第56話 女装男、公演の日を迎える。
茜に心境を打ち明けられて、別れを告げてから、二日後。
ついに迎えた、仙台市民センターで行われる『ロミオとジュリエット』の舞台当日の日。
オレは自室の姿見の前に立ち、自身の顔を見つめ、ふぅと短く息を吐いた。
鏡に映るのは、相も変わらず不愛想な顔をしているジト目無表情の如月 楓の姿。
入学して一か月半も経てば、流石にこの姿にも慣れてくるものがある。
女ものの制服に袖を通すのにもいつの間にか抵抗がなくなっているし、化粧をするのにも違和感がなくなっている。
まぁ、冷静になると、女装に慣れるということは大分おかしなことなんだが‥‥男と女の二重生活を送っている内に、どこか頭がイカれてしまったのかな。
まったく。お前は腐っても中身は男なんだからな?
しっかりしてくれ、オレよ‥‥。
「おにぃ…じゃなかった、楓ちゃん! 今日は頑張ってよねっ! 私も舞台、見に行くからねっ!」
背後に立ち、両の拳を握って、そうオレに声を掛けてくる―――マイエンジェル、ルリカエル。
オレはそんな彼女に眉を八の字にし、心配気な声色で口を開いた。
「大丈夫か? お前、極度の対人恐怖症で、コンビニくらいしか外に行くことができないだろ? オレが劇をやる仙台市市民センターって、けっこう街中の方にあるんだぞ?」
「だ、大丈夫っ! 楓ちゃんの最古参ファン兼マネージャーとして、絶対に行かなきゃならないからね! グー〇ルマップ先生と、スマホに搭載されているAIの尻ちゃんに相談しながら、頑張って市民センターに行くから、安心してっ!」
「……絶対に迷子になるなよ? 公演中におまわりさんから連絡来ても、お前のお迎えにいけないからな?」
「な、舐めないでよ、おにぃ! 私だってもう13歳なんだよっ! いつまでも子供扱いしないでよっ!」
いやー…世間の13歳と比べて、引きこもりのルリカちゃんは精神年齢は10歳くらいで止まっていそうだからなぁ。
お兄ちゃん、とても心配です。どこかの知らない男の人に御菓子を餌に攫われたりしそうで、とても心配です。
「‥‥‥‥おにぃ、その生暖かい母親のような目でルリカを見るのは、やめて。うざい」
「ルリカちゃん、母親じゃなくて、せめてそこはお父さんなんじゃないのかな? こんな格好をしているけれど、お兄ちゃんは男の子なんですよ?」
「今のおにぃはどう見ても女の子ですっ!! ‥‥って、そうだ、お父さん‥‥。ねぇ、おにぃ、お父さんって、花ノ宮女学院の先生だから‥‥舞台に、来るんだよ‥‥ね‥‥?」
「‥‥」
「お父さん、大きくなったルリカの姿、分かるのかな。最後に別れたのって、8歳の時だったから‥‥」
「ルリカ。あいつには、会いたいだなんて思わない方が良い」
「‥‥‥‥なんで?」
「忘れたのか? あいつは、オレたちを花ノ宮家に押し付けて捨てた、最低最悪のクソ親父なんだぞ? オレたちが今こうして、籠の中の鳥として生活を余儀なくされているのもそうだ。全部、あいつのせいだ」
「それは、そうだけど‥‥。ルリカ、あんまりお父さんの記憶ってないから‥‥本当に、おにぃの言うような人なのかな? 何か事情があって、ルリカたちから離れて行っただけなんじゃないのかな?」
「なわけあるか。子供を捨てる親に、いったいどんな理由があるってんだ。とにかく、絶対にあいつには会おうとはするな。分かったな?」
「うん‥‥わかった」
今の親父には、銀城 遥希という義理の娘もいる。
もし、万が一、親父と彼女の仲睦まじい姿を、ルリカが見たら…きっと、心に深い傷を負うのは間違いないだろう。
自分は捨てられたのに、新たに拾われた娘は可愛がられている。
まだ年若いルリカに、その現実を受け入れることは、難しいにきまってる。
「それじゃあ、ルリカ、オレ、もう行くからな」
「うん。頑張ってね、おにぃ…じゃなかった、楓ちゃん」
スクール鞄を手に取って、玄関口へと向かう。
そしてローファーを履き、ドアを開けて振り返ると、そこには―――小さく手を振ってくれている愛しの妹の姿があった。
「行ってらっしゃい! 客席で、楓ちゃんの活躍、楽しみに待っているからね!」
オレは頷き、家を出る。
―――――ついに始まる、花ノ宮女学院一年生による、初の舞台、ロミオとジュリエット。
オレはこれから五年ぶりに、衆目の前で演技を披露することになる。
正直に言うと、今のオレがまともな演技ができるかどうかは甚だ疑問だ。
長年稽古をしていなかったし、演技に深く潜りすぎると発症してしまうこのイップスのこともある。
再び舞台の上でイップスが発症し、膝を付いて吐いてしまうことだけは…できる限り避けたいところだ。
「そうだ。もう、絶対に、失敗だけはしたくはない」
五年前の――――引退前に行った最後の演技のことは、今でも、脳裏に深く焼き付いている。
それは、世間からとても期待されていた、ある大ヒット小説が脚本の大きな舞台だった。
その舞台の初公演のある日。
オレは演技の途中で――――突如、地面に膝を付いて、壇上の上に吐しゃ物をまき散らしてしまった。
