一章 翡翠の姫
中華ファンタジーです。
金が北宋に攻め込んだ辺りがベースです。
こちらのサイトにちゃんと投稿するのは初めてなので、何かおかしかったら教えてくださいませ。
一.
天暦298年冬。
中原を治める大国、鵠国は滅亡の危機に瀕していた。
北の果て、辺境の地で暮らす遊牧民、鴉夷の民が突如として反旗を翻し、木京の都へと攻め込んできたのだ。
草原で暮らし、馬を巧みに操る彼らは少数ながら、俊敏にして苛烈。永き平和に慣らされ愚鈍な反応しかできない鵠国の守備兵を一気に蹴散らすと、その勢いのまま皇帝の鎮座する瑞鳳宮へとなだれ込んだのだった。
鵠国の命運がまさに尽きようとしていたこの夜、鴎花は伽藍宮の中にいた。
瑞鳳宮は五千を超える文官武官らが政務を行う表宮と、皇帝とその妻子らが住まう後宮とに大きく分かれているが、その後宮にあって一番豪華なのが皇后の暮らす伽藍宮である。
この宮殿には舟遊びをできるほどの広い池を備えた庭園があり、内部は壁や柱の細部に至るまで金箔や螺鈿細工で美しく飾り立ててあった。その豪華さたるや、この世を統べる天の神、天帝をも嫉妬させるほどだと称賛されてきたものだ。
しかし北方の蛮族達は、この華麗な宮殿さえも、泥のついた馬蹄で無残に踏み荒らした。
広大な伽藍宮の中でも最も奥まった部屋にいた鴎花だが、今や耳に飛び込んでくるのは女達の甲高い悲鳴や荒っぽい足音、馬の嘶く声、それにどこかで何かを壊すすさまじい轟音ばかりだ。
闇の中から響いてくるそれらは、目に見えないだけに恐怖感を倍増させ、鴎花は生きた心地がしなかった。
それでも鴎花は居室に御簾をおろし、燭台に明かりを灯して、朱塗りの椅子にじっと座っている。
逃げることはもう諦めた。
真夜中にけたたましい悲鳴と騒ぎ声で起こされ、驚いて廊下へ飛び出たときには、もう黒衣を着込んだ鴉夷の兵士達が伽藍宮を取り囲む生け垣の内側まで入り込んでいたのだ。事がここまで進んでしまっているのなら、下手に動き回るよりも潔く振る舞うべきであろう。
しかし蛮族達がどうして後宮にまで入り込んでいるのか……鴎花には状況がさっぱり分からなかった。
そもそも北の大地に暮らす彼らが挙兵したらしい、という話を聞いたのが僅か五日前のことだったのだ。千里(約400km)も離れた土地からたった数日で都へ? 空でも飛んできたとしか思えない。
しかし鴎花が理解しようがしまいが、彼らは現実に今、後宮に踏み込んでいた。
御簾の向こうでは、女達が悲鳴を上げながら闇の中を逃げ惑っているのが分かる。か弱い彼女らが捕まれば、身ぐるみを剥がされ、犯され、そして殺されるに違いない。
悲惨な状況下にある彼女らを助けたい気持ちはあったが、鴎花自身も武器を持たない無力な女の身であり、どうにもならない。
しかしいかに無力であろうとも、今の鴎花にはどうしても果たさねばならない使命が二つあった。
それが鴎花の夜着の裾の辺りでガタガタ震えている娘と、大国の姫としての矜持を守り抜くこと。
(……これだけは命を賭してでも……)
血の気の引いた顔をした鴎花が、膝に爪を立てて決意を新たにした時だった。
複数の男達の荒い足音が近づいてきたと思った次の瞬間、下ろしてあった御簾が力任せに引きちぎられたのだ。
「!!」
全身を凍りつかせる鴎花達の前に立っていたのは、松明を掲げた五人の兵士だった。
粗野な雰囲気に満ち溢れた彼らは、一目で鴉威と分かる、あさ黒い褐色の肌の持ち主である。
筋骨逞しい彼らの中には血の滴る抜き身の剣を持っている者もいて、恐ろしいことこの上ない。
男達は全員が同じ格好をしていた。革を鞣した鎧で上半身を覆い、その下には袖口と襟元に幾何学模様に似た独特の文様を施した着物を身に着け、防寒具としての外套を上から羽織っている。
頭部には細長い紐状の頭巾を巻きつけていたが、それらの布の色は全て黒。この色こそが鴉夷という言葉の語源になっているのだが、極度の緊張状態にある鴎花には彼らの衣装にまで目を向ける余裕が無かった。
「おう! 翡翠姫だな!」
男達のうち、一番年嵩の男が鴉夷の言葉で歓声を上げた。鴎花はこの時、木綿の夜着しか身に着けていなかったが、薄暗い部屋の中では布の質まで分からない。しかし悠然と椅子に座っていた態度と、ここが皇后の娘である翡翠姫の住む伽藍宮であるということから、その身分を推測されたのだ。
彼は土足のまま奥の間に踏み込むと、一段高いところにいた鴎花の手を掴み、椅子から引きずり下ろす。そして弾みで床に転がった鴎花の頭から、被っていた絹の薄布を乱暴な手付きで引き剥がした。
この薄布は高貴な女性が人前で素顔を晒さないために被っている面布だ。彼らは翡翠姫と称えられる美しい姫君の顔を、拝みたくて辛抱ならなかったのだ。
男の乱暴な所作によって銀の簪が弾け飛び、絹の布がふわりと床に落ちた。
男達はすかさず松明を鴎花の顔に近づけ、好奇の視線を集中させる。
「!!」
音を立ててはぜる松明の熱を嫌い、鴎花は床に倒れ込んだまま顔を背けた。しかし松脂を灯した炎は、鴎花の横顔を薄闇の中へくっきりと浮かび上がらせていたのだ。
「おおう?!」
男達の間には声に出しての動揺が広がり、直後に哄笑が沸き起こる。
「なんと、痘痕面じゃないか!」
「まさか中原の宝玉とまで謳われた翡翠姫は醜女だったのか」
「ふん! 虚飾に満ちた、かの国らしい話じゃないか。痘痕で覆われた顔まで美しいと偽るなんて」
発っせられたのは鴉夷の言葉だったから、鴎花には何と言われているのか分からない。
しかし彼らの表情と笑い方から、自分の容姿を馬鹿にされていることだけは察することができ、鴎花は肩を震わせた。
こんな笑われ方をするのは、幼い日に疱瘡を患って以来、日常茶飯事であったものの、よもや礼儀知らずの蛮族達にまで嘲笑されようとは……。
しかしいくら悔しくとも、この痘痕の醜さは鴎花自身が一番良く知っている。
本来なら年頃の娘らしくふっくらとして柔らかなはずの白い頬を覆い尽くすのは、淡い褐色の小さな凸凹たち。これが一つや二つならともかく、顔一面に広がっている様はまるで蟾蜍だ。
あまりに薄気味悪くて、鴎花だって鏡で自分を直視できない。
蛮族達に何も言い返せないままその場で俯いた鴎花だったが、しかしその視界は不意に黒色に染まった。
男達のうちの一人が自身の羽織っていた外套を外し、鴎花を頭からすっぽりと覆ったのだ。
突如として視界を奪われた鴎花は大いに戸惑ったが、うん? これは笑われないよう、庇ってくれたということ?
