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痘痕の翡翠姫  作者: 環 花奈江
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五章 常識の壁

一.

 香龍シャンロン宮に住まうようになってから、鴎花オウファの暮らしぶりは大きく変わった。

 半分捕虜扱いから、曲りなりにも一屋敷の女主になったわけだ。ピトとフーイは変わらず鴎花の見張り役を務めているが、警護をしているという表現の方が当てはまるようになってきた。

 又、この屋敷には元々、簡易ながら竈などの厨房設備が備え付けてあったので、いちいち厨房まで出向く必要がなくなった。

 おかげで朝も夕もできたての食事をイスカに振る舞えるようになり、それが鴎花には嬉しい。

 そして小寿シャオショウは侍女として住み込みで仕えることになった。

 鴎花が意識を失って倒れている間、狼狽えるイスカを隣室へ追いやったほどの気の強さと、有能な働きぶりが認められた結果である。

 一家の生活を支える彼女は、より多く稼げるのならその方がありがたいそうだが、住み込みだと問題になるのは子供達のことだ。

 特に小寿の末の息子のシー杜宇ドゥユゥは二歳という幼さであり、この子の世話を姉や兄達に任せきりにしてしまうのは心許ない。

 そこで小寿が働きながら杜宇だけを手元で育てることになった。

 一番手のかかる末っ子がいなければ、子供達と父親だけの生活も少しは楽になるし、鴎花も幼い子が側にいて可愛らしい姿を常に見せてくれるのは心が和む。

 最近は華人ファーレンの文官であるテェン計里ジーリィも、表宮での政務の合間を縫い、小寿を訪ねて来るようになった。

 聞けば計里と小寿の夫は以前から親しい仲であり、今も家族ぐるみで親しくしているそうだ。

 だから彼は木京ムージンの街で暮らす四人の子供達や夫からの伝言を小寿に伝えたり、入用の物を届けてくれたりしているのだ。

 一方、政局の方も大きく動いていた。

 燕宗イェンゾンの第三皇子が長河チャンファの遥か南、郭の地で即位して郭宗グォゾンと名乗り、鵠国フーグォの再興を宣言したからだ。

 二十六歳という若き新皇帝の側には、生母であるツェイ皇后もいた。

 彼女はどんな手を使ったのだか分からないが、年始の変の混乱の中、瑞鳳ルイフォ宮からまんまと逃げ出して、長河を渡っていたらしい。

 郭宗が第一に目指したのは、もちろん祖国の奪回である。蛮族風情に祖国を蹂躙されたままにはしておけない。

 そのために長河の南側、つまり河南ファナン地域で兵を募る彼の元には、鵠国に忠誠を誓う華人達が多く集まっているのだとか。

 雄大な長河の流れに阻まれて南征を諦めていたイスカは、自分の手の届かない地域で新たな政権が誕生する可能性は考えていたし、そのための手はこれまでも打っていたのだが、新皇帝の動きが予想より早くて若干戸惑っているようだった。

 その上、悪いことは重なるもので、北の鴉威の地からはイスカの父ソビの訃報が届いた。

 元々体を悪くしていたのだから、その報告自体は驚くものでもなかったが、こんな国家の重大局面で亡くなるとは間が悪い。

 無論、イスカに里帰りをする暇なんて無い。


「郭宗の部隊が長河のすぐ南まで来ているという知らせが届いている。葬式のために鴉威に戻ることなんて、できるわけがないだろう」


 ここ数日、目が回るほど忙しかったイスカが久しぶりに香龍宮を訪ねてきた夜、鴎花は床の中でイスカの口から現状を説明してもらった。

 季節は移り、今は大きな花弁の木槿むくげの花が咲いている。昼に比べれば夜は涼しくて過ごしやすいが、それでも北方の産であるイスカには耐え難い蒸し暑さのようで、彼は寝台の脇に脱ぎ捨てた衣を改めて着直すこともしないまま、寝物語として話をしてくれた。


「そうですか。やむを得ないことではありますが、お父上様の葬儀くらいは出たいところでしたね」


 華人は親への孝養を尽くすことを主君への忠節と同じくらいに大切にしている。

 霍書フォシュにも夫聖人之徳、又何以加於孝乎、という言葉が書かれている。

 それ聖人の徳、又、何を以ってか孝に加わえんや。

 これは親孝行より素晴らしい徳などあろうかという意味で、こんな言葉を耳にたこができるほど聞かされている華人の意識としてら、子が親の葬式に出られないなんて、亡くなった親にとっても子にとっても、身を引き裂かれるような苦しみとなる。


「なんだ。お前は俺が北へ帰ってくれた方が良かったか?」


 鴎花の顔を覗き込み、イスカは口を尖らせた。


「そうすればお前は隙をついて南へ走り、兄と母の元へ逃げ込めるのだからな」


 久方ぶりに抱き合えた満足感で心がすっかり和んでいたイスカは、こんな際どい冗談まで口にする。

 もちろん彼が本気でそんなことを疑っていないのは、鴎花だってよく分かっている。


「そのようなことはいたしません。陛下が鴉威の地へ戻られる際には、私もお供させていただきます」


 鴎花が何の迷いもなく言うものだから、イスカはくすぐったそうに口元を緩めた。そんな笑みを見ることに、鴎花はえも言われぬ幸福感を覚える。


「馬にも乗れぬくせに威勢のいいことだ。鴉威までは遠いぞ」

「その日までには乗馬も覚えますよ」

「後宮育ちのお前にできるものか。そうだ。試しに俺に跨ってみろ」

「そ、そのようなはしたないことは致しかねます」

「だが鴉威の馬は気性も荒い。慣れておかぬと痛い目に遭うぞ。ほら、来い」

「へ、陛下?!」


 結局、鴎花は彼に導かれるまま、鴉威の荒馬とやらに跨ることになってしまった。

 全く……こんな淫らな格好をさせるなんて、この人は意地が悪い。

 それでも鴎花はこのところ、床の中での振る舞いが大胆になってきている。

 雪加に見張られているという不安が無いせいだ。

 小寿は隣室に控えているものの、彼女は侍女としての務めと子育てで疲れ果てており、夜は呼んでも起きてこないくらいに熟睡してしまっている。

 だから鴎花はイスカと何の気兼ねもなく、交わることができるのだ。

 こうして一晩で二度も彼の寵を受けた鴎花は、さすがにぐったりして寝台の中に倒れ込んだ。

 本来ならすぐに夜着を羽織り直し、身だしなみを整えておくべきだろうが、その手間が億劫で堪らない。

 イスカもまた、何も身に着けないままごろりと横になった。そして鴎花を抱き寄せ、その頭を自分の腕に乗せると、すっかり脇道へそれてしまった話の続きをする。


「父の葬儀は木京でも行うさ。これでも一応、国王の父親だからな。それなりの礼を尽くさぬと、文官どもが不忠だのなんだのと騒ぎ出すだろ」


 それでも無駄が嫌いなイスカは二度も葬儀をあげたくない様子だ。

 太い腕の密着したところから伝わってくる、むせ返るような彼の熱を感じながら「ご苦労さまでございます」と鴎花は苦笑を浮かべた。


「だが、そういうものは全部、郭宗とのいくさに目途が立ってからだな。今すぐにやるべき事じゃない」

「はい」

「ただ、向こうでの葬儀が終わったから、父のめかけ達が木京へやってくるんだ。華語ファーユィに不自由な者もいるが、うまく付き合ってやってほしい」

「分かりました。お父上様の奥方様であれば私にとってもお母上様です。皆様が異国の地での暮らしに早く馴染めるよう心を込めてお迎えします」

「うん? それは違うぞ」


 鴎花の言葉に、イスカが不思議そうな顔をする。


「母というか……女達は俺の妻になるんだぞ?」

「え?」


 思わぬことを言われた鴎花は、思わず寝台から跳ね起きてしまった。

 彼が何を言っているのか分からない。

 もしかしたらイスカはうっかり華語を間違えただけなのではないか、と疑ってしまったくらいだった。

 しかし、彼の説明によると先代の族長が亡くなると、その妻達は自動的に次の族長の妻になるのが通例だという。


「そ、それでは、自分を産んだお母様をも妻にするということなのですか?」

「実母は例外だ。でもアビの母親だって元はと言えば、爺さんの妻だったんだ。それを俺の父が娶ってアビが生まれた」

「え……? じゃあ、彼のお母様は義理の息子に嫁いだということですか?」


 目眩がしてきた。イスカは当然のことのように言っているが、それはあまりにおかしいのではないだろうか。

 霍書の文言を持ち出すまでもない。

 母が子に嫁ぐなんて、華人ではありえないことなのだ。

 しかしイスカには鴎花が何故驚いているのかが分からないらしい。


「息子と言っても、血の繋がりはないんだ。問題ないだろ」

「しかし人の倫に外れます」

「なんだと?」


 イスカの声が荒くなった。

 自分の中で当たり前であるところをおかしいと指摘されたものだから、気に入らないのだ。

 しかしこんなおぞましい話、鴎花だって絶対に受け入れられない。


「お父上様の奥方様なら陛下にとって、母上様も同然ではありませんか。母には孝養をつくすべきであり、娶るというのは良くありません」

「では父亡き今、あやつらにはどうやって暮らしていけと? 鴉威はこの国のように、死者へ経を上げるだけの女にタダ飯を食わせる余裕なんて無いんだぞ。俺の子を産むくらいの働きはしてもらわないと養えない」


 どうやらこの習慣は、未亡人達の再就職先を確保するという、極めて合理的な意味合いでの婚姻らしい。

 これは文化の違いであり、どちらが正しいと断定することのできない案件のようだ、と鴎花は察した。

 しかしこんな話を聞いたら、鴎花に限らず、大多数の華人達は嫌悪感を示すだろう。


(ここで私が引き止めないと、この人は『やはり蛮族だ、汚らわしい』と華人達から蔑まれてしまう……)


 鴎花はイスカが既に十分むくれた顔をしていたのは分かっていたが、それでも黙っていることはできないと決心し、口を開いた。

 もちろん、真正面から咎めるわけにはいかない。彼が少しでも受け入れやすい言い回しを選ぶ。


「ではお尋ねします。陛下は義理のお母上方を妻にしたいほど、好いておられるのですか?」

「うん?」

「好いてもいない方々を側に置くのは、それこそ陛下がいつもおっしゃるように、無駄ではないかと思うのです。ですから母上様方には何か別の処遇を考えるなどしても……」

「……まるで、自分は好かれているからここにいるとでも言わんばかりだな」


 イスカは鴎花の言葉を遮るようにして言った。

 それはいつになく低い声で、鴎花を押し黙らせるには十分な代物だった。


「俺はお前が翡翠姫だから王妃にしたんだぞ。それを個人的感情に流されるような男だと言われるのは心外だ」


 イスカはそう言い捨てるなり鴎花に背を向け、それから朝まで一切振り返ろうとはしなかったのだった。


ニ.

 暗闇の中で見る彼の大きな背中は、まるで氷の絶壁の如くだった。

 抗いがたい不安故に、いっそ陛下の仰ることはよく分かりました、と理解したフリをしようかとも思ってしまったが、それはいけないと踏みとどまる……そんな葛藤を繰り返すうちに、夜が明けてしまった。

 結局、イスカは翌朝になっても仏頂面のままだった。彼はそして、鴎花オウファのよそった粥を食べきると「今から戦へ行く。しばらく戻らない」とだけ言い残し、香龍シャンロン宮を出ていってしまったのだ。


(……なんと、戦へ?)


