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痘痕の翡翠姫  作者: 環 花奈江
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三章 山羊の乳

一.

 イスカが鴎花オウファの作った握り飯を気に入ってくれたのは嬉しいことだったが、一つだけ困ったことになってしまった。

 あの時、料理が趣味、と咄嗟にでまかせを言ってしまった為に、イスカが「そういうことなら、これから俺の飯はお前が作れ」と言い出したのだ。無駄が嫌いな彼は、何もしていない鴎花にも仕事を与えて(本当は浮き島の中で掃除も洗濯もしているけれど)働かせようと考えたのだ。

 しかし浮き島は狭すぎて、調理施設を置くだけの広さが無い。


「それなら、お前が厨房まで行けばいい」


 島から出る許可があっさり出たので、鴎花は本当に彼の食事を作ることになってしまった。

 しかしこの話を翌朝、イスカが出ていった後に鴎花から聞かされた雪加シュエジャは、大いに怒った。


「どうして皇女が下女のごとく飯炊きなどせねばならぬのじゃ! ふざけるのも大概にせよ!」

「ご、ご安心くださいませ。そのようなことを姫様にはさせませぬ。全て私がいたしますから」

「当然じゃ!!」


 騒ぎ出す主を宥めようとした鴎花の頬を、雪加はまたしても平手で打つ。

 それがこれまでとは比べ物にならない強い力だったから、鴎花は衝撃で床の上に転がってしまい、呆然として主を見上げた。


「ひ、姫様……?」


 痛みよりも、自分が全力で叩かれたことへの驚きの方が強い。

 しかし鴎花を見下ろす雪加は、これまで見たこともないほどに口をひん曲げ、目を血走らせていたのだ。


「よくものうのうと口をきけるものじゃな。昨日は日の高いうちからあれほど淫らな行為を繰り返したくせに……」

「あ……」

「あれだけの声を上げておいてわらわに気付かれておらぬとでも思ったか。そなたの耳障りな声を聞くたびに、はらわたが煮えくり返るようじゃったわ」


 雪加の指摘に、鴎花は赤面した。

 まさかあの甘い声が階下まで届いていたとは。

 羞恥のあまり鴎花はその身を縮ませたが、しかしあれはイスカのせいなのだ。

 彼はこれまでの淡白な抱き方から一転し、鴎花の敏感なところに触れては、体を震わせて上ずった声を漏らす様を楽しんだ。

 しつこすぎるくらいにそう、何度も。

 しかしあの時は、イスカだけが熱くなっていたわけではない。

 鴎花もまた、天窓から差し込んでくる光に照らされたイスカに見惚れていた。

 引き締まった端正な体つきも、組み敷いた鴎花に向ける彼の蒼い瞳も、全てが熱を帯びていて……特に褐色の肌に玉のような汗が浮いている様は、心を奪われるのには十分すぎる代物で、鴎花は幾度我を忘れたことか。

 痘痕を恥じる気持ちも、偽物の翡翠姫としてイスカを欺いているというやるせなさも、己を貫くイスカの振る舞いの前では全てが無力だった。

 それは今、ほんの少し思い出しただけでも、体の奥底が疼いてしまうほどの情熱で……。

 雪加の手前、そんなそぶりを見せてはいけないと堪えたつもりだったのに、彼女は敏感に鴎花の変化を感じ取ったようだ。

 雪加は眉間に青筋を浮かび上がらせ、わなわなと唇を震えさせた。


「蛮族に身を汚されて悦ぶとは……なんとあさましきおなごであるか……!」

「お、お許しくださいませ」


 鴎花は床に頭をこすりつけて詫びた。

 例え不可抗力だったにせよ、階下にいる主を不快にさせてしまったのだから、詫びる以外に今の鴎花には手がない。


「……」


 雪加はしばらくの間、鴎花の頭を踏みつけんばかりに睨みつけていたが、不意に顔をそむけた。そして部屋の中に衝立を置くと、その向こうに閉じこもって頭から布団を被ったまま、出てこなくなったのである。



***

 家の外に出てみると、七輪が出しっぱなしになっていた上、鴎花が昨日雪加のために作った握り飯は踏み潰されていた。

 昨夜の鴎花のはしたない行いに傷つけられた雪加の心は、予想以上に荒れているようだ。

 それについては申し訳なく感じるが、しかしいつまでも雪加にだけ構っているわけにもいかない。これからイスカの食事を作りに行かねばならないのだ。

 日課である洗濯を手早く片付けた鴎花は「それでは厨房へ行ってきますね」と衝立の影から声をかけた。

 返事は無い。

 それでも鴎花は面布を被り、痘痕面あばたづらを覆い隠すと橋を渡った。そしてその袂に設置された詰め所へ声をかける。


「厨房ならば行っても良いと、昨夜陛下から許可を頂きました。通してくださいませ」


 するとピトとフーイという、いつもの二人の兵士が出てきただけでなく、詰め所の隅で寝袋にくるまって横になっていた短髪の男がむっくりと起き上がった。

 イスカの異母弟のアビだ。

 彼はどうやら寝不足気味のようで、堪えきれないあくびを何度も漏らしつつ、目を擦っていた。


「うん? 王妃一人なのか?」

「はい。私だけです。あの者は今日は気分がどうしても優れぬと言うので」


 侍女が居残り、主だけが出かけるなんておかしな話だが、あれだけ怒っていた雪加は、厨房へ行ってまで侍女を演じることなんてできないはずだ。


「私?」


 アビは鴎花の一人称の変化を聞き逃さなかった。


「どういうことだよ?」

「陛下からそのように言えと命じられたのです」


 鴎花は昨夜、達するという感覚を初めて知ってしまった。

 そして全身を走り抜ける強すぎる感覚に悲鳴を上げた際、誤って素が出てしまい「私」と口走ってしまったのだ。

 それは高貴な女性にあるまじき一人称だが、イスカは「妾と言うより気取っていなくて良いな。これからもそう言え」と気に入ってしまった。

 鴎花としても言い慣れている一人称の方が断然楽でよい。だからこの件に関しては、ありがたく従わせてもらうことにしたのだ。


「ふうん、そっか」


 納得したようなしていないような顔で、アビはとりあえず頷いた。


「まぁ、いいや。じゃあ行こうぜ。今日だけは俺がついて行ってやる」


 どうやらイスカは鴎花に付き添わせる為、弟を残しておいてくれたらしい。

 こうして鴎花はアビに連れられて厨房へと向かった。

 厨房は後宮内にあり、後宮で暮らす人々の食事を鵠国フーグォの頃から一括して作っていた。

 今は後宮内の宮殿を宿舎とする鴉威ヤーウィの者達の食事を主に作っている。

 料理人達は年始の変の前から働いていた者達がほとんどだが、いずれも身分が低いので、伽藍ルイフォ宮の奥深くで暮らしていた鴎花や雪加を直接知る者はいないはずだ。

 鴎花が厨房に顔を出すと、料理長が代表して出迎えた。

 白い衣を纏った痩せっぽっちの中年女だ。男子禁制の後宮では料理人も女性か、もしくは去勢された男子が務めている。


「かようなむさ苦しい場所へわざわざのお運びとは、恐悦至極に存じます。五姫さまにはご機嫌麗しゅう」


 丁寧に頭を下げたものの、彼女の挨拶は微妙におかしい。

 鴎花はイスカの王妃になったのだ。それをいつまでも燕宗の第五皇女として扱うのはよろしくない。

 しかし華人である彼女は、あくまで鵠国の民という意識でいるようだ。

 華語ファーユィに堪能なアビはそんな微妙な言い回しにも敏感に反応し、眉をビクンと跳ね上げた。

 それに気付いた鴎花は、自ら率先して料理長をたしなめる。


「料理長、これから私のことは王妃と呼んでください。私は国王陛下の妻なのです」

「は……失礼いたしました」

「それで、ここへ来た理由なのですが、今後は私が陛下の食事の支度をするように仰せつかったもので」

「なんと……」


 皇女様ともあろう方がおいたわしや、と言わんばかりに顔を歪めた彼女を、アビがじろりと睨んでいる。

 鴎花は慌てて間に入った。


「全て私が望んでのことです。ですが私は厨房での働きに不慣れなので、誰か助けてくれる者をつけてください」

「承知いたしました」


 頷いた料理長は、すぐに一人の女を連れてきてくれた。

 彼女は厨房で下女として働く女で、名をリン小寿シャオショウといった。

 名前に小の字が入っているにも関わらず巨躯の持ち主で、背も高ければ腰回りなんて鴎花の倍ほどある。年齢は三十代半ばで、五児の母だそうだ。

 彼女は最近働き始めたばかりなので、まだ決まった仕事を任されておらず、そのため鴎花付きにしてしまっても、厨房の業務に支障をきたさないらしい。

 決して美人ではないが、よく笑う朗らかな性格の持ち主である彼女は、初めて会う高貴な女性が相手でも、遠慮なく話しかけてきた。


「どうして王妃様自ら料理なんてなさることになったんですか?」

「陛下のご命令故ですが、私も陛下のためにできる限りのことをしたいと思って」

「あぁ、それは良いことですね」


 皇女が食事を作ることを哀れと受け止めた料理長とは違い、小寿は鴎花の想いに賛成してくれた。


「胃袋を掴んでおくと男は浮気しませんよ。まぁ、うちの場合は浮気して出ていってくれた方が助かるんですけどね」


 小寿は喉の奥が見えるほどの大口を開けて笑った。

 聞けば彼女には働かない夫がいて、家計を支えるためやむなく働きに出ているそうだ。豪快に見える女性ながら、これで苦労を重ねているらしい。

 鴎花達三人は厨房の別棟へと向かった。元は皇帝専用の厨房だったが、イスカは皆と同じ食事でいいと言うから、最近は使っていないらしい。

 ここなら下々の者らと一緒に働く必要が無いから、お互いに余計な気を使わずに済む。

 こじんまりしたこちらの厨房の中には、さすがに鍋や釜も質の良いものが揃えられていた。

 ろくに経験のない鴎花がこれらを使いこなす日はいつになるのやら。しかし千里の道も一歩から。イスカのため、精一杯頑張ろうと思う。

 小寿にはまず、この厨房の掃除と片付け、献立作り、それに食材の下ごしらえを頼んだ。鴎花が慣れるまでは、炊事経験が豊富な小寿に多くのことを任せてしまった方が上手くいくはず。鴎花はこれからその技を少しずつ教えてもらうつもりだ。

 しかし今は、小寿だけでなくアビからも教えてもらいたいことがある。


「あの……私に鴉威の料理を教えて欲しいのですが」

「鴉威の?」


 それはアビにとっては意外な申し出だったらしい。戸惑った顔をしていたが、鴎花がどうしてもと頼むと「なら、山羊か羊の乳が必要だな」と言った。


「乳?! あんなものを?!」


 鴎花はぎょっとした声を上げてしまった。

 華人ファーレンには獣の乳を食する習慣がまるで無かったのだ。

 しかしアビは肩をすくめて説明する。


「鴉夷の地は寒さゆえに米や麦が育たない。生えてくるのはせいぜい草くらいだ。だから俺達は草を食べる家畜を育てて、余すことなく食う」


 しかし山海の珍味を取り揃えた厨房にも、獣の乳というのはさすがに用意していなかった。

 ならば直接取りに行こう、という話にまとまり、鴎花はアビと二人で厨房の裏手にある厩舎へ向かった。食材として納品された豚や山羊や羊、鶏は生きたまま一旦ここに集められているのだ。