「お前が翡翠姫で間違いないな?」
男の体温が残る黒い衣の下にいた鴎花には、誰が話しかけてきたのかまでは分からなかったが、声の向きから考えて恐らく外套をかけてくれた男が言ったのであろう。
野太いその声が操ったのは鴉夷の言葉ではなく、鴎花達の常用語である華語だったから今度は理解ができた。
そして周囲からの視線を遮ってもらったことで、自分の為すべきことも思い出す。
この顔を嘲笑われることなど、どうでもいい。今の鴎花には、翡翠姫としての振る舞いを成し遂げる責務があるのだ。
「……そうです。妾が翡翠姫です」
かけてもらった外套を握りしめ、その隙間から顔を突き出して鴎花は立ち上がった。そして敢然と顔を上げ、その漆黒の瞳を男達に向ける。
「兵を挙げてまで手に入れたかった美姫が幻と分かり、さぞや落胆したことでしょう。しかしこれが真実なのです。分かったなら今すぐ立ち去りなさい。そして、ここにいる者達にこれ以上の危害を加えぬように」
肥沃な中原の大地を三百年の長きにわたり治めてきた、鵠国の第五皇女としての威厳。鴎花は胸を張り、精一杯の声を張り上げた。
しかしその間も膝はガクガクと震えている。
なにしろ鴎花の知らない言葉を操る、血刀を握った蛮族達に囲まれているのだ。こうしている間にも、いつその刀が唸りを上げて首を刎ねるかも分からない。声を出せただけでもよくやったと思う。
「……俺がお前を得るために挙兵しただと?」
外套を貸してくれた男が眉尻を上げ、不快げな声を上げた。
そして彼は腕を伸ばすと、外套から顔を出していた鴎花の顎に、己の指を引っ掛けたのだ。
「!!」
「ふん、まぁいい。そういうことなら、俺はその目的とやらを果たしてやろう」
「え?」
「お前を妻に娶るということだ」
口角の端を歪めて宣言した男の顔を、鴎花は一生忘れないだろうと思う。
間近からまじまじと見上げることになってしまった長身の彼は、眉が太くて鼻筋が通り、彫りが深い精悍な顔立ちの青年だった。華人より濃い色の肌をしているから、余計に逞しく見える。
しかし髭は無い。中原に住む華人なら男性は顎髭を生やすのが習いだから、その容貌には若干の違和感を覚えるが、間違いなく成人男性で、年齢は恐らく二十代前半。つい五日前、年が明けて十八歳になったばかりの鴎花より少し上のようだ。
そして鴎花が何より魅入られたのは、彼の瞳の色であった。
松明の灯りに照らされたのは鴎花が初めて見る色……蒼色に輝いていたのだ。
(……鵥の羽に挿し色で入っている、あの美しい色と同じ……)
鴎花がその不思議な色に目を奪われた次の瞬間、体がふわりと宙に浮いた。男が鴎花の体を己の肩に担ぎ上げたのだ。
「きゃっ!」
米袋でも担ぐように持ち上げられた鴎花は、咄嗟に身をよじって逃れようとしたが、足を押さえられており、どうにもならない。
男は鼓を叩く要領で、己の顔の脇にある鴎花の尻を撫でた。その際、鴉夷の言葉で卑猥なことでも言ったようだ。一緒に来ていた四人の兵士らは、一斉に下卑た笑い方をした。
そして鴎花を担ぎ上げた彼が更に何かを言うと、二人の兵士がそれに応じて駆けていった。
その様子からこの男は、どうやら高い地位にある者のようだと知れた。
そして彼自身もここを出ていくため踵を返したが、その体の向きを変えたことで鴎花は部屋の中を見渡す恰好になり「あっ!」と声を上げた。
床には無惨に壊された御簾と、先程まで鴎花が腰掛けていた朱塗りの椅子が転がっていた。そして椅子の側には夜着を纏った娘が仔猫のように身を震わせ、声を上げることもできないままこちらを見上げていたのだ。
怯えきった彼女と目があった瞬間、鴎花は男の背中を拳で叩いてしまった。
「待って。そこの娘も……」
「ん?」
「妾の乳姉妹なのです。連れて行くなら一緒に……」
男は鴎花の言っていることを瞬時に理解したようだ。
「アビ」
彼は一緒に来ていた兵士の一人を呼び、目配せをした。すると少し小柄な男が進み出て、椅子の影に隠れていた娘の腕を掴み、引っ張り出した。
しかしその荒っぽい所作に尻込みしてしまった彼女は、連れ出されることに抵抗する。
すると彼は舌打ちを漏らすと同時に、彼女の首筋に手刀を食らわせたのだ。
「て、手荒な真似は……」
「意識を失わせただけだ」
鴎花の抗議に対し、ぶっきらぼうな口調の華語で応じたアビは、ぐったりした娘……雪加の小さな体を乱暴に担いだ。
鴎花もまた、男の肩に担がれたまま表へ出る。
月灯りのない虚空がほんのり赤く見えた。誰かが瑞鳳宮のどこかに火を放ったのかもしれない。
それを証明するように、不快な煙の臭いが鴎花の鼻腔を覆い、次いで凍えるような寒さを覚えた。
年が明けたばかりの冬の夜の風は、夜着しか着ていない身にとっては耐え難いものだったのだ。
鴎花が小さくくしゃみを漏らしたところで、担いでいた男もその着衣の薄さに気付いたらしい。彼は鴎花の足に纏わりついたままだった黒い外套を、もう一度頭から引っ掛け直した。
おかげで鴎花は再び闇の中へと逆戻りし、周囲は全く見えなくなってしまう。
彼はこの後も、鴎花の身体を下ろさぬまま差配を続けた。
おかげで鴎花は夜の間中ずっと、男の体温と汗臭さ、革の鎧が擦れる振動、そして彼と自分自身の鼓動だけをひたすら数えることになったのだ。
外套の向こうでは、理解できない言葉が飛び交っている。人々の悲鳴と叫び声ももちろん混ざっており、それらが掻き立てる不安と恐ろしさに震えつつ、長い夜が明けるのを鴎花はじっと耐え忍んだのだった。
ニ.
