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痘痕の翡翠姫  作者: 環 花奈江
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二章 夷狄の王

一.

 イスカが木京ムージンを占領した夜のことは、鵠国フーグォにおける年始の宴の最中であったことから、年始の変と呼ばれるようになった。

 その年始の変の後の三ヶ月間で、イスカは長江チャンファの北側、河北ファベイ地方の各郡の庁を制圧し、この地域をほぼ掌握した。そして季節が変わり都が鮮やかな薄紅色の桃の花で包まれる頃に即位し、王を名乗った。

 同時に鵠国皇帝、燕宗イェンゾンの五女、チャオ雪加シュエジャを王妃とすることを宣言。

 そして鴉夷の字を同じ音の鴉威ヤーウィと改めた上で、新しい国の名前も威国ウィーグォとした。夷という文字には蛮族という蔑んだ意味があったので、これを改めた格好である。

 蛮族どもは食料や金品を奪ったら北の大地へ帰って行くだろう、と楽観視していた一部の華人ファーレンらは、彼らがこの国に居座るつもりだと知って愕然とした。

 しかしイスカは慌てる者達を尻目に、本気で新しい国作りに取り組み始めたのだった。



***

 弱冠二十三歳の若き王は、即位した翌日から精力的に動き出した。

 表宮に集めた文官らに指示したことは主に三つ。

 今年の租税は一切徴収しないこと。

 鵠国時代の法律を簡略化させること。

 人材登用を広く世間に訴えること。

 法を単純明快にしたかったのは、無駄を嫌うイスカの気性によるところも大きいが、租税を徴収しないとは太っ腹な話だ。

 これは単純に人気取りのための政策である。

 華人にとって鴉威の民は異民族。それも辺境の蛮族と蔑んできた存在だ。それなのに年始の変により一夜にして支配する側から、される側になってしまった。華人が鴉威に敵意を抱くのは当然であり、その支配を受け入れられない者がほとんどだと思われる。

 だから租税を無くすことによって、華人の気持ちを少しでも和らげようと図ったのだ。幸いなことに瑞鳳ルイフォ宮は多くの宝玉や豪華な調度品で飾られていたから、これらのうちのめぼしいものを売り払えば、一年くらいは税収無しでもしのげそうだったのだ。

 加えてイスカは金のかかる後宮の運営をやめて、支出を減らした。さらには皇族やそれに連なる者達の家を取り潰し、家財の一切を召し上げることもした。彼らの蓄えていた財宝は国庫を潤すのに十分な額であったのだ。

 しかし王位について二十日目、イスカは華人らに対し、早くもうんざりし始めていた。


「華人ってのは、どうしてこんなに仰々しいことが好きなんだろうな」


 表宮での文官達との話し合いを終えて部屋を出た直後、イスカは七歳年下の異母弟アビを前にしてぼやいてしまった。

 アビの母は鵠国から嫁いできた華人だった。そのため彼は華語ファーユゥが鴉威の誰より堪能で、イスカはそんな弟を従者として手元に置き、難しい言葉の通訳をさせているのだ。


「よくもまぁ、あそこまで無駄な口上を並べられるものだ。しかも毎回」


 質実剛健を地でいくイスカにとって、華人の官吏達の考えは理解できない。

 鵠国の官吏らのうち、希望する者はそのままの待遇で威国でも働いていた。

 鴉威の民は遊牧を生業なりわいとしており、華人ら農耕民族に対するまつりごとの経験がまるで無い。だから文官らの事務処理能力には重宝しているのだが、実際に彼らを使ってみると、その手法には違和感を覚えることも多い。

 例えば、イスカが一つ意見をいうだけで、文官らはその場に跪き決り文句を言う。


天帝ティェンディの英知にも並ぶ陛下の御賢察、誠に畏れ入り奉ります。臣らの浅慮は陛下の足元にも及ばず、慚愧ざんきに堪えぬこと甚だし」


 イスカが、そんなまどろっこしいことはしなくていい、と咎めても彼らは「国の主たる人物とはこのようにやり取りするものです」と主張を曲げない。


「礼之用和為貴《礼の用は和を貴しと為す》と申します。礼儀を守ることは大切なことです」


 そして彼らは臣下が王に対する礼を守ることで、王の威が増す、と説明した。イスカが王を名乗るのであれば、これくらいの口上は我慢しろというのだ。


「そんなのは屁理屈だ。あいつらは蛮族は礼儀を知らないって馬鹿にするために、ややこしい儀礼を持ち出してるだけだぜ」


 イスカの傍らでアビは唇をひん曲げ、心底憎たらしげに言った。


八哥パーグェがあいつらに配慮する必要なんて無いよ。華人のやりように合わせるんじゃなくて、こっちのやり方に染める。従えない奴は斬り捨てりゃいいだけだ」


 アビの意見は苛烈だ。

 彼は支配者である鴉威の民が被支配者である華人達に寄り添う必要など無い、と常々考えているのだ。

 ちなみにアビが王であり兄であるイスカに対して敬語を使わないのは、鴉威の言葉に敬語というものが存在しないからである。

 対して華語では一つの表現に対し、相手や自分の立場に応じた複数の言い方がある。そのあたりの複雑さは、華語を母国語としないイスカを苛立たせる要因の一つにもなっている。

 しかし文字を持たない鴉威の言語は、広い国土と人々を統治するには不向きなのだ。苦手だろうが面倒だろうが華語を使うしかない。

 イスカは極論を語る弟と話をしているうちに、苛立った気分が少し落ち着いてきた。

 華人の土地を占領し、彼らと共に国を治めると決めたのはイスカだ。そのために多少の苦労をすることは覚悟していたはずではないか。


「まぁ、礼節とやらを守ってやることで華人を丸め込めるなら、付き合ってやるしかないな。華人を治めるには華人を使わなきゃならない。それは紛れもない事実なんだから」

「そこまでして中原を治める必要なんてあるのか?」

「うん?」

「さっき親父からまた早馬があって、まさにそう言ってたんだよ。中原なんて面倒なものを背負う必要はない、取るもの取ったらすぐに帰ってこいってさ」


 二人の父であるソビは先代の族長であり、病を得た後は族長の地位を息子に譲って鴉威の地で療養している。

 これまで各部族ごと対立していた鴉威の民を一つにまとめ上げた勇猛で賢い父ではあるが、長年の隷属関係に慣れ、鴉威は鵠国に従ってこそ安泰、と思い込んでいる節があり、息子達が挙兵することにも大反対していた。

 だからイスカが威国を作って、これからは華人達と共に中原を治めていくのだ、と説明したところで全く納得してくれないのだ。


「まぁ、病のせいで心細いってのはあると思うけどな。でも親父だけじゃなくて、鴉威に早く帰りたいってのは、みんなの本音だと思うぜ」


 アビの言うとおりだ。

 特にこれから季節が夏になっていけば、暑さに慣れない鴉威の民からは、必ず帰郷の訴えが上がる。

 それはイスカにもよく分かっていた。だからこそ父の命令を年寄りの世迷い言、と切り捨てることはできない。この件については同胞らの理解を得られるまで、根気よく説得するしかないのだ。


「帰りたい気持ちは分かるが、それではまたすぐに、明日の飯も無い貧しい暮らしに逆戻りだ。そして食っていけなくなると中原を襲い、そこに暮らす華人達から憎まれ、反撃されて討ち取られる。その連鎖は断ち切らねばならない」

「それはそうだけどさ」

「少なくとも皇帝の行方が分かるまでは、絶対帰れないぞ。俺達が兵を引いた途端、皇帝は瑞鳳宮に帰ってきて兵をまとめ、鴉威へ攻め込んでくるだろう。俺達の土地は起伏に乏しく広大で、山羊や羊を飼うにはいいが守りに適さない。鴉威を守るためにも、この木京と華人を掌握し続けることが大切なんだ」


