙されていたと知って、この人はどれだけ鴎花に失望してしまったか……。
鴎花はもう、イスカを直視することすら恐ろしくて、ただひたすらに頭を下げることしかできなくなっていた。
そんなところへ、ウカリがやってきたのだ。
イスカはもう休んでいいと命じていたはずなのにやってくるなんて……小寿にも分かるよう華語で言われたことだったから、理解できなかったのだろうか、と鴎花は一瞬思ってしまったが、違った。
ウカリは今すぐイスカに伝えねばならないことが起きたから、言いつけに背いて部屋に入ってきたのだ。
「……分かった。通せ」
ウカリから鴉威の言葉で報告を受けたイスカは渋面になり、それでも頷いた。
それにより彼女は、香龍宮への訪問者を部屋の中へと招き入れ、鴎花は驚愕することになるのだった。
「鵠国皇帝、燕宗が五女、趙雪加でございます。広大なる北の大地の雄にして中原の王にあられます陛下にお目通りが叶い、恐悦至極に存じます」
長ったらしい挨拶をして、イスカの前で恭しく膝をつき、頭を下げたのは、翡翠色の絹服を身に纏った雪加だった。
優雅な挨拶を施した彼女は、絶句する鴎花へは目を向けることもなく「妾こそが真の翡翠姫でございますよ」と名乗った。
その口元には微笑みさえ浮かべており、本物の迫力というものを、鴎花はまざまざと見せつけられることになってしまった。
「今まで真実を語ることができずにいた無礼はどうぞご容赦くださいませ。今よりこの愚かな侍女に代わり、妾が心を込めてお側に仕えさせていただきましょうほどに」
切れ長の眉墨を引き、目尻を淡い朱色で染め、唇には目が醒めるほどの鮮やかな紅を差し、そして白粉で更に際立つ滑らかで白い肌……。
その艶やかな姿はまさに、中原の宝玉、翡翠の姫とかつて嘴広鸛が歌に詠んだ絶世の美女だった。
それに引き換え、自分はなんとみすぼらしい容貌なのだろう。どうして鴎花ごとき痘痕の女がこの人に成り代われるなどと錯覚したのか、恥ずかしさしか覚えない。
翡翠のごとく光輝く、圧倒的な美しさを誇る雪加の前では言葉を発することもできず、鴎花はただただ平伏するしかなかったのである。