鴉夷の兵士らに捕らえられて以来、鴎花と雪加は部屋の中に閉じ込められている。
部屋といっても、正確には厠所(便所)だ。
身分の高い者が使う厠所は衣装を着替えるためにも使うので広さと清潔感があり、娘二人が寝起きするには差し障りが無い場所なのだ。
鴎花は外套を頭からかけられたまま連れてこられたので、この部屋が宮殿のどのあたりなのか分かっていない。
しかし瑞鳳宮を出ていないことだけは確実だろう。備え付けの棚が高級木材の紫檀で作られていたのだ。こんな立派なものがあるからには瑞鳳宮の中であるに違いない。
二人ともこの部屋へ来てからは手足を縛られることも無く、自由に過ごしている。食事は黒衣を纏った鴉夷の兵士が日に二回差し入れてくれたし、夜着だけでは寒かろうと毛布も渡された。そして部屋には天窓が備え付けてあったので、日が昇って沈むことだけは確認できた。
しかしこれまでのところ、この部屋からは一歩も出してもらえていない。それに食事を運んでくる兵士は華語を解さないから、何の情報を得ることもできなかった。
一体いつまで閉じ込められるのかと、雪加の苛立ちは募るばかりだ。
「父上様と母上様がご無事かも分からぬとは、なんと腹立たしい! 木京を守る羽林軍は何をしておる! 一体、いつになったら助けが来るのじゃ!」
食事を出してくれる鴉夷の兵士が出ていき二人きりになると、雪加は決まって金切り声を上げた。
「姫様、どうぞお気を鎮めて」
鴎花は口元に指を当て、懸命に雪加を宥めた。
兵士は部屋から出ていったものの、扉のすぐ外で聞き耳を立てているかもしれないのだ。華語は分からなくとも、鴎花達が交わす会話の雰囲気は伝わってしまう恐れがある。
「あまり大きな声を上げると、私が姫様にすり替わっていることを悟られかねません。ここはどうか堪えてくださいませ」
鴎花は床に頭をこすりつけんばかりに懇願した。
しかし雪加の癇癪癖は今に始まったことではない。これまでも気に入らないこと、腹の立つことがあると彼女はすぐに足を踏み鳴らして暴れだした。周囲の女官達は皇女様の機嫌を取るべく、右往左往したものだ。
それでも今の瑞鳳宮の主は雪加の父ではないし、娘を溺愛する皇后は側にいない。粗野で屈強な北方の蛮族達が雪加の頭を撫でて甘やかしてくれるなんてことは、天地がひっくり返ってもありえないのだ。
それに鴎花を翡翠姫の身代わりにすることは、雪加自身が言い出したことではないか。
あの夜、雪加の寝所で宿直を務めていた鴎花は、騒ぎに気付いて目を覚ますと、廊下へ飛び出した。そして鴉夷の兵士達が邸内へ侵入しているのを目の当たりにし、すぐさま主の元へ戻ったのだ。
こんなところにまで入り込まれているのでは、逃げることは叶わない。かくなる上は鵠国の皇女としての威厳を持って彼らの前に出るしかない、と鴎花が意見を述べると「そんな恐ろしいことができるか!」と、雪加は悲鳴を上げた。
そして「そなたが翡翠姫を演じよ。妾は蛮族どものいやらしい目に晒されるなどまっぴら御免じゃ」と喚きだし、更には皇族の娘だけに許された銀の簪と絹の面布を鴎花に被せた。
「それを被っておれば、蛮族どもの目などいくらでも誤魔化せよう。どうせ妾の顔など知らぬ連中なのじゃからな」
「し、しかし……」
「蛮族どもは翡翠姫を得んがために、挙兵したのじゃぞ! 妾が捕まれば彼奴らの思う壺ではないか。そなたはしかと妾を守れ!」
恐怖のあまり目を血走らせた雪加は、声を裏返して叫んだ。
そしてこんな話をしている最中も、女官達のつんざくような悲鳴は辺りに響いていており、もはや一刻の猶予も無いことは明白。
乳姉妹として幼い頃からずっと雪加の側に仕えている鴎花にとって、主君の意向に逆らうのは不忠であったし、この場は了承するしか無かったのだ。
それに翡翠姫のために鴉夷の民が兵を挙げたという話は、鴎花も確かに耳にしていた。
雪加が中原の宝玉、光り輝く翡翠の姫と讃えられ、その美しさを歌に詠まれたのは、瑞鳳宮で催された一年前の年始の宴でのこと。
この歌のおかげで雪加の名は世間に広まり、遥か北の草原で暮らす蛮族達までが翡翠姫を知るようになった。
彼らはそんな美しい姫を得ようとして無謀な挙兵に及んだのだ……そんな話が出回ったのは、年が明けて以来この瑞鳳宮で連日催されている、今年の年始の宴の折でのことだった。
それでもこの話は「いやはや、蛮族達まで虜にするとは、翡翠姫のお美しさには感服いたします」と締め括られ、彼らの挙兵に危機感を覚える者は誰もいなかった。
辺境での反乱の知らせなど、遠く離れた都で優雅な歌舞音曲と共に聞けば、遥か昔のおとぎ話のようにしか感じられなかったし、しかも都は羽林軍という鵠国最強の兵団が守っていたのだ。
だから雪加自身も「蛮族の分際で妾を手に入れようとは……なんとまぁ、だいそれたことを考えるものじゃ」と笑い飛ばしていた。
しかし鴎花や雪加を始め、木京で暮らす者達は全く分かっていなかったのだ。遠く離れた土地での反乱の知らせは都まで伝わるのにも時間がかかる、ということを。
だから挙兵の知らせが届いて雪加が一笑に付した、その同じ時には、すでに彼らは木京の近くまで兵を進めていた。馬の扱いに長けた鴉夷の民は、反乱勃発を知らせる伝令とほぼ同じ速度で進撃していたのである。
「鴉夷の者は、真に翡翠姫を妻にするつもりなのでしょうか」
鴎花は柱の傷をなぞりながらぼそりと呟いた。
漆塗りの綺麗な柱を汚すのは申し訳なかったのだが、ここに来てから何日経ったか分かるように、食べ終わった羊肉の骨を使って楊枝を作り上げ、日が昇ると同時に一本ずつ傷を刻んでいるのだ。
今やその数は八十を超えた。
蛮族達が翡翠姫を妻にしたいのなら、いつまでも閉じ込めておくのはおかしい。
「ふん。蛮族どもはそなたの痘痕を見てしまっておるのじゃ。本気で娶るわけが無かろう」
雪加は寝言は寝て言えとばかりに、肩をそびやかした。
その横顔は襲撃の夜から続く激しい境遇の変化により、痩せてやつれて見えるが、それがかえって彼女の美しさを際立たせているように鴎花は感じた。
翡翠姫の名は伊達ではない。
今の雪加は湯浴みも、髪を梳くこともままならないが、それでもその名の通り、雪のように白い肌を持つ見目麗しい姫なのだ。
「そうですね」
自分の凸凹だらけの頬を指先でなぞりながら、鴎花は淡く微笑む。
これについては、鴎花も雪加の言うとおりだと思う。
疱瘡は伝染病で、罹ってしまうと高熱を発し、無数の出来物が全身に現れる。
死に至ることもある恐ろしい病気だが、熱の引いて命が助かった後にも出来物、痘痕だけが残ってしまうことが稀にあるのだ。
痘痕は一生治らない。
雪加の乳母で、鴎花の実母である秋沙はなんとかして娘の体から痘痕を消そうと、高価な薬湯や灸を様々に試してくれたが、効果は全く無いまま今に至る。
「翡翠姫が蛮族の妻にされ、その身を汚されたなどと世間に噂されれば、妾にとって一生の恥……これほど悔しいことが他にあろうか」
雪加の嘆きぶりを見ていると、すぐにも鵠国の軍勢が助けに来てくれ、翡翠姫としての生活に戻れると思い込んでいるように感じた。
(……果たして本当に?)