 それがイスカの持論だ。

 広大で肥沃な土地と多くの民を抱える華人は、きちんとした指導者にさえ恵まれればいつでも鴉威を滅ぼすことができる。それだけの国力と資源を持っている。

 そんな強大な力を持った連中から身を守るには、彼らを従え、ともにこの地を治めていくしか手がないではないか。


「その鍵になる男がここにいる」


 イスカは地下への入口を指し示して言った。

 表宮の地下には罪人達を放り込んでおくための大きな地下牢があり、イスカは今からこの中にいる老人に会いに行くのだ。


***

 鴉威の兵士は少ない。

 元々人口も少ないのだから当然なのだが、イスカが率いるのはたったの一万騎だ。その後追加で女子供を呼び寄せたりはしているが、それでも二千人も増えるものではない。

 だから牢屋まで見張る余裕がなくて、囚人らを常時手鎖で繋ぐなどして逃亡を防ぐようにし、配置する兵士の数を減らしていた。

 しかしこの日イスカが覗き込んだ牢屋の主は、冷たい石床の上に座っているものの鎖で拘束はされておらず、牢屋番らも最低限の礼節をわきまえた対応を命じられていた。

 洗濯したばかりのこざっぱりした衣服を身に着けているところも、通常の囚人ではありえない高待遇だ。


「おい。そろそろ首を縦に振ったらどうだ?」


 イスカは牢屋の鉄格子越しに禿頭の老人に話しかけた。

 白い顎髭が立派な彼は、鵠国においては宰相を務めていた人物で、信天翁シンティェンウォンという。

 本当はシァン天文ティェンウェンという名なのだが、最初にイスカが祥宰相、と呼んだら「鵠国は滅び、自分も今はもう宰相ではないから雅号で呼べ」とわざわざ要求してきたのだ。

 雅号とは文や詩を書く際の、仮の名のようなもの。祥宰相という人間はもはやこの世にいない、と言いたかったのだろう。

 それでもイスカは、この男を表舞台に引っ張り出したかった。

 皇帝から全幅の信頼を寄せられ、鵠国の文官の長として長くまつりごとに携わってきたこの老人の手腕は貴重だったし、彼が威国に従うと言えば、倣う華人も多いはずだ。

 だから年始の変で彼を捕まえて以来、翡翠姫のように瑞鳳宮の一角へ軟禁し、寝返るように説得しているのだが、なかなかうまくいかない。それで痺れを切らし、数日前からは敢えて過酷な地下牢に入れてみたのだ。

 しかしイスカ自ら牢屋まで来てやっているのに、この老人ときたら目を合わそうともしない。

 石の床に胡座をかいて座り、牢の壁に向かって瞑想し続けているのだ。


「……飯は食っているようだな」


 イスカは牢の中に空っぽの椀が置いてあるのを横目で見た。蛮族から与えられる物など口にしない、と当初は言っていたはずだが、考えを変えたらしい。

 信天翁は目を閉じたまま、口だけを開いた。


「この米は鵠国で収穫された、鵠国のものだ。何を遠慮することがあろうか」

「あぁ、なるほど」

「そしてぬしらをこの宮殿から追い出す日のためにも、この老体を朽ちさせるわけにはいかぬ」

「威勢のいいことだ。だが信天翁、我々がこの宮殿から出ることはない。鴉威と華人、二つの民族は融合し、この地を永く治めていくことになるのだからな」

「……」


 信天翁からの反応はない。

 再び瞑想にふけった彼は、蛮族の言葉など聞く気にもならないと態度で示しているのだ。

 しかしイスカは構わずに語り続ける。


「俺が望んでいるのは、互いが互いを無理やり支配する、これまでのような関係ではない。華人には華人の良さ、鴉威には鴉威の良さがあって、できないこともそれぞれにある。これを補い合えるよう、力を合わせて国を作っていきたいのだ」

「おい、こっちを向け! 話をしている相手に対して、それが華人の礼節ってもんなのか!」


 無視を続ける態度に我慢しきれなくなったアビが大声を張り上げた。

 しかし信天翁は孫のように若い孺子こぞうなど眼中にないようで、微動だにしなかった。

 代わりに可愛げのないことをぬけぬけと言ってのける。


夷狄ウィーディなんぞに守る礼節は持ち合わせておらぬわ」


 夷狄とは華語の中で鴉威たちを最も侮蔑した言い方だ。直訳すると野蛮な獣という意味になる。

 華語をよく理解しているアビは当然いきり立ったが、イスカはそれを制した。


「やめろ、アビ」


 イスカは首を横に振った。こんな失礼なことをぬけぬけと口にしているようでは、口説き落とせそうにない。


「また日を改める。それまで俺達に出された飯を食ってよく考えておけ」


 こうしてイスカは何も得るものがないまま、疲労感だけを増やして、地上への階段を登ることになったのだった。


***

 表宮と後宮。

 この二つの宮に跨るように位置するのが、かつての鵠国皇帝の住まいである鳳凰フォファン宮だ。

 しかしイスカはこの宮殿を自分の住居としては使っていない。

 質素な生活を信条にしているイスカは、私室として表宮の部屋を一つ占有するので十分だったので、このだだっ広い宮殿は、共に鴉威の地から駆けてきた兵士らの宿舎に当てていたのだ。

 その他の後宮の宮殿も、その大半を同胞らの宿舎にしている。

 年始の変で後宮を襲い、働いていた者のほとんどを召し放ったため、場所が余っていたこともあるが、言葉が通じない異民族の兵士が街中で華人らと共に暮らせば、衝突が起こるに決まっている。ある程度互いの存在に慣れてくるまでは、華人と鴉威の者達が必要以上に接することが無いよう気を遣ったのだ。

 そんなわけで鳳凰宮の中にある、元は皇帝しか出入りできなかった後宮への渡り廊下は、今や鴉威の者達が我が物顔で出入りしていた。

 夕方、地下牢から出てきたイスカとアビも、この細い渡り廊下を抜けて後宮に入った。


「頑固爺ぃめ」


 格式ばった表宮から艶やかな雰囲気の溢れる後宮へ足を踏み入れてからも、アビはまだ顔を歪めて文句を言っていた。

 二人の歩く足元の小径には、石畳が敷き詰められていた。鵠国の歴代皇帝は大勢いる寵姫達に、それぞれの宮殿を持たせており、それらはこの石畳の小径でつながっていた。

 彼女らは皇帝の足が自分に向くよう、宮殿を囲う垣根にも趣向を凝らして美しい花を植えていたため、石畳の上を歩く二人の足元では連翹れんぎょうが目にも眩しい黄色の花を、少し目線を上げれば木蓮もくれんの木が赤紫色の花をいくつもつけて、爽やかな香りを漂わせていた。

 しかしいきり立っているアビは、花になんて一切目を向けず、唾を飛ばしながら憤怒の言葉をまき散らすのだった。


「八哥がわざわざ足を運んでいるのに何なんだよ、あの威張り腐った態度は! あんな爺ぃ、早く殺そうぜ!」

「だが、信天翁の手腕は得難いものだぞ」

「手腕なんてどうでもいいさ。華人はあの通り、どいつもこいつも狡猾で、傲慢で、自分達がこの世で一番偉いと思いこんでる糞みたいな連中なんだ。生かしておく価値もない」

「お前がそこまで言ってやるな。華人の気持ちも少しは理解してやれ」


 どんどん過激な方向へと思考が偏っていく弟を案じてイスカが嗜めると、アビは顔を真っ赤にして噛みついてきた。


「俺は鴉威だ。あいつらとは違う!」


 年若いアビには頑ななところがある。

 華人の母を持つがゆえに、華人に近いと思われるのが嫌で、必要以上に自分が鴉威の民であることを強調してくるのだ。

 イスカはそんな弟を宥めるように、短く刈り込んだ黒髪をぽんぽんと撫でてやった。


「落ち着け、アビ。俺はむしろ華人の血を引くお前に期待しているんだぞ。お前のような存在が増えて、この国を華人にとっても鴉威にとってもいい方向へ導いてくれれば望ましい」


 鴉威だの華人だのと、いちいち意識しなくてもいい世界。それこそがイスカの理想なのだ。

 しかしアビは口を尖らせた。

 敬愛する兄に期待されるのは嬉しいものの、子供扱いされて丸め込まれた格好になっているのは不服だったのだ。

 顔を膨らませた彼は、兄を揶揄するように言った。


「ふうん。それで八哥はあの女にご執心なんだな。毎晩毎晩、飽きずに通っちゃってさ」

「仕方ないだろ。天帝の娘とやらを孕ませるには、こっちが励むしか手がない」


 イスカが王妃の元へ通うのは、政治的意図があってのことなのだ。そこには惚れた腫れたのような、下世話な感情は無い。

 淡々とした兄の言葉で心が落ち着いたアビは、少し頬を緩ませた。まさかイスカが本気で痘痕あばた娘を愛でているとは思っていなかったが、王に即位して以来、あまりに律儀に通うのを見ていたから、少し心配になっていたのだ。