 確かに郭宗グォゾンが兵を挙げたとは昨夜聞かされたが、そのためにイスカ自らが出兵するとまでは知らなくて、鴎花は大いに驚くことになった。

 前に東鷲ドンジゥ郡での反乱を鎮圧した時もそうだったが、彼は己の行動を事前に教えてくれない。

 やはり鵠国フーグォの皇女を相手に、余計な情報は与えまいと警戒しているのだろう。

 その用心深さは理解できるし、多くの者の命を預かる王として尊敬できる点でもある。

 しかしそういう緊張感を持たなくて良い、という意味では同じ鴉威ヤーウィの民である父の妾達は、妻として心安らぐ存在になるのかもしれない。

 こんな日はそんな卑屈なことを、強く思ってしまう。


「陛下と喧嘩でもなさったのですか?」


 イスカが出陣した後、ため息ばかりをついていたら、小寿シャオショウにはすぐに見抜かれてしまった。

 彼女は鴎花のためにお茶を淹れてくれた。

 彼女の淹れるお茶は優雅さに欠けるが、立ち上ってくる湯気は心を和ませてくれる。

 絹の面布を外した鴎花は、鼻腔いっぱいに芳香を感じ、小寿はそんな鴎花を温かい眼差しで見守ってくれる。

 侍女というよりは世話好きな近所のおばさん的立ち位置にいる彼女に心を許している鴎花は、この際なので少しだけ愚痴らせてもらうことにした。


「私の当たり前と陛下の当たり前があまりに違っていたので、つい……」


 この際、彼の言葉がキツかった点については気にしないでおこうと思っている。

 華語が母国語ではない彼にとって、咄嗟に口にする言葉にまで柔らかい表現を求めるのは酷であろう。

 いや、そう言い訳して聞かなかったフリをしているだけか。

 彼にとっての鴎花の価値は翡翠姫であることが大前提であり、そこが崩れてしまうと何も意味がない。どれだけ心を通わせようと体を重ねようと、何の意味もない。それをあの発言で思い知らされてしまった、なんてことは考えたくもないからだ。

 彼が父の妻達を娶ると言い出しただけでも前途多難なのに、こんなところで悶々としていたくない、という気持ちもある。

 再び深い吐息を漏らす鴎花の足元に、いつの間にやら杜宇が潜り込んでいた。この悪戯坊主はかくれんぼでもしているつもりなのだろう。机の下から顔をのぞかせ、鴎花と目があった瞬間、嬉しそうにニカッと笑った。

 毛を両脇だけ残して剃りこぼった頭部がなんとも可愛らしい。鴎花が思わず微笑み返すと満足したのか、再び机の下へ頭を引っ込め何処かへ行ってしまった。

 入れ替わるように、その母が鴎花の前に座る。

 侍女が主人の前で座るのは不敬であるが、鴎花は彼女を思いやり、むしろ積極的に座って良いと指示してある。それに座ってもらった方が、今日のような日は話をしやすい。


「それ、分かりますわぁ。私も嫁いだその日の夜から亭主と喧嘩しましたもの。肉団子に山椒が入っていないのはおかしいって言いだすから」

「そんなことで喧嘩を?!」


 あまりのくだらなさに鴎花が思わず吹き出してしまうと、小寿はその大きな体を揺すって笑い出した。


「彼の故郷での伝承でして。肉食にくじきを許してくれない仙人様の目をくらますために、山椒は肉料理に欠かせない品なんだそうですよ」

「そんな理由……?」

「ええ。食べ物のことは今でも一番揉めますね。そもそもうちの亭主は河南ファナンの田舎の出身なので、木京育ちの私とは味覚が合わないんです」

「小寿は料理上手なのに、なんと贅沢な……」

「それに魚や鶏を殺す時には刃にきちんと祈りを捧げたのかとか、どうでもいいことをやたらと気にしますし。南の人は何をするにも迷信深くて面倒なんですよ。まぁそれでもうちの場合は単身上京してきた亭主だから、口うるさいお姑さんも小姑もいなくて、結局私の好き放題にやらせてもらってるんですけど」


 それゆえに結論を言ってしまえば、ここの夫婦仲が良好なことを鴎花は知っている。

 小寿はことあるごとに夫の話をしたがるし、働く意欲を失った夫を自らの扶持で養うくらい、彼のことを大事にしているのだ。


「夫婦ってのは常識と常識のぶつかりあいなんだと私は思いますよ。何が正しいかは一旦横へ置いておき、どこで折り合いをつけるかを二人で決めながら一歩ずつ進むしかないんでしょうね」

「そうかもしれないわね……でも、出陣の前くらい、笑顔で送り出して差し上げれば良かったなぁと、反省もしていて……」


 イスカは最後の夜を過ごすため、出陣前に時間を割いて、鴎花の元に来てくれていたのだ。

 彼はもしかしたら、鴎花に余計な情報を掴ませないため、というよりは、心配をかけまいとして戦の話を控えていてくれたのかもしれない。

 その辺りの真実は分からない。

 分からないから早く会いたい。会って話をしたいと、出陣していった当日なのにもう考えてしまう。


「今日からいなくなるなんて、教えてもらっていなかったのだから、仕方がないですよ。女はいつの時代も、まつりごとの蚊帳の外なんですから」


 小寿の言うとおりだ。

 鴎花が表宮での状況を積極的に聞き出せないのは、華人であることだけが理由ではなく、女であることも大きい。

 女が政に参加すると、国が乱れる。

 これはこれまでの長い歴史が語っていることだ。

 鵠国の前に中原を治めていた隼国でも、それよりもっと古い国でも、国が滅びる時には決まって妃が政に口出しし、その父親や兄などの外戚が国を私物化した。

 その反省を生かして、鵠国では皇后を輩出するのは、隼国の皇族の末裔である崔氏に限定し、代わりに崔氏の者達には一切の役職を務めさせないことになっている。

 鴎花もそのあたりの話は雪加の側にいたおかげで何度も教えられてきたから、今もイスカの政にはなるべく関わらないように心がけている。

 こんな囚われの王妃でも何かの役に立つかもしれぬ、今のうちに縁を通じておこうと、何かの折に触れては貢物を持ってくる華人もいるにはいるのだが、鴎花は全て断っている。

 華人と通じて反逆しようとしているとイスカに疑われるのも嫌だし、それに巻き込まれるのも御免だ。もちろん醜い痘痕が人目に触れるのも嬉しくない。


「まぁまぁ、夫婦喧嘩なんてよくあることですよ。陛下は十分、妃殿下を愛してくださっています。その証拠に他の女の影も無いじゃありませんか」

「陛下は無駄がお嫌いなので。他の女を置くのは金がもったいないと思っているだけです」


 それは彼が常々言っていたことだ。

 俺は後宮で無駄飯食いの女を何人も囲うつもりはないのだ、と。

 極めて合理的で、無駄を嫌う人物だけに、後宮には女でなく鴉威の兵士達を住まわせているくらいだ。


「そうですかねえ。嫌いな女を毎日愛でることこそ、時間の無駄だと思いますよ。さぁ気分転換に山羊の散歩でも行って来てくださいませ。この暑さも午前中ならマシですし、あの子も早く行きたいと待っていますよ」


 小寿の言葉に相槌を打つように、表の小屋から山羊の鳴き声が聞こえてきた。

 浮島から山羊小屋も一緒に運んできてもらったので、仔山羊も今では香龍宮の住人になっている。成長の早い獣だけに体も一回り大きくなり、今ではもう草を食べるようになっていた。鴎花と一緒に散歩……と言う名の後宮の雑草処理に出かけるのを毎日楽しみにしてくれている。

 こうして鴎花はピトを供に、山羊を連れて散歩にでかけたのだが、その途中で大きな荷物をいくつも運んでいる集団と遭遇してしまった。

 手押し車に載せたり、二人がかりで抱えたり。彼らが運んでいるのは椅子や机、長持だけでなく、手桶や竹籠などの生活雑貨まで多様な品々だった。

 彼らはどうやら、周囲の宮殿から手当たり次第に物品を持ち出しているようだった。運び入れる先は後宮でも三番目に大きな、杜鵑ドゥジュン宮という宮殿。

 先頭に立って指揮をしているのは、褐色の肌をした女達だ。彼女らは年始の変以降に、鴉威の地から呼ばれてやってきた者達で、恐らくイスカの父の妾達を迎え入れる準備をしているのだろう。

 彼女らに檄を飛ばされ、実際に運んでいるのは華人の下男なのだが、力仕事をしている華人達よりも、黒衣を纏った女達の方が赤い顔をして額から汗を流しているところを見ると、鴉威の民は本当に暑さが苦手らしい。


「……」


 各宮殿の調度品は、全て燕宗イェンゾンの妃達のものであり、これは略奪にしか見えない行為だ。しかし今は鴉威の民が占拠しているのだし、名ばかりの王妃である鴎花には彼らを止める権限が無い。

 こんな時には鵠国が滅んでしまったことを強く実感させられてしまう。


「……今日は別のところへ行きましょうか」


 ピトにそう告げて微笑んだ鴎花が山羊の首を繋ぐ赤い紐を引っ張った時だった。

 普段は固く閉ざされている、後宮から直接表へ出るための唯一の鉄門が開くのが、石畳の小径の先からちらと見えたのだ。

 普段の出入りは表宮と後宮に跨って作られた、鳳凰フォファン宮の渡り廊下を使っているので、重い鉄門がわざわざ開くのはイスカが兵士を出入りさせる時くらいだ。

 顔を覆う醜い痘痕を気にして、人が多くいるところへ出ない鴎花は、今朝のイスカの出陣も香龍宮の前からしか見送らなかったので、この門が開く瞬間を見るのは生れて初めてになる。

 思わず足を止めて見ていると、砂埃を上げながらゆっくりと開いた門の向こうからやってきたのは騎馬の行列だった。その数はざっと五十騎ばかり。統一されていない歩みは明らかに兵士らではない雰囲気だが、雑然と進んでくる彼らの先頭を切るのはアビだった。

 

「あ……」


 アビの後ろにいるのが色とりどりの衣服を身に着けた女性達だと分かった瞬間、鴎花には彼女らの素性にぴんときてしまった。イスカの父の妾達だ。

 そろそろやってくる頃合いだとは聞かされていたが、まさかそれが今日だったなんて。

 一体どう振舞うべきかと決めかねている間に、無情にも騎馬の一群は鴎花に近づいてくる。そして先頭に立つアビは、場違いなほど朗らかな声で鴎花に呼びかけたのだ。


「丁度いいところで会うじゃないか、王妃様。紹介するさ。父の女房たちだ。端からアトリ、ニオ、ウカリ……」


 笑顔のアビから矢継ぎ早に名前を告げられたが、とても覚えきれるものではない。とりあえず妾達が五人いるということだけ分かった。

 アビの説明によると鴉威の地にはあともう少しソビの妻が残っているが、高齢のため動くことができないとのことだった。

 女性らの年齢は二十代から五十代までと幅広いようだ。旅塵で皆一様にくたびれた顔をしていたし、夏の日差しのせいで暑そうにしていたが、女ながらにそれぞれが馬を乗りこなしているのは、さすが騎馬民族である。

 中には五歳くらいの女の子を同乗させた者までいて、全員が華人と同じ衣を身に着けていた。鴉威の衣では暑くて、途中で着替えたのだろう。

 ただ、大きな耳環を飾っているところが華人と違った。耳の下に垂れた大きな銀の輪は彼女らの立場の上下を表しているようで、アビのすぐ後ろにいた、七つも重そうな耳環をつけた年配の女性が、一番の風格を漂わせて馬上に座っている。

 それにしても、人物紹介とはこんなにざっくばらんなものであっていいのだろうか。

 何より、アビを始めとして彼女らが下馬しないのは無礼であろう。彼女らは顔を布で隠している鴎花のことを物珍しげに眺めているが、これでも鴎花は翡翠姫。しかも鵠国の第五皇女にして威国の王たるイスカの正妻、という立場なのだ。ここはアビがしっかり間を取り持つべきだろう。

 しかし華人ファーレンを嫌う彼にとって翡翠姫など所詮敵国の捕虜でしかなく、礼儀を守る気にならないようだ。それどころか、一行の中で唯一黒衣を身にまとった彼は、鴎花のことをからかうような目で眺めている。


(……翡翠姫として、ここは怒るべきかしら?)