鴎花は肩にかけていた黒い外套の端っこを、指で弄りながら考える。
この外套を貸してくれた男は華人の男達より逞しい体躯と、鋭い目を持っていた。
瞳の色こそ鵥の羽と同じ美しさだったが、あれはまさに獰猛な猛禽類の目。
ここ何年も外敵に襲われることが無く、平和に慣れた鵠国の兵士では彼らに太刀打ちできないのではないかと、不安になってしまう。
いや、太刀打ちできなかったからこそ、後宮の奥深くまで侵入されてしまったのだ。
今、この扉の向こうがどんな状況なのかは分からないが、都を守る羽林軍は既に壊滅し、鵠国の長たる皇帝だって殺されている可能性があるわけで……。
「誰ぞ来た!」
不意に雪加が弾んだ声を上げた。
部屋の外、廊下を歩く足音が近づいてきたことに耳聡く気付いたのだ。
食事を持ってくる兵士ではないはずだ。朝餉を出されてから時間は経っていない。咄嗟に天窓を見上げて確認したものの、やはり日はまだ高かった。夕餉には早すぎる。
ここに閉じ込められて以来、誰かが訪ねてきたことは無かった。
この閉塞感を打ち破ってくれるのなら、どんな変化であろうと受け入れたい。できれば救出のためにやってきた鵠国の兵士であって欲しい、と雪加は期待したのだろうが、扉が開いて入ってきたのは、華人ではありえない、褐色の肌をした青年だった。
「おい。翡翠姫は今晩、八哥のところへ行け」
にこりともせずに華語を操って命じてきたこの男は、前開きになった黒色の上着を革の腰紐で締めていた。穿いている下衣も同じく黒。
唯一の色は袖口と襟元に施された白と赤の刺繍による文様で、襲われたあの夜に見たのと同じものだった。鴉夷ではどんな時でもこの着物を着るものらしい。
そして今日の彼は鎧だけでなく頭巾も外していたから、短く刈り込んだ頭部が顕わになっていた。
髪の色は鴎花たちと同じ黒色ながら、髪の毛は結って冠を被るのが当然である華人男性ではありえない短さだ。
丸顔で小柄なこの男は、まだ少年と言ってもいいくらいに幼く見えた。しかし口元は癇が強そうに歪んでいるし、目つきも剣呑だ。
彼の顔を鴎花は覚えていなかったが、鴉夷の民にしては流暢な華語の発音には聞き覚えがあった。
そうか。あの夜、雪加を担ぎ上げたアビとかいう男だ。
「何のために? 八哥というのは……?」
少しでも情報を得たくて鴎花が尋ねると、彼は白い歯を見せて笑った。
「八哥は俺達の族長だ。で、男が夜に女を呼び出す理由なんてのは一つに決まってるだろ?」
このアビという男、幼い雰囲気を滲ませているくせに、言うことだけは妙に大人ぶっている。
彼は持って来た竹籠と、水と手拭いが入った手桶を鴎花達の前に置いた。
籠の中には化粧品らしいものが乱雑に突っ込んである。どうやら族長の前に出るにあたって身支度を整えられるように、それらしいものを後宮からかき集めてきたらしい。
「日が落ちる頃には迎えに来る。その顔じゃ焼け石に水かもしれないが、せいぜい準備しておけよ」
よほど華語が得意なのか、綺麗な発音でご丁寧に嫌味まで言ってのけたアビは、鴎花の痘痕面を一瞥すると、再び扉の向こうへと去っていったのだった。
三.