「天帝の娘ねぇ……どうも胡散臭い話だけどな。だってさ天帝ってのは水を司る、全身鱗だらけの、細長い龍の格好をした神様なんだろ。それが人間との間にどうやって子を成すんだよ」

「はは。そりゃそうだな」

「それに天の神様の子孫が地上にいるっていうなら、寒波とか干ばつとか、そういうのは全部無しにしてくれたらいいじゃないか」

「同感だ。俺達がこうやって木京を占領している時点で、華人達を加護する天帝が空の上にいないことを証明してしまっている」


 鴉威の民には天帝のような絶対的な神がいない。万物には神が宿るという淡い自然崇拝を行っている。だから華人らの考え方は理解しがたいのだが、それでも彼らは天帝を信仰しているのだ。

 その娘を正妻として娶ることで華人達が少しでも納得するなら、それくらいは付き合ってやろうとイスカは思う。

 もしもイスカがもっと年を食っていて、既に正妻や子を得ていたのならこの意見は変わったかもしれないが、まだ若くて妻帯もしていなかったから、その点はちょうど良かった。


「しっかし、あの女もよく王妃になることに同意したよな。もちろん従う以外に手は無いんだけど、高慢ちきな皇女様だけに、もっと逆らってくると思ってた」

「そうだな。俺もその点は意外だった」


 イスカは大きく頷いて同意した。

 彼女の側から考えれば、イスカは祖国を滅ぼした憎い男だ。しかもイスカは瑞鳳宮を占領した夜、木京にいた彼女以外の皇族を容赦なく殺している。余人が天帝の血筋を手に入れ、王位を脅かすことが無いようにするためだ。

 皇帝と皇后だけは行方知れずだが、彼女の叔父や叔母、兄弟達を大勢手にかけているのだから、イスカはもっと反発されてもいいはず。

 だが彼女は言うのだ。


「それはその……正直なところ、他の皇族達とはほとんど縁がなかったのです。儀礼的に叔父や叔母とは呼んでいましたが、親しくしていたわけでもありませんし、殺された兄弟達は腹違いなので余計に縁も薄く……」

 

 年始の宴のために集まっていた皇族を残らず殺したのだと伝えた時、彼女があまりに落ち着いていたものだからイスカが理由を訊ねると、彼女は困惑した表情でそんな返事をしてきた。

 もちろんその言葉が本音だと信じるほど、イスカも愚直ではない。この女はイスカに従うふりをして油断させ、背後からグサリと刺してくるつもりなのかもしれない。

 何しろ初夜の寝所に、折れた化粧筆を持ち込もうとしていたくらいなのだ。

 後刻アビから報告を受けたイスカは、化粧筆如きでどうにかできると思ったところが女の浅知恵だな、と笑って不問にしたし、以降の彼女はおとなしく振舞っているが、しかし心を許すわけにはいかない。


「あいつも虚飾の国の女だからな」


 イスカは足元の小石を革靴の先で蹴り飛ばした。

 所詮は顔を覆う痘痕を隠して中原の宝玉、翡翠の姫と名乗ってきたような女だ。

 保身のため、そして祖国を復興させる機を伺うために、憎い男に身を委ねるくらいのことはするだろう。

 イスカは最初、彼女の痘痕面にこそ同情したが、それゆえに甘くなりすぎないように、と今は自らを戒めている。

 そんな気持ちは伝わってしまうのか、彼女の方でもここ最近はイスカとなるべく口をきかないよう気を付けている節があり、やはり互いに心を通わせるのは無理そうだ。

 翡翠姫はイスカの子さえ産めばよい。

 威国の王たるイスカにとっては所詮、それだけの存在なのだ。


「王妃と言えばさ……」


 アビがふと何かを言いかけた。

 しかし歩いている二人の目の前に、池の中に浮かぶ小さな島と、そこに建っている粗末な造りの小屋が見えてくると、彼は口をつぐんでしまった。

 イスカがどうしたんだ、と聞き返す前に「なんでもないや。じゃあな。また明日の朝、迎えに来る」と、アビは早口で言った。

 どうやら積極的に触れて欲しくはないが、打ち明けておきたい話があるようだ。しかしイスカにはどんな話なのか見当もつかない。

 小首をかしげる兄を池の前に残し、アビは自室のある伽藍ティエラ宮へ去っていったのだった。


二.

 伽藍ティエラ宮の庭園に位置する大きな池の真ん中に浮かぶ島に、鴎花オウファ雪加シュエジャは幽閉されていた。

 この池は人工のものだが、かなり広い。

 島と岸辺は一本の橋で結ばれており、島の中央には庭を見渡せるように二層構造の楼閣も作られていた。

 その大きさは一片が一丈(約3.3m)の正方形。

 在りし日にはこの楼閣に皇帝夫妻が並んで座り、池に小舟を浮かべての花見などを楽しんだものだが、イスカはこの建物を改装し、一軒の家に作り替えた。

 島の大きさギリギリまで壁を伸ばして床面積を三倍ほどにし、これまで吹き抜けになっていただけの二階部分へも床板を貼って登れるように改装したのだ。

 そして岸辺側の橋の袂には見張り小屋を作り、兵士を駐屯させた。

 王妃とは名ばかりである旧王朝の皇女を幽閉するには、他の者らが接触できないよう島の中に閉じ込めておくのが都合良かったらしい。

 鴎花が長い間軟禁されていた表宮からこの浮き島へと身柄を移されたのは、初めて彼と通じた日の翌日だった。それから日を開けず王位に就いた彼は、以来毎晩欠かさずに鴎花の元へやってくる。

 しかしこの浮き島で彼が行うことといえば、運ばれてきた夕餉を一緒に食べ、その後鴎花を抱いて寝て、翌朝また朝餉を食べて出かけるだけ。

 下手すれば会話が一つもない日もあり、これが夫婦というものだ、と言われれば、夫婦とはなんと淡白な間柄かと鴎花は思う。

 まぁ、それについては鴎花も悪いのだ。


「そなたの行動は、全て翡翠姫のものとなるのじゃぞ。蛮族に馴れ馴れしい態度を取るでない。わらわに恥をかかせる気か」


 侍女に扮した雪加がそう言って鴎花を睨んでくるから、イスカに優しく接することができていない。鴎花が冷淡な対応ばかりしているのでは、彼が心を開いてくれないのも当然であろう。