 しかし鴎花は、その選択肢を取っていいのか悩んでしまった。

 遠方からやってきて疲れている彼女らに、のっけから礼儀作法を説くのではあまりに心が狭い。

 ましてや鴎花は今、山羊の仔と供を一人連れているだけなのだ。王妃らしさの欠片も無いこの状況で威厳を示すのは難しいように思う。

 迷いの沼にはまってしまった鴎花に対し、アビはいやらしいほど唇の端を吊り上げてみせた。


「まぁまぁ、王妃様よ。みんな華人の習慣には慣れてないんだ。難しい礼儀作法については大目に見てくれよな。それにそっちも堅苦しいのよりざっくばらんな方が慣れてるだろ?」

「え?」

「じゃあまた後で」


 彼は発言の真意を説明せぬまま、ひらひらと手を振って鴎花の前から去っていった。そして女達を杜鵑宮の方へと案内して行く。すると遠くにいても分かるほどの歓声が生垣の向こうから響いてきた。

 鴉威の者達が彼女らを大喜びで出迎えているのだろう。

 その心情は理解できるが、言葉が分からない人々が醸し出す気運の高まりというのは、異民族である鴎花にとっては恐怖でしかない。

 鴎花は山羊の首につないだ紐を強く引くと、逃げるようにして香龍宮へと戻っていったのだった。



***

 アビはまた後で、などと調子のいいことを言っていたが、翌日になっても彼女らの方から挨拶に来ることは無かった。

 山羊を連れて歩いているような女に対し、一目置く気分にはなれなかったのだろう。

 鴎花も杜鵑宮へ出向くことはしなかった。

 父の妻を息子の妻に。

 それが鴉威の習慣であるなら認めざるを得ないのか、と妥協することも少しは考えていたのだが、実際に彼女らの顔を見てしまうとやはり無理だ、という気持ちの方が強くなったのだ。

 あの馬上に座っていた幼い女の子が、これからイスカのことを八哥と呼ぶのか父と呼ぶのかを考えるだけでもう……ダメだ。やはり気持ち悪い。

 しかし嫌なことは続くものだ。

 妾達が到着した三日後、彼女らの生活に必要な品を集めていた鴉威の女達が、間違って香龍宮に入ってくる騒ぎがあり、危うく大切な絨毯を持って行かれそうになったのだ。

 大きな体の小寿が奮闘して女達を追い出し、更にピトとフーイが鴉威の言葉で説明して暴挙を押しとどめてくれたので事なきを得たが、この小競り合いのおかげで鴎花はすっかり気持ちが塞いでしまった。

 イスカには彼女らの面倒を見てやってくれと頼まれていたが、絶対に嫌だ。

 このまま香龍宮に立てこもって、だんまりを決め込もう。

 そうは決めたが、気になることもあった。

 雪加シュエジャのことだ。

 伽藍ティエラ宮の池の真ん中にいる彼女には、護衛も見張りもつけていない。鴎花のところへ押しかけてきたように、鴉威の女達が乗り込んできたら拒みようがない。

 そこから彼女の素性が露見してしまうようなことになったら……。


「小寿、少し出かけてくるわね。鴎花の様子が気になるの」

「今は物騒ですよ。何なら私が行ってきます」

「小寿は自分の身体を大事にして。杜宇もいるんだし、待っておいて頂戴。大丈夫よ、ほんの少し様子を見てくるだけだから」


 こうして鴎花はフーイを供に、伽藍宮の池まで行ってみたのだ。

 しかし池の周りには誰もいなかった。食事を届けるために使っている小舟も岸辺に残っているし、櫂を保管している旧詰所の扉も破られていない。

 鴎花が島を一番よく見渡せる、馬達がよく放牧されている辺りに立ってみると、雪加の姿を確認することもできた。

 表に出た彼女は一人、細長い布切れのようなものを閃かせながら、右へ左へと軽やかな動きを見せていて……あれは、舞っている?


「……あぁやって一人で舞っておいたら、それだけでキチガイっぽく見えるだろ?」


 美しい雪加の舞に見とれていたら突然背後から声をかけられ、鴎花はビクッと体を震わせた。

 振り返れば、そこにいたのはアビだった。

 先日は長旅をしてきた女達を先導していたので、いつもの黒衣に頭巾を被っていた彼だったが、今日はその上から革の鎧を着込んでいる。傍らには芦毛の馬も連れており、どうやら今から戦場へ赴くらしい。

 しかし真夏に武装するのは暑いようだ。出発前から大汗をかいている彼は、鴎花の隣に並んで立った。


「気の触れた奴には関わりたくないから、ここへは誰も来ないって寸法さ。いい作戦だろ。あぁ、もちろん舞うよう命令して素直に聞く奴じゃないから、あいつ自身への言い回しは工夫したけどな」


 どうやらアビは、面倒ごとに巻き込まれないように雪加を舞わせているらしい。

 アビが何故、雪加に関わっているのか。

 大体、武装した彼がここにいるのもおかしいではないか。まるで戦へ行く前に一目会いに来たようで、恋人同士が別離を惜しんでいるようにしか見えない。

 しかし鴎花から疑いの眼差しを向けられたアビは、その疑念をはぐらかすように体をくねらせ、へらへらと笑ってみせたのだった。


「そういえば、鴉威の女達が香龍宮へ押しかけたんだって? 怖がらせて悪かったな。あいつらも杜鵑宮に調度品を揃えようとして必死なだけで、別にお前がお姫様じゃないから軽んじたってわけじゃないんだ」

「何の話です」


 内心の動揺を飲み込むためにも、鴎花はアビをキツく睨みつけた。

 この漆黒の瞳の青年は、兄が大好きで華語ファーユィが堪能なだけではない。危険で油断ならない男であることを、改めて思い知らされた瞬間だった。


「おう。さすが偽者の方は賢いな。ちょっとカマかけたくらいじゃ乗ってこないか」


 アビはわざとらしく目を見張って見せた。それから、鴎花の供をして側に立っているフーイの方へちらと目を向ける。

 しかし華語での会話がさっぱり分からないフーイは、気の抜けた顔で空なんて眺めていた。

 アビはその表情に口元を緩めたが、それでも一応声だけは潜めて話しかけてきた。


「安心しな。誰にも……八哥パーグェにも言うつもりはない。本物はあの通り、考え無しの我儘娘だからさ。賢い女が王妃様を演じてくれる方が、威国ウィーグォとしても助かるんだよ」

「……」

「ただ偽者なら偽者らしく、お前には分をわきまえておいてほしい」

「……具体的にどうせよと?」


 アビは既に雪加本人から話を聞いて、確証を得ているようだ。誤魔化しようがないことを悟った鴎花は、諦めの境地で問い返した。


「杜鵑宮の女達を、八哥の妻として受け入れてくれ」


 いつの間にかアビは顔に浮かべた笑いを引っ込め、真顔になっていた。

 そして鴎花が反論を口にする前に「これが華人にとって気に入らない話なのは、よく分かってる」と先回りして言った。


「それでも八哥には必要なことなんだよ。鴉威はいくつもの部族から構成されていて、女達は各部族からの忠誠の証として差し出されている。八哥があいつらを娶ることは、そのまま部族間の結束力を高めることに繋がる」


 お前も威国が空中分解したら困るだろ、と言われてしまえば、全くもってその通りとしか答えようがない。

 一旦言葉を切ったアビは、改めて浮き島へ目を向けた。

 華人と同じ色をした瞳が、一人で舞う雪加の姿を捉えると、すうっと細められる。

 その視線に籠められた感情を鴎花は読みきれなかったが、はっきりしない、淡い色合いのものであることだけは確かなように思えた。


「あのお姫様が人質だ。今の八哥ならお前が反対すればうっかり聞き入れてしまうかもしれないけど、逆にお前さえ賛成すれば、このまま順当に女達を娶ることができる。だからお前には華人としての常識に目をつむってもらいたい」

「……私は姫を幽閉した不忠者ですのに。そのような脅しは効きませんよ」


 こちらの弱みを握って言うことを聞かせようというその肚が不快で堪らず、鴎花は柄にもなく言い返していた。

 大体これは鴎花の不快感だけが問題なのではない。イスカが華人達を統治するためにも、唯々諾々と引き下がってはいけない話なのだ。

 しかしアビは鴎花の小さな抵抗を鼻で笑い飛ばした。


「いいや、お前は主君への忠誠心を捨てきれていない。だからこそあいつを殺めること無く、池の真ん中に閉じ込めているんだ。この状況なら、姫君の身を守るために、我が身を呈して翡翠姫を演じていたという言い訳がギリギリ通るからな。そうだろ?」

「……」


 あまりに図星な指摘により口をつぐんでしまった鴎花に向かって、アビは更に追い打ちをかけるようなことを言った。


「何はともあれ、本物の翡翠姫は一人きりでも、偽物はいくらでも用意できるってことだけは忘れるなよ。お前が天帝の血を引く娘でなければ、いくら八哥だって態度を変える。今の暮らしを守りたけりゃ、おとなしくしておくのが身のためだ」


 それだけ言うと、アビは軽やかな動きで連れていた芦毛の馬に跨った。


「じゃあな。よろしく頼んだぜ、賢い王妃様」


 馬上の人となったアビは鴉威の言葉でフーイに二、三言声をかけると、それから後宮の外へと通じる通用口へと馬を進めて行ってしまった。

 その間も雪加は島の中で無心に舞い続けている。

 演目はどうやら天祈ティェンチーのよう。

 天帝と盟約を結ぶための、皇女と皇后だけに伝承されている格式の高い伝統の舞いだ。

 もっとも皇女と皇后だけに、と言いつつも雪加の乳姉妹である鴎花は彼女の側にいて一緒に練習したので、実は舞うことができた。

 そしてよく知っている舞いだけに、その完成度の高さにも気付いていた。

 ただ雪加の身のこなしが軽やかなだけではない。自分が美しいことに絶対の自信を持っている彼女は、舞うことで自らの美しさが増すと知っているから堂々と踊れるのだ。単に体の動きを覚えただけの鴎花とは、心構えからして違う。

 それにしても美しすぎやしないだろうか、と鴎花は対岸から見つめながら感じてしまった。

 彼女の舞いはこれまでも目にしたことがあるが、ここまで艶やかな……いや、妖艶な色香を漂わせたものであっただろうか?

 

(アビは何と言って舞うように仕向けたのかしら……)


 そして彼が雪加の素性を知るに至った経緯とは?

 接点がほとんどないはずの二人の関係性は気になるところだったが、答えの出ない謎については一旦考えることを止めておくことにした。

 差し当たって全力で解決しなければいけないことが、今の鴎花にはある。

 鴎花は香龍宮へ向かって早足で歩き始めた。


(……このままではいけない)


 鴎花は自分の能天気さを呪いたい気持ちだった。

 アビに素性を知られ、脅されたことで、ようやく目が覚めたとも言える。

 イスカが向けてくれている愛情だけに甘えることはあまりに危険だった。それは彼と諍うだけで揺らいでしまう頼りにならないもの。

 現実から逃げてはいけない。鴎花は偽物なのだ。しかも醜い痘痕面の。

 そんな女が翡翠姫としてイスカの側にいるためには、もっと積極的に存在感を示さねばならなかった。鴎花でなければ困ると思わせるだけの功績を残さねば、偽物なんて簡単に首を挿げ替えられてしまう。

 こうして鴎花は香龍宮へ戻ってくるや否や、小寿を呼び出した。

 いつになく険しい顔をした女主人に驚いている彼女に向かって、鴎花は厳しい口調で話しかけた。


白頭翁バイトウウォンを今すぐここへ。折り入っての話があります」


 女は政治に関わるべきでないなんていうのは、本物のお姫様にだけ許された寝言だと鴎花は思う。

 鴎花のような何も持たない女は、今の自分にできることを全力でこなさねばならないのだ。


三.