瑞鳳宮が闇の帳に包まれる頃、鴎花は灯りを持ったアビに先導されて、宮殿内の渡り廊下を歩いていた。
鴉夷の族長とやらが気紛れなのか、本気で妻にするつもりなのかは分からないが、とにかく彼は今夜、翡翠姫を抱くつもりらしい。
もちろん雪加は行かない。
せっかく蛮族らが鴎花の方を翡翠姫だと思い込んでいるのだ。誇り高い雪加がその透き通るように美しい肌を、野蛮な男相手にみすみす与えるはずは無かった。
鴎花は黒い外套を頭からすっぽり被っていた。
着衣は襲われた日に着ていた薄い夜着のままなので、その格好で表を歩くのは恥ずかしかったし、本来なら高貴な身分の女性が男性の目がある場所を歩く時に必要な面布を、今回は用意してもらえなかったからだ。
アビの後ろを歩いていると廊下の先には、書簡を保管する棚を設置した部屋がちらと見えた。鴎花達が軟禁されていたのは、どうやら瑞鳳宮の中でも表宮の方だったようだ。
捕まった時には年が明けたばかりでひどく寒かったが、あれから季節が進んだらしい。頬を撫でる夜風も、柔らかい春の草の匂いを含んでいた。空を見上げれば、欠けるところの無い丸い月が宮殿の甍から顔を出している。
不思議なことに広い宮殿の中に、人の気配はほとんど無かった。夜だから誰もいないだけなのか、鴉夷の兵の数が少ないだけなのか、それともそのどちらもであるのか……。
鴎花が注意深く辺りへ目をやりながら歩いていくうちに、廊下の突き当りで男が一人、剣を抱いて座っているのが見えた。彼は黒衣の上に革の鎧を身につけて頭巾も被っていて、どうやらこの先にある族長の部屋を警備しているようだった。
「……入れ」
アビがぶっきらぼうな口調で鴎花に命じた。
このとき彼が振り向いたことで、その瞳が黒いことに鴎花は気付いた。
これまでに見かけた鴉夷の男達……外套をかけてくれた男も、食事を持って来てくれた兵士達も、目の前にいる兵士も、皆一様に蒼い目をしているのに、どうして彼だけが華人と同じ黒い目なのか。
それでも肌の色だけは、やはり鴉夷の民らしい褐色なので、その違和感から思わず見つめ返してしまった時、彼は鴎花に向かって手を伸ばしてきた。
鴎花が被っていた黒い外套をはぎ取ったのだ。
どうやら外套の内側に余計なものを忍ばせていないか調べようとしたらしい。しかしその拍子に高いところで結っていた鴎花の髪が揺れてしまい、中に潜ませていた木片が乾いた音を立てて床に転がった。
「!!」
木片は化粧筆の柄を折ったものだった。
拾い上げ、その先端が鋭く尖っていることを指先で触れて確認したアビは「……ふん。やはり華人の女ってのは肚黒いものだな」と鴉夷の言葉をつぶやきながら、顔を大きく歪めた。
実はこれ、雪加が忍ばせたものなのだ。
アビが退出した後、鴎花を押しのけて化粧品の入った籠を物色し始めた彼女は、金属製の簪などが無いことに落胆し、それでも化粧筆の最も太いものを取り出すと、足を使って強引にへし折った。そして鴎花の髪の毛の中に混ぜ込んで結ったのだ。
「これを使って族長とやらの眼を突き刺し、その隙に首を絞めてくるのじゃ」
首を絞めるための紐は、竹籠に何本か入っていた細紐を束ねて編み込むことで丈夫で長いものを作った。これを髪に巻き付けておけば、露見することなく持ち込めるだろう、というのが雪加の考えである。
男の目を刺した上、首を絞めるだなんて、そんな恐ろしい真似はできないと鴎花は拒んだのだが、雪加は許してくれなかった。彼女はとにかく、自分の生活と祖国を無茶苦茶にした蛮族に対し一矢報いなければ、気が済まなかったのだ。
しかしそんな企てが、まさか男の寝所に入る前に露見してしまうなんて。
「そ、それは……」
なんと言い訳すればいいのだろう。しどろもどろになる鴎花の頭をアビは乱暴に掴んだ。
「ひぃっ!」
「いいか。八哥に毛筋ほどの傷でもつけてみろ。八つ裂きにしてやるからな」
訛りの無い完璧な発音の華語で脅してきた黒い瞳の青年は、その言葉が鴎花の頭に浸透するよう、強い力で何度も壁に押し当ててきた。
その形相は鬼のように恐ろしく、恐怖で震え上がった鴎花は痛みを訴えることすらできない。
そしてアビはいまやすっかり乱れてしまった鴎花の髪から長い飾り紐をも奪い取ると、尻を蹴とばすようにして、族長がいるという部屋の中へ鴎花を放り込んだのだった。
「きゃっ」
鴎花はよろめいてその場に膝をついた。
その背後では異様に大きな音がして戸が閉まる。アビが苛立ち紛れに戸を蹴り飛ばしたのかもしれない。
心臓が早鐘のように打っている鴎花は、床から立ち上がることができなかった。
なんということだろう。
雪加の考えた無謀な計画のせいで、こんなにも恐ろしい目に遭ってしまうなんて。
だが、考えようによってはこれで良かったのかもしれない。
唯一の武器を取り上げられたのなら、雪加もまさか素手で首を絞めてこいとは言わないだろう。これで無謀な暗殺をする必要が無くなったのだ。
「何をやっているんだ? 早く来い」
部屋の奥からは野太い男の声が響いてきた。鴎花がいつまでも自分の前に来ないから不審に思ったらしい。
鴎花は呼吸を整えて立ち上がると、乱れてしまった髪の毛を手櫛で整えながら、部屋の中へと目を向けた。
瑞鳳宮の中ながら狭くて薄暗い、殺風景な室内だった。燭台が一つだけ置かれていて、床には分厚い毛織物が敷いてあるものの、机や椅子、寝台など調度品の類は見当たらない。
そして毛織物の上には分厚い座布団を二つ重ね、その上に寝転んでいる男の姿があった。
(あぁ、やはりあの夜の男だ)
鴎花は声にならない吐息を漏らした。
恐らく人の上に立つ立場の者だろうとは思っていたが、やはり彼が族長だったのだ。
鵥の羽のように綺麗な蒼色の瞳をした彼は、アビと同じく短い頭髪で、黒い衣を着ていた。身分ある人なのに特別な格好をしていないのは、これまで後宮の中で、着飾った高貴な人を見続けてきた鴎花には不思議に感じられる。
彼の手には銀の酒杯が握られていた。手元の盆には同じく銀の徳利と銀の皿が置いてある。皿に入っているのは皺だらけの赤銅色の粒で、恐らく干し棗だろう。どうやらこれを肴に酒を飲んでいたようだ。
俯きかげんで彼の前に出た鴎花は、毛織物の手前でおずおずと膝をついた。
大国の姫として権高くあるべきかとは思ったが、あの混乱の最中、命を助けてくれた相手に対してあまりにつっけんどんな態度も良くないかと考え直したのだ。
あの夜は彼が担いでくれたおかげで、凌辱と略奪に巻き込まれなかった。そのことを、鴎花はよく理解していた。
「鵠国皇帝、燕宗が五女、趙雪加でございます。広大なる北の大地の守護者であられる貴公におかれましては、はるか遠方の地よりよくぞ参られました。これもひとえに天帝のご加護とお導きの賜物でございましょう」
皇女としての礼節を心がけた鴎花は、男に対し慇懃に頭を下げた。
しかし丁寧な挨拶を施したにもかかわらず、男は無言で酒を飲み干すだけ。皇女が正式な挨拶をしたのに、当然あるべき返答の文言も述べなかった。
やはり蛮族だけに礼儀知らずの男であるらしい、と鴎花は残念に思ったが、彼は言葉を与える代わりに、空になった酒杯をぶっきらぼうに突き出してきた。
「飲め」
「……は、はい」
鴎花が受け取った杯に、彼は白く濁った酒を溢れんばかりに注ぎ入れた。
僅かに泡立っている上に、顔を近づけると臭みを感じる酒である。
しかも顔を近づけると杯の淵からは強い酒精が立ちのぼって来てくるから、鴎花は顔を歪めた。
それでも覚悟を決めて飲み干そうとするも、口にほんの少し含んだだけでやはり降参。胸を押さえてむせこんでしまう。
「……なんだ。この程度も飲めないのか」
苦しむ鴎花をつまらなそうな顔で一瞥した彼は鴉夷の言葉で呟くと、寝転んだ姿勢のまま干し棗を一つ口に放りこんだ。
「それでお前はあの夜、どうして逃げなかったんだ? 皇帝も皇后も、家臣を見捨てて逃げ出したのに」
「そうなのですか?」
それは襲撃の日以来、初めて聞く情報だった。
鴎花が目を丸くしたのを澄んだ蒼い瞳で眺めつつ、男は棗の皿に再び手を伸ばす。
「そういえばお前は、俺が翡翠姫を手に入れるために挙兵したと思いこんでいたな。もしかしたら皇帝達も同じように考えたのかもしれない。だからお前を残しておけば良い足止めになる……いや、連れていけば俺がしつこく追いかけてくると恐れたのかもしれないな」
「そんな……」
鴎花は燕宗の名誉を守るため言い返そうとしたが、言われてみるとあの状況は確かに不自然だった。
燕宗には大勢の妃がいて、子供もそれぞれに産まれているが、正妻である崔皇后が産んだ雪加は何かにつけて優遇されていた。侵略者が襲ってきたのなら、真っ先に彼女に知らせが入って当然だったのだ。
(まさか雪加は本当に捨て石にされた……?)