そんなゲロ塗れで倒れ伏すオレを見る、観客たちの不快気な視線。落胆の吐息。野次の声。
名作小説のファンで、舞台を見に来た観客たちは、金を返せと、客席で叫び始めた。
その瞬間、オレはもう‥‥自分が役者として生きていくことはできないと、悟ったんだ。
「‥‥‥‥そんなオレが、もう一度舞台に上がろうとしている。何とも不思議な話だな」
女装をして別人として、役者の世界に再び舞い戻ろうとしているなんて、過去のオレは想像していなかったことだろう。
本当に、不可思議な話だ。
もし、この脚本を描いている者がいるとしたら、そいつは多分、相当に性格が悪い奴に決まっている。
だが、悪くはない。不可思議で、思わず笑ってしまうような‥‥これは、そんな、可笑しな喜劇の物語だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「‥‥」
「あれ…? 香恋…?」
駅のホームに降りると、ベンチの上で、本を読んでいる香恋に出くわした。
彼女は小説らしき文庫本を膝の上に置くと、こちらに視線を向け、小さく笑みを浮かべてくる。
「おはよう」
「おはよう‥‥?」
「? どうしたの? まるで、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしているけれど?」
「いや、お前、この路線じゃないだろ? 何でここにいるんだよ?」
「私の可愛いお人形さんに、激励を飛ばしてあげようと思って。ここで貴方をずっと待っていたのよ。光栄に思いなさい」
「可愛いお人形さん…オレ、別にお前の人形になったつもりはないんだけどな…」
ふぅと大きく息を吐いて、香恋の前に立つ。
彼女が読んでいたその本は、オレがかつて、最後の舞台で大失敗した、役者を辞めるきっかけになった演目‥‥雪篠 暦・著作『孤独の夜空』だった。
オレが失敗してトラウマになった演目の原作を、まさか今この時に、香恋の奴が読んでいるとはな。
偶然…と考えるのが普通のところだが、この女のことだ。
オレの過去のことなど、既にその殆どの調べが付いていて、何でも知っているんだろう。
「お前、その本は……」
「……貴方が最後に演じて、失敗した作品よね。知っているわ」
「まさか、その因縁のある小説を今日この日に見せつけられるとはな。はぁ‥‥性格が悪いぞ、お前」
「私の性格が悪いことは既に知っているでしょう?」
「オレの精神を揺さぶらせて何の意味があるってんだよ。オレが如月 楓として舞台を成功させ、集客効果のある女優になることが、お前の真の目的じゃなかったのか?」
「‥‥‥‥柳沢くん、この小説の内容、覚えている?」
「内容?」
「ええ。主人公である少女は、莫大な資産を持つお金持ちの家に産まれた令嬢だった。でもその少女は、両親に見向きもされず、孤独だった。部屋にあるお人形だけが、彼女の孤独を埋める存在だった。そんな少女が、見つけ出した唯一の光―――それは、テレビの中に映るとある子役の少年の姿だった」
「……」
「少女は、少年のその現実を忘れさせる名演技に、心を打たれた。彼の演技を見ている内に、彼女の心に華が咲き、少女は、少年に恋心を抱いたのだ。資産家の家に産まれた少女は、少年に出会うために、彼の舞台に赴いた。そして、舞台終わりに、少年に声を掛けようと楽屋を訪れた。だけれどそこには、先客がいた」
「その先客は、強い眼をした赤い髪の少女だった。彼女は、少年に自分のライバルになれと宣言をした。いつか必ず、貴方を倒して見せる、と。資産家の少女はその光景を見て、自分がいかに蚊帳の外の存在なのかを思い知った。彼のメインヒロインは赤い髪の少女で、自分は主人公の目にも移らない脇役だと、不条理な現実を思い知ったのだ」
「あら、小説の内容を暗記しているのね。意外ね」
「オレは、一度自分が演じた演目の脚本はすべて頭に叩き込んでいる。その小説の内容なら、端から端まで、語り聞かせることも可能だ」
「流石ね。この本を書いた著者も、貴方のような名役者に覚えていてもらっているのなら、とても嬉しいことなのではないかしら」
「‥‥‥‥」
「さて。顔も見れたし、もう満足だわ。早く市民センターに行きなさい、如月 楓。貴方のライバルが、あそこでずっと貴方を待っているわ。貴方は‥‥こんなところで終わるような役者ではない。そうでしょう?」
「オレは‥‥」
「オレは、じゃない。私、でしょう? 今の貴女は、柳沢 楓馬じゃない。まっさらな新人女優、如月 楓なのだから」
そう言って、香恋はオレにニコリと微笑んできた。
オレはそんな彼女に、頷きを返し、ホームの奥へと歩みを進めて行く。
あいつと話せたことで、いくらか‥‥心を整理できたような気がした。
オレは柳沢 楓馬ではなく、如月 楓、か。
そうだな。オレは、新人女優の、名も無い素人役者だ。
だったら、過去のことなど何も考えずに、無我夢中に、演技をしてやるとしよう。
それが‥‥今のオレができる、精一杯のことだ。