硝子色の薔薇
何時か何処かの或る所に髪の長い少女が居りました。
少女はとある家の跡取りでした。
或る朝、少女はきらりと輝く芽を見つけました。
少女は芽を気に入り、愛でるようになりました。
芽は育ち、硝子色に輝く花を咲かせました。
少女は、その美しさに、そっと花を手折りました。
すると、ぱりんと、いちまい、花弁が割れました。
それから少女は花をテラリウムに入れ、割れないように、大事に、硝子越しに眺めるようになりました。
少女は期待と賞賛の声を受けながら育ちました。
その声は少女の長い髪をばさりと切り、少女の髪は鎧へと姿を変えてゆきました。
鎧は、跡取りとして乱世を生きる少女を守るために用意された、鋭い刃をしても貫くことのできない、強い強いものでした。
或る日、少女は一本の剣を折りました。
すると周りからの声は消えてゆきました。
程なくして、少女の家には、跡取りとして、少女の義兄が迎えられました。
少女はテラリウムの中の硝子の花をいっそう愛でるようになりました。
花は、光を反射し、虹色に色を変えていました。
中でも、深く蒼く光るその瞬間が少女は好きでした。
何度も何度も眺めるうちに花は深い蒼の光を放ち続けるようになりました。
花の美しさにとりつかれた少女は、いつしか硝子窓越しに眺めていた花に触れたいと、望むようになりました。
触れても、好いかしら?
少女が訪ねると花は、
もう一度触れてほしかった、と呟きました。
触れた花は一瞬、灰色に影を落とし、また少女の愛する蒼い光へ色を変えました。
少女は花がまた割れてしまわないように、触れるか触れないかほどの力で花を撫でていました。
或る日、花は突然音もなく割れました。
花を撫でていた少女の手は、砕けた花の破片で血に塗れていました。
少女は泣きました。
花を割った後悔と己の手の傷の痛みに毎晩泣いていました。
薄い膜のように見えた花の破片でしたが、強い強いはずの鎧を突き破り、少女の手に深く刺さって抜けないままのようでした。
義兄が家を継ぐと、少女は自分が最早少女ではなくなっていたことに気付きました。
剣を折ったあの日、あの時に鎧など脱げばよかったのだ、と
譫言のように繰り返すようになりました。
本当は纏う意味もなかったこの鎧がなければ花を二度も割ることはなかったのに。
手の傷が癒え始め、元少女は鎧を脱ぎました。
そして、指には宝石の輝く指環をはめました。
宝石はぎらぎらと光り、人の目を惹き付け、元少女は再び称賛の言葉を浴びることになりました。
しかしそのぎらつく光を元少女は美しいものと思うことはできませんでした。
ある時元少女は無意識のうちにあのテラリウムの前に立っていました。
久しぶりに訪れたそこは、今にして思えばテラリウムと呼ぶにはさみしすぎる、硝子のショーケースでした。
ただ、辺りは未だに深い蒼の光を帯びて、ショーケースの硝子は鏡のように元少女の姿を映していました。
わたしの愛した蒼い光は、貴方に映したわたしの姿だったのでしょうか。
ぽつりともらした声は反響して何度も何度も繰り返されました。
底面を見ると飛び散った硝子の破片が散らばっていました。
破片には未だに血がべっとりとついていました。
いつしか、こだまし続ける元少女の声のなかにちいさく違う音が混ざり始めました。
貴女の壊さないように触れる力が辛かった。
あの日私を割った手で、触れるのを躊躇う、その弱々しい貴女を感じるのが苦しかった。
私にこれ以上触れ続ければ崩れてゆきそうな、脆げな貴女の手は私には痛かった。
だから、あの日、自分から砕けた。
その“音”が言うに相応しく、目を凝らせば破片についた血は微かに入ったひびから流れ出て固まっていました。
元少女はふと考えました。
花に再び触れた手は、あの時本当に鎧を纏っていたのでしょうか。
わたしが、ほんとうに強ければ、わたしは貴方を割らずにいられたの?
元少女の問い掛けに、“音”が答えることは決してありませんでした。
テラリウムには幾つもの後悔の声がこだまするばかりでした。
立ち去る前に再び目をやると、硝子の破片の散らばる地面からは青い薔薇が咲いていました。
透き通るような、淀みのない青色の、美しく若い薔薇でした。