 厩舎の囲いの中に入ったアビは、たくさんの動物達の中から子供を連れた真っ白な毛並みの母山羊を探して連れてきた。遊牧民であるだけに家畜に詳しい彼の見立てによると、この厩舎へ連れてこられた直後に生まれたのだろう、とのこと。

 そして母山羊の脇に膝をつき、腹部の下に手桶を置くと、彼は膨らんだ薄い朱鷺とき色の乳房の突起部分をつまんで握りしめた。

 すると乳が勢いよく飛び出してくるのだ。

 乳搾りを知らなかった鴎花には、奇術のようにしか見えない。


「試しに飲んでみろよ」


 手桶ごとアビに渡された乳白色の液体は僅かな量だったが、口をつけるとぷんと漂ってくる生暖かさと臭みがひどかった。これは絶対無理、と鴎花は少し舐めただけで顔を背ける。

 以前イスカに勧められた酒とは、全く違う次元で飲めそうにない。


「やっぱりそうか。俺の母も鼻をつまみながら飲んでいたよ」


 降参した鴎花が飲めなかった分を、勿体無い、と言いながら飲み干してしまったアビは、引き続き器用な手つきで乳を搾りつつ、鴎花に訊ねた。


「それでさ、どうして鴉威の飯を作りたいんだよ?」

「故郷の味の方が陛下に喜んでいただけると思うからです」


 それにどうせ料理が分からないなら、鴉威の料理を一から学ぶのでも同じことだと思うのだ。


「鵠国の食事なら料理人達の方がよほど上手に作るのに、それでもわざわざ私に、と言ってくださったのなら、ぜひ陛下の好みに合わせたものを作りたくて」

「ふうん」


 気のない返事をしつつ、アビは乳を絞っていく。その間、仔山羊は落ち着かない様子で母山羊の側を行ったり来たり。まだ小さいけれど、足取りはしっかりしていて、柔らかな純白の産毛が可愛くてたまらない。

 そんな仔山羊に目を向けつつ、鴎花も彼に話しかけてみることにした。

 本当は化粧筆の一件以来、イスカに危害を加える可能性がある危険人物として、彼から睨まれている自覚がある。

 しかしアビならイスカのことをよく知っているはずなのだ。この機にどうしても話を聞いておきたい。


「あの……陛下は痘痕あばたの娘をどうして受け入れてくださったのですか?」

「うん?」

「いえ、その……陛下がお優しいのは分かるんです。でも人の目から庇ってくれたり、嫌悪感を見せなかったり、私が思う以上に配慮してくださるものですから……」


 鴎花は喋りながら俯いた。

 醜い痘痕で全身を覆われた鴎花を可愛がってくれたのは、これまで母の秋沙チィシャだけだった。

 でも腹を痛めて産んだ母が鴎花を愛してくれるのはまだ分かるが、会ったばかりのイスカがここまで気を遣ってくれるのは理由が分からない。


「……七年前、八哥は疱瘡ほうそうで実の母と兄を亡くしている」


 アビは山羊の乳を搾りながら、昔の話を教えてくれた。


「疱瘡は一度患えばそれ以降かかることもないし、場合によっては軽めで治ることもある。実際、八哥も俺も罹患したけどすぐに治った。でも七哥チーグェ達は死んでしまって。そのことを自分がうつしてしまったせいだと、八哥は今も気に病んでいる」

「まぁ……」

「それに死んだ二人は葬儀すら出してもらえなかったんだ。疱瘡が伝染るのを怖がったせいでもあるけど、痘痕が膿んで顔が膨れ上がっていたから気持ち悪いという声もあった。だから八哥はたった一人で母と兄の遺骸を葬ったんだ。俺もその時は同じく疱瘡を患って寝込んでいたから、八哥のことは何も手伝ってあげられなくて……」


 アビはいつしか乳を絞る手を止めていた。その漆黒の瞳は虚空を見つめている。

 七年前といえば、アビはまだ十歳にもなっていなかったはずだ。それでもこんなに暗い目をするなんて、よほど兄の力になれなかったことを悔やんでいるのだろう。

 彼は大きな吐息を一つ漏らすと、気を取り直したように顔を上げた。


「なぁ、今度は俺に教えてくれよ。お前の侍女のことだ。名前はなんていう?」

「鴎花です」

「歳は?」

「ええっと……十八です。私の一つ上で」

「ふうん。意外に年を喰っているんだな。俺より下かと思ってた。それで、自分のことも妾とか言ってるし、お前よりよほど偉そうに喋るけど、後宮の侍女ってのは皆あんなものか?」

「そ、そうですね。鴎花は美しいので皇后陛下……私の母上様にも可愛がられて、その側にも置いてもらっていたので、どうしてもその口調が移ってしまって」


 大いに動揺しつつ、鴎花は苦しい言い訳を並べた。

 どうしてアビが雪加を気にするのかが怖い。

 まさか二人が入れ替わっていると露見したのだろうか?

 鴎花が偉そうにしておかなかったせいかもしれない。しかし、一人称を私に戻してしまったせいか、先程からどうしても尊大な喋り方というものをし辛いのだ。

 焦っているところへ「おい」と野太い声を背後から投げかけられた。おかげで鴎花は反射的にひぃっと変な声を発してしまう。


「なんだ。そんなに驚かなくてもいいだろう」


 憮然とした表情を浮かべてそこに立っていたのは、黒衣を身に纏ったイスカである。

 アビは鴎花に対するのと全く違う、弾んだ声を上げた。


「おぅ、八哥。ケラとの話は終わったのか?」


 ケラというのはイスカの父の代からずっと仕えている、寡黙な初老の忠臣だ。イスカは彼に全幅の信頼を置いており、鴉威が兵を動かす時、大切な政策を決める際には、彼と二人きりで相談して決めるのが常なのだ。


「あぁ。意外と早くにまとまった。例の件、決行は五日後、夜襲でいく。斥候からの知らせによるとあちらは大分人数が集まっているようだから、ここの兵はごっそり連れて行かなきゃいけないが、夜通し駆ければ朝には帰ってこられるはずだ」

「俺達の得意な速攻だな」

「ああ。それから、昨日の執務室への落書きの一件も決めてきた。お前が調べ上げてくれた犯人だがな、今回は不問にする」

「えぇ?!」

「手間をかけたのに悪かったな。だがよく考えたら、鵠国に仕えていた連中が、手の平を返して俺に忠誠を誓うのもおかしな話だろ。今回はまだ世情が落ち着いていないことも考慮して、穏便に済ませる。こちらの度量の広さを見せておくのも、悪くはないだろう」


 兄弟の間で飛び交っているのは鴉威の言葉。

 だから鴎花には、アビが兄との話の中で、漆黒の瞳に不満げな感情を漂わせたことしか理解できなかった。一体何の話をしているのやら。

 待っている間、鴎花は仔山羊に手を伸ばし、白くて柔らかい毛並みを撫でてやった。

 とても愛らしい子だ。鳴き声もまだか弱く、鴎花が抱き上げれば小刻みに震えた。

 だがこの子だって食材なのだから、あと数日もすれば肉団子にでもされてしまうに違いない。


「それで……雪加はアビと何を喋っていたんだ?」


 弟との会話を終えて視線を鴎花に移したイスカは、ここからは華語で話してくれた。


「あぁ。王妃が鴉威の飯を作りたいんだと。それで山羊の乳を絞っていたんだ」


 アビが絞ったばかりの乳が入った手桶を兄に見せると、彼は久しぶりの故郷の味を我慢できなかったのか、そのまま口をつけて飲んでしまった。


「あぁ。やっぱり搾りたては美味いな」


 感慨深げな吐息を漏らす兄に、アビは「だよなぁ、これが不味いなんて言う華人が、俺にはさっぱり分からない」と笑顔で頷いた。


「俺もやろう。うっかり全部飲んでしまったが、料理に使う分が必要なんだろ?」


 イスカはアビに代わってヤギの傍らに膝をつくと、乳搾りを始めた。

 それがまた弟に劣らぬ慣れた手つきなのだ。

 彼の指が饂飩うどんの如き太い流れを生み出すと、鴎花は感嘆の声を上げてしまった。


「陛下もできるのですね」

「これくらい、鴉威では子供でもできる。お前もやってみるか?」

「は、はい……!」


 こうして鴎花はイスカに見守られながら、生まれて初めての乳搾り体験をさせてもらうことになった。

 山羊の乳首はフニャフニャで温かい。

 恐る恐る触ったら、イスカはすぐさま「それではダメだ」と言って鴎花の手に、自分の大きな手を重ねてきた。

 そして鴎花が予想していたよりずっと強い力で握りしめてくれる。


「もっと強くていいぞ。痛ければコイツも嫌がるから分かる。遠慮しなくていい」

「……あ! 出ました!」


 鴎花は歓声を上げた。

 搾り出せたのは毛筋ほどの頼りない量だったが、それだけでも鴎花は大満足だ。

 

「まぁ、もう少し続ければ、ちゃんとできるようになるだろ」

「ありがとうございます。これからも挑戦してみます」

「練習するなら、いっそこの母子ごとお前にくれてやろうか」

「よろしいのですか?!」

「あのなぁ、俺を誰だと思っているんだ。この国の王だぞ。山羊の母子くらい好きにできる」

「あぁ、ありがとうございます。実は先ほどから、この子が可愛くてたまらなかったんです」


 仔山羊を抱き締めてはしゃぐ鴎花とそれを見守るイスカは楽しげだが、一方で蚊帳の外に追いやられてしまったアビは、なんとも言えないつまらなそうな顔をしていた。

 敏い彼には、兄がどうしてアビの絞った乳を飲み干してしまったのか読めていたのだ。

 イスカは故郷の味に惹かれてうっかり飲んだわけではない。

 飲み干してしまえば、王妃と二人で改めて乳搾りをすることができるからだ。恐らく、アビが彼女と二人で喋りながら乳搾りをしているのを見て、羨んだのだろう。

 もちろん昨日だって日の高いうちからよろしくやっていたわけだし、毎日浮き島へ通っているし、食事まで作らせようとしているのだから、兄がこの痘痕女に心を惹かれているのは分かっていたが、まさかここまでとは。

 いつの間にかアビは二人の側を離れていたが、話し込んでいる方は気が付かない。


「鴉威の料理を作るなら、あとは羊や山羊の肉がいるが、肉は冬場だけで、この時期には食べないな」

「そうなのですか?」

「乳を出す山羊や、毛を刈る前の羊をわざわざ潰す訳にはいかないだろ」


 だから家畜達が繁殖期を迎える夏場は、動物の乳だけを口にして暮らすそうだ。乳はそのままでも飲めるが、発酵させるのが一般的だとイスカは言い、さらには鴉威の暮らしぶりも鴎花に話して聞かせてくれた。


