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痘痕の翡翠姫  作者: 環 花奈江
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四章 福寿の花

一.

 テェン計里ジーリィはイスカの期待に応えた。

 預けられた米を惜しみなく的確に市場へ放出することで、値上がりしていた食料の価格を元の水準まで下げることに成功したのだ。

 そして玄武門の開放を定期的に行い、この後も食料などが滞りなく木京ムージンへ運び入れられるような工夫も提案してきた。

 必要なものは自給自足で調達してきた鴉威の民とは違い、彼は経済というものの仕組みをよく知っていたのだ。

 イスカは計里の地位を引き上げ、今後も木京の民のために働くよう命じたが、そんな彼は更に思いがけない功績も上げることになった。

 懇意にしている老人を紹介したのだ。


「今は隠居の身ながら、まつりごとにも宮中のことにも明るい御仁です。少しばかり変わり者ですが、陛下の求めておられる人材には近い気がいたします。お側に置かれてはいかがでしょう」

「ほう、元は何をしていた者なのだ?」

宦官かんがんです」


 宦官とは去勢された役人のことだ。

 去勢は鵠国フーグォにおいて宮刑という名の刑罰の一つであるが、この刑罰を受けると社会的には一人前の男子とみなされなくなる。ただし生殖能力が無いから男子禁制の後宮で働くことだけはできたのだ。

 計里の紹介で瑞鳳ルイフォ宮へとやってきた老人は、確かに髭を生やしていない中性的な顔立ちをしていた。

 そして計里が言うように変わり者らしい、というのは言葉を交わしてすぐに分かった。

 宮廷人としての礼儀はきちんと守ったものの、イスカに名を問われると「ふぉっふぉっふぉっ、名前なんぞ、遥か昔に忘れましたわ。そうですなぁ、この白髪頭ゆえ、白頭翁バイトウウォンとでも呼んでくだされ」と答えたのだ。

 そんな飄々とした態度ながら、後宮のことや、鵠国のしきたりなど、イスカが今までなんとなく疑問に思っていたことに対しては的確な答えを出してくれる。

 法律は文官達でも説明してくれたが、彼らは小難しい言葉で語るだけで、分かりやすくは教えてくれない。ざっくばらんに何でも教えてくれる白頭翁はイスカにとって得難い存在だったのだ。


「お前ほどの博識な者を登用しないとは、鵠国の皇帝の目は節穴か」

まつりごとを行えるのは士大夫のみ。儂のような不具者が表に立つことは許されておりませんのじゃ」


 髭の無い顎を撫でながら、白頭翁は仕方ないと笑っているが、恐らく悔しい思いもしてきたのだろうと思う。聞けば、宮刑を受ける前までは、有能な官吏として活躍していたそうだ。

 こうしてイスカの話し相手として出仕することになった白頭翁は、まず最初に翡翠姫への目通りを求めてきた。

 かつて後宮に勤めていた彼は、皇后の娘である彼女のことも当然知っており、どうしても会いたいと言うのだ。

 鵠国の臣下だったならばその希望は当然か、と思ったイスカはある日の午後、白頭翁を浮き島まで連れてきてやることにした。

 八仙花あじさいが赤や青の華やかな花を咲かせる中での訪問だった。

 もちろん、事前に王妃には伝えておいたから、彼女は最近仕立て直した翡翠色の絹の長衣に着替え、銀の簪と面布を身につけて白頭翁を出迎えてくれたのだが、この際の老人の反応はイスカの予想を超えるものだった。


「これはこれは……」


 白頭翁は王妃の姿を見るなり声をつまらせた。

 そして高貴な人に会えば、自ら名を名乗り、相応の問答をするのが礼儀であるはずなのに、全てをすっ飛ばして、彼女の手を握り、泣き出したのだ。


「なんと……姫様……お懐かしゅうございます」


 それはイスカだけでなく、王妃のすぐ後ろに控えていた侍女までが絶句してしまうほどの号泣ぶりで、当然のことながら、手を握られた張本人もうっかり後ずさるほどにうろたえていた。


「ご、ごめんなさい。私もまだ幼かったようで、そなたのことを何も覚えていなくて」

「さようでございましょうとも。この爺ぃめが後宮からお暇をいただいたのは十五年も前のことです」


 つまり王妃がまだ二歳かそこらの頃に会ったきりだったということだ。

 そのわりに感動しきりの白頭翁は、いつまでも王妃の手を握って離そうとしない。


「ご苦労なされましたなぁ、姫様」

「苦労など……陛下が良くしてくださいますので、不自由なく過ごさせていただいております」

「ほうほう……ではお幸せに過ごしておいでなのですな」

「はい」

「それはよろしゅうございました。爺ぃめは安心いたしました」

「……それくらいでいいか、白頭翁?」


 イスカは仏頂面で白髪の老人を引きはがした。

 嫉妬するというほどではないが、妻の手をよその男にいつまでも握られるのでは気分が悪い。

 もちろん相手は老人で、しかも宦官なのだから大目に見ているが、これがもしも若い男だったら、速攻首を切り落としていたかもしれない。

 一方、老人から離れることができた王妃の方も、安堵の吐息をそっと洩らしていることにイスカは気付いた。実質初対面の老人に手を握られるのは快いことではなかったのだろう。彼女の場合、痘痕があるだけに尚更だ。

 それでも彼女は乳姉妹である侍女に命じて茶器を用意させると、自ら茶を淹れて白頭翁をもてなした。

 鵠国では茶の栽培が盛んで、どんな時でもまずは一服、と茶を淹れる習慣がある。

 急須に乾燥させた茶の葉を入れ、そこに湯を注いで緑色の液体を抽出するのだが、苦みの中にほのかな甘みのある飲み物だ。

 北の大地で生まれ育ったイスカは当然こんな飲み物を知らなかったが、最近ではこの浮き島へ帰ってくると、まず王妃の淹れた茶を飲むのが習慣になっていた。

 王妃は華人でありながら山羊の乳を食してくれるのだ。イスカも華人の文化に少しは親しみたいではないか。


「おおお。あの幼かった姫様に茶を淹れていただける日が来るとは……ありがたいことです」


 感謝しきりの白頭翁は、侍女が出す茶菓子には目をくれず、翡翠色の湯から立ち上る湯気と香りを満喫していた。

 そしてたっぷりと時間をかけて茶を飲み干した後、茶器をひっくり返して弄り始める。


「ふうむ。これは燕宗イェンゾン陛下の作られた茶器ですな」

「ほう。分かるのか?」

「陛下は陶器の淵の曲線をいかに美しく仕上げるかにこだわっておられましてな。この通り、おなごの尻のように滑らかな触り心地に作っておられるのが特徴なのです」

「……お前は本当に宦官なのだな?」


 思わず赤面する王妃の隣で、イスカは呆れた声を上げた。

 一般的に宮刑を受けた者は男としての劣情を失うのに、この老人の嗜好はその常識を越えてくる。


「ふぉっふぉっふぉっ。儂はとにかくおなごが好きでたまりませんのじゃ。その点、後宮は理想的なところでしてな。右を向いても左を向いても佳きおなごばかり。一体誰の尻から触ろうかと、目移りするほどで」