 イスカとの関係は捗々《はかばか》しくなかったが、この島での暮らしは存外快適である。

 鴎花が島の外へ出ることは許されていないが、それでも必要な衣服や化粧品、身の回りの品などは、兵士に頼めば無理のない範囲で取り揃えてくれるようになったからだ。

 それにイスカのいない日中は、雪加と二人きりでゆったりと過ごせるから、その点もありがたい。

 イスカの前ではおとなしく振舞っている雪加も、周囲の目が無くなれば元の気儘なお姫様に戻れるのだ。


「いつまでもそのようなふてぶてしい顔をするでない! 腹立たしい!」


 この日も、朝になって無言のまま出て行くイスカを見送った直後、家の扉を閉めると同時に、雪加の平手が鴎花の頬を打ち鳴らした。

 どうやら鴎花の顔つきが王妃然としていて、生意気に見えたらしい。

 つい先程まで翡翠姫として振舞っていたのだから仕方がないと思うのだが、気が立っている雪加にはそのような理屈が通じない。


「妾を顎で使って、さぞやいい気になっていたのであろうな。その醜い顔に書いてあるわ」

「とんでもありませぬ。方便とはいえ姫様に侍女のフリをさせるなど、大変申し訳ないと心苦しく……」


 とにかく主の怒りを鎮めようと鴎花は平伏して懸命に謝ったが、雪加はいきり立つばかりだった。


「ええぃ、口先だけの謝罪などいらぬ。さっさと洗濯でもしてまいれ! 彼奴きゃつは食べ方が汚いゆえに、すぐに衣を汚しおるからな」

「はい、只今!」


 甲高い声でわめく雪加から逃げ出したい一心で、鴎花は汚れた衣服を手にして表へ飛び出した。

 楼閣を改造した折、島に元々生えていた木は全て切り倒してしまったが、対岸の岸辺では木蓮の花が咲いているのが見える。

 季節の花々の美しさを理解しない鴉威ヤーウィの民は、庭木の手入れもしないから雑草が伸び放題なのだが、大きな木は放っておいても季節ごとに綺麗な花を咲かせている。

 特に、中心が淡く、外側になるほど花びらを重ねて色を染めていったように濃い赤紫色になるになる木蓮の花は鴎花も大好きで、どれだけ見ていても飽きない。

 そんな美しい花をつけた枝の向こうには、かつて鴎花や雪加が住んでいた伽藍宮の姿が見える。

 後宮の中で最も美しく、最も華麗な宮殿と謳われた宮殿だが、今では鴉威の兵士らの住まいとなり、彼らの手で盛大に荒らされているようだ。その庭園とて例外ではなく、彼らの連れ込んだ馬達の放牧場となっていた。今も浮き島の対岸では葦色の毛並みの馬が二頭、長い尻尾を振りながら池の水を飲んでいる。

 鴎花はそんな馬達に見つめられながら、浮き島の岸辺に腰を下ろした。

 皇女が自ら洗濯を行うなんてありえないこと。

 しかし鴎花は華美を嫌うイスカの命令で、女官らと変わらない木綿の着物を着ていた。加えて雪加とは背格好も同じなので、池の向こうから見られたところで正体が露見することはないだろう。これだけ距離があれば、雪加の美しさも鴎花の醜い痘痕面もそう大して変わるものではない。

 鴎花は慣れた手つきで襷がけをし、袖を絞った。

 これでも洗濯は得意なのだ。

 通常は身分の低い下女の仕事であるが、醜い容貌の鴎花は人前に出すのはみっともない、と雪加の母であるツェイ皇后から疎まれ、その存在が目立たぬように部屋の掃除や洗濯ばかりをさせられていたからである。

 天気は良かった。このところ晴天続きで空には雲一つ見当たらない。

 鴎花は灰汁あくで汚れを洗い落とすと、綺麗になった着物や下着を竹竿にかけて干した。この天気ならすぐに乾くだろう。

 イスカが身につけている黒い衣は、木綿の着物と違い羊の毛から作った糸で織ってあるため分厚くて乾きにくいが、これだけ暖かければ問題ないはず。

 鵠国フーグォでは国の頂点に立つ者なら黄袍こうほうという特別な絹の長衣を着るのが慣例だが、彼はそんな裾の長い着物は歩きにくいと言って、これまで通りの黒衣しか身に着けない。

 着飾ることで偉ぶろうとしないところが、鴎花としては好感を覚える点だが、しきたりにうるさい人達は余計なことを言いそうだ。

 鵠国には三百年近く続く長い歴史があり、その間に培ってきた面倒な取り決めも多い。無駄を嫌うイスカは、さぞや衝突しているだろうと心配になる。

 この平穏な暮らしを用意してくれたイスカに、鴎花は感謝していた。

 名ばかりの王妃であるがゆえに、食事以外の身の回りのことは全て自分達でこなさねばならないが、それでも衣食住で足りないものは無いし、こうやって自由に陽の光を浴びることもできるのだから、部屋の中に軟禁されているよりよほど良い。

 しかし雪加はこの浮き島に来てからというもの、やたらと機嫌が悪かった。鴎花に対しては、今朝のように手を上げることも増えている。

 元々我儘な性格ではあったが、平手で女官の顔を打ってくることまではしなかったのに……一体どうしたことなのだろう。

 理由を聞けば「そなたがあの男を殺めてこなかったからじゃ!」と叫ぶように言った。


「それは申し訳ありませぬ。ですがあの化粧筆も部屋に入る前に取り上げられましたので、私にはどうしようもなく……」

「何をぬけぬけと開き直る。そなたが隠し通さぬから悪いだけであろう! 大体、なぜ王妃になることをそなたはあっさり認めた?! 妾は皇族を皆殺しにしたような輩の妃になるなど、死んでも御免じゃぞ!」


 雪加が般若の形相で怒り狂う時、あぁ、あの対応は悪かったな、と鴎花も反省する。

 そう。イスカから皇族の殺害を聞かされた際、鴎花は為政者としての彼の厳しい一面を知り、圧倒される思いでうっかり頷いてしまったのだ。

 その淡白さはイスカにも不審がられたし、雪加の悲嘆ぶりを目にすれば、これくらい激しく抗議するべきだったか、と悔やんでしまう。

 こういう些細なところから、入れ替わりが露見してしまうかもしれない。これからは本物の皇女らしく、皇帝や皇后との思い出話なども挟んでいくべきか。

 雪加だってこんな危なっかしい影武者を間近で見ているから、もどかしい思いを抱えているのかもしれない。それでついうっかり手を上げてしまうということなら、納得がいく。

 家臣として、少しでも姫君の心が安らぐように努めなければ……と、鴎花が思案し始めた時、部屋の中からは再び甲高い怒鳴り声が響いてきた。


「鴎花!! 床に菜っ葉の切れっ端が落ちておるぞ! 彼奴きゃつが手掴みなんかで食べるからじゃ。全く! 蛮族とはなんと下品なことか!」


 鴎花は飛び上がった。

 彼女の声が橋の向こうに詰めている兵士にまで聞こえたところで、叫び声の主については誤魔化せるが、発言内容は言い訳できまい。

 確かにイスカは食べ方が汚いし、作法もなっていないが、何も大声で非難するようなことではないのに……雪加はどうしてこんなに苛立っているのだろう。


「すぐ参ります! すぐ片付けますから!」


 鴎花は慌てて立ち上がると、洗濯物もそのまま投げだし、雪加のいる家の中へと戻ったのだった。


三.

 イスカにとって理解できないことの一つに、華人ファーレンらがとる昼休憩がある。

 彼らは日が一番高くなる頃仕事を中断し、家から持ってきた弁当を食べるのだ。

 遊牧民である鴉威ヤーウィの民は一日二食しか食べず、従って昼休憩という概念が無い。山羊や羊は連れ出したら絶えず辺りを見張っておかないと、狼に食べられてしまうし、迷子になるのも出てくる。

 呑気に食事休憩をとれるのは、農耕民族ならではの習慣なのだろう。

 イスカは寛容なところを見せるため、華人らのやりようには口を挟まず、むしろ自分も昼餉というものを一緒に食べてみようと挑戦したことがあるのだが、それはすぐに止めた。

 イスカがいると官吏達が緊張して休憩にならないし、食事中は微妙な空気になるのだ。

 華人の行儀作法は面倒くさい。

 貴人ならば魚は骨より上の身だけを食べろとか(裏返してまで食べるのは意地汚いから)、出された食事を全部食べ切るなとか(食べ足りないという合図になってしまうから)、汁物を吸う時に音を立てるなとか(音が汚いから)、茶碗以外の皿は手に持って食べるなとか(これはもはや理由不明。そういうもの、らしい)……。

 何よりイスカは箸が苦手だった。

 どうして細長い棒切れ二本で小さな豆粒を摘まめるのか、全く理解できない。

 鴉威の料理は基本手づかみか、椀に直接口を付ける。補助的に匙を使うことはあるが、箸なんて使わない。

 しかし瑞鳳宮の料理人達は鴉威の料理を知らないので、これまで通りの宮廷料理しか作らなかった。

 おかげでイスカは豪華だが複雑な料理に挑むことになり、食べ方が汚い、という華人達からの白い目に晒されるのだ。

 そんなわけでイスカはこのところ、昼の間だけ政務室を抜けだすようにしていた。

 そして浮いてしまった時間は表宮の中にある自室に籠もり、アビに助けてもらいながら書類を読んでいる。華語ファーユィでの会話はアビの母から教えてもらったのである程度できるが、文字に慣れないので報告書を読むのには時間がかかるのだ。