「羊の毛は刈ったまま押し固めて家の壁なんかに使っているが、毛をって糸を作れば織物を作ることもできる。これが鵠国への租税になっていたから、女達は暇さえあればはたを織っていた」


 鵠国では畑で育てた綿花や、蚕の吐き出す絹糸を使って布を織るが、遊牧民はやはり家畜を利用するらしい。


「陛下の着物も毛織物ですね」


 鴎花はイスカの着衣に目を向けた。革の腰紐で締めた前開きの上衣は、薄くても温かそうだ。


「そういえば、鴉威の衣は黒い色ばかりですね」

「それは鴉威の地の泥に晒すとこの色になるからだ。泥の成分で糸が丈夫になるから、必ず染める。それで俺達は華人からカラスと呼ばれるようになったらしい」

「深みのある良い色です」


 鴎花はイスカの上着の裾に手を伸ばし、目を細める。


「あぁ、そういえばかつて伽藍ルイフォ宮の客間に敷かれていたのも、黒色を基調に赤と白の差し色が入って、これとよく似た複雑な文様が織りこまれた絨毯でした。あれも鴉威の民が作ったものですか?」

「あれは鵠国の女官だったアビの母が、友好の証として鴉威へ嫁いできた際に、こちらから贈ったものだな。俺の母を始め、一族の女達が一年がかりで織った力作だぞ」

「まぁ、お母様も……確かに素晴らしい出来でした。精密な模様の美しさもさることながら、丈夫で、長く使っても色褪せることがない、素敵な織物で。あぁ……それでは今まで気付いていなかっただけで、随分前から鴉威は私の身近に存在していたのですね」


 鴎花が言うとイスカは、そうだな、と答えた。

 返事自体は短かったものの、彼が誇らしげに鼻を鳴らしたように見えたのは、気のせいではなかったはず。

 肌の色も目の色も髪型も風習も、全てが違う異民族の王様が急に身近に感じられ、嬉しくなった鴎花はにっこり微笑んだのだった。


二.

 イスカと鴎花オウファが山羊を囲んでの会話に花を咲かせている頃、雪加シュエジャは浮き島を出て後宮の中を一人で歩いていた。

 鴎花が出て行ったあと、急に家の中がガランと静まり返ってしまい、心細くなってしまったのだ。

 雪加はこれまで周囲からかしずかれて生きてきた。だから一人きりになるということがまるで無かったし、それに誰もいないとアビに襲われたときの恐怖も蘇る。

 そこで不本意ながら、王妃の後を追うために外へ出たい、と橋の袂にいる兵士らに申し出てみたら、あっさり許可された上に、誰もついてこなかったのだ。

 恐らく雪加のことを侍女だと思い込んでいるせいだろう。彼らが逃亡を警戒しているのは鴎花だけなのだ。だから後宮の屋敷同士を結んでいる石畳の小径を雪加が歩いていても、すれ違った鴉威ヤーウィの兵士らに咎められることすらない。ただ、物珍しげに眺められるだけだ。

 これは予想だにしなかった展開だった。

 ここまで雪加が警戒されていないなら、後宮からも容易に脱出できるのではないだろうか。

 そして後宮を出てしまえば、後はどうにでもなるはず。自分こそが翡翠姫であると伝えれば、心ある華人ファーレンなら誰でも助けてくれるからだ。

 そして今頃きっと兵を集めて再起を図っているであろう父や母にも、どこかで再会できるに違いない。


(あぁ早くこの忌まわしい場所を離れたい。ここを出れば全ては元通り……妾は誰からも称えられる美しく高貴な姫に戻れる……)


 しかし憑かれたように後宮を歩き回ったものの、四方を囲む塀が高すぎて簡単には乗り越えられそうになかった。

 ならば足場となりそうなものが転がっていないか、と建屋の陰や塀との隙間を探して歩いたのだが、これもみつからない。

 そしてそんなところへ声をかけてきたのは、雪加が今、この世で一番嫌っている男だったのだ。


「よぅ、鴎花」


 彼の声が耳に届いた瞬間、せっかく高揚していた心が冷水を浴びせられたかのように萎えていくのを雪加は感じた。

 それに鴎花と呼んでくるとはどういうことだ。この男にその名を教えた覚えは無いのに、一体どこで仕入れてきたのやら。

 しかしどう呼ばれようと、雪加には応じる義理が無い。無言で立ち去ろうとしたところ、黒衣の青年は雪加の腕をぐいと掴んできた。


「なんだよ、無視すんなって。知らぬ仲でもないのにさ」


 その揶揄からかいに満ちた軽い口調といい、馴れ馴れしい態度といい……おのれ、蛮族の分際で鵠国フーグォの皇女に対しなんたる無礼であろうか。


「離さぬか、蛮族!」


 憤った雪加は激しく抵抗したが、どれだけ力を込めたところで、アビの腕一本、振りほどくことはできなかった。


「学習しない女だな。力で俺に勝てるわけがないってのは、昨日さんざん教えてやったはずだぞ」


 抵抗したはずが逆に手首をぐいと引き寄せられ、動きを封じられてしまう。

 雪加は怒りと悔しさで、白磁の頬にかぁっと血を上らせた。

 

「やはりそなたは夷狄ウィーディじゃな」

「あぁ?」

「力に任せて物事を押し通すのは、獣のやることじゃ」

「じゃあ夷狄は夷狄らしく、お前をここで犯してやるよ。俺も今ちょうどイライラしてたんだ」


 酷い宣言をしたものの、アビはその直後に己の動きの全てを止めてしまう。


「……なんだよ」


 アビが発した唸るような低い声は、雪加に対しての文句ではなく、揉み合っている二人の様子を連翹れんぎょうの咲く垣根の向こうから見つめていた華人の文官に対してのものだった。

 雪加も彼を見た。小さな冠を頭に載せ、お仕着せの紺色の長衣を着ているところから察するに、下級官吏のようだ。

 口の周りと顎に形ばかりの髭をたくわえた、ひょろっと背の高い中年男である。どうやら何処かへ届け物をしに行くところだったようで、手にはたくさんの書類を抱えていた。


「文句あんのか」


 黒い瞳に殺意まで込めてアビが脅したものの、身分のわりに気骨のある男なのか、全く動じない。


「大いにありますな。鴉威の民であろうとも、華人を理由なく傷つけてはいけないと国王陛下から命令が出ているはずですよ。ましてやか弱い女人に手出しをするなんて、絶対に許されぬことです」


 それは支配者である鴉威の民にひるむことない、堂々たる物言いだった。

 おかげでアビは気持ちを削がれてしまったらしい。舌打ちを一つ漏らすと、覚えてろよ、と捨て台詞を残してあっさり立ち去ってしまった。


「ご無事かな」


 アビの黒一色な後ろ姿を官吏は険しい表情で見送っていたが、雪加に対しては優しい目を向けてくれた。

 そして、ほぅと感嘆の声を漏らす。


「後宮の女官はあの夜に多くの者が殺され、残った者も全て召し放たれてここには誰も残っていないと思っていたが、まだこんな美しい小姐おじょうさんがいたなんて」


 あぁ。この何気ない言葉が雪加の心をどれだけ沸き立たせたか分からない。

 何しろここ最近の雪加は、美貌を褒められることが絶えて久しいのだ。

 周囲に鴎花とイスカ達兄弟ぐらいしかいないせいだが、アビはともかくイスカに至っては雪加を見てもいない。

 これほどの美女を前にしながら、痘痕娘なんかに入れ上げるとは……鴉威の民とは美しさを理解しない、本当に無礼な連中である。


「しかしその美しさは、小姐の仇となる。これ以上恐ろしい目に遭わないよう、ここでの務めは早々に辞して、実家に帰った方がいい」


 彼は雪加の美しさは認めつつも、粗末な木綿の着物を纏った身なりから、女官の一人だと判断したようだ。

 雪加は女性としての嗜みとして袖口で顔を半ばまで隠しつつも、自分より一尺(約30cm)ばかり背の高い男を見上げた。

 恥辱でしかない現場を見られてしまったのは不覚であったが、彼のおかげで助かったのは事実である。


「……大儀であった。そなたの名を聞いておこう」


 こんな時でも礼を言わないどころか、権高い調子で話しかけてしまうのは、雪加の性格というよりは、単に他の話し方を知らないからだ。

 しかし幸いなことに彼はムッとするより前に、雪加が身分の高い者であるのだろうと推察してくれた。身分が低いという自覚が、彼の方にもあったせいかもしれない。


「私めはテェン計里ジーリィと申します。羽林軍ユーリンジュにて軍務にあたっております」


 彼は両手を胸の前で組み、頭を垂れて名乗った。

 軍務ということは事務方。つまり軍に所属する文官ということだ。


「羽林軍?! では、羽林軍は既に蛮族どもに下ったというのか?!」


 愕然とした雪加は、次は自分が名乗るべきであることも忘れ、声を荒げてしまった。

 都を守る羽林軍が全滅したというのなら、まだ理解はできる。しかしまさか蛮族の手下になっているとは、想像を超えたのだ。


「は……あの年始の変で敗れた後、木京を守る羽林兵は残らず鴉威に下りました」


 計里の話によると、鴉威の兵は木京の北側、玄武門から侵入。思いもよらぬ夜間の攻撃に対し、守備にあたる羽林兵らは敵を認識することもできぬまま右往左往しているうちに倒され、夜が明けた時には瑞鳳宮を占拠されていたそうだ。

 そして残った者たちは鴉威達の呼びかけに応じて投降した後、そのまま兵士として木京の警備に当たっているのだという。


「で、では、ズイ都督は? 羽林兵の指揮官だったあの男も蛮族どもの配下に……?」

「いえ、都督は年始の変以来、ずっと行方知れずです」

「そんな……」


 雪加は絶句した。

 鵠国最強の兵団である羽林兵を指揮していたズイ広鸛グゥンガンは皇族の血を引く青年で、雪加とは婚約していた。

 あぁそうだ。去年の新年の宴で雪加のことを「中原の宝玉、翡翠の姫よ」と声高らかに謳い上げたのは彼だった。

 蛮族どもさえ襲ってこなければ、今頃雪加は彼と婚礼を挙げ、都督夫人として、華々しい新たな人生を歩んでいたであろうに……。


「何も、ご存知なかったのですね」


 計里は気の毒そうな目で雪加を見つめた。

 あの年始の変から三ヶ月以上の月日が流れている。それなのに現状を全く知らない者がいることを不思議にも感じたようだ。

 雪加は気が動転している自らを落ち着けようと、大きく息を吸い込んだ。

 この男の言っていることは衝撃的であったが、初めて聞く情報は貴重でもあった。

 鴎花はまるで役に立たぬ女で、イスカに深く関わっておきながら有益な情報の一つも仕入れてこないのだ。こうなったら雪加自ら、情報収集に努めるしかない。


「では……何故そなたは蛮族どもに従っておるのじゃ?」


 もっと他に聞いておきたいことは無いか、と考えた雪加は、心に一番最初に浮かんだ疑問点を問うた。すると計里は苦々しい様子で顔を歪めたのだ。


「私めとて、蛮族などに従うは屈辱の極みです。なれど暮らしが……」

「暮らし! なんとまぁ。士大夫ともあろう者が情けなや」


 雪加は呆れ果ててしまった。

 鵠国は優秀な人材を集めるため科挙と呼ばれる試験を行い、これを突破した者を役人として働かせていた。

 そんな彼らは士大夫と呼ばれ、誰より国への忠義の心を学んでいるはずなのだ。

 それが自らの生活ごときのために寝返るとは……!