「……お前がどうして隠居させられたか、よく分かった」


 イスカは頭を抱えた。白頭翁は今年で七十二歳になるという。ならば十五年前は五十七歳。

 これだけ元気なら隠居話なんて上がるはずもなかったのに、きっと当時もこの妙な性癖が足を引っ張ったのだろう。


「そういえば、宮刑になった理由も、後宮の女官絡みでしたかな」


 本来宮刑とは恥ずべきものであり、士大夫ならば刑の執行前に自ら死を選ぶほどなのだが、過去の話であるためか、本人も懐かしそうに笑いながら教えてくれた。


「いやはや、昔から佳きおなごを前にすると、例え皇帝陛下の御前でも辛抱ができませんのじゃ。気がつけばつい手が伸びましてのぉ」


 白頭翁の言葉に、けたたましい音が重なった。

 飲み終わった茶器を下げていた王妃の侍女が、盆ごとひっくり返したのだ。

 突然のことで男達がたじろぐ中、王妃は間髪入れず、侍女に対し厳しい声を上げた。


「表に出ていなさい!」

「……」

「いいから、早く!!」


 こちらに背を向け、俯いたままその場に立ち尽くしていた侍女は、王妃に追い立てられるようにして家の外へ出された。


「……申し訳ありませぬ。失礼をいたしました」


 粗相をした侍女を追い出して戸を閉めた後、王妃は頭を下げて謝り、床の上に散らばっていた割れた陶器を片付け始めた。

 その辺りを走ってきたかのように彼女の肩は激しく上下していて、ひどく興奮状態にあることがイスカにも伝わってきた。

 白頭翁も僅かに目を細めると、そんな彼女と一緒にしゃがんで、その破片を拾い集める。

 そして慰めるように彼女に申し出たのだ。


「燕宗陛下の作られた茶器がこの爺ぃめの手元にございます。景徳ジンデェア寺へお供した折にご下賜いただいたものでしてな。今度お持ちしましょう」

「そういうわけには……」

「姫様にお使いいただいた方が、陛下も喜ばれましょうから……あぁ、これからはもう妃殿下とお呼びしなければいけませんでしたなぁ」


 白頭翁は過ぎ去りし時の流れを噛み締めるように、顔を皺だらけにして微笑んだ。

 こうして白頭翁は再度の来訪を約束して、名残惜しげに帰っていった。

 それを見送ったイスカは、今日はもう表宮へ戻らず、このままここで過ごすと言った。表宮へ今から戻るのも面倒だったのだ。

 王妃はそんなイスカの為にお茶を淹れ直してくれた。

 茶器は元々五個で一組。割れたのは二個だけだから、新しいものを出してくれば間に合う。

 王妃は茶を淹れるのが上手だ。

 作法なんてイスカには知る由もないが、彼女が茶を注ぐ手付きは綺麗だと思う。優雅で優しげで。イスカはそれを眺めていたくて、茶を飲んでいるのかもしれない。

 二杯目は透明感のある琥珀色の液体が出された。彼女はイスカが飽きないように茶葉を変えてくれたのだ。


「珍しいな、お前が声を荒げるのは」


 先程とは違う、燻したような香りに目を細めたイスカは、王妃もまた自分用の茶を淹れて座ったところで、おもむろに話しかけた。

 温厚な彼女が乳姉妹にも優しく接しているのをイスカは知っていた。臆病で人前に出るのが苦手だという侍女を庇うような素振りも、これまでは多かったのだ。

 それがあれほどまでに怒る姿は、イスカも初めて見た。

 お見苦しいところを、と恐縮しつつも、彼女は手元の茶器をじっと見つめながらぼそりと呟く。


「これは陛下の……父上様の作られたものでしたから」


 この茶器は伽藍ティエラ宮の棚の奥から出てきたものだった。年始の変の混乱の中でも欠けることなく、一式が揃っていたのはこれだけだったのだ。

 王妃の父帝への想いに触れ「……そうだったな」とイスカが僅かに目を伏せて頷いた時、外からメェ~という間の抜けた鳴き声が響いてきた。


「元気そうだな」


 重くなりかけた雰囲気を打ち払ってくれた山羊に、イスカは思わず頬を緩める。


「はい。毎日一緒に散歩ができて私も楽しいです。あの子は伽藍宮の草を食べてくれるので、庭の手入れにもなるのですよ」


 彼女が喜んでくれるとイスカも嬉しい。

 鴉威の習慣を学びたいがために飼ってくれているのならなおさらだ。

 母の織った絨毯の上に座り、王妃の淹れた茶を飲みつつ、山羊の鳴き声を聞く……鴉威の民と華人が程よく入り混じったこの空間がイスカには心地よい。


(……こんな穏やかな日々が続けば良いな)


 しかしその願いも虚しく、この翌朝、母山羊は小屋の中で口から泡を吹いて冷たくなっていたのだった。


二.

 母を失った仔山羊はそれはそれは寂し気に鳴く。

 代わりの乳は厨房裏の厩舎にいた別の山羊から貰っているし、それでも足りない時には羊の乳を搾って飲ませているから腹は満たされているのだろうが、獣にだって食欲だけでは埋められぬものがあるのだ。

 哀愁を帯びたか弱い声を聞くたびに、鴎花オウファの胸にも悲しさがこみあげてくる。

 昨日までは何も無かったのだ。

 仔山羊も連れての散歩をあの子も楽しんでいた。草もよく食べていたし、乳も豊富に出ていた。

 自分の世話の仕方が悪かったせいだろうか、と鴎花は気に病んでいた。

 立ち尽くしている鴎花と共に遺骸を確認したイスカも「これは何か悪いものを食べたのかもしれないな」と言っていたのだ。

 悪いもの……そういえば、山羊が雑草を食べてくれるから、わざわざ草むしりをしなくても伽藍ティエラ宮の庭園が綺麗になる、と言って、鴎花は何でも食べさせてしまっていた。

 あれがいけなかったのだろうか。庭園の中に山羊が食べてはいけない草が混ざっていたのかもしれない。

 それならば今後、残された仔山羊にどんな草を食べさせたらよいか、考えねばなるまい。今はまだ乳しか飲んでいないが、このところ草を食べようとする仕草が見られる。母山羊の死を無駄にするわけにはいかない。

 いろいろ考えているうちに一日が終わってしまった翌日、浮き島へ白頭翁バイトウウォンが訪ねてきた。

 約束していた茶器一式を早速持ってきてくれたのだ。


「妃殿下におかせられましてはご機嫌麗しゅう。天帝ティェンディのご加護が今日も妃殿下の上にあらんことを」


 型通りの挨拶をする老人に鴎花は薄く微笑んで応じた。本当は麗しいどころの心情ではないのだが、この老人に八つ当たりしても仕方が無い、と自制する。

 そんな鴎花に白頭翁は優しい笑みを向けた。


「さてさて、この爺ぃめは茶器以外にも持って来たものがありましてな」


 白頭翁は二冊の本を鴎花に手渡した。

 本来なら高貴な身分の者に直接品物を手渡すことはできず、間に取次の女官が入るところだが、今日は雪加シュエジャを最初から同席させていなかったので、鴎花は白頭翁から直接受け取る。


「妃殿下が山羊の食する草について知りたがっておられると昨日、陛下から聞きまして、家にあった本を持ってまいりました。一つは家畜を育てるための指南書です。そしてもう一つは本草書。つまり薬草の辞典ですな」

「薬草、ですか?」


 鴎花が問い返すと、白頭翁は頷いた。


「さよう。薬は処理を間違えたり量が多すぎたりすれば毒になります。そして薬になる草には、美しい花を咲かせるものもありましてな。かような宮殿で栽培されることも多々あるのです」

「例えばどのようなものがありますか?」

「そうですなぁ。伽藍宮の庭園ですと、儂がおりました頃にはこの辺りが……」


 そう言って白頭翁は本草書を開き、十種類くらいの植物の名前を教えてくれた。

 桃や杏の種、さらには蜜柑の皮すら薬になるのだと聞いた時には驚いたが、その辺りの草陰で適当に生えている蕺草ドクダミなども薬であるらしい。


「しかしまぁ、蕺草ドクダミは臭いので山羊も滅多に食べますまい。それに食べてしまったところで死ぬほどのことはありませぬ。今が盛りの八仙花にも毒性はありますが、同じく死ぬほどではありません」

「ではどのような植物なら死んでしまいますか?」

「毒性の強さならば、鳥兜トリカブトや福寿草などでしょうか。どちらもごく少量ならば心臓の薬になりますが、量が多ければ人でも死に至ります」


 福寿草とは黄色い小さな花を群れて咲かせる、非常に愛らしい植物だ。花をつける時期が年明けすぐなので、福寿の名を与えられ、縁起のいい花として知られる。

 鳥兜という植物のことはよく知らなかったが、福寿草なら鉢植えになっているものを見たことがあるな、と鴎花は思い出した。

 そうだ。新年の縁起物として燕宗から雪加に下賜されたことがあったのだ。

 燕宗は娘に自作の壺を贈りたがっていたが、雪加から「いつも壺ばかりをいただくのでは置き場所に困ります」と冷たく言われてしまったものだから、渋々植木鉢を焼いたことがあった。

 その鉢の中に咲いていたのが福寿草だった。

 とても小さく、可憐な花だったのを覚えているが、本によると今の時期は花を落として葉と茎だけになっているようだ。もしかして伽藍宮の庭園にも生えていたのに、花が無いからそれが福寿草だと気付かなかったのだろうか。