 今のところ文章での報告があれば文官らに音読させているが、しかしできることなら王自ら書面を読んで、理解できるようにしたいではないか。

 これは中原を治めるために必要な事。

 イスカは文句も言わずに奮闘している。


「ふぅ……お前はよくこんなものが読めるな」


 苦労してようやく一枚の報告書を読み終えたところで、イスカは感嘆の声を上げた。華語は文字の一つずつがおかしな形をしていて、それぞれに意味があるのだ。その数ざっと十万。一朝一夕に覚えきれるものではない。

 傍らでは黒い瞳の異母弟が肩をすくめていた。


「俺は小さいうちに母から叩きこまれたからさ。道徳書である霍書フォシュの暗唱は士大夫の基本。そなたは辺境育ちと侮られぬようにせねばならぬ、って、そりゃもう毎日勉強漬けで」


 士大夫というのは科挙という難関試験を突破した官吏のこと。この試験さえ通れば、武官を上回る高い役職に就けるので、鵠国フーグォでは勉学が盛んだった。

 アビの母は鵠国の出身だったので、子供に勉強させるのは当然という意識があったのだ。


「俺は書を読むより馬に乗っている方が好きだし、霍書の内容なんかもう忘れたいんだけどさ、頭にこびりついて離れないんだよな」


 物理的な刺激を与えたところで記憶が無くなるわけではないのだが、アビは自分の頭をしきりに拳で叩いている。


「いや、お前が勉強してくれていて本当に助かってる。俺一人じゃこんなにたくさんの文字を覚えられないし、読むこともできない」


 威国ウィーグォが治めているのは今のところ長河チャンファの北側、河北ファベイ地域だけで、旧鵠国の半分の領土なのだが、それでも各地から送られてくる書類の量は多い。華人達に読ませることで余計な情報を与えてしまったり裏切られたりするのは怖いので、鴉威の人間が直接に文字を解することはとても重要なのだ。


「さて……少し早いがそろそろ戻るか。午後からは文官達との打ち合わせだったな」

「あぁ。税務官からの報告がある」


 今年の税は一切無しと決めたが、来年からは納めさせることになる。

 誰からどのくらい徴収するのか。

 鵠国は民に重税を課していたから、それよりは安くしたいところだが、その匙加減と仕組みが難しいので、今から時間をかけて決めていきたいと思っている。

 イスカはアビを連れて政務室に戻った。

 政務室は表宮の中にある、三十人くらいが集まれる中規模の部屋で、一段高いところには王が座るための椅子と机が用意されている。

 政はここに文官らを集めて話を聞き、イスカが決裁していく形を取っていた。

 イスカはすぐにも仕事を始められるよう、彼らが昼休憩を終える前に政務室へ戻っておくことにしたのだが、部屋に入ってみて驚いた。

 誰もいない部屋の四方の壁に、午前中まで無かった文字が書き連ねてあったのだ。


 天地有正氣

 雜然賦流形

 下則為河嶽

 上則為日星

 於人曰浩然

 沛乎塞蒼冥

 皇路當清夷

 含和吐明庭

 時窮節乃見

 一一垂丹青


 白い壁を大きな屏風と見立てたように、太い筆と墨で殴り書きされた文字は、イスカにはまるで読めなかったが、その乱雑な文字の勢いから悪意だけは感じ取れた。


「……なんて書いてあるんだ?」


 目にした瞬間に顔をしかめたアビを見れば聞くまでも無いことだったが、イスカは一応解説を求めた。


「これは確か『正気せいきの歌』っていう詩だよ。鵠国の初代皇帝、太宗タイゾンがそれまで中原を治めていた隼国スングォを滅ぼしたときに、その国の臣下だった男が亡国への忠誠心を表すために読んだものだな」

「ふうん……で、そんな詩がこの部屋に書かれているということは、隼国とやらを鵠国になぞらえ、鵠国を鴉威に置き換えて考える不届き者がいるということだな?」

「まぁ、そういうことだろうな」


 頷いたアビは、すぐに消させるよ、と言って部屋を出て行った。亡国への忠誠を誓った詩なんて、残しておくわけにはいかない。

 弟が行ってしまい一人部屋に残ったイスカは、読めない文字の羅列をじっと見つめ続けた。

 こんなものを書いたって、文字の読めない鴉威の民には通じないのに。

 いや、王が文盲であることを嘲笑っているのか?

 今、瑞鳳宮に出仕している華人達は、諸手を挙げて喜んでではないにせよ、新しい為政者におとなしく従うつもりなのだとばかり思っていたが、実際のところはそうではなかったということだ。

 イスカは鴉威の民の居住地を木京の街と切り離したように、華人達を過度に刺激しないような施策を選んできた。

 木京を落とした後の三ヶ月間でイスカは長河の北側に十六ある郡を制圧して回ったが、各地の長官らは今もそのままの地位に留めて日常業務に当たらせている。文治主義を掲げた鵠国は地方に軍隊をほぼ置いておらず、戦わずに降参した者が多かったせいでもあるが、これは華人らに混乱を生じさせない為の配慮でもあった。

 同じく、都にいる官吏にも地位と給与の保証をしているから、望めば彼らは今までどおりの暮らしができるはずだ。

 大体、イスカが王を名乗っているのも華人達に譲歩した結果なのだ。

 中原では古代より、国の支配者は皇帝と呼ばれてきた。皇帝とは、神である天帝に代わって地をべる、という意味がある言葉。

 その皇帝の呼称を異民族が使えば、華人達から反感を買うことは避けられない。そこで一段下の位である王を名乗ったのだ。

 しかしイスカの配慮は、彼らの心には届かなかったようだ。

 昼休憩を終えた文官らが、一人二人と執務室へと集まってきた。

 彼らは皆一様に壁に書かれた文字に驚いていたが、目を丸くする者達の中にこれを書いた犯人がいるのかもしれない。おろおろした表情でイスカの顔色を窺いながらも、夷狄ウィーディの王に侮蔑の目を向ける輩が。

 ほどなくしてアビが、掃除道具を携えた華人の下男らを連れて戻ってきた。


「跡形を残さずに消せ」


 イスカは敢えて鴉威の言葉で命じた。途端に彼らは互いの顔を見合わせて戸惑ってしまうが、分からないなら覚えたらいいだろう。こいつらも異国語を使う苦労を少しは知ればいいのだ。


「消せないのなら壁ごと壊してもいい。こんな無駄に広い宮殿、少しくらい壊れたところで俺は気にしない」


 イスカはざわつく華人らをその場に残して、部屋を出て行った。

 こんなむしゃくしゃした気分では、政務を行う気になれないではないか。

 ではどこへ行くのか。

 少し迷った後、イスカは地下牢へと足を向けた。


八哥パーグェ!」


 アビが表宮の廊下を走って追いかけてきた。華人達に先程のイスカの命令を通訳してやっていたから、遅れたのだろう。

 イスカはむくれた表情のまま言った。

 

「俺は今日はもう、何もしてやらないからな。気分が悪い」

「それだからって、あの爺ぃに会いに行くのかよ?」


 仏頂面の兄が地下牢への石段をずんずん降りていくから、アビは不思議そうな口調で尋ねてきた。

 これだけ苛ついている時に、わざわざあんな胸糞悪い老人に会いに行こうという意図が分からないのだろう。

 しかしイスカはこの際だから徹底的に華人というものに関わりたい気分になっていたのだ。

 今なら華人の性根を、配慮と言う名の曇り無しに見られるはず。

 ならば華人らの代表格ともいうべき、あの老人に会っておくべきだと思ったのだ。



***

 イスカはアビと一緒に地下への階段を降りて行った。

 薄暗くひんやりとした石造りの牢は、空気も淀んでいて決して気持ちの良い場所では無かったが、信天翁シンティェンウォンは今日も変わらず瞑想中。

 落ち着き払ったその態度は彼の豪胆かつ、高邁な人格から来るものなのだとこれまでは感じていたが、単に蛮族ごときの虜囚になっている己の現状から目をそらすための逃げの手段であったのかもしれない、とイスカは思った。