 これは計里自身も恥じていたことのようで、彼は長身を縮こませ、俯いてしまった。


「おっしゃる通り、実に情けないことです。しかしそれでも、士大夫としての心を忘れたわけではありません。然るべき時が来れば、必ずや鵠国の臣として忠義を果たしましょう」

「おお。それは佳き心がけ。実はのぅ、妾はチャオ雪加シュエジャ。翡翠姫なのじゃ」


 雪加は袖口で口元を覆い、小さな声でその素性を明かした。


「永らく蛮族どもに幽閉されておったが、今日ようやくこの後宮の中を出歩くことだけ、許されたばかりじゃ」

「なんと……」


 計里はさすがに驚いた顔をしていたものの、すぐに膝をつき、拝礼した。

 雪加の美しさやこれまでの振る舞いから考えても、これは真実であろうと察してくれたようだ。


「それは大変なご無礼をいたしました。卑賎の身が姫君に直問じきもんとは、まことに恐れ多い事でございます」

「構わぬ、許す。それより、計里。妾はすぐにでもこの後宮から出たいのじゃ。どうにかいたせ」


 雪加が命じると、計里は目を白黒させた。


「そ、それは……拙者などにはとても……」

「何故じゃ? そこの塀を越えるだけであろう」


 女一人を抱えて脱出させるくらい、簡単にできるだろうと雪加は安直に考えていたのだ。

 ところが計里はその先に待ち構える困難まで、一瞬で見抜いていた。


「しかし例え無事にここを脱したとて、資金も、その後の姫様の滞在場所さえ用意できておりませぬ。あまりに無謀です」

「そんなもの、とりあえずそなたの家へ置いてくれるので構わぬぞ」

「私めの家は狭く、それに町中にあります。姫様のように高貴なお方がいらっしゃれば、たちまち近所の噂になり、鴉威の者達に勘付かれましょう」

「そうか……掃き溜めに鶴がいるようなものじゃからな」


 計里の家を平然と掃き溜め扱いした雪加は、今すぐの脱出を諦めた。

 しかし脱出自体を断念したわけではない。


「ならば……そうじゃな、五日後またここでこの時間に会おう。それまでになんらかの策を練っておくように」

「は……」

「そなたの忠義、期待しておるぞ」


 高貴な姫君としての境遇が一転したあのおぞましい夜以来、雪加の前に初めてまともな希望の光が灯ったのだ。

 だから雪加が彼に期待するのは当然のことだった。

 大いに気が昂っていた雪加は計里の手を握ってやったし、彼の方も感動した様子でそれに応え「もったいないお言葉。鵠国の臣として、この命に替えましても姫様のために尽くします」と、深々と頭を下げたのだ。

 その従順な姿は雪加を大いに満足させ、初めて出会うこの下級官吏への信頼を、ますます深めることに繋がったのだった。


三.

 木京の街に日暮れを知らせる銅鑼ドラが鳴り響く頃、テェン計里ジーリィも一日の仕事を終え、帰宅の途につく。

 自宅は瑞鳳ルイフォ宮のすぐ近くにある、官舎という名の長屋だ。狭く粗末な家だが庭もついているし、幼い娘と二人で暮らすのに不足はない。

 計里が門をくぐり、家の戸を開けると、その途端に部屋の中から小さな塊が突進してきた。


「ちちうえさま!」

「おぉ、初音チュイン。良い子にしていたか?」

「あい!」


 計里が四歳になる愛娘を抱き上げるその向こうでは、二歳から十一歳までの五人の子供達と白髪の老人が、円卓に座って食事をとっているところだった。

 食事を作ったのは計里が頼んで通ってもらっている老婆で、今は台所で皿を洗っている。

 五人の子供達は計里の朋友で、つい先日まで隣家に住んでいたシィ蓮角リェンジャオの子らだ。

 彼らは今は官舎を出て街中の方へ引っ越しているのだが、それでも毎日、田家へ夕飯を食べに来る。

 代わりに計里が務めに出ている間、この子らが初音の面倒を見てくれるのだ。

 計里の妻は去年、流行り病で亡くなっている。

 そして蓮角の妻も最近働きに出るようになって夕食の支度をできないから、こうやってお互いに足りないところを助け合っているのである。

 計里が娘を椅子に座らせ直していると、石家の長女が弟妹を代表して立ち上がった。そして律儀に食事の礼を述べようとするから、それは手を上げて制した。


「遠慮せず食べなさい。それよりこれを」


 計里は帰宅途中に市場で買ってきた一抱えの麻袋を、少女に渡した。中には黄色い枇杷の実がたくさん入っている。


「夕餉の後にでも、皆で食べるといい」

「いつもありがとうございます」

「こちらも初音の面倒を見てもらっているんだ。遠慮はいらないよ」


 甘い果物の登場で歓声をあげる子供らの様子に計里が微笑んでいると、その脇から老人がぬっと顔を突き出した。

 髭が無く、代わりに豊かな白髪が頭部を覆っている。まるで婆さんのような容貌の爺さんである。歯が無いものだから、口元からはフガフガと余計な息が漏れていた。


「儂に土産は無いのか?」


 甲高い声音で厚かましいことを言ってのけるが、彼もまた、この家の人間ではない。

 蓮角達家族が住んでいる家の裏で、一人暮らしをしているご隠居だ。この子らに学問を教えてくれているのだが、その流れでいつも夕飯を食べに来ている。一人分の飯の支度をするのが億劫らしい。


老師せんせいにはこれを用意しましたよ」


 枇杷と一緒に市場で買ってきた酒の瓶を見せると、老人は途端に目尻を下げた。


「それは重畳。珍しく気が利くではないか」

「蓮角も呼んできましょう。たまにはあれも外の空気を吸わねば」

「放っておけ。あんな甘ったれの孺子こぞう、わざわざ関わってやらずともよい」


 老人は厳しいことを言うが、蓮角の真っ直ぐな性格を考えれば、仕方のないことだと計里は思っている。


「しかし、今日は彼にも折り入っての話があるのです」

「ならばまずは儂が聞いてやろう。いかがした?」


 老人が早速酒瓶を傾けて手酌で飲み始めてしまったので、計里も渋々席についた。今から蓮角を呼びに彼の家まで行っていたら、その間にこの老人は酒瓶を空っぽにしてしまいそうだ。

 こうして夕飯を終えた子ども達が庭に出て皆で枇杷を食べている間に、計里は翡翠姫の件について、老人に語って聞かせることになった。

 この老人は今でこそ街中で子ども相手の私塾なんぞを開いているが、元は瑞鳳宮で辣腕を振るっていた経歴の持ち主。

 信に足る人物であり、だからこそ良い助言を得られるだろうと計理は期待したのだ。

 しかし興奮気味に語る計里と違い、彼はいたって冷静だった。


「それはまことの翡翠姫なのか?」


 老人がもっとも疑ったのはその点である。

 高貴な姫ならば、男達がいる場所を一人きりで歩くはずがない、と言うのだ。


「このところの後宮は、老師がご存知の頃とは様変わりしております。宮殿は蛮族の男どもが宿舎にしており、庭も雑草が生えて荒れ放題。恐らく姫も侍女をつけてもらえぬほど不自由しておられるのでしょう。それに翡翠姫の名に恥じぬ美しいお方でしたし」


 計里は必死で反論したが、ならば余計に怪しい、と一蹴されてしまった。


「せっかく捕えた美しい姫を、鴉威ヤーウィの者達が野放しにする訳が無かろうて。お前さんは見目の良い華人ファーレンの女官にからかわれただけじゃ」


 あまりにきっぱりと否定されてしまい、計里はぐうの音も出ない。


「大体、姫を後宮から救い出したところでいかがする。お前さんが先頭に立って反乱でも起こすのか?」

「だから老師や蓮角には、その辺りを相談したかったのです。聞いたところによると、東鷲ドンジゥ郡の長官が鴉威に対抗するべく面従腹背、密かに兵を集めているそうなので、姫をそこまで送り届けられたら良いかと思っていたのですが」


 幼い頃から科挙を突破するための勉強しかしてきていない計里は馬にも乗れないが、羽林軍ユーリンジュの将官だった蓮角は腕っぷしも強く頼りになる。東鷲郡の郡庁は木京からも近いのだし、彼と二人でならきっと姫を安全なところまで連れて行くことができるだろう。

 蓮角とは同じ羽林軍で働くうちに親しくなった。

 年齢も近いし、隣家に住んでいるし、同じ羽林軍で働いているし。それに日々武芸に励む彼の真摯な態度には、計里も敬意を抱いていた。

 しかし今の彼は異民族から都を守り抜けなかったことを悔やんで職を辞し、以来自宅に引きこもってしまっているのだ。

 計里は蓮角のことが心配でならなかった。

 皇女のために働けるのなら、彼もきっと輝きを取り戻すはず。計里は親友と共に翡翠姫の救出を成し遂げたかったのだが……。


「お前さんまでが噂に聞いているくらいの話を、鴉威の者達が見逃すわけがなかろうて。そんな目の粗いザル同然の反乱、上手くいく訳が無い」


 老人の指摘はいちいちごもっともである。

 東鳶郡のエァ長官は文官であるが故に、兵を集めることにも慣れていないのだろうか。鵠国フーグォは伝統的に文を重んじ武を軽んじるまつりごとを行ってきたので、こういう時に上手く立ち回れる有能な武人が育っていない。


「ではこのまま手をこまねいて、蛮族をのさばらておけと仰るのですか?」


 翡翠姫の救出作戦には無理があると理解したものの、計里は拳を震わせて強い声を上げた。

 計里は唯々諾々と蛮族に従っている自分を許せないのだ。鵠国の臣として、士大夫として、何かをしなくてはならない焦燥感に駆られている。

 しかしそんな熱い想いも、老人には飄々と受け流されてしまった。


「そんなもの、のさばらせておいたら良い。あやつらは鵠国より、よほどまともなまつりごとをやっておる」


 なんとまぁ。かつては鵠国の臣として禄をんだ身であるのに、とんでもないことを言うものだ。

 計里は憮然としたが、白髪の老人は酒を美味そうに呑みながら、その根拠を語った。


「考えてもみよ。燕宗陛下は土塊つちくれをこねて壺を作ることに熱中され、政務の一切を祥宰相に任せきりだった。しかも国の一大事には民を見捨てて逃亡する始末。話にならぬ」