青ざめる鴎花を見て、男は唇の端を器用に歪めた。
「娘を見殺しにしてまで逃げ出すとは情けない奴だ。こうやって俺達に都を乗っ取られたのは、当然の結果であろう」
「こ、皇帝陛下に責任を押し付けないでくださいませ。兵を集め、戦を起こしたのあなたでしょう」
鴎花は毅然として反論した。
これが常の鴎花であったなら、唯々諾々と彼の言葉を聞き入れただろうと思う。
しかし今は翡翠姫を演じているのだ。誇り高い大国の姫が、父帝を嘲られたまま引き下がるのは良くない。
「あなたは平和だった国に戦火を撒き散らし、罪の無い者達を殺し、後宮で狼藉を働きました。こんな横暴は許されませぬ」
「それはお前が真実を見ていないだけだ。どうしてこの戦が起きたのか、その理由をまるで分かっていない」
男は精一杯の虚勢を張っている鴎花をじろりと睨んだ。そして鴎花が握りしめたままにしていた酒杯を取り上げ、中に残っていた酒をあっさりと飲み干した。
「まぁ、いい。今からその体に現実ってものを教えてやろう」
空になった酒杯を床の上にぽいと放り投げた彼は、言うなり鴎花の腰に手を伸ばして抱き寄せた。
その力強くも粗野なふるまいに、鴎花は息を呑む。
男子禁制の後宮で育った鴎花は、男性と接する機会がこれまでほとんど無く、その腕っぷしの強さを目の当たりにするだけで、すくみ上ってしまったのだ。
加えて鴎花には強い懸念があった。
「……い、嫌ではないのですか?」
重ねられた座布団の中に押し倒された鴎花は、覆いかぶさってきた男に向かって、震える声で尋ねた。
「うん?」
「わ……妾の痘痕は体中に広がっているのです。触れるのも気色悪いのではないかと……」
今にも泣きだしそうな鴎花の言葉に、男の動きが一瞬止まった。
しかし彼は彫りの深い顔の中央へ眉を寄せた次の瞬間、組み敷いた鴎花の着衣の帯を抜き取ってしまった。
「気色悪ければこんなことはしない」
「で、ですが本当に醜くて……」
怯え切っている鴎花に、男は困ったような目を向けた。どうやら華語がそこまで得意ではないようだ。言葉を探すように一瞬、視線を天に向けた。
「俺は顔の美醜なんて気にしない。灯りを消せばどうせ見えないんだ。お前も気にするな」
言うなり、男は燭台に手を伸ばした。
三本刺さっていた蠟燭が彼の一吹きで消え、辺りは漆黒の闇に包まれる。
「これでいいな?」
闇の中から男が確認してきた。鴎花は慌てて首を横に振る。
「あ、あの……」
「なんだ、まだ問題があるのか?」
「名前を教えて下さい。族長であるとは伺いましたが……なんとおっしゃるのでしょう? 八哥殿、ですか?」
「それはアビだけが呼ぶ名だ。俺はあいつにとって八番目の兄貴だからな」
暗がりの中、男が吐息を漏らしたのが、空気の震えで伝わってきた。
「そうか。お前は自分の国を滅ぼした男の名前も知らずにいたのか」
男の右手の指が鴎花の顔の輪郭を確かめるように触れてきた。
反射的にビクッと震えるのを抑え込むように、彼は鴎花の額に自分の額も押し当ててきた。
「いいか。俺の名はイスカという。華人のような苗字はない。ただのイスカだ」
至近距離で聞く彼の名は、熱を帯びた息遣いと共に鴎花の耳に響いてきた。闇の中で何も見えないのに、彼の声で心だけが自然と上擦っていくのを鴎花は感じた。
「イスカ……様……?」
「敬称もいらないぞ。無駄は嫌いだ」
鴎花の頬に彼の唇が触れた。
世の女たちのような柔らかさが一つもない凸凹した肌なのに、彼はためらうことなくそのまま耳朶にまで舌を這わせる。
更には彼の手が肢体の方にも伸びていくのが分かり、鴎花は怯えたように身を硬くした。
男がこれからする振る舞いというものを、鴎花はろくに学んでこなかったのだ。もちろん女の方がどう応えればよいのかも知らない。
この痘痕面だからどうせそんな事態にはなるまいと背を向けてきたツケが、まさかこんなところで回ってくるとは……。
しかし鴎花の戸惑いなどイスカは気にせず、この後も時間をかけてゆっくり鴎花の体を探っていった。
闇の中で彼の指が蠢く感触。
肌で感じる熱い吐息。
そして擦れ合う互いの体温。
自分が何をされているのかさっぱり分からない恐ろしさはあったが、イスカはその恐怖心さえ丸め込むように、丹念に鴎花を弄り、抱き締めてくれた。
そして丸い月が天の頂きへと昇る頃、鴎花はその分厚い胸にしがみついて、彼を自らの体へと受け入れたのだった。
四.