「分かりました。ありがとう、白頭翁。これを読んでもう少し考えさせてもらいますね」

「……最後に一つだけ」


 老人はつと膝を進めると、歯の無い口をフガフガ言わせながら鴎花に近づいた。


「四、五日前に女官が一人、伽藍宮の裏手を歩いていたそうです」

「え?」

「あの宮は今、鴉威ヤーウィの兵士らの宿舎となっております。そんなところへ華人ファーレンのおなごがわざわざ来るなんて珍しいことだと鴉威の者達も申しておりましてな」

「……」

「それでは妃殿下、失礼いたします」


 大いに固まってしまう鴎花を残したまま、白頭翁は深々と頭を下げて退出したのだった。



***

 午前中は白頭翁に貸してもらった本を読んでいた鴎花だったが、午後になると仔山羊の散歩に出かけた。今日の供はフーイと組んで橋の袂に詰めているピトという兵士で、まだ若いのだが戦傷によりいつも左足を引きずっている。この怪我があるので、あまり動かなくても良い王妃の警護兼見張り役になっているらしい。

 そんな足の人を歩かせて申し訳ないのだが、鴎花は母山羊を連れて回った伽藍宮の庭園を、時間をかけて調べ直した。

 本草書によると、確かに福寿草の毒性は強いらしい。

 蕗薹ふきのとうによく似ているから、人間でも気付かず食べてしまうこともあるのだとか。

 しかし庭園の中には、どれだけ探しても福寿草らしい草は見つからなかった。

 草むらの中を探し疲れた鴎花がふと顔を上げれば、白い漆喰で塗り固めた高楼が赤い光で染まっているのが見えた。

 そろそろ夕方だ。浮き島へ帰らねばならない。

 今日の夕飯作りは小寿シャオショウに一切を任せており、後で届けてくれるように頼んでいるから心配いらないが、鴎花がいない間にイスカがやって来れば、雪加と二人きりになってしまう。

 このところ、雪加と鴎花の仲はギクシャクしていた。

 計里ジーリィに手ひどく裏切られたのが、雪加には堪えたらしい。

 計里も二階にまさか本人がいるとは思っていなかったのだろうが、『きみきみたらざれば、すなわしんしんたらず』という理由で彼が雪加への忠誠心を失ったのだときっぱり言われてしまえば、それは確かに心が折れるかもしれない。

 計里やアビが退出し、居眠っているイスカに気付かれぬよう雪加を一階へ降ろそうとして鴎花は梯子をかけたが、その時の彼女は、これまでに鴎花が見たこともない雰囲気だった。

 何をするにも直情的な彼女が泣くでもなく、怒鳴り散らすでもなく、ただ眉間に皺を寄せたまま、青白い顔をして座っていたのだ。

 鴎花が声をかけても応じることはなく、この後はイスカの前ですら不貞腐れた態度を取るようになった。

 おかげで鴎花もその不遜な態度を誤魔化すのに苦心し、主君である彼女に対し、苛立つことが増えてしまったのだ。

 関係悪化に拍車をかけたのは二日前、白頭翁が初めて訪ねてきた際のことである。

 後宮のことを知っている宦官が訪ねてくると分かった時には、さすがに二人ともが危機感を覚え、協力して臨むことに決めたはずだった。

 だから鴎花は華やかに着飾り、逆に雪加は地味な着物で化粧も控えめにした。

 装いに差をつけることで鴎花に翡翠姫らしさをもたせようとしたのだが、やってきた宦官は十五年も前に後宮を去っていた人物であると判明し、そのおかげで翡翠姫の入れ替わりにも全く気付かれなかった。

 鴎花は大いに胸をなでおろしたものだが、雪加はこの時、気付かれないことに対し逆に不満を覚えてしまったらしい。

 鴎花は痘痕面なのだ。顔は面布で隠せても、手の甲にも首筋にも痘痕は浮いている。

 それに対して侍女を務める雪加は、美しい顔を惜しげもなく晒しているのだ。侍女の方が高名な翡翠姫に相応しいではないかと察してくれてもいいものを、と思ったようだ。

 そしてその苛立ちは白頭翁が、佳きおなごがいれば手出しを我慢できない、と話したところで頂点に達してしまった。

 あの発言は裏返せば、雪加では手出しする気にもならない、と言っているようなもの。

 もちろん雪加だって、皺だらけの宦官に好かれたいわけではなかったはずだ。ただ、美しさを誇る彼女にとって己の美貌を無視されたのは耐えがたい屈辱であり、彼女は咄嗟に、その怒りを手元の茶器にぶつけてしまった。

 イスカと白頭翁はその辺りの背景に全く気付いていなかったから、茶器が割れたことにただ驚くだけだったが、鴎花だけはこれは危険だとすぐに見抜いた。

 このままでは怒りで我を忘れた彼女が何を口走るか分からない。だからこそ強い口調で雪加を外へ追い立てたのだ。

 イスカはその日、白頭翁が帰った後も浮き島にとどまって夜を明かしたので、雪加と二人きりで話をする機会を持てたのは翌朝だった。

 その時にはもう山羊が亡くなっており、鴎花は強い衝撃を受けていたのだが、雪加はこれを冷ややかな目で嘲笑ったのだ。


「これで臭くてうるさいのが居なくなったのじゃ。めでたいことではないか」

「姫様が殺めたのですか?!」


 鴎花は我慢しきれず語気を強めてしまった。

 確かに鴎花は雪加を外へ追い出した。そして雪加に対して怒っていた。父帝が心を込めて作った茶器を感情の高ぶりに任せて割ってしまうなんて、なんという親不孝だろうか。

 しかし鴎花なんかに叱られて、雪加は面白くなかっただろう。

 そんな彼女の前に山羊がいた。

 鴎花が可愛がっている山羊。

 雪加が大っ嫌いな山羊。

 それでも抵抗できない山羊を殺すなんて、あまりにひどいではないか。

 しかし怒り心頭の鴎花に対し、雪加は翡翠姫と呼ぶにふさわしい、美しくも艶やかな笑みを浮かべたのだ。


「証拠でもあるのかえ? 主を真っ先に疑うとは性根の曲がった侍女もおるものじゃ」


 鴎花は押し黙った。

 言い方は感じ悪かったものの、雪加の言い分にも一理ある、と思ったのだ。

 むやみに人を疑うよりも、まずは鴎花自身が山羊に悪いものを食べさせてしまった可能性を考えるべきか。

 そう思ったからこそ、鴎花はそれ以上雪加を追求せずに、この日は一日かけて、山羊の糞や寝藁などを調べ、おかしなところがないかを探ってみた。

 しかし翌日になって白頭翁の話から、雪加がかつて住んでいた伽藍宮に出入りしていた可能性を知り、やはり最初に感じた疑念が正しかったのだと、鴎花は今、確信に近いものを感じている。

 念のため伽藍宮の庭園を探してみたが、福寿草は見つからない。やはり雪加がかつて住んでいた伽藍宮で植木鉢を見つけ、その中の福寿草を山羊に食べさせたとしか思えなかった。仔山羊はまだ草を食べられないから殺されずに済んだのだ。

 福寿草には強心作用がある。

 中毒量を摂取してしまった場合に起こるのは、吐気、めまい、頭痛。そして心臓麻痺で痙攣を起こしながら命を落とす。

 しかし母山羊の死体だけでは死因までが分からず、本当はもっと決定的な手がかりがほしいところだった。例えば燕宗が作った植木鉢とか、福寿草の切れっ端とか。

 しかし例えそういうものが揃ったところで、その時に鴎花はどうすればいいのだろう。

 主君に罪を突きつけることなど、できるのだろうか。

 鴎花の忠誠心は霍書フォシュを読み、そして母から教わったものだ。

 母の秋沙は雪加を我儘放題に育てるツェイ皇后に困り果てつつも、大切なご主君だからと従順な姿勢を崩さなかった。

 そんな母を見ていた鴎花には、主への絶対服従こそが当たり前のことで、だから雪加がどんな振る舞いをしようともこちらが耐えればよいのだと思ってきた。

 しかし今の雪加は常軌を逸している。

 今はとにかく早く浮き島に帰ろう、と鴎花は思った。イスカと雪加を二人きりにして、いいことなんて一つもないのだ。


三.