「……」

「そしてその祥宰相は金を使い過ぎ足りなくなった歳費(国の予算)をまかなうため、民に複雑且つ重い税を課した。此れ、為政者として許されざる行為じゃ。それに比べて、鴉威の王は自ら意欲的に国政に乗り出し、租税も免ずると言う。民草たみくさにとってどちらがありがたい存在か、一目瞭然であろう」

「蛮人達が今年の租税を免除するのは、単に徴収の仕方が分からないからですよ。奴らは、その王ですら文字を読めず、文官にいちいち声に出して読み上げさせている始末なのですから」


 計里が瑞鳳宮の中で聞いた話を披露して反論しても、老人はなんのなんのと首を横に振った。


「王自らが万能の英傑である必要は無いぞ。王たる者には英傑を使いこなすだけの度量があれば十分じゃ。ほれ、鵠国の太宗タイゾンも、元は読み書きのできぬ農家の小倅であったというではないか。しかし太宗は霍子フォズという賢人を得、更に天帝の娘であるツェイ氏の姫を妃に迎えることで、その後三百年近くにわたり中原を治める大国を作り上げたのじゃ」

「それはそうですが……」


 計里が不服げに頷いたその脇で、老人はちょうど皿を下げようとして側を通った婆さんの尻を撫でていた。


「何してくれるんだい、この色呆けジジイ!」


 この婆さん、背中が曲がっているものの、口は達者で、動きも素早い。

 瞬時に反撃して老人の手の甲をつねるから、抓られた方はアイタタタと派手に痛がって見せた。

 婆さんは憤慨しながら台所へ去っていく。

 その丸っこい背中を見送りながら、老人は反省の色が無い、楽しげな笑い声を上げた。


「ふぉっふぉっふぉっ。いつ触っても、おなごの尻は良いものじゃのぉ」

「……老師も飽きぬお方ですな」

「儂は年を経るごとにおなごが好きになっていくんじゃ。人生において、今が一番好きかもしれん」


 老人は悪びれることなく言い切る。

 彼の顎には髭が無く、代わりに毛量豊かな白髪が頭部を覆っていた。このところめっきり髪の毛が薄くなってしまい、結うのも難しくなってきた計里としては、羨ましさすら覚える髪の量である。

 婆さんの尻を触って機嫌の良くなった老人は、幸せそうに酒を飲みながら、ほんのり朱色に染まった頬を弛緩させた。


「お前さんもそろそろ後妻をもらったらどうじゃ。初音は母がおらずとも立派に育っておるが、お前さん自身は寂しいじゃろ」

「そんなことはありませんよ。これでももう四十二ですから、一人寝も苦にならず」

「もったいないのぉ。そんな立派なものをぶら下げておるのに」


 老人がケラケラ笑いながら股間を弄ろうとしてくるので、計里は悲鳴を上げて飛びのいた。


「や、やめてください!」


 老人に難があるとすれば、この通りやたらと好色である点だ。気を抜くとすぐに卑猥な方へ話を持って行きたがるから、堅物の計里は困ってしまう。

 この性癖さえなければもっと高い地位まで登りつめていたであろうに……つくづく残念な御仁である。


「とにかく後妻なんかより、今は政ですよ、政!」

「つまらん男じゃな。一度きりの人生に、おなご以上に大事なことなどあろうか」

「ありますとも! というか、蛮族達の政も大して褒められたものではありませんよね?」


 このままでは老人の調子に呑まれてしまうと感じた計里は、かなり強引に話を戻した。


「先ほど市場で求めたこの酒も、枇杷の実も、全て先月より一割増しの値段になっていました。これは蛮族達が木京ムージンにある四つの門のうち、一番小さな青龍門以外を閉め切っているせいです。あんな小さな門では、木京に住む三十万人以上の人間が必要とする物資を運び入れられません。彼らは蛮族だけに、経済の仕組みを理解していないのです」

「ふうむ。では、何故彼らは門を開けぬのだと思う?」


 ほろ酔いの老人は弟子を指導するかのように、計里自身の口に答えを求めてきた。


「それは華人の反乱を恐れているからです。荷駄に紛れて木京に武器が入り、華人が束になって逆らってきたら、数の少ない鴉威の兵士だけでは制圧できません。故に門を一つにして、積み荷の確認を徹底しています」

「その通りじゃ。彼らは華人を恐れておる」


 老人は計里の答えに対し、満足気に頷いた。


「だからこそ、不満分子を炙り出そうと、瑞鳳宮の役人にも罠を仕掛けている可能性は十分にある」

「え……」

「これは女官の悪戯以上の話かもしれないということじゃ。幼い初音が母のみならず父まで失うのでは哀れすぎる。つまらぬ忠義心を振りかざして厄介事に巻き込まれぬよう、くれぐれも自重せよ」


 皺の深い瞼の奥で、老人の黒い瞳が重厚な光を放っていた。

 ましてや愛娘を引き合いに出されては、計里に反論できようはずがない。

 こうして蓮角に相談するまでもなく、計里の翡翠姫救出計画は終わってしまったのである。



***

 それなのに五日後の昼過ぎ、計里は翡翠姫と再会を約束した場所へ向かっていた。

 敬愛する老師の忠告を無視する格好になったのは心苦しいのだが、この五日間で、計里は翡翠姫の良からぬ噂を耳にしたのだ。

 なんでも彼女は蛮族の王のために、自ら厨房に立って料理を作っているのだとか。

 それも無理矢理やらされているのではなく、自ら嬉々として買って出たらしいという話で、それが本当なら、皇女の身で蛮族に媚びを売る、許しがたい行為である。

 その辺りの真偽を彼女自身に問い質したかったがために来てみた……というのは単なる口実で、計里はやはり、囚われの姫君を助け出し、鵠国の臣として力を尽くすという夢を諦めきれなかったのである。

 もしも彼女が本物の皇女であり、それを助けられるなら、しがない下級官吏である計里にとってこれほど名誉なことはない。

 だからこそもう一度彼女に会って、本物であるのかを見極めたかったのだ。

 果たして、翡翠姫は垣根の影に一人きりで計里を待っていた。

 その装いは先日と同じく質素なものであり、化粧も唇に紅を引いただけだったが、美しさは尋常ではない。特にきめ細やかな白い肌は天女のごとくである。


「おぉ、計里。待ちかねたぞ」


 計里より先に来ていた彼女は、ひどく興奮した様子で、挨拶もそこそこに話しかけてきた。


「早速じゃが朗報じゃ。蛮族の王は今日の夜、鴉威の全軍を率いて木京を出て行く」

「そうなのですか?!」

「妾は僭王の側にいるだけに、その動きもよく分かるのじゃ」


 蔑んだ呼び方でイスカを称した翡翠姫は、自慢げに胸を張った。


「故に今宵は警備が手薄になるはずじゃ。この機に妾を助け出せ」


 翡翠姫から命じられた瞬間、計里は魂が震えるのを確かに感じた。囚われの姫君のために働く自分を想像し、興奮したのだ。

 それでも計里は自らの心に手綱をかけた。ここで闇雲に突っ走るわけにはいかない。


「姫様、その前に教えて下さい。姫様が厨房へ出入りし、王の食事を作っているという噂を聞いたのですが、それは真でございますか?」

「妾が?」


 翡翠姫は目を見張った。そしてすぐに眉をひそめる。


「それは妾の侍女じゃ。厨房の者達は恐らく勘違いしておる。妾が僭王のために料理など、するわけがなかろう」

「さようでございましたか」


 計里は納得した。

 確かに身分の低い厨房の者達は、計里と同じでお姫様の顔なんて知らないから、侍女と見間違えたのかもしれない。

 そして侍女が厨房へ行っているからこそ、翡翠姫はその間、一人で歩き回っているのかもしれない。

 すうっと腑に落ちる感覚があった。

 やはり彼女こそが翡翠姫なのだ。


「しかしさすがに今夜は無理です、姫様。鴉威の者も最低限の人数は残していくはず。なのに私めが助力を頼めるのはせいぜい一人か二人ですし、どうやって姫様を連れ出すのか、どこへお連れするのかもまだ考えきれていないのです」

「そう言うと思って、妾も策を練ってきた。そなたが街に火を放つと良い」

「え?」

「木京の街で火事が起きれば、鴉威の者達は混乱する。それに乗じれば、少ない人数でも妾を連れ出せよう。その先のことはそれから考える。とにかくこの後宮を離れられれば、それで良いのじゃ」


 ここで彼女は翡翠色をした絹の布きれを、計里の手に押し付けてきた。


「これは妾の書いた命令書。これさえあれば必要な人手は集められるはず」

「姫様……」

「今はそなただけが頼りなのじゃ。頼んだぞ、計里。今宵、伽藍ティエラ宮の池に浮かぶ浮き島で、そなたを待っておるからの」


 彼女は切ない目をして、布切れごと計里の手を強く握った。

 そしてまともに返事もできなかった計里をその場に残し、足早に走り去ってしまったのである。



***

 翡翠姫と別れた後の計里は、どうしていいのか分からなくなってしまっていた。

 恐らく彼女が翡翠姫であることは間違いない。

 しかし街に火を放ってまで自分を助けろとは、よく言ったものである。彼女一人を救うために、どれだけの人が苦しむか……所詮お姫様にとって、一般庶民など虫けら同然なのだろうか。

 それでも受け取った翡翠色の絹布には、今こそ鵠国の臣下としての忠誠を示す時。これを持つ者の言葉を妾の言葉と思い、その差配に全て従え、と紅を使って書いてあった。

 きみきみたらずとも、しんしんたらざるべからず。

 霍書フォシュにもそんな一文があるではないか。

 鵠国の臣であるなら、どんなに無鉄砲で、考えの足らない姫であろうと、真心を持って尽くすべきなのではないか?