 一万の兵を率いてイスカが陣を敷いているのは、木京からほど近い、長河チャンファの北側の岸辺である。

 夏の長河は流れが早く、水量も多い。

 北進してくる郭宗グォゾンの軍勢はこの厄介な川を越えるため、一番川幅が狭く、そして川の真ん中に葦切ウェイチェと呼ばれる小島が浮かんでいて渡りやすい、この地域を狙ったのである。

 敵の首領はエァ鵬挙ホンジュだ。彼は先日反乱を企てて殺された東鷲郡の長官の息子であり、父の仇を討たんと一万の兵を率いての先鋒を申し出たらしい。

 郭宗自身が率いる本隊はまだ到着していないが、黒一色の旗と、白地に金色で鵠の字を染め抜いた旗が長河を挟んで睨み合ってから、はや五日になる。

 挙兵の知らせを受け、いち早く兵を展開したイスカは葦切ウェイチェを占領していた。

 そして工兵たちに命じて葦切への浮橋を北岸側から五本もかけて移動手段を確保し、さらには北岸の本陣周辺にも投石器を多数配置して守りを固めた。しかしその次の手を打つことができずにいる。

 イスカの主力である鴉威ヤーウィの兵士たち七千騎は水辺での戦いに慣れていない上に、夏の暑さで弱っているのだ。

 これを補うために華人ファーレンを中心にした羽林軍ユーリンジュも三千騎、歩兵を一万人ばかり連れてきて船も用意させたが、戦意はいまいち低く、使い物にならない予感しかしない。

 さらには占領した葦切は岩だらけの小島であり、馬を使えない。おかげでこの戦いでは鴉威の民の得意とする機動力を全く生かせそうにないのだ。


(……いっそ早く攻め込んできて欲しいんだが)


 暑さで鴉威の兵士が弱り切るより前に短期決戦に持ち込みたい、というのがイスカの考えだ。だからこそ、自ら出陣してきた。敵はこの首を目指して群がってくると思ったのだ。

 しかし南岸に集結した敵の船団は、地面に根を下ろしたかのように一向に動こうとしない。

 それはなぜか。

 斥候からの知らせでは、郭宗が兵をまとめることに手間取っているとか、功に逸る鄂将軍が取るものも取らずに北進して来てしまったから補給が追い付かずこれ以上兵を進めることができない、という話などもあったが、恐らく違う。

 敵は対岸から見る限り川を渡るために十分な船を揃えているし、毎日のように訓練もして、血気盛んな咆哮を上げている。

 恐らく鄂将軍は、暑さでこちらが弱るのを待っているのだ。

 東鷲郡で父と故郷を失うという手ひどい敗戦を経験した彼は、その敗戦から敵の強さも、その影に潜む弱点も学んだ。

 文治政策を国の根幹とし、武人を育てることをしてこなかった華人達も、戦を重ねるごとに成長していくのだと、彼を見ていると思い知らされる。


(……にしても、暑いな)


 頭上でぎらぎらと輝く太陽を憎たらしげにイスカが見上げていると、アビが木京ムージンからやってきた。

 大汗をかいて到着した黒い瞳の弟は、赤い顔をして黒衣の裾をバタバタと仰いでいた。イスカですらこのところは羊毛を織った黒衣を脱ぎ捨て、木綿の薄布を衣服にしているのに、鴉威の民であることにこだわるこの弟は、伝統的な黒衣を一向に止めようとしない。


「今戻った。いやぁ、女ってのは元気なもんだな。道中もぺちゃくちゃ喋り通しでさ。俺達だって鴉威から木京まで駆けてきたときには疲労困憊、へとへとだったけど、木京の手前まできたところで『誰が都へ一番乗りできるか競走しましょうよ』とか言い出した日にゃ、面倒見切れねぇと思ったよ」

「それで王妃は? 雪加シュエジャの様子は?」


 故郷から長旅をしてきた父の妻達のことより、後宮に残してきた王妃のことが気になって仕方ないイスカなのである。

 兄が食い気味に問いかけてくるものだから、アビは瞬きを無駄に三度挟んで、その驚きを散らす羽目になった。


「様子って……そりゃ、八哥パーグェに新しい女が増えようとそれが何ぞ。つんと澄ましてふんぞり返り、吾こそ翡翠姫なるぞ。蛮族どもめ、頭が高いわ……ってわけじゃなかったけどさ」


 せっかくおどけてみせたのに兄が全く笑ってくれなかったので、アビは面食らった様子で途中から軌道修正し、自らの言葉を全否定した。


「なんだよ。女達のことで王妃にとやかく言われたか? それを気にしてるのか?」

「いや……気にしてるってほどじゃないんだが……」


 言い淀む格好を見せたのは一瞬だけ。イスカはすぐさま奥にある自分の天幕へ弟を連れて行った。

 そして床に敷いた絨毯の上に胡坐をかいて座ると、向かい合って腰を下ろしたアビに、事の顛末を一から伝えた。

 しかし聞き終わったアビは絶句というか、呆れ果てたというか……とにかく脱力しきってしまったのだった。


「……そんなどうでもいいことを、戦の最中に悩めるなんてな……余裕たっぷりすぎて恐れ入ったよ」

「べ、別に四六時中こんなことを考えてるわけじゃない! それと俺は悩んでない。あいつが俺達のやりようを頭ごなしに否定するから、腹を立てているだけだ」


 顔を真っ赤に染めたイスカは、唾を飛ばす勢いで反論した。

 イスカだって同じ話を他の華人が言ったのなら、ここまで怒らなかっただろう。

 しかし王妃は自ら山羊を飼ったり、料理も鴉威のものを取り入れたり、イスカに寄り添おうと努力してくれていたのだ。

 そんな女性だからこそ、この風習を強くはねつけられたことが悔しくて、つい傷つけるような言い方をしてしまった。

 そして仲違いを解消しないまま都を離れてしまったが故に、彼女の様子が気になっているだけで、決して悩んでいるとかではないのだ……多分。


「大体、俺に好かれているから王妃になったっていうのは、順がおかしいだろう。俺はまずあいつを王妃にして、その後でまぁ、気に入るとか気に入らないとか、そういうことを考えるようになったんだ。別に最初から、その人となりを知っていたわけではなくてだな」

「その順番のところは、どうでもいいって」


 イスカの並べる言い訳に価値を見出さなかったアビは、兄の主張を一刀両断した。

 そして黒い頭巾を被った頭を掻きむしる。


「はぁ……八哥が女達を娶るかで悩むかもしれないとは思ったけど、まさかここまで面倒くさい方向へ行ってるとは予想しなかったぜ」


 アビが本気で頭を抱えているようなので、イスカもバツが悪くなり、むくれた顔のままそっぽを向いた。

 こんな私的なことは戦場で誰にも、もちろん副将のケラにも明かせなくて、アビが来たからようやく口にできただけなのに。何もそんなにけなさなくてもいいではないか。


「……まぁいいや。でもこれで八哥も目が覚めただろ。華人はみんな、俺達を野蛮だって決めつけて、卑下してくるものなんだよ」


 兄がいじけてしまったのを見て、気持ちを立て直したアビは、とりなすようなことを口にした。

 そして「俺の母だってそうだった」と、付け加える。


明妃ミンフェが?」


 意外なことを耳にし、イスカは思わず問い返してしまった。

 今から七年前に亡くなったアビの母、ミン昭君シャオジュンは、鴉威では明妃という名で呼ばれ、族長の正妻として敬われていた。

 華語をイスカら鴉威の子供達に教えてくれたのも明妃で、だからイスカは生母ではない彼女にも懐いていたのだが、血の繋がった実の息子にはどうやら別の感想があるらしい。


「あぁ。夫の息子と夫婦になるなんて気色悪いっていつも言ってた。貞女二夫にまみえずとかも言ってたかな。だから母は婚姻の決定を覆して欲しいって使者を鵠国にまで送ったらしい。でも返ってきたのは、嫁いだ以上地元の慣習に従えっていう祖国からの命令だった。それでも母は、鵠国に帰りたいって手紙をその後何度も出していた」


 明妃がそこまでソビとの婚姻を嫌っていたとは、イスカも知らなかった。

 彼女は先々代、つまりイスカの祖父とは倍以上歳が離れており、イスカの父であるソビと一緒になってからの方がアビという子宝にも恵まれて幸せに暮らしていたのだとばかり思っていたのだ。


「息子と言っても血は繋がってないじゃないか。そんなに嫌なものなのか?」

「そりゃあもう。自分で産んでおきながら、俺のことを気色悪いって言うくらい嫌らしい。馬から落ちたら、病気で俺が苦しんでいたら、華語を覚えられなかったら、あぁやっぱりこの子には天罰が下っているんだ、っていつも嘆いてた」

「……」

「俺はあの母の腹から産まれ落ちた瞬間から、ずっと罪人なんだよ」


 軽蔑に満ち溢れた物言いを、アビは自分自身に向かって容赦なく突き刺してみせる。

 そんな弟が痛々しくて、イスカは目が眩む気分だった。

 嫁ぎ先の風習に馴染みきれない母の罪悪感を一身に背負う形で生まれてしまったこの異母弟は、これまでずっと自らを詰り、傷つけ続けてきたのだろうか。


「アビ……」 


 イスカは顔を曇らせ、弟の肩に手を置いた。

 何と言って慰めればよいのか分からないが、そんなに思い詰めるな、とだけは伝えたい。これは風習の違いによって生じた歪みであり、決してアビ自身に責任のある話では無いのだから。

 しかし兄が差し伸べた手を、アビはあっさりと振り払った。


「いいんだ。もう昔のことだし、八哥が気にすることじゃないよ」


 割り切った口をきくものの、その表情を見ていれば、亡き母の呪縛が今もアビの心に影を落としていることは明らかだった。


「まぁ、あの痘痕の王妃様にしたら、それだけで女達を嫌がったんじゃないのかもしれないぜ」


 自分のせいで暗くなってしまった空気を嫌ったのか、アビはことさら明るい声で話題を無理矢理に変えてきた。


「うん?」

「だから単純にさ、自分以外の女が八哥の側にってのが気に入らなかったんだろ」

「それは我儘だぞ」


 身分ある男が大勢の妻を抱えるのは、何も己の欲を満たす為ばかりではない。

 鴉威は部族の集まりで形成されているから、その部族ごとから女を出させることで、王との縁を深めている。

 それに妻を多く抱えることは、良き跡継ぎを得るためにどうしても必要なことなのだ。

 イスカの父も大勢の妻を得て、それぞれに子を産ませていた。

 しかし長男と四男は部族間の戦いで戦死し、次男と五男と七男は成人する前に病死。残ったのは三男と六男と八男と九男で、このうち八男のイスカが武勇に優れていたため、各部族の長たちによる話し合いの結果イスカが族長となったが、九人男子が生まれても跡目を選ぶときには半分以下にまで減っていたわけである。

 鴉威の繁栄を考えれば、王妃が自分以外の妻を持ってほしくないと考えるのは身勝手すぎる。

 それは確かにそうなのだが、同時に王妃の示した嫉妬をどこか嬉しく感じた自分もいて、イスカは己の心の行方に戸惑った。

 上に立つ者が私情に走るような真似を、今までのイスカなら決して好まないはずなのに。どうして彼女が自分に向けた独占欲は、嬉しく思えてしまうのか。


「そうだ。ついでだから相談があるんだ」

「どうした?」

「東鷲郡討伐の時の恩賞を、俺はまだ決めかねていただろ? 欲しい女がいるんだ。いいか?」


 アビが唐突な申し出をしてきた。

 これは戦場でする話ではないが、イスカが女の話をしたので良いかと思ったのかもしれない。

 アビはまだ十六歳。嫁を得るには早すぎる年齢だ。彼自身が早熟な性分だから、家庭を持ちたいと欲しても不思議ではないが……。


「ほう。明家の女でも娶りたいということか?」


 イスカが首をひねりつつも名を挙げたのはアビの母、明妃の実家のことだった。

 明昭君の弟であるミン王檣ワンチィァンは、鵠国下ではただの下級貴族でしかなかったが、鴉威の民が木京を占領して以来、威国への忠誠を誓っていた。

 残念ながら彼自身はあまり有能ではないのだが、自主的に近づいてくる者を無下にできないので、イスカは当り障りのない役職を与えていたのだ。

 そんな王檣が血縁のあるアビとのつながりをもっと深めようと考えるのは当然の流れなので、イスカはてっきり叔父から何かしらの提案があったのだと思ったのだ。

 しかしアビは首を強く横に振った。


「違うよ。あのおっさんは俺のことを甥っ子扱いしてくるけど、俺はあの一族と関わる気なんて無い。俺が欲しいのは翡翠姫」

「あぁ?」

「……の侍女の鴎花の方だ。いいだろ?」


 兄が一瞬で気色ばむのを楽しむように、アビはややこしいところで言葉を区切ってみせた。

 からかわれたと知ったイスカは憤慨しつつも、うまく言い返せないまま「鴎花だと?」と顔を歪めた。


「あれのどこがいいんだ?」


 イスカの中で彼女の美しさは評価の対象ではなかった。

 それよりも高慢ちきで、心が貧しいところの方が気に障っていた。主のことを何も考えていないような女が、弟に相応しいとは到底思えない。

 そして兄から問われたアビ自身でさえも「いいところか……うーん、あったかな?」と考え込んでしまったのだ。


「そうだな……強いて言えば、俺の意に沿わないところかな」

「は?」

「それに、俺がどれだけ辱めても、死にそうにない気の強さが気に入った」

「なんだそりゃ?」

「簡単に死ぬ女は嫌なんだよ」


 アビは軽い調子で笑い飛ばし、そして「まぁこの話は戦でもう一度武勲を立てたら改めてお願いするよ」と言い残して天幕を出ていってしまった。

 それから四日後。

 この日は朝から小雨が降っていて、それならあの強い日差しが無くて過ごしやすいだろう、と期待したのが運の尽き。

 どれだけ雨が降ろうと暑さはそのままなので、湿気ばかりが増えて、かえって不快なのである。

 鴉威の地は雨も少なく、年中乾燥しているので、こういう絞れば水滴が出てきそうな重い空気に包まれるのは、ただ暑いより苦しい。

 そして一人で天幕を使っているイスカはともかく、皆で頭を突き合わせて過ごしている兵達は余計に辛いだろうと思う。

 それでも鄂将軍はこの機に乗じて攻め込んでくるかもしれないから、気を緩めず守りを固めるように兵士達には命じた。そしてイスカ自身も浮橋を渡って川の真ん中の小島、葦切へ行ってみた。対岸の動向をこの目で確かめるためだ。