 鴎花オウファが夕陽と共に伽藍ティエラ宮の池の前まで帰ってきた時、ちょうど詰所から去っていくアビの背中が見えた。

 従者が単身で帰っていくということは、その主はもう浮き島へ行ってしまったに違いない。

 付き添ってくれていたピトと詰所前で別れた鴎花は、大急ぎで橋を渡った。こんな時に限って仔山羊が気儘に草の匂いなどを追いかけて立ち止まるから、面倒になって抱き上げる。

 気持ちばかりが急いて、足にがまとわりついた。

 遠くまで行ったわけではなかったのに、思った以上にピトの足の具合が悪くて、ここまで戻るのに時間を食ってしまったのだ。早くしなければ、雪加シュエジャが何をやらかすか分かったものではないのに……。

 しかし橋を渡っている間に、浮島にある家の扉の前に雪加がしゃがんでいる姿が見えてきたのだ。


「姫様……」


 彼女はなんと、七輪で湯を沸かしているところだった。

 一応、雪加もその使い方は知っている。皇女が火を使えてその侍女が何もできないのでは不自然だから、鴎花が無理矢理に教えたのだ。

 しかし実際に彼女が湯を沸かすことは、これまで皆無だったわけで。


(……それが何故?)


 イスカに茶を淹れてもてなすために?

 いや、イスカを僭王と蔑む雪加が、彼のために動くなんてありえない。

 一瞬緩みかけた気持ちを引き締め直した鴎花がそっと近づくと、気付いた雪加が振り返った。


「もう来ておるぞ」


 彼女は主語を省くかわりに、家を指さして言う。

 美しくも淡々としたその表情からは、彼女の意図が読みきれない。

 不安な気持ちを抱えつつも追及しきれないのがもどかしいが、鴎花は慇懃に頭を下げた。


「戻るのが遅くなって申し訳ありませんでした。姫様が湯を沸かしてくださったのですね。ありがとうございます」

「そなたはその山羊を、早う片付けて参れ」


 中にいるイスカに聞こえてしまわないよう小さな声ではあったが、雪加は「獣臭くて堪らぬわ」と吐き捨てるように言った。彼女はとにかく山羊が大嫌いなのだ。


「失礼いたしました」


 鴎花はもう一度頭を下げると、まずは仔山羊を抱きかかえたまま、家の脇にある小屋へと連れて行った。

 浮島に余計な土地が残っていないので、山羊小屋は鴎花達の住む家に寄り添うようにこじんまりと作ってもらった。それでも仔山羊が一匹で暮すには十分な広さで、雨風を防ぐための屋根もついている。

 鴎花は仔山羊を下ろすと、閂を外して木製の戸を開けた。

 途端に小屋の中からは雪加の嫌う獣臭が溢れ出てくる。

 ついでに蠅も飛んできたから、追い払おうと手首を閃かせた鴎花だったが、その時、小屋の床に敷き詰めた寝藁の隅に青白色の器が置かれていることに気付く。今朝、掃除をしたときにはなかったものだ。


(これはまさか……?!)


 鴎花は身をかがめて小屋の中に入ると、器を手に取った。

 この感触……間違いない。燕宗イェンゾンが雪加に贈った植木鉢だ。鴎花も傍らにいて、かつて目にしたことがある。

 両の手のひらから少し余るくらいの大きさの植木鉢は、側面には唐草模様が描かれていた。そして縁の辺りは、白頭翁なら間違いなく女性の尻のようと表現するであろう、滑らかな丸みを帯びている。

 更に植木鉢の中に入っていた土には、何かを抜き取ったかのように、真ん中にくぼみができていたのだ。


(……!!)


 植木鉢を覗き込んだ鴎花の脳裏には、まさに最悪の光景が浮かんでいた。

 喉元を押さえたイスカが苦しみ悶えながら、倒れこむ。

 それを冷たい目で見下ろす雪加と、床に転がった茶器。その中に僅かに残った翡翠色の液体には、細かく刻んだ福寿草の粉が入っていて……。


「!!!」


 鴎花は声にならない悲鳴を上げた。その瞬間、うっかり屋根に頭をぶつけてしまうが、その痛みも感じない。

 鴎花の背後では仔山羊が黒目がちな瞳で見上げていた。何が起きたのかと不思議に思ったのだろう。

 しかし鴎花はそんな仔山羊を無視し、閂を掛け直すこともしないまま、家に向かって一目散に走り出したのだった。

***

 血相を変えた鴎花が、皇女らしさのかけらもない荒っぽい所作で戸を開けた先では、イスカが絨毯の上で普段通りに胡座をかいて座っていた。

 雪加はそんなイスカの前で膝をついている。

 侍女として振る舞う彼女の膝前には、盆に載せた茶器一式があった。

 これは午前中に白頭翁から譲ってもらった茶器である。意匠を何も刻み込んでいない琥珀色の器は、その分表面の滑らかさに拘った作品で、盆の真ん中には急須も置かれていた。中にはもう茶が入っているはずだ。

 広くもない部屋である。慌てていた鴎花は声を発するより先に、眼前の茶器に飛びついた。

 しかし盆ごと奪い取るつもりが、勢い余って急須が横倒しになり、こぼれた茶に驚いたイスカが飛びのく。


「のわっ?!」


 茶の飛沫は鴎花の手にも飛び散ったが、全く熱さを感じない。

 そんなことよりも茶があまりに濃い色であることに驚いた。透明感のある翡翠色のはずが、濁って見える。

 普通はここまで濃く淹れないものだ。雪加は茶葉を増やすことで福寿草の味を誤魔化そうとしたのだろうか。

 何はともあれ、イスカが口にする前に制止できて良かったが……。


「これはどういうことだ、雪加?!」


 偽りの名で叱責されたことで、興奮状態にあった鴎花の頭は突如として現状を理解した。

 鴎花の今の行動は、イスカの為に用意されていた茶を横合いからなぎ倒してまで飲ませなかった、というものになる。

 それが意味するところは……。


「まるで毒でも入っていたかのようだな」


 唸るような低い声が耳に届き、背筋を凍りつかせた鴎花は、茶器一式を抱え込んだまま平伏する。

 床に頭をこすりつけるようにして「失礼をいたしました」と詫びたが、この時にはもう、イスカは雪加の手首を容赦なくひねり上げていたのだ。


「!」

「つまり、この女がその茶に毒を入れたんだな?」

「そ、そんな……毒見もきちんとしておりますのに、毒なんて盛るはずがありません」


 雪加を解放してもらおうと、鴎花はおろおろしながらイスカに縋りついた。

 別に間違ったことは言っていない。

 普段から鴎花が作った食事は一旦、ピトとフーイに預けて毒見を受けているし、それが叶わない……例えば茶を淹れた場合などには鴎花自身が彼の目の前で少しばかり口に含み、毒見の代わりをしている。雪加も鴎花さえ邪魔しなければ、自分の口で毒見をしたはずだ。

 まだ世継ぎも定まっていないイスカは、自分が倒れると鴉威が崩壊することをよく理解していて、それだけに食べ物の安全管理には気を使っているのだ。


「だが、あの慌てぶりは普通じゃなかったぞ」

「この者は私の侍女です。陛下に仇なすはずがありませぬ」

「お前にその意図がないことは分かっている。だが、こいつはこれまでも俺に対して、悪い態度を取っていた。華人として、俺のことがよほど気に入らぬのだろう」

「め、滅相もありませぬ。私はただ……この者が古くなった方の茶葉を使ったのではないかと疑って、そんなものを陛下のお口に入れてはいけないと、つい慌ててしまっただけで……」


 鴎花は必死に言い訳してみたが、イスカは全く信じてくれない。彼の逞しい腕は雪加の手首をひねり上げたままだ。

 このままでは、いつ腰間の長剣を抜き、その首を刎ねてもおかしくない。

 あぁ、ここに来て雪加の日頃の態度の悪さが響くとは。

 確かに鴎花はイスカからの信頼を勝ち得ている実感があるが、彼にぞんざいな態度をとる雪加の心象が悪いのは当然のことだった。

 それでも今までお咎めがなかったのは、鴎花の乳姉妹だから大目に見てもらっていただけのこと。

 鴎花がどれだけもっともらしく言い訳したところで、イスカが聞き入れてくれるはずはなかったのだ。

 なんとかして、これが毒ではないと証明しなければ……いや、違う。ここまで来たら、毒だという証拠自体を消さねばならない。

 鴎花は盆の上で倒れていた急須を掴んだ。

 蓋は絨毯の上でひっくり返っており、ちらと覗き込むだけでその中を見ることができる。

 元々一杯分のお湯しか入っていなかった上に、こぼれてしまったため、液体部分は殆ど残っていない。だが、濡れた茶葉だけは急須の底に張り付いていた。

 この出涸らしの中に福寿草が混ざっていたら……。

 鴎花は敢然と顔を上げ、イスカに甲高い声で訴えた。


「陛下、お気を鎮めてくださいませ。所詮、古くなって味が悪くなっただけのことです。誤って飲んでしまったところで体に害はありませぬ。その証拠に、ほら」


 悩んでいる暇は無かった。

 鴎花は急須の中に指を入れ、掴んだ茶葉を一思いに頬張ってしまう。

 しかし舌の上に乗せた瞬間、苦味の中にピリっとした刺激のようなものを感じた。その直後、心臓が暴れ馬のごとく、ドクンと跳ね上がる。

 本草書には、福寿草は強心剤だと書いてあった。

 鼓動の弱っている心臓を、強くする薬。

 つまり飲みすぎると心臓が必要以上に強く脈打ち、嘔吐、頭痛などの諸症状が現れ、やがては……。

 脳裏に浮かんだのは、口から泡を吹いて倒れていた白い山羊の姿だった。


(私もあれと同じに……!)