 しかし、いずれにしても今夜後宮から彼女を連れ出すのは不可能だ。あまりに準備が足りない。

 だが計里が何もしなければ、彼女は失望し、怒るだろう。

 下手すれば嫌がらせをしてくるかもしれない。例えば、後宮で計里に手籠めにされた、と鴉威の王に訴えるとか。

 この絹布を見せれば、反論はできるだろうが、相手が蛮族である以上、どこまでまともに話を聞いてくれるか分からない。この布によってむしろ反逆罪に問われそうだし……。

 やはり老師の言うとおりに、関わり合いにならないのが一番良い手だったのかもしれない。

 しかし士大夫としては、亡国の姫君の懇願を無視することなど、できようはずも無かったのだ……。

 堂々巡りの思考に頭を抱えながら石畳の小径を歩いていたら、鴉威の兵士の一団がこちらへ向かってくるのをみつけた。

 翡翠姫が言っていた通り、彼らは出陣前なのかもしれない。武具をいくつも抱えていたし、妙にそわそわして見えた。そして彼らは馬を何頭も連れていたからこのままではすれ違うこともできそうにない。

 関わり合うのを面倒に思った計里が垣根をくぐったところ、何処かも分からない庭へ出た。

 軍務に携わっているため、伽藍宮に駐屯している鴉威の兵らと連絡を取ることもあり、後宮を歩き回る機会は増えたものの、元々が男子禁制だった場所ゆえ、計里はまだまだ歩き慣れていない。

 そこで目線を上げてみた。表宮の南端にそびえる白い高楼が建つ方角を目指して進んでみることにしたのだ。

 鴉威の者達が無駄だと決めつけ、庭師を解雇してしてしまったせいで、今や後宮は雑草だらけだ。背の高い草をかき分けて苦労しながら前へ進んでいると、一人の若い娘が山羊を連れて歩いているところに出くわした。

 草を食む白い山羊を見守る彼女は、計里の存在に気付いていない様子だった。翡翠姫と同じく女官のような格好をしていたが、その顔はひどい痘痕で覆われている。

 うら若い女性の身で、この容貌は辛かろう。

 なのに彼女は赤い紐で首を繋いだ山羊へ慈愛に満ちた穏やかな眼差しを向けていて、その点に計里は違和感を覚えたのだ。

 蛮族に占領され、荒れてしまった後宮の中で無邪気に山羊と戯れるなんて、あまりに不自然な行為である。

 もしかしたら、彼女はこの容貌故に年始の変でも鴉威の兵士から暴行を受けることが無かったのかもしれない。だから蛮族達が歩き回っている中でも、我関せずとのんびり過ごすことができているのかも……。

 そう思ったら、唐突に腹が立った。

 同じ鵠国の臣でありながら、自分だけ絶対安全な立場で高みの見物とはけしからん。

 いや、こんな感情は八つ当たりでしかないと分かっている。

 しかしあの翡翠姫は美しすぎるゆえに、力づくで鴉威の王の妃にされ、歩いているだけでも乱暴な男に絡まれてしまうのだ。

 それを考えたら、一人だけ狡いではないか……!

 計里だって決して喧嘩っ早い性分ではないのだが、ここへ来るまでに抱えていた鬱屈した想いが、この時ばかりは妙な方向に働いた。おかげで、一言物申さずにはいられない義憤に駆られてしまったのだ。

 そんな計里が彼女に向かって足を踏み出した、その時だった。

 計里の足元の草むらから、突然白い鞠のようなものが転がり出てきた。

 山羊の仔である。

 どうやら痘痕の娘は仔山羊には紐を着けていなかったようだ。草むらの中で楽しく遊んでいた仔山羊は計里が近付いてきたから、びっくりして母親の元へ走り去ったのだ。


「!!」


 勢いよく戻ってきた仔山羊のおかげで、彼女も計里の存在に気が付き、それと同時に慌てて顔を袖で覆った。


「な、なにか……?」


 警戒する飼い主に影響されたのか、母山羊もメエメエうるさく鳴き始める。

 この声に負けじと声を張り上げてしまったせいで、計里は自分が思っていた以上の強い口調で彼女に迫ってしまったのだ。


「なんであなたは山羊なんて連れているんです?」

「え?」

「そのようなものを連れて歩いても、鵠国のためにならぬであろうと申しているんです。あなたにだって、もっと他に為すべきことがあるでしょう」


 突然の説教に、痘痕の娘は呆気にとられていた。

 それはそうだろう。言った本人ですら訳の分からないことを口にした自覚はあったのだ。

 だから「ですから……」と言い直そうとしたのだが、それより前に彼女は強張った目を計里に向けてきた。


「……私のやりようを気に入らない者がいるのは承知しております。恥ずべき行為と皆から思われているのでしょう。ですが私は、今できることから始めていきたいのです」

「できること……?」


 今度は計里が唖然とする番だった。

 山羊の親子を飼うだけで、そんなにも深刻な覚悟を?

 しかし物腰が柔らかい中でも、真剣な彼女の話し方には人を引きつけるものがあり、計里は思わずその言い分に聞き入ってしまった。


「鴉威の者達は草原で山羊や羊を飼って暮らしています。しかし私達はその暮らし方を知らず、一方的に野蛮だ、蛮族だと決めつけてきました。無知から来る偏見です。ならば鴉威をもっと深く知れば、華人の感じ方も変わると思うのです」


 母山羊にじゃれつく仔山羊の頭を撫でてやりつつ、痘痕の娘は一言ずつ噛み締めるように想いを語った。


「私はこの子達を飼って、その乳を絞ることで互いの理解を深めたい。二つの民族がより良い関係を作っていくための道を、私なりに探っていきたいのです」

「あなたは……」


 計里は次に続けるべき言葉がすぐに出てこなかった。

 顔を覆う痘痕の印象が強すぎたが、どうしてどうして、思慮深い娘ではないか。

 計里はこの不思議な女官ともっと話をしたいと思ったのだが、残念ながらここで打ち切りになってしまった。

 褐色の肌の兵士が庭の向こうから駆けてきて、何をしているのだ、と計里を咎めてきたのだ。

 彼の操る片言の華語は聞き取りがたかったのだが、その怒った表情を見れば言いたいことは大体分かる。


「違うのです、フーイ。この者はただ、私にどうしても言わずにいられないことがあっただけで……」


 痘痕の娘が間に入って宥めてくれる。その隙に計里は一礼を施し、身を翻した。

 鴉威の男の怒り具合から察するに、長居をすれば妙な罪に問われる予感があったのだ。言葉の通じない蛮族との揉め事は、出来る限り避けたい。

 こうして計里は彼女が何者であったのかすら分からないまま、この場を去ることになってしまったのである。


四.

 鴎花オウファはもちろん、計里ジーリィのことなんてまるで知らなかったのだ。

 ただ厨房へ出入りするようになってから、華人ファーレン達に冷たい目を向けられるようになっていたので、それゆえに話しかけられたのだと思っていた。

 彼らは自分達の仕える姫君が、蛮族のために下女のごとく料理を作っている姿に、いたく失望していた。

 鴎花が強要されたのではなく、嬉々として厨房へ通っていると分かったからだ。

 初めて会った時には慇懃に接してくれた料理長ですら、今や最低限の挨拶しかしてくれない。

 小寿だけは「そんなの気にしなきゃいいんです。誇りだけじゃ生きていけないんですからね。妃殿下は現実と向き合って立派ですよ。うちの亭主にも爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですわ」と励ましてくれるのだが、やはり翡翠姫ともあろう者が、という意見の方が根強い。

 それでも鴎花はイスカに食事を作り、山羊を飼うことを続けたかった。

 これまでは雪加に命じられる通り、受け身で翡翠姫を演じてきたが、焼いた握り飯を作るという何気ない行動がイスカに受け入れられたことで、自分にも華人や鴉威ヤーウィの民のためにできることがあるような気がしてきたからだ。

 イスカにとっての年始の変は、一族にとっての積年の恨みを晴らしただけの行為であったとしても、国を滅ぼされ、身内を殺された華人達が鴉威の民を受け入れるのは至難の業である。

 それでもイスカの王妃になった自分なら、両者の架け橋になることができるはず……。

 イスカが鴉威の暮らしぶりを語って聞かせてくれた時に、鴎花は彼らが近しい存在であることを知った。

 だから華人達も鴉威を知ることができれば、理解してくれる者が現れるのではないか。翡翠姫が率先して鴉威の理解に努めれば、お互いにとって良い結果が訪れるのではないか……。

 もっとも現実はそう上手くいかず、厨房にいる華人達からは冷ややかな対応をされるだけだったが、その中であの紺色の官服を纏った下級官吏だけは直接、鴎花に気持ちをぶつけてくれた。

 それは彼にとって、とても勇気が必要なことだったはずで、それだから鴎花も真摯に対応し、自分の考えを伝えたのだ。


(でも、あれで分かってもらえたかしら?)


 フーイに連れられて浮き島へ帰る途中、鴎花は首をひねっていた。

 ろくに向こうの言い分を聞けないうちに中断させられてしまったので、どこまで真意が伝わったのかはよく分からない。

 邪魔をしたフーイは普段は浮島の橋の袂に詰めていて、鴎花が厨房へ行く際についてきてくれる。

 フーイは片言の華語しか喋れないが鴎花にも親切にしてくれる男で、先程もうっかり風で飛ばされた面布が高い木の枝に引っかかってしまったから、代わりに取りに行ってくれていた。

 でもイスカの命令に忠実な彼は、その間に鴎花が見知らぬ華人と接したことまでは許してくれず「あれ、ダメダメ」と怖い顔で注意されてしまった。

 王妃と言えど、囚われの身である鴎花が許されるのは山羊と戯れることくらいだ。

 ちなみにわざわざこの親子を厨房まで連れて行くのは、浮き島に残しておくと、獣臭い、鳴き声がうるさいと雪加シュエジャが嫌がるからなのだが、その皇女様はと言えば、鴎花が夕方、浮き島へ戻ってくると、とんでもないことを言い出した。


「今宵はわらわが翡翠姫になる」

「え?」

「連中は今夜帰って来られぬのじゃろう。それくらい構わぬではないか」


 それから雪加は、鴎花が作った夕飯を食べ終えると、自分が着飾るための支度を手伝わせたのだ。

 濡れた布巾で全身を清めたあとには香水をつけ、髪を洗ってくしけずり、丹念に化粧も施した。

 身につける着物も式典用に用意していた絹の長衣にする。本当なら翡翠色の絹の着物が一番高価で立派だったが、何故だかそれは駄目だと雪加が頑なに言い張るので、もう一枚の赤い着物の方を着ることになった。

 一体どうしてこんなことをする必要があるのだろう?

 確かに今朝はイスカが「今夜は戻らない」と言っていた。そして兵を多く動かすから、夜の間は不用心になる、お前はこの家の中でおとなしくしておけとも言われた。

 だがフーイが居残っているように、鴉威の兵士全員が居なくなるわけではないのだ。雪加がわざわざ翡翠姫の格好をして、そのせいで入れ替わりが露見してしまったら大変なことになるのに……。


(まさか、よからぬことでも企んでいる?)