 島は岩ばかりで馬が使えないので、歩いて橋を渡ると、島の切り立った岩肌に張り付くように羽林兵達の船が並んでいるのが見えた。

 この岩だらけの小島は渡河に欠かせない要所なので、敵も狙ってくるとみて、イスカも船を揃えて待ち構えている。しかし鴉威の民は船を操れず、運用は華人達に任せきりだ。そういうところが不安をかきたて、どうにも落ち着かない。

 尖った岩の上に立って眺めたところ、対岸の白い旗に動きはなかった。しかし息を潜めてこちらの動きを伺っているような不気味さが漂っている。

 隙あらば襲いかかろうとする鄂将軍の意図がひしひしと感じられて、不快だった。

 島を守っている副将のケラと二三の話をしたイスカは、ここで雨が止んだので、島の中央にある祠へ立ち寄ってから本陣へ戻ることにした。

 この葦切は軍事上の要所であると同時に、華人達にとっては神聖な土地でもある。

 祠を建てて祭っているのは、島の山頂とも言うべき、岩が幾重にも折り重なった先にある、幅が二丈(約10m)もある、大きな大地の裂け目。

 伝承によると天帝が代替わりすると、この裂け目から天に向かって水柱が吹き出すそうだ。

 新しい天帝はこの地上に人が暮らしていることを知らないから、大地を自らの気、つまり水で満たそうとする。

 そこで人の子はこの土地が天帝から与えられた盟約の地であることを伝えるために、天帝と人の子、両方の血を引く娘を捧げる。これにより人の子は、この地を統べる盟約を改めて結ぶことができるというわけだ。


(……よく考えた話だな)


 注連縄で囲われた先にある、底が見えないほどの深い亀裂を覗き込んで、イスカは心の中で呟く。

 この伝承に依れば、いつ噴き出すか分からない水柱に対処するため、天帝の子孫が常にこの地を治めていなければいけない。為政者には都合のよい口実になる。


(まあいいさ。俺はそいつを利用させてもらうだけだ)


 華人達の目を気にして形だけのお参りを済ませたところへ、伝令の兵士がやってきた。

 十人ばかりの部下を連れた武官が木京からやってきて、イスカに目通りを求めているというのだ。

 テェン計里ジーリィからの推薦状を持っているというので、イスカはすぐに本陣へ戻り会うことに決めた。あのひょろっとした容姿の華人の文官が、有能で人を見る目に長けた男であることはよく理解している。

 こうしてシィ蓮角リェンジャオはイスカの天幕へ案内されてきたのだ。


「石蓮角と申します、初めて御意を得ます、陛下」


 現れたのは髭面の大男だった。

 イスカも長身な方だが、それを有に上回る恰幅の良さで、そんな立派な体躯の持ち主であるのに団栗どんぐりまなこが顔にのめり込んでいるように見えるから、妙な愛嬌も醸し出している。

 彼は手を前に組み、頭を下げるだけという武人らしい短い挨拶を施したから、イスカは第一印象で好感を抱いた。無駄で長ったらしい礼儀作法を押し付けてくる輩には、いまだに不快感を覚えるのだ。

 イスカは蓮角に絨毯の上へ座るよう勧めた。

 華人である蓮角は天幕の中にまで敷物があることに驚いていたが、何はともあれイスカの前で胡坐をかいて座り、再び頭を垂れた。


「こたびは、陛下の配下に加えていただきたく、木京より馳せ参じました」

「田計里と縁故の者だそうだな」

「は。計里は羽林軍で知り合った朋友です。彼からは常々、陛下の徳の高きことを伺っておりました」

「しかしこれまでは威国に仕えず、野に下っていたわけだ。それが突然戦場へ出てくるとは、どういう心変わりがあったんだ?」


 暑さで鴉威の兵士が弱り、羽林兵らの士気が低い今、志願兵の参加はありがたいのだが、おいそれとは受け入れることができない。

 田計里の推薦状を持っているにせよ、同じ華人同士、長河の対岸にいる敵と内通する意図があるのかもしれないと、イスカが念のため疑ってかかるのは当然のことだった。

 そしてイスカが蒼く光る瞳を向けると、髭面の大男は驚くほど素直に頷いた。


「確かに、私めは鵠国に忠誠を誓っておりました。中原の南の果て、郭の田舎で生まれた粗野な乱暴者でしかなかった私めを武官に任じ、禄を与えてくださったのは鵠国です。その深い恩義に応えんと武芸の腕を磨いておりましたが、私めはとりかえしのつかぬ過ちを犯しました。年始の変の折、木京の都の守備の要である玄武門を預かっておきながら、鴉威の兵と羽林軍の兵士を見誤り、門を閉じ損ねたのです」

「……」

「私めの無能さが、祖国の滅亡を招いてしまうとは……死して尚詫びきれぬほどの、情けなき所業であります」


 大男の蓮角は、このまま泣き出すかと思うほど声を震わせていたし、実際小さな黒い目には熱いものを溢れさせていた。

 よほど己の所業を悔いているのだろう。

 それは同時に、この男の責任感の強さを物語るものでもあった。


「しかしこの度、私めの妻が王妃殿下に侍女としてお仕えしております御縁で、王妃殿下から直々に諭していただいたのです。いつまでも過去の過ちを悔いているだけが武人の為すべきことかと」

「雪加が……」


 ここで王妃が出てくると思わなかったので、イスカは目を見張ることになった。

 彼女はいつも控えめで、華人達とも進んで関係を持とうとしていなかったからだ。

 それは王妃とは名ばかりの虜囚の身であることもさることながら、己の痘痕を恥じていることが大きな原因だった。いくら絹の面布を身につけていても、何かの拍子で素顔を見られてしまう可能性がある。その醜さを晒すことに、彼女はいつも怯えているのだ。

 それなのにこうして華人の武官を鼓舞してくれたのは、何か役に立つことはできないかと、彼女なりに真剣に考えてくれた結果ではないだろうか。


「そうか……お前はあのリン小寿シャオショウの亭主か。そういえば働かない亭主がいて、自分が何とかしなければとか言っていたな」

「それはもうお恥ずかしい限りです。あの年始の変以来、私めは己を持て余しました。どうしていいのか分からず、死ぬことすらできなくなり、家に引き籠っておりました。そんな情けない亭主を妻はいつも朗らかに笑って支えてくれ……くっ……私めなどには身に余る妻であります」


 どうやらこの男は激情家らしい。少し話をするだけですぐに泣き出す。

 これは芝居か真実か……イスカの目は一段と深みを増して、目の前の大男を射抜く。


「それで、その妻が身ごもっていると、この度、妃殿下から伺いました」

「そうなのか」


 それは全く気付かなかった。

 小寿はこの亭主に負けず劣らぬ大きな体をしているから、腹が少しばかり突き出していても見た目では分からないのだ。


「私めには上にあと五人の子がおりますが、子供達に父親として今のような醜態を晒していることを心苦しく感じております。その上、これから生まれてくる赤子にまでかような姿を晒すのでは、いけない……と強く、思い……」


 案の定、蓮角は途中で声を詰まらせてしまったが、それでもどうにか言葉を絞り出してきた。


「確かに、鵠国の武官として鴉威の民のために戦うは本望でありません。しかしこの戦に勝たねば、王妃様のお側に仕える妻とすえっ子と腹の子は無事では済まされません」

「……」

「私めは今度こそ武官として悔い無き働きを……大切な家族を守りたいのです」


 そのためにかつての部下達に声をかけ、共に馳せ参じたということだ。


「……よし、分かった。お前の参陣を許す。俺の直属として働け」


 イスカは膝を打った。

 別にこの男がこぼした大量の涙に感じ入った訳では無い。

 ただあの豪快な小寿が入れ込んだ男であることと、彼の語った家族への想いには価値があると感じたのだ。

 戦いたい理由があまりに卑小であると言う人もいるかもしれないが、逆にそういう身近なものの為に奮起するのは、自然な心の動きである。下手に格好つけた理由を言われるより信が置けた。

 この先のことは、戦場での働き次第で考えることにすればよい。

 ありがとうございます、と小さな目を細めて喜ぶ蓮角に、イスカは早速戦況について語った。華人からの意見も聞きたかったのだ。


「敵将は鄂鵬挙だ。東鷲郡の長官の倅で、父を殺された恨みで先鋒を買って出たらしい。一万の兵でこの川を渡ろうとして船を集め、対岸に陣を敷いているが、今のところ動きは無い」

「東鷲郡の……では、その時の手勢も率いているのですか」

「いや、あの男が連れているのは郭の地で募った兵だけだ。東鷲からは身一つで落ち延びたようだからな」


 イスカが斥候の調べてきたことを伝えると、蓮角は「ならば兵士の多くは郭の民……」と、考え込んだ。

 そして再び顔を上げた時、彼はその小さな瞳に並々ならぬ緊張感を走らせて言ったのだ。


「私めに策が一つございます。お聞きくださいますか」


四.

 イスカが木京に凱旋したのは、出兵してから二十五日後のことだった。

 勝敗がついたのは六日前で、木京ムージンには一足先に威国ウィーグオの圧勝という知らせが届いていたから、実際に王が姿を見せると、都の民らは大喜びで出迎えた。

 挙兵した鵠国フーグォの軍勢が都を解放できずに敗れたことを、華人ファーレンならば残念に考えそうなものだが、木京の民とて兵隊にとられた男達が無事に帰って来たのは純粋に嬉しかったし、早めに戦争が終われば物価の上昇も最小限度に留められる。それに意外と居心地の悪くない蛮族達の統治に、一般庶民達は徐々に慣れ始めていたのだ。

 そして戦に強い若き王への畏怖の念もますます強まった。これだけあっさり勝たれてしまうと、反逆を起こす気力も損なわれてしまうというものだ。

 イスカは夏の暑さから鴉威ヤーウィの兵士らを早く開放してしてやりたい一心で早期決着を図ったのだが、この素早い勝利こそが、蛮族達に武器を持って立ち向かったところで勝ち目はないという、華人達の諦めの感情の確固たる裏付けとなっていたのだ。



***

 イスカだって戦に勝ったのだから嬉しくもあり、誇らしくもある。

 だが木京に戻り、華人の兵士らを家に帰し、鴉威の兵だけを率いて後宮の鉄門をくぐる時は少々緊張していた。

 この門の向こうには王妃が待っている。

 彼女が自分の無事を祈ってくれていることはよく分かっている。

 分かっているが、どうにも不安でもある。

 一体どんな顔をして出迎えてくれるのか。

 しかしそんな気持ちを吹き飛ばすほどの強い熱気が、後宮でイスカを待ち受けていた。

 後宮に入る重たい鉄の門扉を開け放つと、その先に集まっていたのは女達を始めとする鴉威の者達だった。

 故郷の言葉で沸き起こる歓声は大地を震わせるように大きく、力強いもので、イスカ達兵士を一瞬で包み込んだのだった。


八哥パーグェ!」


 幼女が一人、怖いもの知らずにも行列の先頭にいたイスカの馬の前に飛び出してきた。

 暑さ故に華人風の薄手の衣を纏っているが、褐色の肌を持つ彼女は、イスカの末の異母妹だ。

 イスカは馬を降りて約九ヶ月ぶりに再会した妹を抱き上げる。


「おお。随分大きくなったじゃないか」

「うん! 八哥も大きくなったね」

「そうか?」

「だってたくさんの兵士を連れているもの」

「なるほど、そういうことなら俺は大きくなったのかもな」


 イスカは無邪気な妹の頭を撫で、地に下ろしてやった。

 群衆の輪の中から、たくさんの耳環を飾った女が一人、前に歩み出てきたのが見えたからだ。


「イスカ、戦勝おめでとう」

「アトリか。木京までよく来てくれたな」


 やはり華人と同じ絹の着物を身に纏っていたアトリは感無量といった風に、イスカを抱き締める。


「あなたは私達の誇りだわ。鴉威の民がこんなに大きな国を治めるようになるなんて夢のようよ」


 アトリは鴉威の民の中でも有力部族の出身で、明妃が亡くなってからはソビの妻の中でも正妻として遇されていた。だからこそ女達を代表してイスカに話しかけてきたのだ。


「みんなで宴の用意をしたわ。今夜は久しぶりに鴉威の料理を堪能してちょうだい」

「それは楽しみだな」


 イスカと共に木京へ帰ってきた兵士達も大喜びしている。鴉威からやってきた女達とは同じ部族の者もいるのだ。懐かしい顔ぶれを前にして、誰もが大いに盛り上がっている。

 そんな歓声の中心にいることで、イスカも徐々に心が解けていったのだが、自分を囲む人の輪の一角が、突然崩れたことに気付いた。

 現れたのは裾の長い、翡翠色の絹服を身に纏った王妃だった。

 薄布で顔を覆った彼女は、褐色の肌を持つ鴉威の民達の中にあると不気味でしかなかった。

 それでも彼女は好奇の目に晒されながらイスカの前まで静かに進み出ると、地に膝をつき、三度頭を下げたのだ。


「空より高き叡智と、岩をも砕く武勇を備えし我が君よ。この度の勝利、誠に喜ばしく存じます。天帝のご加護とさらなる恩恵が、君の上に永久とこしえにあらんことを」


 鴉威の民たちが盛り上がっている中での、華語ファーユィによる小難しい挨拶。

 場が一気に白けるのを、聡い王妃なら気付かなかったはずは無い。

 それでも面布をつけた彼女は堂々と顔を上げ、イスカを真正面から見据えてきた。

「陛下をお迎えに上がりました。香龍シャンロン宮へ是非おいでくださいませ」

「ねぇ、イスカ。何を言ってるの、この女?」


 華語を全く理解しないアトリが不快げに眉をひそめた。そしてイスカの腕を掴んで寄り添う。

 それはまるでアトリこそが正式な妻であるかのような態度であったし、囲んでいる鴉威の民もそれが当然だと思っているから、誰もが場違いな華人の王妃に対し冷たい目を向けた。