 喉の奥から込み上げてくる恐怖が、茶葉を押し戻してくる。飲み込んではいけない、と体自身が拒絶しているようだ。

 しかしこの茶葉こそが、福寿草が入っていた決定的証拠になってしまうのだ。雪加の罪を証明するものを、現場に残す訳にはいかない。

 口中に詰め込んだ固くて苦くてゴワゴワした茶葉を、鴎花は強引に飲み下した。

 しかしその次の瞬間、雪加を突き飛ばしたイスカが、鴎花の喉元を掴んできたのだ。


「馬鹿!! やめるんだ!!」


 咄嗟に鴉威の言葉で叫んだ彼は、鴎花が飲み込むのを防ごうとしてくれたのだろう。

 しかし一歩遅かった。

 それを知ると、イスカは鴎花の手を掴み、猪の如き勢いで家の外へと連れて行った。


「吐け!」


 イスカは鋭い口調で命じると同時に、鴎花の背中を強打した。

 しかしいくらイスカの命令であろうとも、これだけは聞けない。

 雪加を守らなければ……主君への忠義心を当然として育てられた鴎花にとって、これは疑う余地のない使命なのだ。

 なんとかして吐かせようと口の中に指まで突っ込んでこようとするイスカから逃れ、鴎花は無理矢理に微笑んだ。


「問題ありませんよ、陛下。毒など元々入っていないのですから」

「だったらその汗はなんだ!」


 イスカに指摘されたことで初めて気付く。

 なんと。まるで全身を覆う痘痕の一つずつから体液が滲み出ているかのような、大量の汗をかいていたのだ。


「こ、これは……」


 己の体の異変を目の当たりにして愕然とし、言葉も出なくなった鴎花は、そのまま胸を押さえてうずくまった。

 唐突に、異様な動悸が襲ってきたのだ。

 手足の先が痺れ、呼吸も荒く早くなるのも分かった。

 息を吸っているのに吸い込めないような感覚。陸地にいながら溺れてしまったのだろうか。

 これはいけないと焦れば焦るほど体の自由は奪われ、視界が朦朧としてくる。


「おい、雪加!!」


 しっかりしろ、とイスカが背中を抱えてくれたのは分かった。

 しかし鴎花は直後に意識を手放し、彼の腕の中へと倒れ込んだのだった。



***

 鴎花が次に目を覚ました時には、知らない天井の下にいた。

 今は夜なのだろうか。暗い部屋の中にいた鴎花の頭の脇では燭台の灯りが揺れていた。おかげで螺鈿細工を駆使して天井に描かれた、空を舞う龍の姿もまた、揺れて見えた。

 天井にまでこんな立派な絵を描いてしまうということは、やはりここは瑞鳳宮の中なのだろうと、目覚めたばかりのもやのかかった頭で考える。

 そういえば寝かされている寝台もこれまでになく立派なもので、白い綿布団も心地いい。

 どうやら鴎花のために手厚い看病が行われていたことは、すぐ側に医者らしい服装の男がいたことからも察せられた。


「妃殿下?! お気づきになられましたか?!」


 甲高い女性の声が降ってきた。

 小さくない体を揺らして鴎花の顔を覗き込んでくるのは、いつも料理を教えてくれる下女のリン小寿シャオショウだ。


「小寿……?」

「夕飯を届けに来たら、妃殿下が倒れられたっていうんですもの。びっくりしましたよ。でも気がついて良かったです。すぐに陛下を呼んできますからね。心配しすぎてかえってうるさいんで、一旦隣室へ移ってもらったんですよ」


 彼女の言うように、イスカは鴎花を案じ、隣室に控えてくれていたようだ。

 小寿が部屋を出ていった直後、間を置かずにやってきたイスカは、むしろ彼の方が倒れていたのではないかと思うほど憔悴した表情に見えた。


「お前は馬鹿か! どうしてこんな無茶をした!」

「陛下……」


 叱られているのに布団の中から見上げるこの人の瞳はやっぱり綺麗な蒼色だなぁ、と鴎花は不届きなことを思ってしまう。

 そして、少しずつはっきりしてきた頭で状況を考えた。

 鴎花はイスカの前で倒れたのだ。命が助かったのは良かったが、あれから一体どれくらいの時間が経っているのだろう。

 そして、何よりも……。


「あの……鴎花はどこに?」


 鴎花の問いかけに、イスカは切れ長の目をついと細めた。

 しまった。これだけ心配をかけておいて最初に問うのがそれなのかと、不審に思われたに違いない。

 鴎花は己のしくじりに気付いたが、それでも問わずにいられなかったのだ。


「私が倒れてしまって、気に病んでいると思うのです。ここにいないようですが、あの子はどうしていますか?」

「浮き島に閉じ込めてある。あれが毒だと確証を得ることができたら首を刎ねるつもりだ」


 だが今のところ証拠が見つからない、とイスカは言った。


「僅かに残っていた茶葉や茶を調べさせたが何もおかしなものは出てこないし、茶器を犬に舐めさせてみても何ともならない。医者が言うには、お前の体にも毒の形跡は無くて、単に興奮し過ぎただけだろうと……まぁ、こうやって一刻(2時間)も経たぬうちに気がついたんだから、その通りなのかもしれないが」


 話をしつつも納得がいかないようで、イスカは憮然とした様子だった。

 そんな彼を前にして、鴎花は内心の驚きを表に出さないようするのが精一杯である。


(まだ一刻も経っていない?!)


 しかし鴎花の身体はなんともないのだ。あれほど激しかった不自然な動悸も、呼吸の乱れも露と消えている。

 福寿草の毒とは、そんなに早く消えるものなのだろうか?


「そうでしょう。ですから私は毒ではないと最初に申し上げました」


 腹に力を込め、なんとか微笑んだ鴎花は、自分の体の調子を確かめるためにも寝台から起き上がった。イスカがすかさず手を伸ばして支えてくれるが、それも必要が無い程に頭も体もしっかりしている。