 そんな不安がよぎったものの、今日の雪加はひどく強引で、反論など許さない構えだったので、鴎花はおとなしく言う事を聞くことにした。

 そして落ち着かない気持ちのまま夜を明かしたのだが、翌朝になっても浮き島には何の異変も無かったのだ。

 朝の清々しい光が差し込む中、二階の寝室から梯子を下りてきた鴎花は、絨毯の上に座っている雪加を見ることになる。

 どうやら美しく着飾ったまま一睡もせずに夜を明かしたらしい。

 この絨毯はイスカの母達が織ったもの。

 これまでは伽藍ティエラ宮に敷かれていたが、あちらに置いておくと皆が汚すからここで使え、と三日前にイスカが運んできてくれた。

 だからとても質の良い絨毯ではあるのだが、そこに座ったまま夜を明かすなんて……。


「あの、姫様……」


 鴎花は遠慮がちに話しかけたが、彼女は口を真一文字に結び、扉の方をじっと見つめているだけだった。

 閉じた貝の如き雪加の態度に、鴎花は困り果ててしまった。

 そこで「では、私は山羊の世話をしに行ってまいりますね」と声だけかけて一旦、表に出ようとしたのだが、彼女は突然、金切り声で叫んだ。


「妾より山羊か!」

「も、申し訳ありませぬ」

「誰も彼も……本当に役に立たぬ者ばかりじゃ!!」


 叫び声を上げた雪加の目には、うっすら涙さえ浮かんでいた。


「ひ、姫様?!」

「もうよい!!」


 地団駄を踏み、癇癪を起こした雪加は銀のかんざしを付けた絹の面布をはぎ取って投げ捨てると、長衣の裾を引きずりながら、梯子を駆け上がってしまった。

 鴎花はもちろん雪加の後を追いかけようとしたのだが、その時ちょうど扉が開いて、イスカが入ってきた。

 年始の変の時のように黒い頭巾に革の鎧を身につけて武装している。今日は長剣を佩びているだけでなく、矢筒も背負っていた。


「お、お戻りなさいませ」


 大慌てで膝をつき、頭を下げてイスカを出迎えたものの、鴎花の心臓はバクバクと激しい音を立てていた。

 帰ってくるのは昼過ぎと聞いていたから、あまりに早すぎて心の準備ができていない。

 それについ先ほどまで、ここには翡翠姫に戻っていた雪加がいたのだ。これで緊張するなという方が無理な話だ。


「よくぞご無事で。陛下の類まれなるご仁徳に心打たれし天帝ティェンディによる、ご加護の賜物でございましょうや」


 頭を垂れて挨拶しながらも、鴎花の目線は先ほど雪加が投げ捨てた銀の簪と面布に向いていた。

 あんなものが絨毯の上に落ちているのは、あまりに不自然である。

 すぐにも拾いたくて我慢ならず「では、私は朝餉の支度をしてきますね」と言いながら、簪をさり気なく掴んだところでイスカが抱きしめてきた。


「なんだ。俺から逃げ出したいようだな?」

「め、滅相もございません」


 イスカは鴎花に覆いかぶさるように、耳を甘噛みしてきた。


「今は飯よりお前を食いたいんだが」

「ご、ご冗談を。お疲れでございましょうに」


 さすがにぎょっとして彼の腕から逃れようとしたが、イスカは離してくれない。


いくさの後は女を抱きたくなるんだ」


 イスカの華語ファーユィの語彙力では表現しきれなかったようだが、どうやら血がたぎってしまうということらしい。

 イスカの蒼い瞳は、部屋の真ん中にある二階への梯子を捉えていた。そういえば雪加が登った後、下ろしたままにしていたか。


「へ、陛下! まずは鎧を脱ぎましょう」


 どうにかして二階へ行かせないよう、鴎花が必死に提案すると、それもそうだなと頷いたイスカは黒い頭巾を片手で外した。

 結っていない、ぼさぼさの短髪が露になる。華人ではありえない髪型だが、精悍な面立ちのイスカにはよく似合っている。

 鴎花も矢筒を預かり、更に首の後ろにある革の鎧の結び目を解いてあげようとしたのだが、特殊な結び方をしているのか、なかなか上手くいかない。

 イスカは自分の背後にいる鴎花に向かって、焦れったそうな声を上げた。


「おい、わざと時間をかけてるのか? いい度胸だな」

「上手く解けないだけです」

「後ろからやろうとするからいけないんだ。こっちからなら解けるぞ」


 イスカは絨毯の上に胡坐をかいて座り込み、鴎花に膝の上に座るように命じた。彼の首を抱くようにして解けと言うのだ。


「……真でございますか?」

「そりゃあ、俺は自分の背中に回り込んで結んだりしていないからな」

「それはそうですが」


 でも彼の膝に座ったが最後、イスカの手は目の前にある鴎花の身体を弄ってくるに決まっている。そして、その予想は寸分たりとも外れなかったのだ。


「へ、陛下……少し待ってくださいませ」

「待てない」

「そのようなお戯れをなさると、解けるものも解けません」

「お前が早く解かないから悪い」

「ですから、それができないから申しております!」


 しかしどれだけ文句を言われても、イスカの手は鴎花の胸元に入り込むことしか考えていない。

 鴎花も彼の行いに流され、妙な声を上げそうになるが、二階にいる雪加からこの光景は見えてしまっているはずだから必死で堪えた。

 それにしても解けない。どういう結び方なのだろう。

 困り果てていたら、不意に扉が開いた。

 アビだ。

 少年兵と呼んでも良い幼い顔立ちの彼もまた、黒い頭巾に革の鎧を身につけたままである。

 兄が女とじゃれ合っているところを目撃してしまった彼は、一拍の間を置いてから不貞腐れたような顔をした。そして鴎花にも分かるように華語で言ったのだ。


八哥パーグェにどうしても今すぐ会いたいっていう華人ファーレンの官吏がいるんだ。寛いでるところ悪いけど、来てくれないか」

「……それならここへ呼んでこい。動くのは億劫だ」


 鴎花の前ではふざけるものの、イスカはこれでも真面目な君主であり、決して私情を優先することは無い。

 異母弟が官吏を呼びに出て行くと、彼は鴎花を手放して立ち上がり、あっさり自分で紐を解いて鎧を脱いだ。


「聞いての通りだ。お前は朝飯の支度をしてくれ。話というのを聞きながら食う」

「承知いたしました」


 鴎花はイスカに着替えのための新しい黒衣を手渡しつつ、竹の梯子をそっと外した。

 これで二階にいる雪加は降りてこられない。今から誰かがここへ来るなら、いっそのこと着飾った雪加はいない方が気楽だ。彼女とて、いくら心が荒れていても自分の身に危険が及ぶことはするまい。

 それから鴎花は七輪を持ち出し、表へ出た。

 朝餉は元々粥にしようと準備をしていたのだ。雪加に食べさせるつもりだったが、イスカが食べるなら匙を添え、内容も少し変えようと思う。

 こうして鴎花が湯気の立ちのぼる鍋を抱えて家の中に戻る頃には、アビも紺色の長衣を身に纏った華人を連れて戻ってきた。


「あ……」


 家の中に入ってきた男の顔を見て、鴎花は目を見張った。

 昨日山羊を連れている時に話しかけてきた官吏ではないか。

 人が来るというので今日の鴎花は、先程雪加が投げ捨てた銀の簪と面布をつけていたから、彼の方が気付くのは一呼吸遅れたが、それでも鴎花の驚き具合を見て、彼もピンときたようだ。

 だが官吏はその話をしている場合ではないと判断したようで、鴎花からすぐに目をそらした。そしてイスカの前に進み出ると膝をつき、手を胸の前で組んで頭を垂れた。


羽林軍ユーリンジュにて軍務に就いております、テェン計里ジーリィと申します。卑鮮の身でありながら直問をお許しいただき恐悦に存じます、陛下」

「あぁ、その先の長い口上はいい。悪いが今日はとても聞く気になれない」


 イスカはうんざりした様子で制すと「それより俺に話があるそうだな?」と続きを促した。


「はい、昨夜から北の玄武門が開いていることに気付きました。あの門を開いたままにしていただき、木京ムージンの民の為の荷駄を入れるのに使わせていただきたいのです」

「荷駄を入れるためなら東の門があるだろう」

「青龍門では足りません。物流が滞っているおかげで木京は食料不足に陥り、物の値段が上がっています」

「そうなのか?」


 イスカはその辺りのことを分かっていなかったようで、アビに目を向けた。


「……調べさせる」


 アビはすこぶる不機嫌そうな顔で頷く。

 彼がこんな顔をするのは珍しい、と鴎花はふと思った。

 そういえばアビがわざわざ華人を連れてくるのも初めてのことだった。

 この計里という男に弱みでも握られているのだろうか。そうとしか思えない表情に見える。

 そして実際のところ、計里は後宮で雪加を襲っていた件を大事おおごとにする、とアビを脅してここまで来ていたので、鴎花の推察はあながち間違っていなかったのだ。


「米や麦の値段が上がり続ければ、民の不満につながることは間違いありません。早急に玄武門を使って物流を改善するべきです」

「ダメだ。玄武門は軍のための門だから、確かに荷駄を一気に通すことはできるだろうが、あの大きさじゃ荷改めが追い付かない。危険すぎる」


 アビが異を唱えた。

 昨夜は出兵のために門を開いただけなのだ。

 大きすぎる門だけに頻繁に開け締めするのは難しい、と彼は主張するが、それを計里は一蹴した。


「荷改めよりも木京の民の暮らしの方が優先です。反乱なんてものは暮らしぶりが落ち着いていたら起きぬもの。陛下は木京に武器や反乱分子が入り込んでくることを恐れているのでしょうが、そんなことはどうでもよろしい」

「そんなことだと?!」


 アビは目くじらを立てるが、計里は意に介さない。


「私めはこの国を支えるため官吏になりました。士大夫としての今の私めにできることは、あの門を使って木京の物価高を押さえ、民の暮らしを守ることに他なりません。どうか許可をいただきたい」


 イスカの後ろに控えた鴎花は、粥を椀によそい入れていた手を止めた。どこかで聞いた言い回しだと思ったら、昨日の自分の言葉と同じではないか。

 そしてイスカもまた、蒼い瞳を煌めかせて、熱心に計里の話を聞いていたのだ。


「その物価高は、食料が満足にあれば下がるということだな? では必要だというだけの米と麦を預けたら、お前が値段を落ち着かせることはできるか?」

「断言はできません」


 慎重な計里は安請け合いをしなかった。


「経済は生き物です。価格は収支の釣り合いなど諸々の要因で決まってくるので、市場に米を投入し過ぎれば、安くなりすぎてかえって混乱することもあります。ただ私めは羽林軍において物資の補給を担っているだけに、少しはやりようというものを理解しています。ですからお任せいただければ最善を尽くします」

「分かった。ここまで直訴してきたお前の度胸を買おう。まずは一ヶ月、玄武門をお前に預けるから、木京における米と麦の価格を安定させろ」


 イスカは即決した。計里を見て、その話しぶりを聞き、信頼のおける男だと判断したのだ。


「運のよいことに、俺は昨夜、東鷲ドンジゥ郡で大量の食糧を手に入れたんだ」

「それは……」


 イスカの言葉が何を意味するのか察したようで、計里は僅かに眉をひそめた。

 鴎花も同じく目を伏せる。イスカが兵を動かした以上、華人との衝突があったのだろうとは察していた。しかしいかな理由があろうと同胞を殺められれば胸は痛むのだ。それだから鴎花はイスカがどんなことをしてきたのか、敢えて問わないようにしている。

 計里も詳しい経緯は聞かなかった。今の彼に必要なのは、物価を安定させるだけの食料が手に入った、という情報だけである。


「これからあの食料はこちらに運んでくる手筈になっている。それをお前に全て預けよう」

「八哥、それは危険すぎる。こいつは華人だぞ」


 アビが鴉威の言葉で止めに入った。

 しかしイスカは計里にも分かるよう、敢えて華語で返事をする。


「この男は鴉威のために働くんじゃなくて、士大夫としての誇りにかけ、この国の民のために働くと言っているんだ。それなら任せて構わない」

「ありがとうございます、陛下」


 イスカの口をついて出た言葉に、計里はごく自然な流れで頭を下げているようだった。

 華人の彼が鴉威の王に頭を下げるには葛藤もあったと思うが、イスカの王としての力量に感服したということなら、鴎花はとても嬉しい。

 彼がこうやって華人たちに信頼され、王として敬われることになっていけば、華人と鴉威、二つの民族はいがみ合うこともなくなるのではないだろうか。


「話は終わりか? なら、お前らも飯を食っていくといい。足りるな?」


 振り返ったイスカに問われ、鴎花は頷いた。元々二人分で用意していたが、一人分の量を減らせばなんとかなるだろう。

 しかし計里は戸惑った表情を浮かべていた。

 客人をもてなすために一緒に食事をとるのは、鴉威では当たり前のことだが、王たる者が下級官吏とこれほど近い距離で食事を一緒にとることは、鵠国フーグォでならありえない。

