幕間
雪加は耳を塞いで蹲ったまま、その場から動けずにいた。
梯子を上げてしまった二階から響いてくるのは、明らかに二人の男女が絡み合っていると分かる振動と、女の上げるあられもない嬌声。
(汚らわしい……!)
雪加はあまりのおぞましさに、身の毛を逆立てた。
二人が二階へ上がってから、もう一刻以上の時間が過ぎているが、ずっとこの調子だ。
あの男は夷狄だけに鴎花を這いつくばらせ、獣のようにその身体を貪っているのだろう。それに対し鴎花も破廉恥な声を発して、男の劣情を煽っている。
イスカへの嫌悪感はもちろんのことだが、雪加は今や、鴎花が憎たらしくて仕方なかった。
あの愚かな娘はイスカの振る舞いに流され、自分が翡翠姫を演じていることなんて、綺麗さっぱり忘れているに違いない。
中原の宝玉とまで謳われた高貴な皇女が、蛮族相手にあんなはしたない声を上げるはずもないのに……どうして男に嬲られてなお、あんなに悦べるのか……。
様々な想いが胸の中を駆け巡るうちに、雪加の目には涙さえ浮かんできた。
(本当に……なんと情けないことか!)
雪加が溢れ出す感情で身を震わせていると、戸が開く音がして、男が一人、訪ねてきた。
アビだ。
沈みかけの夕陽を背負って部屋に入ってきた黒衣の青年は、長剣を一振とイスカの着衣を手に持っていた。それは雪加が鴎花の言葉に従わず、表に出しっぱなしにしていたものである。
彼の出現により、雪加の目に浮いていた涙はすぐに引っ込み、代わりに視線だけで殺せるほどの険しい目つきになるが、アビはそれと張り合うように剣呑な視線を向けてきた。
「おい、八哥は? 着物だけじゃなくて、剣まで外に放りっぱなしってのは、どういうことだよ?!」
アビは敬愛するイスカの身を案じるあまり、手にした兄の長剣を雪加の喉元に突き付けんばかりの勢いだった。
まだ少年臭さが抜けない小柄な男だが、その黒い双眸には、すでに歴戦の兵士らしい苛烈な光が宿っている。返答次第では即刻雪加を斬り捨てかねない勢いだ。
ところが彼が荒らげた声を上げたその直後、建屋全体が揺れた。
元々楼閣だったこの建物は、壁として戸板を打ち付けただけなので、少しの振動でもすぐに揺れるのだ。
「え?」
ぎょっとしたアビが天井を見上げると、それに呼応するように明らかに女性のものだと分かる甘い喘ぎ声が漏れてくる。
「……おいおい、まだ日暮れ前だぜ。何やってんだよ」
一瞬で事態を理解してしまったアビは表情を弛緩させると同時に、脱力してしまった。
「俺は命じられたとおりに働いてたのに、自分だけお愉しみだなんて、そりゃ狡いってもんだろ。なぁ?」
アビは馴れ馴れしく話しかけてきたが、雪加は完全に無視した。氷塊を削ったかのような冷たい表情を浮かべて横を向く。
「言付けじゃ。今宵はこのまま泊まる。明日からきちんと働くから今日は許せと」
明らかな棒読みでイスカからの言葉を伝えるには伝えたものの、本音を言えばこの男とは同じ空気も吸いたくなかった。
今、こうして向かい合っているだけで、雪加の胸には屈辱と痛みと恐怖と、その他諸々の負の感情が沸々と込み上げてくる。
あの夜にこの男から受けた仕打ちは、今尚、雪加の心を打ちのめしていた。鴎花に手を上げ、八つ当たりするくらいで晴らせるわけがないのだ。
しかし偶然にも、アビの方もこの時、同じ夜のことを思い出していた。
褐色の肌をした蛮族の青年の顔に、雪加とは真逆の感情が広がっていくのがありありと見て取れた。
「ふうん……じゃあ、お互いの主がお励みになってるってことは、俺達は今日もまた、揃って暇になったってことだな」
口元に浮いた下卑た笑いを隠そうともしないところが、腹立たしい。
あぁ、そうだった。
少年臭さを残した容貌をしているくせに、この男はあの夜もこんな表情を浮かべながら、面白半分に雪加を襲ったのだ。