 そんな鴎花の様子にイスカも深い安堵の吐息を漏らしていたが、それならそれで逆に芽生える疑問もあるわけで。


「だが、あれが毒でなかったのなら、お前が倒れるのはおかしいだろ」

「陛下の剣幕を見ていたら、今にも鴎花が殺されてしまいそうだったので慌ててしまったのです。それだけのことです」


 なんと白々しい嘘を、もっともらしい口調で並べるものなのか。

 自分の口がつらつらと紡ぎ出す言葉にこそ、毒が盛られているのかもしれない、と鴎花は思った。胸が痛くなる。

 なのにイスカは鴎花の隣に腰を下ろすと、そんな嘘つきの手を両の手で挟み、拝むようにして握りしめてくれるのだ。


「あのな、あまり心配させないでくれ。お前は痘痕のせいなのか、どうも自分を軽んじる傾向がある。だが、お前を大事に思っている者がいることも分かってほしい」

「陛下……」


 イスカの大きな手は、鴎花の手の甲に浮かぶ痘痕すら愛しげに包み込んでくれていた。


「それにお前には俺の世継ぎも産んでもらわなきゃならないんだからな。体を壊されたら困る」


 そのために大事にしている、と言われているようにも聞こえるが、それは彼の照れ隠しであろう。

 愛しさが溢れて堪らなくなり、吸い寄せられるようにイスカの胸に顔を埋めると、彼もまた鴎花の頭にそっと顔を寄せてくれる。


「それで……あの女はお前の何なのだ?」


 あぁ、ここでそれを聞いてくるのか。

 鴎花の心が柔らかく蕩けた瞬間を狙って、一番の疑問点をぶつけてくるとは、彼の話術の巧みさには恐れ入る。

 おかげで鴎花はイスカの胸から顔を上げるまでに、不自然過ぎる間を取ることになってしまった。


「…………乳姉妹です。私にとっては姉妹同然の娘です」

「……」

「至らぬところがあるとは存じておりますが、これからもどうぞ大目に見てやってくださいませ」

「お前がそう望むのなら聞いてやりたいが、これからも怪しい行動をしないとも限らぬしな……まぁいい。処分は明日以降に決めよう。今日はもう休め」


 イスカは、果断即決を信条とする彼には珍しく、何も決めないまま寝台から立ち上がった。

 そして鴎花をもう一度布団の中に寝かせる。


「今夜は隣室に医者を残しておく。何かあったらすぐに言え。それとこの女もつけておくから、身の回りのことは全部やらせろ」


 イスカは部屋の隅にいた医者と小寿を指さして言うが、医者はともかく、彼女はいけない。


「しかし小寿は通いの務めなので、早く家へ帰らせないと」


 窓の外はもう暗い。

 食事を届けに来ただけの小寿を巻き込んでしまったが、母であり妻である彼女の帰宅を、今頃五人の子供達と夫が待ちわびていることだろう。

 しかし小寿自身は大丈夫ですよ、と大きな口を開けて笑った。


「家には使いを送ってもらいましたから、心配いりません。あの子らはしっかりしていますし、うちの働かない亭主にも、こんな時くらいは役に立ってもらいましょう」

「そういうことだ。お前も気心の知れた華人が側にいた方が落ち着くだろう。この女の方がよほど侍女として有能だしな。とにかく今日は何も考えずに寝ろ。明日の朝、また来る」


 こうしてイスカが退出した後、ゆっくり休ませてもらった鴎花は、翌朝も元気に目覚めることができた。

 そして小寿に支度をしてもらった朝餉をイスカと一緒に食べ、政務に向かう彼を見送ると、単身浮き島へと戻ったのだ。

 イスカは騒ぎの発端を作った雪加に何がしかの罰を与えたいと考えている様子だったが、その結論が出る前に鴎花はお咎めなしとなるように取り計らうつもりだった。

 雪加のことは昨夜からずっと心配している。

 昨夜は毒を盛った容疑者の扱いで幽閉されたのだ。さぞや怯えていることだろう。

 しかし家の中で、絨毯の上に座っていた彼女は、意外にも落ち着いた様子に見えた。化粧もきちんと施して、元々美しい顔立ちはますます輝いている。

 部屋の隅には空の椀も置いてあった。今朝出された朝餉は残らず食べたようだ。


「そなたも馬鹿よのぉ」


 雪加は一人で帰ってきた鴎花を見るなり、顔いっぱいに嘲りの色を浮かべてきた。美しいはずの顔もこんな時には歪んで見える。


「ただの茶を飲んで気を失うとは。ほほほ、なんと愚かなことよ」

「姫様……」

「あれはそなたが妾を疑うに違いないと思って、怪しげな行動を取ってやったまでのこと。あの茶には最初から何も入っておらぬ。福寿草は山羊に食べさせて使い切ったのじゃ」

 この後、雪加が得意顔で語った話は、にわかには信じ難い内容だった。

 ここ最近の出来事により周囲の者達(恐らく鴎花や田計里のこと)が頼りにならないと悟った彼女は、己の力だけで憎き蛮族達に対抗しようとし、そのための手段を考えたのだそう。

 そして鴎花が予想した通り、毒を使うべしとの結論に至り、父から贈られた福寿草の存在を思い出したのだ。

 あの植物に毒があることは、乳母の秋沙チィシャから聞いて元々知っていたそうで。


「姫様、この福寿草は絶対に誰かに食べさせてはいけませんよ。いくらお優しい皇帝陛下とはいえ、自分の贈ったもので姫様が誰かを殺めたとあれば、許してくださいません。そんなことをしたら、姫様は今の不自由無い暮らしぶりを全て失うことになるのです」


 しかし雪加は、秋沙の言葉を聞くと余計に誰かに福寿草を食べさせてやりたいと思った。

 純粋な好奇心と、遊び心ゆえだ。

 そして食べさせるなら鴎花にしてやろうとも思っていた。

 醜い痘痕面の娘なら、死んだところで誰も悲しまない。だから殺しても良いし、毒草を食べた人間がどんな風になるのか見てみたい。

 それでも自分が犯人扱いされるのは嫌なので、雪加は一計を案じた。誰もが福寿草の存在を忘れるように、植木鉢を伽藍宮の裏の大きな木の下に隠したのだ。そして皆の記憶がなくなった頃に鴎花に福寿草を食べさせてやろう、そうすれば死因が福寿草であることにすら誰も気付かないだろう、と考えた。

 ところがこの後、雪加自身が隠した植木鉢のことをすっかり忘れてしまったのだ。

 そのため今の今まで、植木鉢は宮殿の裏へ放置されたままになっており、年始の変の混乱の中でも破壊されずに済んだ。


「姫様は、私に福寿草を食べさせるおつもりだったのですか」


 まさか雪加がそんな恐ろしいことを考えていたとは。

 鴎花は絶句したが、雪加は平然と頷いた。


「こんな痘痕だらけの乳姉妹など、美しい妾には相応しゅうない。母上様も見苦しいそなたを嫌っていたではないか。それでも秋沙がどうしてもと言うから、置いてやっていただけじゃ」

「……」

「ふん。それでまぁ、伽藍宮の裏へ行き植木鉢を探し出したものの、時期が終わったのか福寿草はほとんど枯れておったのじゃ。こんなもので毒としての効き目があるか分からぬ故、どうしたものかと考えていた時、山羊の姿が目に入った」


 白頭翁の訪問を受け、鴎花が彼女を表に追い出した日のことだ。

 山羊は瞼の垂れ下がった、三日月形の目で舐めるように雪加を眺めた挙げ句、無様に唾液を垂らしながら、くちゃくちゃと口を上下に動かして嘲笑ってきた。

 気がつけば、雪加は小屋の裏に隠していた植木鉢から福寿草を引っこ抜いて、山羊の口に押し込んでいたのだという。


「あの獣め、何の疑いもなしに食べ切りおったわ。いい気味じゃ。それに福寿草はなくなってしまったが、死んだ山羊を目の当たりにしたそなたの慌てぶりを見ていたら、まだ毒があるように見せかけることはできるのかと気付いてのぉ」

「どうしてそんなことを……?」


 全く意味が分からない。雪加が毒を盛ったふりをすることなんかに一体、何の意味があるのか。

 鴎花が震える声で尋ねると、雪加はふんと鼻を鳴らした。そして真っ赤な紅を差した唇を大きく歪める。


「決まっておる。そなたが憎いからじゃ」

「え……」

「そうじゃ。醜いそなたは、妾の足元にひれ伏し、地を舐めているのがお似合いではないか。なのに僭王に愛でられたくらいで身の程もわきまえず調子に乗りおってからに……故に、この機に一泡吹かせてやろうと思ったのじゃ」


 こうして鴎花を陥れる仕掛け時を狙っていた雪加にとって、昨日の夕方はまさに好機だった。鴎花が出かけている間に、イスカの方が先に浮島へやってきたからだ。

 イスカを迎え入れた雪加は、一旦表に出ると山羊小屋の中に植木鉢を置き、自ら茶も淹れた。

 残念ながら七輪の使い方がよく分からなくて湯を沸騰させることはできなかったものの、大量の茶葉を使ったことで毒入りであるかのように見せかけることはできた。

 そして雪加の仕掛けに引っ掛かり、福寿草が入っていると思い込みすぎた鴎花は、茶葉を食べて過呼吸を起こし、それでも毒ではないからすぐに回復したのである。

 浮き島に幽閉されようと彼女が余裕たっぷりだったのは、毒を盛っていない自分が罰っされることはないと知っていたからだ。

 もちろん誤認で殺される恐れはあっただろうが、いざとなれば鴎花がどうにかしてくれるはずという甘えも雪加にはあったのかもしれない。

 鴎花を憎みつつも、その忠誠心を雪加はよく理解している。

 そんな奇妙な信頼を匂わせることを、雪加は言った。


「本音を言えばな、そなたのことだから妾が毒を盛ったとは訴えられずに、自分がやったと罪を被るのではないかと思っていたのじゃ。やってもいない罪を忠義面で認め、あの僭王から憎まれれば良いと期待しておった」