 牢屋番の兵士から預かってきた鍵を使ってイスカは単身、彼の牢の中に入った。

 本来なら中に入るのは危険すぎる行為だが、相手は老人だし、イスカは腰に長剣を帯びている。それに念のためアビを牢の外に残しているから問題ない。

 そんなことより重要なのは、この老人の態度であろう。

 イスカがすぐ側にいるのに、今日もまた頑なに目を向けようとしないのだ。


「おい、信天翁。今日はお前と腹を割って話をする為に来てやったぞ」


 イスカは胡坐をかいて座ると、頑固な老人の背中に向かって語りかけた。


「今更なんだが、お前が俺に仕えることができない理由を、きっちりと聞いたことが無かったと思ってな。なぁ、どうしてお前は俺に仕えるのを良しとしないんだ?」

「……」

「俺は無駄を省いて租税も安くして、人々が暮らしやすいように国を強く導く。鴉威の者だけでなく、華人にとっての良き王となれるように努力もしよう。お前はそれより他に、王たる者に何を求めている?」


 すると禿頭の老人は、イスカに背を向けたまま口だけを開いた。


「ぬしに仕えぬ理由など語るまでもない。ぬしが蛮族だからだ」

「その蛮族とは何なのだ? 俺達には蔑まれる覚えなんて無い。華人とはその暮らしぶりが違うだけで、同じ人間だ」


 イスカの答えに対し、信天翁はようやく振り向き、そして目を開けた。老人の内側から溢れてくる感情が、皺を刻んだその重い瞼を持ち上げたのだ。


「ほう……この風雅な都へ来てもなお、髪を結うこともせず、髭も生やさず、さらにはそのように品のない黒衣を着用しているようなぬしに、未だ賤民せんみんの自覚が芽生えぬとは。驚きを禁じえぬ」


 イスカの黒衣を一瞥した老人の黒い瞳には、もはや憐れみに近い感情が宿っていた。イスカが華人の優位を理解できないことが、信天翁にはまるで理解できないのだ。


「なんだと?」

「獣を追いかけ、儀礼を守らず、力を誇示するだけのぬしらは、まさに獣同然ではないか。花鳥風月、四季を彩る美しいものに接しても、涙を流すことも無ければ、詩を詠むこともできぬ心貧しきぬしらに、同じ人間などと言われるのは片腹痛いわ」

「詩を詠めないと心が貧しい? ならば燕宗イェンゾンはどうなる。あやつは確かに詩を詠むことにかけては人一倍優れていたそうだが、実際にやったことと言えば、俺達が瑞鳳宮に攻め込んたと同時に、自分一人で逃げ出したことくらいだぞ」

「え? そうなのか?」


 イスカの言葉にいち早く反応したのは、信天翁ではなくアビの方だった。

 皇帝が瑞鳳宮から逃げたことは知っていたが、一人だけで逃げたことまでは知らなかったからだ。皇后の行方も未だに不明。二人が一緒に逃げた可能性も高いはずなのだが……?


「……あぁ、そうなんだ。燕宗の侍従がそう証言している」


 驚いている弟から目をそらしたイスカは、再び信天翁に話しかけた。

 

「部下を見捨てるような男に遠慮する必要は無いだろう。お前がいつまでも鵠国に忠誠を誓う理由を、逆に知りたいくらいだ」


 イスカが畳み掛けると、彼は重々しい口調で答えた。


「君雖不君、臣不可以不臣」


 嫌がらせのような小難しい返答に、イスカは眉間に皺を寄せて押し黙った。

 そして黒い瞳の弟を振り返って「なんて言ってるんだ?」と説明を求める。

 日常会話はできるが、あまり難しい表現をされると理解できないのだ。


霍書フォシュに書いてある言葉だよ。きみきみたらずとも、しんしんたらざるべからず。つまりダメな君主であっても、臣下としての忠義は尽くすべき、という意味だ」

「馬鹿か、お前は」


 アビの解説を聞くなり、イスカは吐き捨てるように言った。

 この宰相は己の仕える皇帝が君、君たらざる存在、つまり上に立つ器ではないとあっさり認めたのだ。

 それでも忠節を誓うと開き直る。これが馬鹿な行為でなくて何だと言うのか。

 しかし信天翁は「これこそが臣下としての行い。その崇高な心は、夷狄なぞには理解できまい」とむしろ胸を張った。

 つまりこの老人は異民族という存在を蔑み、尚且つ忠誠心を貫く己に陶酔しているにすぎないのである。


「……要するに、お前はどうあっても俺のような蛮族には仕えぬということなんだな」


 最終確認である。

 失望したイスカの声音が無機質なものに切り替わったことには、信天翁も気付いたはずだ。いや、蛮族風情がどんな感情を抱こうが、彼にとってはどうでもよいことなのか。


「そのとおりである。変節漢として歴史に名を残すくらいなら死を選ぶ。夷狄に従うつもりは無い」

「ならば死ね」


 立ち上がったイスカは剣を抜いて振り上げた。

 禿頭の老人はそれでも動じない。代わりに彼がつぶやいたのは正気の歌。


「天地有正氣

 雜然賦流形

 下則為河嶽……」


 信天翁ほどの士大夫であれば、恐らく全文を暗唱していたはずだ。しかし彼はこの詩を最後まで唱えきれなかった。

 イスカが老人の皺首に長剣を叩きつけ、その胴と頭を永遠に切断したからである。



***

 あんな干からびた老人であろうとも、間近で首を切り落とせば、鮮血が飛び散るものだ。

 斬った張本人だけでなく、牢屋の外にいたアビまでが信天翁の返り血で汚れてしまったが、黒い瞳の弟はそれでも喜んでいた。


「あれは死ぬべき男だったんだ。八哥は良い決断をした」


 鴉威の王たる者、こうでなければいけない、とアビは言う。

 苛烈な決断は、凍てつく北の大地で生きる一族を導く上で重要なこと。

 華人のように法律や道徳に則って、行動をがんじがらめにされた指導者はいらない。

 果断即決。必要な判断を必要な時に下せる男こそ、鴉威では高く評価されるのだ。


「俺達になびかない華人なんて、どんどん殺したらいいんだ。繰り返すうちにあいつらも気付くさ。自分達の支配者は誰なのかって。そうすれば言う事を聞く奴だけが残る」


 アビの言葉にはイスカも頷いた。

 人を斬った手応えで心が昂ぶっていて、自分の感情が荒っぽい方へ偏っていることは分かっていたが、それでも確かにイスカはこれまで華人達に優しくし過ぎたようだとは感じていた。

 鴉威こそが支配者なのだ。

 もっと一方的に命じられるはずなのに、イスカが華人達を慮ったがために、彼らをつけ上がらせてしまった。

 そういえば、文官達には広く人材を登用するようにと命じているのに、いつまで経っても優秀な華人を連れてこないではないか。

 彼らは長ったらしい奏上文を並べることばかりに熱を入れ、ろくに実務をこなさないのだ。やったことといえば壁に詩を書き、イスカを詰っただけ。

 なんだか急に全てが白々しくなってきた。

 いっそ父の言うとおりに、こんな国を治めることは放棄して故郷に帰るべきか、というところまでイスカの思考は飛躍していた。

 華人は逆襲してくるかもしれないが、例えば再起不能な程に木京を焼き尽くしておけば、この国も立ち直るまでに時間がかかるだろう。それなら鴉威は安泰だし、ここまでイスカに従って来た兵士も喜ぶ。

 どれだけ努力したところで夷狄の王にしかなれないのなら、蛮族じみた荒い手を使ってもいいではないか?

 牢屋番達に遺体の処理を命じた後、地上へ戻ったイスカは「……王妃の元へも行くかな」と呟いた。

 華人らをとことん追及するのであれば、この際だから彼女の本性も暴いてやろうと思いたったのだ。

 大国の皇女としての権威を身に纏い、一向にイスカに馴染もうとしない彼女もまた、信天翁と同じような考えの持ち主なのだろう。

 どうせ飾り物の妃だ。

 天帝の娘だなんてことはどうでもいい。そんなものはただの伝説なのだし、翡翠姫を得たところで華人達がイスカに心を開かないのなら、殺したって同じではないか。


「よし。俺は王妃のところへ行ってくる。お前は表宮に戻って、さっきの詩を書いた奴を探し出してこい。処分は追って伝える」

「分かった」


 こうして弟と別れたイスカは、穏やかな午後の日差しに背中を押されるようにして、伽藍ルイフォ宮の庭園の池に浮かぶ小さな島へ一人で向かったのだった。


四.