あれはまだ表宮の厠所にいた時のこと。鴎花がイスカに呼ばれて行ってしまい一人きりになってしまったところへ、アビが折れた化粧筆を掴んで乗り込んできた。
そして、翡翠姫と二人で結託してイスカに危害を加えようとしたのか、と問い詰めに来たはずが、突如としてその態度を変え……。
美しく清らかなこの身体を蛮族などにむざむざと蹂躙された悔しさは筆舌に尽くし難く、あの夜以来、雪加はずっと気持ちが荒んでいる。
このやり場のない怒りと悔しさを、如何に晴らしてくれようか。
そればかりを考えて過ごしてきたものの、良い案が浮かぶこともなく、苛立ちばかりが募った。
なのに今もまた我が身を守る術を見つけられず、じりじりと後ずさることしかできないのが情けない。
唇を血が滲むほど噛みしめた雪加だったが、しかし壁に背中を貼り付けた時、外から鴉威の言葉で誰何があった。
橋の袂に詰めている兵士が、様子を聞きに来たのだ。普段ならアビがこの浮島に居残ることはないから、不審に感じたのだろう。
アビは咄嗟に手を伸ばし、雪加の口を手で覆った。
「問題ない。八哥と話をしているだけだ。もう少しかかるから、戻っていいぞ」
アビが声を張り上げると、兵士は了解し、橋を渡って戻っていってしまった。
その足音が遠ざかっていくのを確認してから、アビは雪加の口元に当てた手を外す。
しかしそんなことをされなくても、雪加が声を出すわけがなかった。
翡翠姫ともあろうものが蛮族に手籠にされているところを目撃されるなんて、絶対に嫌だからだ。だからこそ、雪加は鴎花にすら何も言っていない。
「意外とおとなしいもんだな。叫んでくれてもいいんだぜ。そうしたら八哥が降りて来て、俺を罰してくれる」
「ふん。罰してほしいような言い方じゃな」
「あぁ。俺は生まれながらの罪人だからな」
口元を歪めたアビが雪加の着物の帯に手を伸ばしてくるから、反射的にその手を全力でひっぱたいた。
「無礼者!」
「あぁ、そうだ。それくらいしてもらわなきゃ面白くない」
叩かれて赤くなった自分の手の甲を、アビはこれ見よがしに舌を伸ばして舐めて見せた。まるで叩かれたことで美味しくなったとでもいうように何度も何度も。
「くっ……」
その気色悪い行動に雪加は息を呑み、それが故に隙が生じたところをアビに捕まり、そのまま床の上に押し倒されてしまった。硬い床の感触が雪加の絶望感を余計に煽ってくる。
「離せ!」
雪加の声と、天井から漏れてくる鴎花のか細い嬌声が重なった。アビは楽しげに顔を歪める。
「いいな、この状況。ぞくぞくする」
「!!」
「さぁ、上の二人に負けないよう、俺達もめいいっぱい楽しもうぜ」
己の体重と腕力で強引にねじ伏せにかかるアビは、それでもか弱い抵抗を続ける雪加を嘲笑った。そして雪加の着衣を少しずつ時間をかけて剥がしていく。
「俺はさぁ、華人ってのが大嫌いなんだよ。特にお前みたいにお高くとまった女が一番嫌いだ」
耳元に囁かれるこの男の華語は、発音だけなら完璧なのに、背筋を凍りつかせるほどに冷たい。
「お前らなんて、滅茶苦茶にしてやる。華人なんて、この世からみんな消えてしまえばいいんだ……!」
アビの吐き出す激しい怨嗟の念が、雪加の身体を汚していくようだった。
なのにこんな時でも天井から漏れてくるのは感極まった鴎花の甘い声なのだ。
こんなの……まるで雪加が喘いでいるように聞こえるではないか。
(……やはりあの者は許しがたい……!)
奥歯を音が出るほど軋ませる雪加の口を、アビが噛みつくように貪ってきた。
そのあまりの嫌悪感に身をよじるも、一度牙を剥いた卑しい蛮族は、決して逃してくれない。
天におわす龍の神はどうして、自分の子孫がこんなひどい目に遭っているのに助けてくれないのだろう。
もはや涙を流す気にもなれない、絶望的な状況だ。
怒りと屈辱に震えながら耐え忍ぶことしか、雪加にできることはなかったのである。