「なんと……」


 いつになく気色ばむ鴎花を見て、雪加は甲高い笑い声を上げた。


「ほほほ。それがそなたにとって一番堪えるはずじゃからな。夷狄の王にその身を嬲られることに喜びを覚えておるそなたなら、あの男の寵を失うのが一番辛かろうて」

「……姫様、いくらご主君であっても、やっていいことと悪いことがあります」


 鴎花は拳を小刻みに震えさせながら低い声で言った。

 昂ぶる感情をもはや堪えきれないことを、強く自覚する。

 この痘痕だらけの姿を嘲笑われることには慣れているし、雪加が自分を塵芥のように扱うことも諦めている。崔皇后は人の価値を美醜で決める人で、宮殿の主がそういう考えである以上、鴎花の周りの人は、母以外、皆が醜い痘痕娘を蔑んだ。そんな中で育った雪加が、鴎花に価値を感じるわけがない。

 だがイスカは駄目だ。

 イスカは鴎花にとって光なのである。彼を奪われる事は、この世から太陽を失うのと同じこと。

 この人はそんな心の支えすら、面白半分に奪おうとしたのか。


「私は姫様を唯一無二の主君と仰いでこれまでお仕えして参りました。母からそれこそが私の生きる道であると教えられましたから」

「君、君足らざるとも忠義を尽くすべき、と?」


 雪加は自虐的な笑みを浮かべて、鴎花の言葉を遮った。


「どうせそなたも計里と同じ。妾のことなど見下し、主君として相応しくないと内心思っているのであろう。じゃが、主君を値踏みするとは臣下として無礼千万。そのような不心得者を妾がちゅうして何が悪い」


 そのいじけた物言いから、雪加は計里に拒絶されたことをいまだ根に持っているのだ、と推測できた。

 幼い頃から実母である崔皇后に溺愛され、家臣達が当然のように傅いてくれる育ち方をした雪加は、主君には家臣を惹きつけるだけの力量を示す義務があることを理解できていないのだ。

 だがそんな彼女に同情する気にはなれなかった。

 鴎花はこれでも精一杯、心を込めて仕えてきた。それに応えなかったのは雪加の方だ。


「……翡翠姫は私です」


 か細く震える声が、広くもない部屋の中に響くのを鴎花は感じた。これまでの二人の関係を根底からひっくり返すことを、自分は今言っている。


「陛下と心を通わせているのは私であり、姫様ではありませぬ。命が惜しければ引っ込んでおいてくださいませ」

「ほう……とうとう本性を見せたな、この女狐め」


 強張った顔をしている鴎花とは対照的に、雪加はまさに翡翠姫らしい、余裕に満ち溢れた微笑みを浮かべていた。

 そして鴎花の顎に指を掛け、ぐいと顔を近づける。

 間近に迫った彼女の漆黒の瞳が、鴎花の頬に浮かぶ痘痕の一つ一つを追いかけるのが分かった。


「!!」

「妾に成り代わるうちに、本物の翡翠姫になりたくなったのであろう。かように薄汚い顔を晒しておきながら、図々しいことを考えるものよな」


 鴎花は雪加の手を乱暴に払い除け、顔を背けた。

 もうたくさんだ。

 自分が不忠者の烙印を押されることも、母を悲しませることも辛かったが、こんな酷い人を主君と仰ぐことなんてできようものか。

 鴎花は決別の気持ちを込めて立ち上がった。

 しかしそれでもなお雪加を直視できなかったので、彼女に背を向け早口で吐き捨てるように言う。


「どうやら私達は一緒にいてはいけないようですね。私はこれからも翡翠姫として振舞ってまいります。姫様はこの浮き島で、心静かにお過ごしくださいませ」


 鴎花の宣言に、雪加は何も言わない。

 気になってちらとだけ振り返れば、彼女が薄ら笑いを浮かべている様子が目に映った。その心の内までは見えない。いや、見たくもない。


「……失礼いたします」


 鴎花は口を真一文字にぐいと結ぶと、以降は振り返ることもなく、駆けるようにして浮き島を出ていったのだった。


四.

 鴎花オウファは浮き島に戻ってこなかった。

 今後は昨夜手当をしてもらった屋敷で暮らすことになったそうだ。

 それはかつて燕宗イェンゾンの妃の一人が下賜されていた屋敷で、天井に描かれた龍の絵から、香龍シャンロン宮と呼ばれている。この宮殿の元の主は、龍の神である天帝ティェンディへの畏敬の念が強い女だったらしい。

 伽藍ティエラ宮に比べれば豆粒のように小さいものの、戸板を貼り付けただけのこの浮き島の家に比べれば、段違いの快適さであろう。

 そして雪加シュエジャに代わって、これまで厨房で鴎花の手伝いをしていた下女が、侍女として配されることになったそうだ。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。

 雪加は今、浮き島の家の二階の窓から、一人で月を見上げている。

 毒は見つからなかったものの、日頃のイスカへの無礼な態度を咎められ、雪加はこの島に無期限幽閉と決まった。

 地下牢へ入れるには可哀想だが、華人ファーレンとしての自尊心が高過ぎる彼女は、自由にさせておくと確かに何をするか分からない。だから彼女自身のためにも閉じ込めておいてくれ、と鴎花がイスカに働きかけたらしい。

 しかしただでさえ人手不足の鴉威ヤーウィの兵士を、侍女なんかの監視に割くわけもいかない。だから浮き島への橋を取り壊すことで逃亡を防ぎ、食事だけを一日一回、対岸から小舟で運んでくれることになった。

 鴎花の指示で荷物を回収に来た者達は、一階に敷いていた絨毯も取り外してしまったから、この島にはいまや数枚の木綿の衣と寝具以外、何も残っていない。あるのは雪加の身一つだけだ。


(今宵は佳き月じゃのぉ)


 しかし雪加は月の美しさを無邪気に楽しんでいた。

 虚空に浮かぶ眉月は、月見をするには頼りない薄さだったが、今の雪加にはその欠け具合が妙に心地良かった。


(一人で十分じゃ。あんな不忠者と一緒にいるより、よほど良い)


 周囲にとうとう誰もいなくなった寂しさよりも、清々しさの方を今は強く感じる。いや、投げやりな気持ちになっているだけだろうか。

 年始の変からもう半年以上が経つのに、誰も助けに来ないどころか、雪加の境遇は悪くなるばかりだ。

 このまま誰にも気付かれぬまま儚く消えてしまうのかもしれないが、それでも月は綺麗なのだから、これでいいかとも思える。

 そんな独りきりの月見をしているところへ、誰かがやって来た。

 階下での物音に気付き、雪加が手探りで灯りをつけていると、褐色の肌の男が梯子を登って顔を出したのだ。


「!!」

「いやぁ、暗闇を明かり無しで泳ぐのはなかなか怖いもんだな。しかもここの池は目に見えなくても水の流れがあるから、思っていた以上に流されて、余分に泳ぐ羽目になったぜ」


 雪加に断ることなく二階まで上がってきたアビは、なんと全裸だった。黒衣は革の帯で頭の上に括り付けている。

 どうやら池の中を泳いでここまでやってきたらしい。

 アビはイスカの弟なのだから、何をしても許されるはず。幽閉された侍女に会うだけなのだから、堂々と申し出て小舟を使えばよかったのに。夏の始めとはいえ、なんという無茶をしたのか。

 闖入者に唖然とする雪加に向かって、彼は拭くものを持って来いと命令してきた。見れば彼の体からは水の粒がぼとぼと垂れていて、床を濡らしている。


「そんなものはない」

「じゃあお前の着物でいい」


 アビは雪加に襲いかかると、身につけていた衣を強引に剥ぎ取り、手ぬぐい代わりにしてしまった。

 やることが無茶苦茶である。

 思わぬ形で衣服を奪われた雪加は、仕方がないから部屋の隅から寝具を引っ張り出してきて頭から被ったが、この男のやることは本当にどうかしていると思う。

 いや、それは今に始まったことではないか。

 異母兄からの信頼は高く、戦場にあっては勇敢な戦士だと聞いているが、雪加の前ではただの獣だ。

 それに自分は生まれながらの罪人なのだと、不可思議なことも言う。

 生まれながら、ということは血筋のことを指しているのだろうか。

 確かにアビは少し変わった出自の持ち主である。

 父は鴉威の前族長で、母は華人。

 鴉威の民を手懐ける為に、鵠国は後宮の女官を皇帝の養女扱いで鴉威に嫁がせていた。辺境の蛮族なんかに自分の娘をやるのは嫌だから、女官の中から選んだのだ。

 そんな辺境に送られた女官から生まれた彼の何が罪なのか。もしかして卑しい鴉威の血を半分引いていることを卑下しているのだろうか?

