ラノベは振り返らない
まずライトノベルとは何か?から話さないといけないと思う。私は軽い文章に眼を向けてない。ライトノベルが何故売れるか?に着目してる。その答えが差別化だと見た。初期のライトノベルは漫画アニメの受け手を小説の受け手に誘い込むのが目的だった。だから漫画アニメ的な内容だけ整えればよい程度で、今とは全く違う視点だったと見てる。
根本的に文字で漫画アニメを読むと言うのは苦痛なだけで面白くない。デメリットしかない。百聞は一見にしかずの逆を行くのだから。その裏には角川がシェアを広げたいというシンプルな欲しかない。次にここを導火線として小説全般に広げたい。こういった欲丸出しの駄目戦略そのものだった。
長期展開する流れでそれらが洗練されたものになっていった。原作が無い漫画も敢えて原作者がいるとして、漫画はそれが絵を書く漫画家自身であることが多いとなる。この原作の部分の刺激だけを特に好む相手に売りつければ良いのじゃないか?おそらくそれを知ってやったか?知らずにやったかラノベは自然と奇抜で先鋭的な内容になって行く事になる。これが漫画原作との差別化になる。ラノベはこれでやっと特別を手に入れて商品として成立した。
同時にこれが、小説ではやらない内容を扱う事に繋がる事にもなる。ラノベには内容においてその他の小説って面がある。一般的な小説で扱わないものはすべてラノベにぶち込んでおけば良いと。ラノベは漫画にとっても小説にとっても変わった内容を扱うものになっていく。この前提を知っておかなければならない。
おそらく詳しくない人は、ラノベと漫画の区別が付けられないだろう。漫画で扱わないものを扱ってるわけじゃない。珍しいものを特別集めて扱ってるとなる。逆にラノベに影響を受けた漫画やラノベのコミカライズが数多く出て、漫画とラノベの境目は分かりにくくなってるのも事実。だがラノベを見れば漫画の中で特定のものだけが読めるようにはなってる。
漫画は全てを扱ってしまうので探すの大変になる。
多くのずれたアドバイスに苦言を書きたくて今回の事を書いている。なろう小説を非ラノベの常識で切り取ってはならない。なろう小説で中心になってるのはラノベ的作品の作り方に成る。多くの異世界批判を読んだ、そしてその解決策も読んだ。そのすべてに共通するのは、古典の繰り返しに過ぎない。
これが間違ってるのを説明しよう。深夜アニメとラノベに共通するのは漫画や小説TVドラマなどありふれたものじゃない差別化になる。ありふれたものとはなんであるか?である。これが実は古典なのだと気が付いた。古典はよほど大きく変えない限り、古典ゆえに滅びない限りは何度も作られ、かつそれらをベースに細部を弄った作品が作られていく。
古典作品とはありふれる運命にある。なろうやライトノベルがどうしてテンプレばかりになるか?と言うとそうじゃない創作は、過去にテンプレ化した古典がバラエティーの豊かさを支えているから。ありふれたものを排除するラノベやそのスタイルの後継者のなろうは古典を作っても目的とし無い人達によって支えられている。
おそらくその人達はありふれたものを見るなら非ラノベや漫画ドラマを直接見るのじゃないか?と思う。角川がどういう目的でラノベを今の形にしたのか?は分からない。だが売れるものを追求して今の形になって、そのキーを私なりに調べていて、これだと発見した。ラノベは深夜アニメと目指す方向が良く似ている。
それはありふれたもの以外を目的としてみるターゲット相手に作ってるから。それは自覚してるのか?は重要じゃない。なんとなくこういうものってイメージが形成されて、それが結果として調べると多分ありふれたものじゃないものを受け手は望んでいると私は読み取った。
私は以前から、古典の繰り返しは縦のテンプレと書いてきて、今なろうであるようなものは今の流行の横のテンプレだと見てる。一見バラエティー豊かなように見えるラノベ以外の物語は実際は古典のテンプレが時代を超えて今集まってるに過ぎない。
私は演劇と映像の違いと言うものを考えていて、それはCDとライブの関係にも似てる。記録されて残るものは延々と蓄積されていく。古い時代の物ほど残る限りはずっと溜まってる事になる。さらにこれらの模倣した新規の作品も生み出される。古典は必ずありふれたものになる。
小説や漫画の価値観でラノベへの批判をしてもそんな単純には成り立たない。ラノベは漫画小説との差別化が出来なくなったら滅びるしかないものでしかない。ラノベは小説の文章を軽く読みやすくしただけ、漫画を文字読むだけのような劣った創作ではない。ただ私はこのラノベが将来商売としては滅びると書いてる。常に新しいもので商売する事なんて不可能だからだ。ラノベは生まれたときから滅びる運命に合ったと見てる。
だが、それは商売ならだ、無料ならそれが可能だ。なろうがラノベ的であるのは価値があると私は思っている。