翌朝の二人の元には、大きな包子が届けられた。
練った小麦粉の皮で羊肉の餡を包んだものだ。
湯気が立ちのぼりとても美味しそうだったが、何故だか一個しかない。不思議に思っていたら、イスカが半分に割ってくれた。
もしかしたら婚姻の契りを結んだ朝には、二人で包子を分け合って食べるのが鴉夷の風習なのかもしれない。
だとすると、この男は本当に翡翠姫を娶るつもりだということになる。
この男は一夜の慰みものとして鴎花を弄んだのではなく、正真正銘の妻として迎え入れる肚なのだ。
「食べろ」
「ありがとうございます」
差し出された包子を受け取るべく、すっくと起き上がりたいところだったが、下半身の鈍痛で鴎花の体は悲鳴を上げていた。それに緊張のあまり夜もほとんど眠れなかったから、体はぼろ雑巾のようにくたびれ果てている。
それでもこの醜い容貌ゆえに、一生男性と縁づくことは無かろうと諦めていた鴎花にとっては、処女を奪われたというよりは、一人の女性として扱ってもらった、という感謝の思いの方が強い。
何より彼が痘痕を嫌がる素振りを見せなかった点に、鴎花はひどく感動していた。
鴉夷の民は礼儀も知らぬ蛮族だと聞いていたが、同胞である華人らの方がよほど鴎花に冷たく、蔑んだ扱いをして来たものだ。
もちろん彼は祖国を襲った憎い男ではあるのだが、少なくとも鴎花にとっては度量の広い、心優しい男であるように思えてしまう。
鴎花は夜着の前を繕うと、なんとかイスカの元へ行き、包子を受け取って食べた。塩味がキツめだったが、肉の旨味が外側の生地にまで染み込んで美味しい。
イスカはあっという間に食べ終えてしまい、その後は鴎花が小さな口でもぞもぞと食べ進めるのをじっと見つめていた。
そして鴎花の口の中に全ての包子が収まるのを見届けた瞬間「今から出かけるぞ」と言った。
「どこへですか?」
「そこに見える高楼だ」
彼は夜着しか身に着けて来なかった鴎花のため、部下に命じて着物を用意してくれた。
とはいえ相変わらず面布の支度は忘れてしまう鴉夷の民だったが、今の鴎花にはそんなところまで注文を付けることはできない。
とりあえず人前に出ても恥ずかしくない風体を整えることができただけでも、良しとしなければ。
そして鴎花が着替え、髪を結い終えると、イスカは表宮の南端にそびえ立つ高楼へと向かった。
白い漆喰で塗り固められたこの塔は、天高くそびえ立ち、登ると四方が見渡せる。もちろん、これより高い建物など他には無いし、木京の町を取り囲む城壁よりも遥かに高い。
イスカは供の者を下で待たせると、鴎花だけを伴って石造りの階段を登り始めた。
「ここに登るのは生まれて初めてです」
「そうなのか? こういうものは見上げるだけなんて、つまらないだろ」
イスカは不思議そうな顔をしたが、鴎花は体を覆いつくす醜い痘痕のせいで、これまで人前に出るような場所へ連れ出されることが無かったのだ。
瑞鳳宮で育ちながら、瑞鳳宮を知らない。
鴎花の知っている世界は後宮の中、それも伽藍宮の片隅だけだったのである。
鴎花は頂上へと向かう階段を、イスカの後に続いてひたすら歩いて登った。
これが思った以上の辛さで、平然と登っていくイスカを、裳の裾をひらめかせ、肩で息をしながら懸命に追いかける。
螺旋状の階段を登るうちに、途中にある小窓からの景色が空と大地だけになった。いつしか木京を囲む城壁を見下ろす高さまで達していたのだ。
城壁の上では、黒い旗がいくつも風を受けてはためいているのが見えた。これまでならば鵠の字を金色に染めた白い旗が並んでいた場所だ。
鵠国は滅んでしまったのだ、と改めて感じることになり、それは悲しいことだったが、何の文字も入れない黒い旗は武骨で荒々しく、鴉夷の民の気質によく似合っていると感じた。
そしてとうとう頂上へ。
人が三人立てるかというくらいの狭い場所で、遮るものが無いだけに風が強く吹いていた。
ここに至るまでの間に足が棒のようになっていた鴎花は、突風に煽られてふらついてしまったが、すかさずイスカが手を差し伸べ助けてくれる。
「まぁ……!」
鴎花はイスカに背中を支えられたまま、息を呑んだ。
どこまでも続く緑の平原が、そこにはあったのだ。
なんと広大な景色なのだろう。
西から東に向かって滔々と流れる太い川や、西方の遥か遠くには頂上に白い雪を被った険しい山々も見えている。
「この大地はこんなにも広いのですね」
鴎花は疲れを忘れて感嘆の声を上げた。
鵠国が広いことはもちろん知っていたが、実際に目にするのと書物で習うのとではまるで違う。
するとイスカは鴎花の頭の上で、苦笑交じりの声を上げた。
「そりゃあ、鵠国は何もしない女達を大勢抱えておくような国だからな。これだけの土地が無いと養いきれないだろう」
後宮の女達を無駄飯食いと決めつけたイスカは、鴎花の身体を手放し一人で立たせた。
鴎花は手すりに手を置き、高楼の真下を覗き込む。
木京の街は瑞鳳宮の何倍も広い。碁盤の目のように張り巡らされた道に沿って小さな屋根がたくさん並んでいる様は、さすが三十万を超える人が住む大きな都である。
意外にも街の方は戦乱の影響を受けていないようで、壊れた建物も見当たらなかったし、豆粒のように小さく見える人々もせわしなく動き回っていて、賑やかなように感じられた。
ただ間近な瑞鳳宮のへと目を向ければ、後宮の宮殿の一部は黒く焼け焦げ、紅い瓦屋根を失ったまま放置されている。やはり二カ月前のあの夜の惨事は幻ではなかったのだ。
イスカは遠く北の方角を指さした。
「俺達の故郷はこの平原の彼方にある」
「あの山のふもと辺りですか?」
イスカと並んで立った鴎花は彼の指し示す方角へ目を向けたが、彼は首を横に振った。
「いや、その向こうだな」
ここからは見えない、とイスカは言った。
鴉夷の民はそんなにも遠くから馬に乗って駆けてきたのだ。
それがどんな場所であるのか想像もつかない鴎花は、目を細めて山々の向こう側へと思いを馳せる。イスカもそんな鴎花の傍らで、北の方角へ目を向けたまま語り始めた。
「俺達は百五十年ほど前に鵠国に下った。鴉夷の地で部族同士の争いがあり、疲弊していたところを攻め込まれてな。それ以来、鵠国に臣下の礼を取っていた」
鴎花もその話は雪加の傍らで勉強していたので知っていた。
度々国境を犯して周辺の村々を襲っていた蛮族達を、鵠国が平定したのは天暦133年のこと。
以来彼らは自治が認められた北の大地から出ることなく、平和に暮らしているはずだった。
しかしイスカはそこから後の百五十年が、鴉夷にとって地獄のような日々だったと言う。