 雪加には彼の気持ちがさっぱり分からない。

 ただ確かに分かっているのは、自分がこの男から多大な憎しみを向けられていることだけだ。


「話は聞いたぞ。お前、八哥パーグェに毒を盛った風に振る舞ったせいで、ここに閉じ込められてるんだって?」


 首筋を拭いつつ、からかうような口調でアビが言うから、雪加はぷいとそっぽを向いた。

 いつものことだが、雪加の方にこの男と言葉を交わす義理は無いのだ。視界に入れておくのも癪だから、灯りも吹き消してやる。

 もっとも、雪加がどんな態度を取ろうとアビの方が気に留めることは無いのだが。


「そんな馬鹿な真似をしたところで、あの痘痕女を困らせるだけだってのに。身代わりになってまでお前に仕えてくれてる乳姉妹の足を引っ張るなんて、さすが華人の皇女様はヒトデナシだな」


 雪加は声を上げそうになったが、すんでのところで堪えた。

 この粗野で生意気な男の前で翡翠姫たる者が無様に狼狽えるなど、雪加の自尊心が許さない。

 暗闇のお陰で動揺した顔を見られなくて良かった。雪加はなんとか呼吸を整えると、敢えて高飛車に笑ってやったのだ。


「ほぅ。妾の方が翡翠姫であると、ようやく気付いたか。随分遅かったのぉ」

「そうだな。これだけ演技が下手でボロばかり出してる上に、カマをかけたらあっさり引っかかるような奴を相手に、確かに遅かった。反省してる」

「……」


 やっぱりこの男は小憎たらしいと、雪加は認識を新たにする。

 そして言われっぱなしでは悔しいので、平然を装いつつも反撃の糸口を探してみた。


「……それで、確信が得られて、そなたはどうする気じゃ? 僭王に注進するのかえ?」


 しかしその可能性が薄いことは、雪加にも察しがついていた。

 この男は誰にも告げず、今も単身浮き島へ忍び込んできたのだ。それはつまり、雪加の正体を他の誰にも教える気が無いことを示唆している。


「さて、どうするかな」


 案の定、アビはもったいぶった言い方をして、即答を避けた。


「あの痘痕娘を気に入ってる八哥にわざわざ余計なことを伝えて嘆き苦しむ姿を見たくないからなぁ。お前が真の翡翠姫として八哥に抱かれるようになると俺の遊ぶ玩具が無くなってつまらないってのもあるし。それからもう一つ……」


 言いかけたのにアビは突然口をつぐみ、それから大きく舌打ちした。


「チッ。なんで俺の手の内を、わざわざお前に教えてやらなきゃいけねぇんだよ」

「知らぬわ。そなたが勝手に話し出したのであろう」


 無駄に腹を立てられた雪加はふくれっ面でそっぽを向く。そんな雪加に向かって、アビは暗闇の中から手を伸ばしてきた。

 雪加はもちろん抵抗したが、アビは無理矢理に抱きついてきて……いや、違う。


「うぅ、寒ぃ」


 アビは雪加の被っていた寝具に潜り込んできただけだった。

 どうやら水で濡れて身体が冷えきってしまい、我慢できなくなったらしい。

 人肌の温もりを求めて抱きついてくる様は、母親に甘える幼子のようでもあり、雪加は不覚にも胸がざわつくような感情を抱いてしまったが、それはありえない。若さゆえに引き締まった瑞々しい肢体が冷たくなっていて、そんな彼の肌をほんの少し心地よく感じてしまっただけのことだ。

 この男が無邪気な幼子でないことは、その直後に脚をキツく絡め、更には雪加の胸を無遠慮にも鷲摑みにしてきたところからも明らかである。

 嫌がる雪加の頭を顎を使って乱暴に押さえつけたアビは、その耳元へ囁くように言った。


「あぁ、そうだ、代わりにいいことを教えてやるよ。ついさっき早馬で知らせがあったんだ。郭公グォゴンが鵠国皇帝を名乗り、兵を挙げたそうだぜ」 

「え?!」

「郭公は確か、お前の実の兄だよな? 皇后の実子でありながら素行不良だとかで、南方の果ての郭の地に配されてたらしいじゃねぇか。そのせいで、年始の変のときには木京にいなかった」


 アビの言う通りである。

 地方に配されていた他の皇族らは新年の宴に招かれて都へ集まっていたから、一網打尽に殺されてしまったが、郭公だけは難を逃れた。

 父に疎まれていることで臍を曲げた彼が、病を理由に上京してこなかったからだ。


「これから郭公の元には鵠国の遺臣達が続々と集まっていくはずだ。良かったな。兄貴が長河チャンファを越えてこの木京ムージンまで攻め上ってきたら、蛮族の慰みものにされた惨めな皇女として、お前も歓迎してもらえるだろうよ」


 華語ファーユィが堪能なこの男は、嫌がらせも上手に言う。雪加の心に芽生えたばかりの期待感をも、無下に刈り取っていくのだ。


「お前も可哀想にな。親に置き去りにされて、俺なんかに身体を汚されて、忠実なはずの乳姉妹にすら見捨てられて。お前はもう、このだだっ広い中原に身の置き所も無いんだ」


 アビはくっくっく、と喉の奥で詰らせた笑い声を上げると、いまやすっかり乱れてしまった雪加の黒髪を一房、手に取った。艶やかな長い黒髪を弄ぶように、己の指に巻き付ける。


「なぁ、そろそろ死にたくなってきただろ? 自害用の短剣くらいなら恵んでやってもいいぞ」

「誰が自害など」


 雪加は鼻で笑った。

 虚勢でもなんでもない。

 雪加は死ぬつもりなんてまるで無いのだ。


「妾は翡翠姫じゃ。光り輝く中原の宝玉。それは誰が何をしようと、揺らぐものではないわ」


 その圧倒的な自負で、心が支えられている。

 今まさに蛮族に体を蹂躙されている最中だが、それでも雪加は己が惨めだとは思わない。

 雪加は誰よりも美しい高貴な姫君。粗野な蛮族ごときがその価値を定めようなど、片腹痛い。

 アビに正体を知られてしまったせいで堂々と名乗れるようになった雪加は、今まで以上に翡翠姫であることを強く感じていたのだ。


「……」


 闇の中でアビの息遣いだけが、僅かに揺れた。

 雪加の反応が予想外のものであり、目を見張っていたのだ。

 それでも彼は一拍の間を置いてから「……へぇ」と嘲るような声を上げた。


「じゃあ今夜は、死にたくなるようにさせてやるよ」


 言うなり、アビは雪加の胸の尖端を、指で円を描くようになぞった。

 それと同時に、耳の裏にも舌を這わせる。

 そんな不意打ちの刺激に堪え切れず、雪加の口元からは甘い吐息が漏れた。そう、鴎花がイスカに抱かれるたびに上げているような喘ぎ声だ。

 途端にアビは勝ち誇ったように哄笑した。


「そうそう。お前には今からそういう恥ずかしい声をたっぷり上げさせてやる」

「くっ……」

「お前はさ、俺なんかに抱かれておきながら一晩の間に幾度も気を遣り、淫らに腰を振るんだ。その有様は遊び女さえ目を覆いたくなるような乱れっぷりで、口先では嫌だのなんだのと言っておきながら、体の方は俺を大歓迎。がっつり咥え込んで離そうとしない」


 そういうの、いいだろ?、と雪加の耳たぶを甘噛みしながら一方的な未来予想図を告げたアビは、ここから動きがあからさまに優しくなった。

 まるで恋しくてたまらないとでもいうように、雪加の身体を隅々まで丁寧に愛撫していくのだ。

 しかしこれは明白な嫌がらせ。

 翡翠姫の名を貶めようとする卑劣な行為であり、雪加は奥歯をぐいと噛み締めて、吐き出すはずの息を全て呑みこんだ。


「妾はそなたの思い通りにはならぬぞ」

「その強情、いつまでもつかな」


 漆黒の闇の中で、二人は憎悪を煮えたぎらせた視線と互いの肢体を絡め合う。

 いつしか地の果てに姿を消していた薄い月の行方も知らぬまま、アビと雪加の長い夜は更けていったのである。

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