 この時の鴎花オウファは浮き島の家の扉の前にしゃがみこみ、七輪と格闘しているところだった。

 団扇であおいで風を送り、火力を調節する。

 そんな慣れぬ作業に没頭していたものだから、イスカがすぐ目の前で仁王立ちになっていると気付いた時には、声も出せぬほど驚いてしまった。


「!!」

「何をやっているんだ、お前は?」


 凍えるような冷たい目で見下ろされてしまったが、その言葉は鴎花こそが投げかけたい。

 今まで日中は浮き島へやってこなかったのに。今日に限ってどうして?

 混乱しつつも、鴎花は半瞬で今の状況を思い返した。

 雪加シュエジャは今、家の中にいるはずだ。彼女は今日も機嫌が悪くて、朝餉にも手を付けぬままふて寝している。

 侍女が日の高いうちから休んでいるなんて不自然極まりない状況だから、イスカに見つかるわけにはいかない。今すぐにでも彼女を起こして、この場を乗り切らなくては……。

 しかし目線をイスカの顔へもう一度向けたら、褐色の肌に血痕が飛び散っていることが分かり、鴎花は改めて悲鳴を上げてしまった。


「お、お顔に血が……!」

「俺の血じゃない」


 手の甲でざっくりと頬を拭ったイスカは、いつになくぶっきらぼうな口調だった。

 普段から口数の多い方ではないが、それでも鴎花を冷たくあしらうことはなかったのだ。

 一体、何があったのだろう。今の彼からは、まるで氷の壁を間に挟んでいるかのような有無を言わせない拒絶感を感じる。

 しかし今はイスカより雪加だ。

 鴎花は勢いよく立ち上がると、戸板を打ち付けただけの粗末な家に向かって金切り声を上げた。


「何をしているのです、鴎花!! 陛下がおいでですよ。お召し替えの着物を用意なさい!!」


 イスカの来訪を伝えたい一心で声を張り上げた鴎花は、そのままの勢いで家の中へ戻ろうとしたが、引き戸に手をかけたところで彼に遮られた。


「おい、火をつけっぱなしだぞ」

「そ、そうでした」


 慌てて七輪の前へしゃがみ直して火を消す鴎花に対し、イスカは「それで、お前は何をやっているんだ?」と眉根を寄せたままもう一度尋ねた。


「そ、それは……」

 

 鴎花は言葉に詰まってしまった。まさかイスカが明るいうちにやってくるとは予想しておらず、気の利いた言い訳を用意していなかったのだ。


「わた……いえ、妾は料理を作るのが好きなのです」

「はぁ?」


 視線を彷徨わせ、しどろもどろに答えると、案の定イスカの眉間の皺がより一層深くなった。

 やはり不自然であったか。しかし、こうなったらその設定で押し切るしかない。


「はい。厨房からこちらに食事が届けられるのは日に二回なので、小腹が空いた時に食べられるものを自分で作ってみようと思い立ちまして」


 鴎花が作っていたのは握り飯だった。七輪の網の上にお行儀よく三個並んでいる。

 雪加が食べなかった朝餉を、見た目が変わったら食欲が湧くのではないかと思い、作り替えてみたのだ。

 七輪の使い方はかつて母が教えてくれたから、鴎花も知っており、橋の袂に詰めている鴉威の兵士に頼んでつい先ほど持ってきてもらった。

 彼らは華語ファーユィをろくに解さないので、紙に書いて渡し、判読できる者に見せることで用意してもらったのだ。


「陛下も召し上がりますか?」


 イスカの胸に生じているはずの疑念を、形にする暇を与えてはならない。

 焦った鴎花は表面にうっすら焦げ目の付いた握り飯を半分に割り、彼に無理矢理押し付けた。そして毒見のためその半分を食べて見せる。


「あら、美味しい」


 この場を取り繕うことばかり考えていた鴎花は、とにかく何か喋ろうとした結果、うっかり自画自賛してしまった。握り飯の中には菜っ葉の胡麻和えを入れており、これがご飯との相性も良く、更には表面に薄く焦げ目がついたところも香ばしくて、本当に美味しかったのだ。


「如何でしょう、陛下? これなら表面を炙っているので手を汚さず、おかずも一緒に簡単に食べられますよ」


 鴎花はつい調子に乗って、自分の作った握り飯を売り込んでしまったが、イスカはこの時、握り飯の菜っ葉のはみ出した断面を凝視していた。


「そうか……お前は、俺が箸を苦手にしていると気付いたから、こんなものを作ったのか」


 ぼそりと呟いた、その目つきの険しさと言ったら無くて、鴎花は一瞬で肝を凍りつかせてしまった。


「いえ、あの……ち、違うんです。陛下はいつも食べにくそうになさっていたので、少しでも食べやすくならぬかと思っただけで……」


 決して、イスカが箸を苦手にしていることを揶揄しようなどと、考えたわけではないのだ。

 しかしイスカは鴎花の言葉をろくに聞いていないようだった。

 無表情のまま握り飯を口に入れ、その味を噛みしめるように、じいっと咀嚼する。

 その間の沈黙の、なんと重いことか。

 鴎花はすっかり怯えてしまった。

 確かにこの握り飯を作る時には、箸を使いづらそうにしていたイスカのことも考えたけれど、それは彼の食べ方が綺麗になれば、雪加の苛立ちも減るかと思っただけなのだ。まさかそんなに気を悪くするとは思わなくて……。


「あ、あの……差し出がましいことをいたしました」

「……お前だけだな」

「え?」


 食べかけの握り飯を見つめたイスカが感慨深げに唸るので、恐縮し今にも泣いてしまいそうだった鴎花はそのままの姿勢で固まってしまった。


「料理人達は俺が箸を使い慣れていないと分かって尚、小難しい飯を作り続けた。運んでくる奴らも、ややこしい食事の作法の説明しかしない。だがお前は華人達の作法と、俺の食べやすさを両立させる方法を考えてくれたんだ」


 なんとまぁ。この人は握り飯一つから、そんな大層な思考に発展したらしい。

 鴎花は過大評価されていることに対し相槌を打って良いものか躊躇ってしまったが、彼の物思いは食事のことだけで終わらなかった。


「……どうやら俺は、考えが直線的になっていたようだ。進むべきが困難な道であることは分かっていたはずなのに、反抗する者ばかりとやり合っているうちに、気持ちが荒んでしまった。だが……そうだな。風習や着るものが違っても、お前のような者もいるんだ。俺ももっと柔軟な気持ちを持つべきだったな」