 それでも彼女に向かって直接の抗議の言葉を投げつけないのは、ただ華語が分からないというだけの理由である。


「何やってんだ、お前!」


 こんな時のために存在するアビが、慌てた様子で王妃の元へ走り寄ってきた。

 そして彼女の耳元に口を寄せ、小声で何か注意を与えたようだが、彼女は逆にはっきりとした声で反論してきた。


「私は陛下の王妃です。戦の後にはまず、正妃の元へおいでになるのが当然の礼節です。その礼節を陛下が率先して守られることこそ、秩序を保ち、国の安定に繋がりましょう。私は王妃としての役割を果たしているだけです」

「そうじゃなくてさ……」

「分かった。まずは雪加のところへ行こう」


 イスカは苦い顔をしているアビを押しとどめた。そしてアトリを自らの身体から引き剥がすと、華語が分からない故郷の人々のために、鴉威の言葉で言い直した。


「俺は王妃の宮殿へ行ってくる。俺のことは気にせず、皆はゆっくり休め」

「え……」

「アトリは皆をねぎらってやってくれ。頼んだぞ」


 この指示により、鴉威の者達の間には不穏なざわめきが波のように広がったが、それでもイスカは跪いていた王妃を立ち上がらせた。

 そして供をするというアビすら断り、王妃一人を伴って香龍宮へと向かったのだった。



***

 約一ヶ月ぶりに香龍宮へ帰ると、ピトやフーイ、それに小寿シャオショウとその末子の杜宇ドゥユゥなど、いつもの面々に出迎えられた。

 まずは鎧の紐を解き、王妃が縫ってくれていた新しい衣服に着替える。

 それは黒色の麻布で縫われた着物で、涼しくてとても心地よかった。

 しかも袖と襟のところにだけ赤と白の糸で幾何学模様が刺繍されている。華人風の衣ながら鴉威の雰囲気も混ぜ込んでくれていたところに、王妃の細やかな心遣いが感じられた。

 着替えているイスカの足元では、幼い杜宇がちょろちょろと走り回っていた。屋敷全体を包む華やいだ雰囲気に当てられ、興奮しているのだろう。

 その姿は愛嬌たっぷりで可愛かったのだが、母の小寿からうるさいと叱り飛ばされ、しまいには首根っこを捕まえられ部屋を追い出されてしまった。

 おかげでイスカは早々に王妃と二人きりになる。

 今はもう顔を覆う薄布を外している彼女は、盆に載せた茶器で、イスカの為に茶を淹れているところだ。

 その真摯な眼差しと、流れるような手つきが美しくて、イスカは心を惹きつけられる。

 そして湯気と共に立ち昇ってくる爽やかな茶の芳香に包まれると、無事に帰ってきたなぁという実感が急に胸に込み上げてきたのだ。

 鴉威の民達の想いには反してしまったものの、やはり香龍宮へ来て良かったと思う。


「……お前がシィ蓮角リェンジャオに戦へ行けと言ってくれたそうだな。礼を言う」


 王妃に対し最初に話すべきことは他にあるような気もするが、まずはそれを伝えたくて、イスカは茶を飲みながら口を開いた。


「あれはとても良い武人だった。あの男のおかげで早くに戦を終わらせることができたんだ」


 イスカの言葉に誇張は無い。

 蓮角は己が郭の出身であること、敵の兵士の大部分が同郷の者達であることを上手く生かした。

 彼は郭の地の者達なら、矢を扱う時、その矢尻に祈りを捧げるであろうと予測したのだ。


「郭の者は迷信深く、矢や剣などを扱う前に必ずその刃を先を舐めます。それは刃が自分を傷つけることが無いよう、刃に持ち主を覚えさせるためです。ですからその刃に予め毒を仕込んでおけば戦わずして無力化できるのではないかと愚考いたします」


 そう進言した彼の意見を取り入れたイスカは、毒を塗った矢を大量に用意して、葦切ウェイチェに運び入れた。

 そして羽林兵達の船で無理な突撃と後退を繰り返させて、敵の矢を消耗させ、最後に鴉威の兵士が、自慢の馬脚を活かして強引に川を渡ろうとして、失敗。右往左往しているという隙を見せたところへエァ将軍がいよいよ船を出してくると、それに追われる格好で葦切からも撤退。

 慌てふためいていた威国の兵士らは、食料や武器も葦切に残したままで、北岸へと逃げ込んだ。浮橋を切って落とす余裕すら無い混乱ぶりを、副将のケラは上手に演じきってくれた。

 こうして長河の真ん中に浮かぶ小島を占拠した鄂将軍は、とうとう木京へ攻め込む足掛かりを得たと喜んだはずだ。

 しかしこの翌日、手に入れたばかりの大量の矢を使って北岸へ攻め込もうとした瞬間、兵士の多くが体を震えさせて倒れ込んだ。そこへ威国の歩兵が浮橋を使って一気になだれ込んで来たものだから、彼は這う這うの体で船に飛び乗り、長河の南岸へ逃げていったのだ。


「身体が動かず、捕虜になったのは六千人余り。これらは全て、生かしたまま南へ追い返した。毒は強力な痺れ薬だから、この先も手足に違和感は残るだろうが、死ぬよりはマシだろう」

 イスカが捕虜を殺さなかったのは、この作戦を立案した蓮角の気持ちを尊重したからである。

 彼は戦争で勝つことだけでなく、同郷の者達をできる限り傷つけないことも考慮して作戦を組み立てた。

 この策は一歩間違えれば葦切を失い、威国を窮地に陥れるものであったから、ケラはなかなか同意してくれなかったが「そうなったらその時だ。いっそ連中が川を越えてくれた方が、こちらも騎兵を思う存分展開できて戦いやすい」というイスカの意見により、実行に移すことになった。

 そして見事、威国を勝利へと導いたのだ。

 話を聞き終えた王妃は、イスカに対し深々と頭を下げた。


「温情あるご処置、ありがとうございます」

「お前に礼を言われることでもあるまい。生かしておいた方が向こうは困るだろうと考えただけだ」


 事実、体調不良の六千人を押し付けられた鄂将軍は、彼らの手当てに奔走し、とても戦争どころではないので一旦、郭の地へ戻ることになった。

 それに皆殺しにすれば、華人達の鴉威の民への憎しみは倍増しただろうと思うのだ。そしてイスカの配下となっている羽林兵達の中にも動揺が広がったに違いない。

 そういう意味では、これはイスカにとって極めて利己的な判断であり、敵に温情をかけたわけでは無い。


「でも私の同胞である華人達を殺さずにいただいたのですから、礼は申しますよ」


 王妃は微笑み、その時、背後で戸が開いて小寿が戻ってきた。悪戯坊主を自室へ閉じ込めて戻ってきたのだ。


「あぁ、小寿か。蓮角はまだ勤めが残っているが、後でここにも来させよう。この戦はあれの働きで勝ったようなものだ。大いに労ってやれ」

「ありがとうございます、陛下」


 王から直々に声をかけられた小寿は、何度も頭を下げて礼を言った。

 生きる気力を失っていた夫が活気を取り戻してくれただけでも、彼女は嬉しいのだろう。

 そしてそんな小寿に目を細めていた王妃は「では、少し休まれたら宴へ行って来てくださいませ」と言った。


「いいのか?」


 思わず問い返してしまったのは、先ほどイスカを迎えに来た時の彼女の態度を見ていたからだった。

 正妃への礼節を真正面から要求してきたのに、今になって鴉威の女達の元へ行くよう勧めるとは、理屈が通らない。

 しかし彼女は一番最初にイスカが香龍宮へやってきたことで満足したようで、鷹揚に微笑んでみせた。


「陛下は私だけのものではありませんから、いつまでもここにいてはいけません。それに皆さん、懸命に用意なさっていましたよ。陛下が行かぬと無駄になってしまいます。今宵はどうか故郷の味を堪能して来てくださいませ」


 こうしてイスカは王妃に見送られて、杜鵑ドゥジュン宮へ向かうことになったのである。



***

 夕刻、イスカが杜鵑宮へ行くと、ちょうどこれから宴が始まるところだった。

 集まっていたのは三百人余り。

 鴉威の民だけでなく、羽林軍ユーリンジュの将帥ら、華人達も参加している。石蓮角だけでなく、後方支援を担当していたテェン計里ジーリィの姿も見えた。何故だか戦とは全く関係のない白頭翁バイトウウォンまでやってきている。

 しかし華人らは人数も少ないため、賑やかに騒ぐ鴉威の男達に押し出される格好で、隅の方に集まっていた。

 言葉の壁もあり、彼らと積極的に関わろうとする鴉威の民はほとんどいなかった。イスカはその様子を一段高いところから眺めたが、民族の融和が難しい事実を突き付けられた思いがしていた。

 王妃が言っていた通り、イスカの新しい妻達はこの宴のために懸命に準備をしてくれていたようで、皆の前には食べきれないほどの豪華な料理が並んでいた。

 鴉威の地において、夏場は家畜の乳を使った料理しか食べないものだが、ここは中原で食材も豊かにあるものだから、ホーショル(揚げ焼き肉まん)やチャンサンマハ(骨付き羊肉の煮込み)などの肉を使った料理も数多く並んでいた。


「さすが鴉威の飯は美味い。華人達が作る飯は野菜ばかりだし、味が無くてつまらないんだ」


 将兵の一人が歓声を上げていたが、それは確かにイスカも思っていたことだった。王妃は一生懸命に作ってくれているから、これまで文句を言ったことは無いが、彼女の料理は全て塩気が足りない。

 それに比べて今日出された料理は、岩塩だけで味をつけているから肉の味を直接感じられ、どれも美味しく感じた。

 しかし鴉威の民の口に合うということは、逆に言えば華人達には塩辛くてたまらないということになる。

 しかも手掴みで食べることが、礼儀作法にうるさい華人達にはどうにも許せないようだ。大きな羊肉の塊を前に戸惑った顔をしている田計里の横顔が、イスカの座っている場所からもしっかり見えていた。

 そして何より彼らが参っていたのが……。


「イスカはアルヒが好きだったわよね」


 アトリを始めとする五人の新しい妻達がイスカにしだれかかって酌をしてくれるのは、鴉威の伝統的な酒のアルヒ。

 家畜の乳を蒸留したもので、イスカにはこれくらいの酒精がちょうど良いのだが、華人達にとってはキツ過ぎる酒らしく、全く飲もうとしていない。

 唯一例外だった白頭翁だけは酒じゃ酒じゃと喜んで飲んでいたが、たった一杯で参ってしまい、今は高鼾をかいて田計里の脇で眠っている。

 原料が乳なので、華人には臭いからして受け入れられないのだろう。そういえば王妃も獣の乳は鼻につく生臭さがダメだと、いつも言っている。

 酒席で酒を飲めないのでは、気持ちも白けるばかりだろう。しかし最初に注がれた酒は三杯を立て続けに飲むのが当然である鴉威の習慣から考えれば、口を付けることもしない華人達の態度は非常に印象が悪く、皆が近付きたがらないのも理解できる。