 しかも差し出された椀には、見たこともない白濁した粥が入っていたのだ。


「山羊の乳の粥だ。雪加は料理上手なんだ。華人でも食べやすいように作ってくれているから安心して食え」


 一足先に頬張りながら、イスカは機嫌よく説明してくれるが、鴎花としてはなんとも居心地が悪い。

 

(えーっと……正確に申し上げますと、ほぼ小寿シャオショウが作ったものです。私は温め直す時に搾りたての山羊の乳を加えただけで)


 イスカに対してまた嘘が増えてしまったことを心の中で詫びつつ、鴎花は面布の下で優雅に微笑んでみせた。

 しかしまぁ、山羊の乳を粥に加えるのは鴎花が思いついたことだった。

 イスカから乳を使った鴉威の料理をいくつか教えてもらったものの、塩気と臭みがキツ過ぎて鴎花が食べられず、仕方がないから鵠国の料理に乳を混ぜることにしたのだ。

 これをイスカが気に入り、彼に出す粥にはいつも山羊の乳を入れるようになった。


「なるほど……これは華人と鴉威の民に寄せる、妃殿下のお志を表した粥なのですね」


 計里は感慨深げに椀の中の乳粥をじっと見つめた。

 そして食べきると、鴎花に対し頭を垂れたのだ。


「妃殿下お手づからの食事をいただき、感慨無量です。今日の記念に、是非とも一筆賜りたく存じます」


 これは鵠国ではわりとよくある話である。

 身分の高い女性に対する敬意を表すために、書を所望するのだ。これは持って帰って掛け軸などにする。

 しかし計里は官吏らしく墨入れと筆だけは持参していたが、紙が無い。

 そこで鴎花は棚から絹の面布の予備を取り出し、その布に四行の詩を書いた。


 白日依山尽

 長河入海流

 欲穷千里目

 更上一层楼


霍子フォズですね」


 書き終えた布を計里に渡すと、さすが科挙を突破してきた官吏だけに、すぐに作者を言い当てた。

 意味は、夕日に染まった山と、海へと流れる雄大な長河チャンファの絶景を眺めるべく、高楼の一段上へ行こう、という意欲に満ちたもので、これから木京の街の物価高に挑むという計里を応援する意味で選んだ。本当は自作しても良かったのだが、偽物の身でさすがに恥ずかしくてやめたのだ。

 ありがとうございます、と恭しい所作で布切れを押し頂いた計里は「霍子といえば……」と少し目元を和らげて話を始めた。


「昨夜は家にある霍子の書物を手当たりしだいに読み返しました。きみきみたらずとも、しんしんたらざるべからず……霍子が説いた士大夫としての道を考えておりまして」

「ほう」

「陛下は霍書に続編があることをご存知ですか?」

「続編?」

「霍子が晩年に記した書物です。あまり知られてはいないのですが、そこでは『君雖不君、臣不可以不臣』と、これが大前提であるとして述べた上で『しかれど、きみきみたらざれば、すなわしんしんたらずとも言えり』と書き加えられているのです」


 ここで改めて居ずまいを正した計里は、懐から翡翠色の布切れを取り出してイスカに手渡した。


「実はこのようなものを手に入れました」

「なんだ、これは?」


 字が読めないイスカは眉をひそめ、計里は内容を読み上げた。


「翡翠姫の名を騙った命令書でございます」

「うん?」

「翡翠色の布に書けば、それらしく見えるであろうと思い、誰かが戯れに書いたのでしょう。昨日、後宮で拾いました。ですが妃殿下の手跡でないことだけは、たった今、はっきりいたしました」


 計里の差し出した布切れを見て、鴎花は肝が冷えてしまった。

 この翡翠色の布にも、これを書いた張本人にも覚えがある。どう考えても鴎花が持っていた翡翠色の絹服の一部で、雪加が書いたものではないか。

 鴎花には計里の意図が読めた。

 彼は後宮のどこかで出会った雪加本人から、この書付けを預かったのだ。

 雪加が昨夜翡翠姫に戻っていたところから察するに、後宮からの脱出でも依頼されていたのだろう。

 そして雪加は自らの身分を証明するために、翡翠色の絹の長衣の裾を切り取ったに違いない。

 それなのに計里は雪加を迎えに来ること無く、逆に翡翠姫の命令書を偽物としてイスカに手渡してしまった。

 この行為は、自発的に差し出すことで計里に反逆の意図が無いことを示すと共に、雪加の命令書に鴎花が絡んでいないと証明したことになる。


(この人は私を翡翠姫として認め、守ってくれた……?)


 少なくとも計里には、この布を渡した雪加に肩入れする気が無いことだけは分かった。

 本物の翡翠姫と実際に言葉を交わしているなら、そして鴎花の醜い痘痕を見てしまっているなら、二人の入れ替わりに気付いた可能性が高いのに。

 それでもなお、鴎花を翡翠姫として遇するというのか。


「同じようなものが出回っている可能性はあります。そんなときにはどうぞ、妃殿下の無実を信じて差し上げてくださいませ。乳粥を作ってくださるようなお方が、陛下に仇為すはずがありませぬ」


 そう言い残して計里は下がり、この後イスカは翡翠色の布切れをもう一度鴎花に見せた。

 かけすの羽のように澄んだ色をした蒼い瞳が、鴎花を真正面から捉えていた。

 まだ面布をつけたままで良かったと、鴎花は心底思う。


「誰が書いたか、心当たりはあるか?」

「いいえ。分かりませぬ」

「これを書いた目的は何だと思う?」

「誰が書いたかも分からぬのに、目的まで分かるはずがございません」

「……それもそうだな」


 鴎花の返答に、イスカは唇の端だけで器用に笑った。

 笑うことで心もほぐれたのか、目元が和らぐ。

 そして彼は翡翠色の絹布を、この場でびりびりに破り捨てたのだった。


「お、おい、八哥……」

「ならばこの件はこれで終いだ。あの男の言うとおり、これはただの落書き。追及するほどの価値もない」


 イスカはあっさり言ってのけたが、アビは真っ向から反論する。


「価値はあるだろ。翡翠姫は華人たちの旗印になりうる。今回の東鷲ドンジゥ郡の反乱だって、早めに情報を掴んだから一晩で片付いたんだ。大事になる前に芽は摘んでおくべきだと俺は思う」

「そんなもの、俺が王として翡翠姫以上の威を示し、善政を敷けばいいだけだ。問題ない」


 イスカの言葉に揺らぎは無い。

 アビは口をつぐんだ。

 兄の度量の大きさに感服しつつも、素直に認めたくない反発心もちらほらと。

 そんな複雑な感情を弟から読み取ったイスカは、少し低いところにある彼の頭を、被っている頭巾ごと大きな手で掴むように撫でた。


「お前がそうやって心配してくれるのは、ありがたいんだぞ。これからも気付いたことはなんでも言ってくれ」

「やめろよ。そうやってまたガキ扱いして」

「そんなことはない。お前は昨夜の戦いで先陣を切り、長官の首まで刎ねたじゃないか。今回の一番手柄だ。まぁ、勇敢を通り過ぎて、怖いくらいの活躍だったがな」

「あれくらい……鴉威の男なら当然のことだし」


 鴎花には二人の交わす鴉威の言葉が分からないけれど、アビが兄の前だとちょっとむくれた少年の顔になり、イスカがそれを優しい目で見守る、その関係は好きだなと思う。鴎花には兄弟がいないから、余計に羨ましい。


「じゃあ、俺は部屋に戻って一眠りしてくるよ」


 イスカに遊ばれてしまったせいでクシャクシャになった頭巾を外し、手の中で丸めていたアビだったが、立ち上がった際に、ひょいと鴎花に耳打ちしてきた。


「鴎花に言っといてくれ。いくら下でじゃれてる二人がいても、上で怠けてないで自分の勤めくらい果たしに降りて来いよって」

「……」


 鴎花は凍りついてしまって、咄嗟に何も言い返せなかった。

 彼は雪加が二階にいることに、大分前から気付いていたのだ。

 僅かな物音、息遣いから漏れ伝わってくる人の気配。そういったもので推測されてしまったに違いない。

 そして侍女が二階に籠もりっ放しで、主君が一人で食事の支度をする状況を、不自然だと思ったに違いない。

 アビはそれ以上のことを言わずに出て行ったが、入れ替わりについて疑われるきっかけを与えてしまったのではないかと鴎花は怯える。

 そんな鴎花の側に、イスカはすうっと身を寄せてきた。


「何を言われたんだ?」

「他愛も無いことです」


 ここは適当なことを答えれば良かったのだろうが、受けた衝撃が強すぎて頭が回らず、鴎花は笑って誤魔化そうとした。

 それがイスカの癇に障ったらしい。

 彼は手を伸ばして鴎花の面布を外すと、顔を覗き込んできた。


「ほう。俺に言えない話か」

「ですから、わざわざ申し上げるほどの話では無いと……」

「隠し事をされるのは嫌いなんだがな」


 ようやく二人きりに戻った反動で、その態度は少々ねちっこい。

 これが先程まで立派な王様であった人の振る舞いか、と苦笑しそうになるが、鴎花は当初の難題にまた向き合わねばならぬことを知った。

 そうだ。一刻も早くこの人の気をそらし、その間に雪加を階下へ降ろして、元の女官の装いに戻さねばならない。

 そのための助け舟は、家の外から不意に飛び込んでくることになった。母山羊が大きな鳴き声を上げたのだ。

 鴎花ははっとして立ち上がる。


「あぁ、山羊の世話を忘れておりました! あの子ったら寝藁が汚れていると、先ほども文句を言っていたのに、私はそのままにして乳搾りだけをしてしまって……すぐに戻りますね、陛下」

「え……お、おい」


 突然のことで驚くイスカを残し、鴎花は一目散に表へ飛び出した。


「……俺より山羊か」


 鴎花の姿が引き戸の向こうに消えると共に、イスカは憮然としたつぶやきを漏らした。

 その言葉が先ほど、雪加が発したものと同じものであるとまでは知る由もないが、突如として手持無沙汰になってしまったイスカは、母の織った絨毯の上へごろりと転がった。

 そうすると夜通し駆けてきた疲れが、急にこみ上げてくる。毛織物はイスカが幼い頃から慣れ親しんだ極上の寝床なのだ。

 こうして鴎花がそっと戸を開けて戻ってきた時には、賢く勇敢な王様は穏やかな寝息を立て、深い眠りに落ちていたのである。

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