 イスカはしみじみと反省の弁を述べていた。

 彼に何があったのか、鴎花には分からない。

 ただ異民族を治めることには、鴎花の想像もつかぬほどの苦労があるのだろうと思う。

 それもイスカの場合、辺境の蛮族と侮られるところから始まるのだ。嫌な思いもしているに違いない。

 そんな時に寄り添ってくれる人がいるだけで、どれだけ救われるか。

 鴎花が秋沙チィシャの存在に救われたように、今度は鴎花がイスカの力になれるのなら、とても嬉しい。


「陛下はきっとお疲れなのでしょう。私の知る限り、毎日政務ばかりで、休みを一切取っておられないではありませんか」


 柔らかい笑みを浮かべた鴎花がいつにも増して優しい言葉を口にできたのは、側に誰もいない気楽さも原因の一つだった。

 普段は鴎花が翡翠姫にあるまじき行動をしないよう、侍女に扮した雪加が睨んでいる。このようにイスカと二人きりで話をできる機会は、意外と少ないのだ。


「父上様は政務の合間に、景徳ジンデェア寺へよく行かれておりましたよ。陛下も息抜きに何処かへ出かけられてはいかがでしょう」


 ここは翡翠姫らしく父親の話でもと思い、鴎花が燕宗イェンゾンの話題を口にしたところ、彼は湧いてきた感情を煙に巻くように、すうっと目を細めた。


「景徳?」

「はい。木京ムージンの北にある寺なのですが、かの地には良き粘土があり壺を作るのに最適なのだそうです。父上様は壺を作るのがお好きで」

「あぁ、そういうことか」

「え?」


 鴉威ヤーウィの言葉で呟いたイスカが何かに納得したような表情をしたから、鴎花は意味が分からずきょとんとする。


「いや……お前の父親の場合、合間というより遊びの方が多かったと聞いているんだがな」

「それは……」

「お前は俺を堕落させる気か」


 珍しく冗談を口にしたイスカが微笑む。

 つい先程まで冷淡な目を向けられていたので、それが解消されただけでも嬉しくなる。

 そして彼は鴎花に向かって手を伸ばしかけたが、その手の甲に返り血がこびりついていることに気付くと、直前で動きを止めた。

 こんな汚れた手で触れるのは良くないと、躊躇ったのだろう。

 それは兎も角として、この直後彼は予想外の行動に出ることに。

 その場で衣服を脱ぎ、佩びていた長剣もその場に置き、下帯一つの姿になって池の中で体を洗い始めたのだ。


「え……」


 驚き過ぎた鴎花は、ただただ顔を赤く染めることしかできなかった。

 華人ファーレンの男は人前で衣を脱がないし、そもそも後宮育ちの鴎花は男性の裸体を見慣れていない。

 それが褐色の肌をした、引き締まった体躯であれば尚更戸惑うではないか。


「まぁ、そうだな。たまには遠乗りもいいか。お前も連れて行ってやろう。ずっとここにいるのも飽きただろ」


 イスカは鴎花の硬直にも気付かず、水の中から呑気に話しかけてくる。

 鴉威の民にとって、体を洗うといえば水浴びなのかもしれないが、これは刺激的に過ぎる。

 鴎花は堪え切れなくなって背を向けた。

 そして袖口で顔を覆ったまま、おろおろしていたら、不意に苦笑交じりの声が背後から響いてきた。


「ほう……人と話をする時に背を向けるのは、華人の習いか?」

「!!」


 振り返って袖口から顔を上げれば、目の前にはぼたぼたと水の粒を垂らし続ける裸形の男がいた。

 彼は陽の光を浴びて煌めく水滴と共に、濡れた短髪を片手でかき上げていて、そんな仕草までが眩しかった。

 彼の首元に光る細い銀糸を編んだ首飾りまでが、その艶めかしさを駆り立てている。これまでは黒衣の下に隠れていたから、そんなものを着けていたことにすら鴎花は気付いていなかった。


「何を今更。これくらいは見慣れているだろう?」


 イスカも性格が悪い。鴎花が顔から火を噴くのを楽しむように、これ見よがしに己の体を寄せてくるのだ。


「み、見慣れてなど……いつもは灯りを消しておりますし……ひっ!」


 耳朶をひょいと甘咬みされ、鴎花は素っ頓狂な声と共に身を震わせた。その反応がよほど面白かったのか、イスカは口元をニヤつかせる。

 

「悪い。あまりに赤いから、なつめと間違えた」

「……陛下がそんなに意地の悪いお方とは思いませんでした」


 恥ずかしさのあまり袖口に顔を埋め、拗ねた口ぶりで訴えると、イスカもまた蒼い瞳を細めて鴎花を抱き寄せ、その黒髪に口を寄せた。


「俺もお前がそんなに可愛い反応をする女とは、知らなかったな」

「あ……」


 そんなに愛し気に抱き締められたら、鴎花はもう、自分の身をどう処していいかも分からなくなるではないか。濡れて冷たいはずの彼の身体すら、熱く感じてしまう。


「あの、陛下……」

「あぁ、そうだ。前から思っていたんだが、その陛下というのはやめろ。イスカでいいと言っただろ」


 この際だからと訴えてくるイスカに対し、すっかり気持ちの舞い上がっていた鴎花は真っ向から異を唱えてしまった。


「そういうわけには参りません。常の夫ならいざ知らず、陛下はこの国の国王でいらっしゃいます。そのようなお方を呼び捨てにするのでは、下々の者に対し示しがつきません」

「そういうものか?」

「そういうものです」


 鴎花がきっぱりと言い切ると、イスカは押し黙ってしまう。

 言い過ぎてしまったかしら、と不安になった鴎花が袖口の影からちらと見上げてみると、彼はくしゃみが出そうで出ないような、なんとも言えない微妙な表情を浮かべているところだった。


「いや……官吏達が同じことを言っても聞く気になれないのに、お前が言うと心に届くから感心していた」


 イスカは鴎花を連れて、自分の脱ぎ捨てた衣の上に腰を下ろした。

 そして鴎花を背後から抱きしめると共に、痘痕の浮いたうなじに口を寄せた。


「お前は不思議な女だな。翡翠姫としての威を誇示することもあれば、俺を労る優しさも見せる。一体どちらが本物なのか……」


 疑問を紡ぎながらも彼の唇が痘痕を辿るように動くから、鴎花はすっかり恐縮してしまった。

 こんなに明るいところでは蟾蜍ヒキガエルの如き醜さも、しっかり見えているはず。

 そのおぞましさをイスカに我慢させるのは申し訳ない。

 だがこんなに愛し気になぞられてしまうと、彼が本当に痘痕を嫌がっていないのではないかとうっかり期待してしまいそうだ。

 そんなことはありえないのに。

 この痘痕はツェイ皇后を始め、雪加や大勢の女官らに忌み嫌われてきたのだ。

 イスカがためらわずに触れてくれるのは、鴎花のことを天帝の娘だと思い込んでいるからで……。


「……どうも視線を感じるな」


 イスカに言われて顔を上げると、池の対岸に佇む馬達と目が合った。紅色の美しい花を咲かせる木蓮の木の下で草をみながら、こちらを物珍しげに眺めている。


「場所を変えるか」


 その意見には鴎花も賛成だが、家の中には雪加がいる。

 まだお姫様気分でいるはずの彼女とイスカを鉢合わせさせるわけにはいかない、と鴎花が躊躇った時、何の前触れもなく家の引き戸がガタガタと音を立てた。

 はっとして振り向けば、開いた戸の向こうには、まさにその雪加が立っていた。

 ひどく腫れぼったい目をした彼女は、寝乱れて胸元が少しはだけていた。

 鴎花と同じく木綿の粗末な着物を身に着けているものの、雪加自身の持つ美しさも手伝って、海棠かいどうの眠り未だ足らずと表現するに足る、艶めかしい容姿である。

 しかしこれでは直前まで昼寝をしていたことが一目瞭然。女官が主を放り出して居眠りしているなど、ありえないことだ。

 その上、彼女はイスカを前にしても女官としての辞儀を施そうとしなかった。

 彼が明るいうちからやって来たことに驚き、咄嗟の振る舞いができなかったのだ。

 まぁ、いると思っていなかった男が、下帯一つの裸体を晒したまま自分の侍女と抱き合っているのを目にしたのだから、驚くのも無理はないが。

 それでも、幸いなことにイスカは雪加の無礼を咎めなかった。

 元々礼儀作法にはおおらかな性分な上、彼の気持ちは今、他へ向いている。


「おい、お前。もうじきアビがここへ来る。今日はもう政務をしないでここに泊まるが、明日からは必ずやるから許せ、と伝えておけ」


 イスカは呆気に取られている雪加に言付けをしながら家に入った。そして壁に立てかけてあった竹の梯子を設置する。この家はあまりに狭いので、二階への梯子を普段は外してあるのだ。

 イスカが素早い身のこなしでその梯子を登っていってしまうと、鴎花はいまだ状況を飲み込めていない様子の雪加にそっと近付いた。彼が離れたこの隙に、必要なことを伝えておかねばならない。


「姫様。そこに七輪があって、網の上に私の作った握り飯があります。よろしければお召し上がりください。それから大変申し訳無いのですが、七輪と陛下の脱ぎ捨てられた着物を、中へ片付けておいてほしいのです」


 低姿勢で頼んだつもりだったが、案の定雪加は「なんじゃと?!」と一瞬でしかめっ面になった。


「し、仕方なかったのですよ。姫様が眠っている間に陛下が突然見えられて……」

「雪加!」


 頭の上からイスカにまだ来ないのかと呼ばれてしまった鴎花は、言い訳を中断し「はい、只今」と、天井へ向かって大きな声で返事をした。

 そして雪加がどれだけ不快感を露わにしているかも振り返って確認することもなく、二階への梯子を登って行ったのだった。

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