(……これは良くない状況だな)


 せっかくの戦勝を祝う宴であるのに、これでは鴉威の民と華人が、互いを悪く思うだけで終わってしまう。

 ここは王自らが間に入って取りなすべきかと思ったが、先ほどから女達がイスカを取り合って離してくれない。

 今夜は誰と寝るの?、と露骨なこと聞いてくるのは一番若いニオだった。

 幼い娘を寝かしつけて戻ってきたサルカも、四十をいくつか過ぎたアトリだって、己の容色にはまだまだ自信があるようで、若い女達にイスカを譲る気は無いようだ。最年長のウカリだけが、閨の争いに加わる気が無いことを明らかにするべく、配膳の世話に回っている。

 イスカだって女達に言い寄られるのは決して嫌じゃなかった。正直なところを言ってしまえば、鴉威の女達のふっくらした体つきの方が細身な王妃より肉感的で、魅力を感じている。

 それなのに、イスカの気持ちは彼女らの上にまるで無かった。

 今こうして酒を飲んでいる間にも、文句も言わずに宴へと送り出してくれた王妃の姿が、瞼の裏にこびりついて離れないのだ。

 この麻の着物一つをとっても、彼女の素晴らしさはよく分かる。

 暑さが苦手なイスカの過ごしやすさを考えて中原で愛用されている麻の服を縫っておきながら、彼女は鴉威の民らしい黒い布を用い、さらには、袖口に赤と白の糸で鴉威の文様を刺繍してくれているのだ。

 こんな細やかなところにまで気配りを見せてくれる王妃への愛しさが込み上げてくるのは、当然のことではないだろうか。

 しかし鴉威の男達の感想はまるで違う。


「女は鴉威に限るな」

「華人の女は偉そうで澄ましていて、どうにも気に入らん」


 酒が回ってきた彼らの一部が、鴉威の女達の元で配膳を手伝っていた華人の下女らに絡み、彼女らにくだらない罵声を浴びせ始めたのだ。

 投げつけられる言葉がよく分からない華人達は愛想笑いで受け流しているが、その声は次第に高くなり、イスカも酒の上の戯言で済ませられないように感じてきた。彼らの発言はいつしか女達だけではなく、華人全体に向けられたものになってきたからだ。


「華人は軟弱者ばかりだ。この戦でも、まるで赤子の手をひねるようなものだった」

「いつも偉そうな顔をしてるくせに、まるで実が無い。これでよく中原の王として君臨していたものだ」


 長年、鴉威の民を蛮族と蔑んできた華人達を憎く感じる気持ちはイスカも同じだ。

 でもそれは彼らに負けたくないから生まれる対抗心だった。

 彼らが鴉威を見下すのなら、それ以上になろうと思った。

 決して華人を見下している訳ではないのだ。

 お前らいい加減にしろよ、と声を荒げかけたところで、女の一人がイスカの左手を握ってきた。

 アトリである。


「イスカは生真面目よね」

「うん?」


 ちょうど立ち上がろうとした、その出鼻を挫かれた格好になったイスカは苦い顔をしたが、彼女は左手を包み込むように、もう片方の手も優しく重ねてきた。


「ほら、さっきのあなたを見ていて思ったのよ。あなたは王ならば王妃を愛でなければいけないと、自らを縛っているでしょ」


 でもそんな窮屈な思いをする為にこの国の王になったわけでは無いんじゃないの?、とアトリはイスカの耳元へ熱っぽく囁く。


「これからは私達がいる。あなたはもう我慢しなくていいわ。抱きたい女くらい、好きに選んでいいのよ」

「……生憎と、俺は好きで雪加を選んでいる。それは強制や義務じゃない」


 アトリの柔らかさと温もりに満ちた手を迷惑としか感じられなかったイスカが、仏頂面で言い放った時だった。


「ははっ。そんなに王妃様がいいなら、俺が今すぐここへ呼んで来てやるよ、八哥」


 一段低いところでケラ達と一緒に飲み食いしていたはずのアビが、不意にイスカの前に立ちはだかったのだ。

 今日も羊の毛を編んだ伝統的な暑苦しい衣装を身につけている異母弟は、その目元を赤く染め、足をふらつかせていた。

 アビは酒が苦手なのだ。しかしそんな自分をひどく嫌っていて、無理に飲むからいつも悪酔いする。


「なんだと?」


 酒精で濁った眼をした弟から不穏な気配を感じ取ったイスカは、自然と眉の端を吊り上げたが、酔っているアビはそれくらいでは止まらない。


「ははは、何と言っても王妃様は中原の宝玉、翡翠の姫だからさ。あの美しさにはみんな腰を抜かすぜ。透き通るような白くてすべすべの肌も、間近で拝ませてもらったらいいさ」

「そうね。私も翡翠姫には会いたいわ」


 呂律が回らず、語尾がはっきりしないアビの言葉に、アトリまで賛成の意を表してしまった。


「あの人、自分の宮殿に籠ったきりだから、全然関われなくて残念だったのよ」

「さっきも顔に布をつけていたから、顔見れなかったし」

「きっと翡翠が煌めくように美しいんでしょうねぇ」


 アトリに追従するように、他の女達も笑顔を浮かべた。

 しかし彼女らが交わす言葉の端には、明らかな毒がある。

 王妃が痘痕面であることを既に知っておきながら、人前へ引きずり出して揶揄する気なのだ。

 イスカは不意に母のことを思い出した。

 実は疱瘡にかかった母の病状は、さほど悪くなかったのだ。

 しかし息子が亡くなった衝撃に加え、自分の顔を覆う痘痕に、母は絶望してしまった。

 こんな顔では表を歩けないと気弱なことを言ううちに食も喉を取らなくなり、衰弱して亡くなった。

 イスカは痘痕なんて嗤わない、生きていてくれるだけでいいんだと願ったが、母は聞いてくれなかった。

 大勢の妻達の中で競い合って生きていた母にとって、あの時感じた絶望は、息子がちょっとやそっと慰めたくらいで埋められるものでは無かったのだ。


「へへへ。それじゃあ、俺は今から香龍宮へ行ってくるよ」

「勝手をするな!」


 気が付けばイスカは、背を向けたアビに向かってとびかかっていた。目の前に並べられていた膳だけは上手く飛び越えたつもりだったが、弟を引き留めようと肩を掴んだはずが、勢い余って押し倒してしまう。


「うわぁ?!」


 突然、派手な音を立てて部屋の中央へ転がった王とその弟に対し、周囲からは大きな悲鳴が上がった。

 傍からは、仲の良い兄弟が戯れているだけに見えないことも無かったが、揉み合う二人が殺気立った目をして互いを組み伏せようとしていることに気付くと、驚きのあまり誰も間に入れなくなってしまった。

 そんな中、先に起き上がってきたのはイスカの方だった。

 転んだ時に口の中を切ってしまったイスカは、苦い鉄の味を噛み締めつつも、ふらふらと頭を上げた。そして足元に転がっている弟を一瞥すると、地を震わせるような唸り声を上げる。


「アビだけじゃないからな。お前達が許可なく雪加に関わることを許さない。あれは俺の大事な王妃だ」

「??」


 倒れた二人を案じて周りへ集まってきた者達は、自分達の王がなぜ怒っているのか、それ以前に、一体何の話をしているのかすらよく分かっていなかったので、呆気にとられた顔で眺めてくる。

 鈍い反応を示す故郷の者達に対し、イスカはその場で仁王立ちになり、声を張り上げた。


「改めてお前達に聞く。この戦に勝てたのは何故だ?!」

「そ、それはもちろん、イスカの采配と、ケラの用兵が優れていたおかげで……」


 すぐ脇から返ってきた鴉威の将兵の言葉に対し、イスカは大きな舌打ちを漏らした。


「戦場に出たのは鴉威の兵だけだったか? 何カ月も前から投石器の準備をしていたのは誰か。わずか二日で五本もの浮橋をかけたのは誰の技術だ。軍船を動かしたのは? 一万を超える兵士の糧食や武器を余すことなく用意したのは誰なんだ」


 畳み掛けるようなイスカの問いかけは華語でも繰り返され、誰もが黙り込んだ。

 特に鴉威の者達は戸惑った顔をしている。

 自分達の影で働いていた華人達のことなんて、まるで気にかけていなかったからだ。

 年始の変で勝利して以来、華人達は鴉威の民の配下となったのだ。そんな者達にまで気を向ける必要性は無いと思っているのだろう。

 しかしそれではいけないと、イスカは訴える。


「俺達は華人に勝ったんじゃない。郭宗方の軍勢に勝った。ただそれだけのことだ。そうだろう?」

「……」

「俺が常々言っていることをよく思い出せ。中原を支配するということは、華人を蔑むことでも抑圧することでもない。鴉威はどう振る舞うべきか、もっと広い目で物を見て、そして考えろ」


 それだけ言うと、イスカはいまだ床に転がったままだったアビの腕を掴み、引っ張り起こした。

 酒が回った弟は、もはや体に力が入らない様子だったのだ。

 しかし兄が直々に助けているのに、黒い瞳の異母弟は不貞腐れた目をして、ぷいと顔を背けるのだ。

 この態度にはイスカもむっとしてしまい、後で注意しようと思っていたことをこの場で咎めることになった。


「お前も鴉威のしきたりってものを華人達には事前に説明しておけ。予め知っていれば、余計な衝突が減る。それくらいのこと、お前が気付かなくてどうする」

「……」

「それから、アトリ」


 あくまで反抗的な態度を崩さない弟を突き飛ばすようにして再び床の上に転がしたイスカは、女達の方にも振り返った。

 怒っているイスカに怯え、自然と女同士で身を寄せ合っていたアトリは、思わぬところで名を呼ばれたものだからびくっと体を震わせた。耳を飾る大きな銀の輪がカチャリと音を立てる。


「お前も同じだ。これから宴をやる時には全員の口に合うものを用意するんだ。鴉威も華人も、全員が威国の民である。それを肝に銘じろ」

「で、でも、イスカ……」


 咄嗟に反発の言葉が出てしまったのは、アトリ故のことだった。

 まだソビの正妻としての意識の方が強いアトリにとって、イスカは心を込めて仕えるべき夫ではなく、夫の子供という、アトリの方が庇護する対象なのだ。

 しかし若き中原の王は、そんな甘えの滲んだ彼女に対し、より一層厳しい態度で臨んできた。


「お前は王に向かって口答えするのか?」

「いえ……申し訳ありませんでした」


 アトリを平伏させたイスカは、もう彼女らの元には戻らず「後は皆で好きにしろ。俺はもう休む」と言い捨てた。

 そして、そのまま華人達の輪の方へと向かうと、彼らは平伏して王を迎えた。

 ほとんどが鴉威の言葉で交わされていた話だったから、彼らにどこまで伝わったかは不明だったが、威国の中で華人達が少しでも肩身の狭い思いをしないでくれたらいいと思う。


「石蓮角、田計里、行くぞ。供をしろ」

「は」


 呼ばれた二人は即座に頷いたが、イスカの視線は田計里の傍らで気持ちよく鼾をかいていた白髪の老人の上で止まった。この老人、これだけの騒ぎの中でよくも眠れたものである。


「なんだ、白頭翁はまだ寝ているのか。仕方のない奴だな。じゃあ、一緒に連れて来い。布団の上で寝かせてやろう」


 イスカの指示で白頭翁の小さな体を蓮角が背負った。

 そしてイスカが華人達と共に去っていくと、それまで静まり返っていた宴席にもぼそぼそと話をする声が戻ってきた。

 イスカの指摘を真摯に受け止めて反省の色を見せる者、何を言われていたのかすぐには理解できない者など、各々の反応は違ったが、自分達が王の怒りを買ったことは確かであり、先程までの楽しい雰囲気は台無しになっていた。

 中でも女達は強い不満を抱いていた。

 中原に出てきてまだ日の浅い彼女らは、イスカがこれまで苦労して華人達を従えてきた過程を知らないので、勝者である自分達が何故華人なんかに気配りをしなければいけないのか、余計に分からない。