「俺達の土地では米や麦が育たないから、代わりに毛織物や家畜で租税を納めることになったが、鴉夷というのは元々、自分達が暮らしていけるギリギリの収穫量しか無い土地なんだ。むしろ食べていくには足りないから、国境付近の村を襲っていたくらいだ。それなのに重い租税をかけられれば、当然生活は苦しくなる。それに加えて木京から派遣されてきた役人達は悪い奴らばかりだった。私腹を肥やすことしか考えていない上に、俺達を蛮人と蔑み、軽んじた態度を取ったんだ。華人達にとっての鴉夷は、未開の地の獣同然だからな」
過去の話なので、イスカは淡々とした口調で語ったが、鴎花は神妙な面持ちで彼の言葉を聞いた。鴎花が知らなかっただけで、華人達の住む土地の外では、異民族がひどい扱いをされていたのだ。
「不満は溜まる一方だったが、爆発する決め手になったのは、この冬の大寒波だった。鴉夷の冬は元々寒さが厳しいが、今回は特別でな。凍てつく寒さで家畜が次々と死に、明日食べるものも無い。このままでは年を越せないまま俺達は死んでしまう。その危機的状況を何度訴えても役人達は米や麦を渡さなかったし、それどころか、いつも以上に租税を差し出すように言ってきた。それでこれ以上はもう耐えられない、と俺は兵を挙げたんだ」
誰が女一人を得るために戦争など始めるか、とイスカはせせら笑った。
鴎花は自分がいかに間抜けなことを言っていたのかを知り、恐縮して肩をすぼめるしかなかった。
イスカは再び広大な景色の方へ目を向ける。
「あの川より北側は、この三ヶ月あまりで俺達が制圧した」
「え……」
イスカの言う川というのは、中原を南北に分断するように西から東へと流れている長河のことだ。中原で最も長く、水量の豊富な川であり、田畑を潤すためには欠かすことのできない、華人にとってはまさに命の大河である。
鴎花は目を見張った。
もしもイスカの言うことが正しいのなら、彼は鵠国の半分、つまり都である木京を含む河北地域を既に手中に収めたことになる。
そうか。木京を落とした直後から河北の制圧に乗り出していたから、鴎花達を軟禁したまま八十日以上も放っていたのか。
「川幅が広すぎて馬で越えられないから、今のところ河南には攻め込めないが、河北だけでも見ての通り十分に広い。華人達と協力していかないと、数少ない鴉夷の民だけでは治めきれない」
「協力……ですか?」
意外な単語を口にするものだと鴎花は思った。
協力とは対等かそれに近い立場で行う行為だ。
華人達の都を一方的に夜襲し、占領しておきながら協力を求めるとは納得がいかない。
しかしイスカは大真面目に頷いた。
「華人達への積年の恨みは、瑞鳳宮を襲った事で晴らしたからな。俺達が華人と敵対するのはあれで終いにする。もちろん、逃げた皇帝や逆らう者には容赦しないが、この先は華人達と協力して新しい国を治めていきたいと、俺は本気で思っている」
「新しい国……」
「あぁ。そのためにお前が必要だ」
イスカはそう言うと、改めて鴎花の顔を覗き込んだ。
痘痕面ゆえ、明るい場所で間近に迫られると恥ずかしくて、鴎花は咄嗟に袖口で顔を覆った。しかし蒼く美しい瞳は、それでも真正面から鴎花を見つめてきた。
「俺の子を産め、雪加」
イスカは鴎花の耳元で囁いた。
「聞けば鵠国の皇帝は天の神の子孫だそうではないか。お前もその血を引いていて、神と通じることができるのだろう?」
「はい。天帝の血を引く娘は、この大地と天を繋ぐ存在。数百年に一度あると言われる天帝の代替わりの折には、子孫がこの大地を治めていることを新たな天の神に伝えなければならぬという盟約があります。それが叶わなければ、この大地は水で覆われ、人の子は住処を失います」
鴎花は南の方角を指さした。
木京を囲む城壁の南端をかすめるようにして長河が流れているが、その太い流れの中にはゴツゴツとした岩が盛り上がってできた山のような島があり、その頂きには朱塗りの祠のようなものが見える。
「その盟約の為の祭殿があそこにあります」
「よく使うのか?」
「いえ。鵠国の建国の折にはそのような儀式が執り行われたと聞いていますが、最近では使っていないはずです」
「つまり天帝だの盟約だのというのはただの伝説で、実際にそんな儀式が行われるところは誰も見たことが無いんだな?」
「で、ですが、鵠国史書にはちゃんと書いてあります。初代皇帝、太宗の姫がその身を以て地と空を結んだと」
イスカに鼻で笑われた気がして、鴎花は躍起になって主張した。
そんな鴎花にイスカは、口元から白い歯を見せ破顔する。
「あぁ、分かっている。だからな、そういう伝説を真面目に信じている華人がいるからこそ、お前を娶るんだ。天帝の娘を妻にし、いずれその血を引いた子を得ることで、俺はこの国の王となる大義名分を得る」
「あ……」
あぁ、そうか。そういうことなのだ。彼が求めているのは天帝の血を引く娘。
異民族であるこの男は華人らを治めるために、翡翠姫を利用しようとしているのだ。
「期待しているぞ、雪加」
イスカの蒼い瞳は鴎花を捉えて離さないが……違う。本当は自分がこの人に求められているわけではない。
彼が必要としているのは雪加であり、ならばこのまま身分を偽ればこの人を裏切ることに繋がる。
そして将来、取り返しのつかない事態になるかもしれない。
真実を告げるなら今しかないだろう、と鴎花は思った。
今ならまだ間に合うはずだ。
瞬き一つする間に頭の中に駆け巡った考えを、それでも最終的には全て飲み込み、鴎花は「……はい」と頷いた。
鴎花にとっての主君は、同じ乳を分けて育った雪加なのだ。彼女を裏切ってまで真実を打ち明ける度胸は無い。
それに……。
「あっ」
思わぬ方角から風が吹き付け、よろめきかけた鴎花を再びイスカが腕を伸ばして抱きとめた。
その力強さと逞しさに心がうち震える。
こんな気持ちを抱くのは鴎花にとって生まれて初めてのことで、今はただ戸惑うばかりだが、この腕を放したくない、と考えている自分がいることだけは確かだった。
いや、分かっている。
これは間違った感情だ。
私利私欲のために翡翠姫で居ようとするなんて、許されざる行為である。
(それでも今は……)
鴎花はイスカに背後から抱きしめられながら、空を見上げた。
鴎花のような醜い娘には申し訳無いくらいの、雲一つ無い澄み切った蒼い空。
そんな空の何処にかおわす天帝に対し、自分が中原の宝玉とまで謳われた翡翠姫と偽ることの許しを、そっと乞い願う。
そして偽る以上は、せめて翡翠姫に相応しい振る舞いをしなければと、改めて心を引き締めるのだった。
鴉威の設定は金、匈奴、モンゴルをごちゃまぜにしています。