 中でも名指しで叱咤されたアトリの脱力感は大きく、彼女は唇をくいと突き出して不快感を露わにしていた。

 先ほどまでイスカが飲んでいた盃を手に取り、残っていたアルヒを一気に飲み干したアトリは、まだ床の上に転がっていたアビの元へ行き、その傍らにしゃがみ込んだ。


「なぁんか、盛り下がっちゃったわね。ねぇ、アビ。景気付けに何か余興でもやってよ。そうね……あの池の真ん中にいた華人の女がいいわ。ここで踊らせて頂戴」

「あぁ?」


 酒に酔い、濁った目をしたアビは、話しかけられても起き上がるのが精いっぱいだったが、他の女達はアトリの提案に目を見開いた。


「それって、一人で踊ってばかりいる、あの変な女のこと?」

「島への橋も壊され、閉じ込められてるらしいじゃない。でも頭がおかしいのに後宮へ置いたままにしているなんて、おかしな話よね」

「まぁ、余興にはいいかも。華人の踊りってのも見物してみたいわ」

「……あいつには絶対関わるな」


 アビは漆黒の瞳で女達を睨みつけた。

 若すぎる彼の言葉には威圧感の欠片も無いが、酒で理性が飛んでいるせいで、何をするか分からない危うさは剥き出しになっている。

 まるで飢えた獣が周囲を威嚇するかのように、アビは喉の奥から低い唸り声を上げた。

 

「あれはお前達が関わっていい女じゃない」

「え……? それってどういうこと? 一体、何者なのよ?」


 予想外の反応に驚きながらもアトリが問うと、アビは一言「俺の玩具だよ」とだけ答え、そのまま床へと逆戻りした。

 先ほどから天地が直角に傾いているのだ。体を起こしているのも辛い。

 目を閉じても、胃をひっくり返せそうな吐き気と頭痛が減ることは無く、アビは憎たらし気に「くそったれが……」と呟いた。

 それが一体誰に対しての言葉であるのか、もはや言った本人にも分からない。

 ただ泣けてきた。

 名をつけられない感情が、胸の奥から幾重にも重なって溢れてくるのだ。

 

「くそったれが……」


 歯軋りしながら、もう一度同じ言葉を絞り出したアビは、そのまま混濁した意識の向こうへと落ちていったのだった。


***

 弟より遥かに酒に強いイスカがしっかりした足取りで香龍宮へ帰ってきた時、鴎花は小寿と二人で縫い物をしているところだった。

 休んでも良かったのだが、小寿の夫は宴が終わった後で来るかもしれないし、一緒に起きて待っていたのだ。もちろん幼い杜宇は先に寝ている。

 

「まぁ、陛下……」


 扉の向こうから姿を現したのが蓮角だけではなかったので、鴎花は目を丸くしてしまった。


「なんだ。王が王妃の元に帰ってきて何が悪いんだ」


 鴎花の反応から、自分が歓迎されていないと受け取ったのだろう。イスカは拗ねたように口を尖らせてしまった。

 その蒼い瞳はいつもより粘っこい。酒が入っているせいだろう。

 鴎花は苦笑を噛み殺しながら、イスカを部屋の中へと招き入れた。


「悪いとは申しておりませんよ。ですが、まだ宴の最中ですよね?」

「小寿のために亭主を連れて来てやったんだ。それとこの酔っ払いを休ませてやりにな」


 イスカが指さした先、蓮角の背では白頭翁が気持ちよく寝ていた。

 鴎花はその姿にくすりと笑うと、とりあえず目についた自分の寝台を使うように促し、小寿と協力して老人を下ろしてやった。よほど深く眠っているのか、白頭翁はまるで目を覚ます気配がなく、鴎花の寝台の中で僅かにむずがるような仕草を見せただけですぐに腰を丸めて、甲高い鼾をかき始めた。

 イスカは小寿に話しかけた。


「お前には今から三日間休みをやる。亭主と子供を連れて家に帰れ」


 イスカの言葉に小寿ははっと目を見張り、そして夫と視線を交わした。


「蓮角はこの先も羽林軍で働く。ゆえに、お前たち家族が官舎へ戻る為の準備も必要だろう。子を産む支度もいるだろうから、この先も不都合があれば遠慮なく言え」

「あぁ、ありがとうございます」


 主君の気遣いには小寿は元より、蓮角も涙を流して喜んだ。

 こんなに大きな体の男性が涙を流すことに鴎花は驚いたが、そういえば彼は初めて出会ったときにも、翡翠姫様から直々にお言葉をいただけるなんて、と泣いて感動していたか。

 そんな激情家の友人に付き添ってやってきた田計里も、夫妻と共に喜んでいたが、この後イスカは彼に対してとんでもないことを言い出した。


「ところで計里、お前は幾つになるんだ?」

「私めの年齢ということですか? 四十二ですが」

「ふうん、じゃあ、アトリを妻にしろ」

「ふえ……?」

「あぁ、言葉の事は心配いらないぞ。誰か華語を喋れる奴もつけてやる。安心して娶れ」

「い、いえ、そういうことではなくて……あの、アトリとは一体どなたで??」

「俺の父の妻の一人だ。さっき俺の側にいただろう。耳環を一番たくさんつけていた女だ」

「は、はぁ……」

「歳も近いし、お互い連れ合いに死なれているしちょうどいいだろう。面倒見のいい女だぞ。お前もきっと気に入る」


 突然降って湧いた縁談に、計里は口から泡を噴き出さんばかりだったが、イスカは有無を言わせなかった。

 計里はこの後、白頭翁の代わりに眠っている息子を背負い直した蓮角とその妻と共に退出していったが、最後まで蒼白な顔をしたままであり、その胸中を思いやると鴎花は何とも言い難い。

 しかしイスカは思い付いたばかりの自らの案に大いに満足しているようで、鴎花に対しては自慢げな目を向けてきたのだ。


「今の話はアトリだけのことじゃない。他の女達にも華人の夫を探してやるつもりだ。女達が華人と鴉威の架け橋になれば、威国の国益に繋がる」


 イスカの説明に、鴎花は胸のつかえがすうっと消えていくのを感じた。

 さすがは威国の王。賢明な判断である。

 そういうことなら華人も鴉威の民も、双方が納得してくれるだろう。


「あぁしかし、お前の侍女に勝手に休みを与えて悪かったな。誰か代わりを探しておこう」

「三日間くらいなら問題ありませんよ。私だって身の回りのことはそれなりにできますから」

「そうか……じゃあ、俺も三日くらいは休むかな。今度の戦はやたらと疲れた」


 そう言って絨毯の上へ寝転ぶから、鴎花はその脇に腰を下ろした。

 するとイスカは当然のように鴎花の膝の上へ自分の頭を置き直したのだ。そして目を閉じる。


「……あのな、雪加」


 イスカがおもむろに話しかけてきた時、寝台の上で寝ているはずの白頭翁の鼾が止んでいることに鴎花は気付いた。

 静かな夜だった。

 杜鵑宮から離れているせいで、今この宮殿に響いてくるのは蛙の鳴き声と虫の音だけだ。どうやら季節は暑さ厳しい夏から秋へと切り替わろうとしているらしい。

 鴎花は膝の上にある男の頭の重さをじんわりと感じながら「はい、なんでしょう?」と尋ねた。


「お前を王妃にしたのは俺だ」

「はい」

「でも本当は翡翠姫でなくても良かったんだ。皇女は他にもいたし、天帝の血を引く女であるなら誰でも良かった。それでも俺はあの夜お前をみつけて、お前を選んだ」

「……はい」


 鴎花は淡く微笑むと、イスカの短い黒髪を指の腹で優しく撫でてやった。

 この人が何を言いたいのか、手に取るように分かる。鴎花と離れていた間、ずっと自分の発言を悔やんでいたに違いない。


(……全くもう……)


 戦場にあれば武勇に優れた将帥であり、異国の民をまとめ上げるほどの器量を持った賢王なのだ。

 そんな人がこんなに可愛い姿を晒してくれるなんて……本当に、鴎花をどこまで魅了したら気が済むのだろう。

 イスカはいつの間にか目を開けて、鴎花のことをじっと見上げていた。


「お前はこれからも今日のように皆の前で正妃として堂々と振舞ってくれたらいいし、万に一つでもお前を嗤うような奴がいたら、俺が罰する」

「陛下……」

「俺の妻はお前だけだ」


 髪を撫でていた鴎花の手が止まった。

 それは国を治める者としては、大胆過ぎる発言であろう。鴎花がいまだ世継ぎを上げていない以上、国の存亡にも関わる話だ。

 しかし鴎花の膝の上にある蒼い瞳は、眩しいほどの真剣な光を放っていたのだ。


「俺がお前を選んだ以上、お前が王妃でいることを嫌だと思わないよう、気を付けるのも俺の務めだろ?」

「ありがとうございます……ですが私は嫌になりませんよ。私には陛下だけです。陛下のいらっしゃるところが私の居場所ですから。いつまでもお側にいられるよう、私は今よりもっと力を尽くしてまいります」


 そう。全て、鴎花がイスカの妻でいるための策だった。

 小寿の夫が郭の地で生まれた華人の将兵ならば、この戦でイスカの力になるかもしれない、と戦地へ送る。

 礼節を口実に、正妃としての地位を鴉威の者達に見せつけ、認めさせる。

 鴉威の伝統を重んじるイスカのために、彼が喜びそうな着物を縫い、鴉威の女達の顔を立て、イスカの立場にも配慮するという度量の広さも見せる。

 鴎花の全ての行動は、白頭翁に図り、練りに練ったものだった。

 あざとい? いや、痘痕面の偽物ならば、それくらいの手を尽くすのは当然だろう。

 イスカとこうやって二人きりで過ごす時間を守るためならば、鴎花は何だってする。


「翡翠姫にそこまで言ってもらえるのは光栄だな」


 冗談めかして笑ったイスカは、そのまま鴎花の首筋に手を伸ばして、抱きしめてくる。

 すると突然唸り声のような低い呼吸音が背後から聞こえてきて、動きを止めることになってしまった。

 はっと息を飲んだ二人は、それが白頭翁の鼾であることに気付き、顔を見合わせて笑ってしまった。


「まったく……王より高いところで眠るとは、図々しい奴だな」

「今なら小寿の寝台が空いています。運ばせましょうか」

「いや、このままでいい。今からピトとフーイを呼んでくるのも面倒だ」


 興を削がれたのか、イスカは鴎花を手放し再び床の上へ転がってしまう。そして大きく伸びをした。このまま眠るつもりなのだろう。


「それより、明日の朝飯は久しぶりにお前の作ったものが食べたいな。そうだな、豆腐がいい。あれを山羊の乳で煮て汁にしてくれ」


 豆腐は大豆を加工した、中原で好まれる食べ物の一つだ。

 もちろん鴉威の地にはない食材だが、イスカは気に入ってくれている。


「できれば、いつもより塩を多めでな」

「はい。かしこまりました」


 鴎花はくすりと笑って頷いた。少しばかり塩気を増やしたところで、鴎花の味付けがイスカの好み通りになることはないのだろう。

 それでもイスカは鴎花の手料理を食べたいと言ってくれる。

 それだけで十分満足だ。

 鴎花は自分の上着を持ってきてイスカに掛けてやった。それから燭台の明かりを消し、彼の隣へと寝そべる。

 こういう時に絨毯は良いと思った。床の上なのに、心地よく眠ることができる。

 イスカは闇の中で手を伸ばして、鴎花の体を引き寄せてきた。それ以上のことをする気は無くとも、彼の体温とその息遣いを肌で感じるだけで、鴎花の心はこれ以上ないほど満たされる。


「それと、お前の侍女の鴎花のことなんだがな」


 突然振られた話は衝撃が大き過ぎて、鴎花は一瞬で身を強張らせた。


「な、何か粗相でも致しましたか?」

「いや、アビが嫁にほしいと言っているんだ。いいか?」

「そ、それは……どうぞご勘弁くださいませ。鴎花は内気な娘ですから、応と言うはずも無く……」


 鴎花はしどろもどろに答えたが、内心ではそれ以上に動揺していた。

 どうしてアビがそんな申し出をするのか。

 彼は雪加こそが翡翠姫だと気付いているのだ。それなのに雪加を欲しがるなんて、この国の王となる資格を得たいと言っているようなものではないか。

 闇の中ではイスカも首をひねっていた。


「俺もあの女の何がいいのだか分からないんだがな。だがアビの言い方だと、二人はもう通じているようだぞ」

「ええ?!」


 あの誇り高い雪加が蛮族と蔑む男と通じるなんて、それこそありえない話である。

 一体どういう流れでそんなことになってしまったのか……イスカに抱きしめられながらも、鴎花の頭の中はますます混乱してしまうのだった。

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