第02話:墜天
「緊急事態です!」
金の髪を振り乱し入ってきたのは生徒らの担任、ジゼル・ルシールだ。
彼女は〈神守族〉――地上の一部ではブラウニーやキキーモラなどとも呼ばれ、家屋を守る妖精とも言われている〈空間使い〉だ。
ジゼルは緊迫した声で告げる。
「式次第とは異なりますが、ただちに、貴方たちの脳髄に施した封印を解除することになりました! 解除の瞬間はスキルの暴走の恐れがあるので、全員気息を整え、解除に備えてくださいっ!」
「せ、先生。それより、か、彼がもう……っ! たすっ、助けて下さい!」
そう切々と訴えるのは、美しい翼を持ち、頭に光輪を浮かべた女子生徒。
先程絶叫していた彼女は下半身を潰された男子生徒にすがり泣きじゃくっていた。
と、ジゼルは彼女のもとに近づき、その襟首をひねり上げる。
「落ち着きなさい! スキルさえ目覚めれば、貴方たちだけでも充分に治療可能なはずです。あなただって、このクラスに〈聖女〉がいることは知っているのでしょう?」
「ひぐ……そっ、それは、そうですけれど……」
ジゼルが叱咤すると、女子生徒は怯えて涙を止めた。
むろん、スキル〈聖女〉の持ち主さえいれば、どんな瀕死の重傷を負っても、いや、例え肉体が滅んだとしても、復活の可能性はある。
だが、それでも、クラスメイトが無残な姿で横たわっているのを見て、冷静でいろなどとは、十五歳の女子相手に酷な相談だった。
「おい、パルドゥス! 大丈夫か?!」
「あぁ。アレク。なんとかな」
その〈聖女〉を助けた、学院でもほぼ百年ぶりの俊英パルドゥスは今、涼しい顔をして担任を見つめている。
一方、助けられたほうの、えんじ色の髪の〈聖女〉シルヴィアは、腰が抜けたのか、まだ立ち上がることができないでいた。
アレクはシルヴィアに聞こえないよう、パルドゥスに小声で話しかける。
「なぁ。ジゼル先生の対応、おかしくないか、パルドゥス? 普通、避難が先だろ」
担任が全員の安否を確認しているが、小刻みな揺れは収まる気配を見せず、今にも天井が落ちそうになっている。
この場から退去することが、何よりも優先されることのべきはずだ。
しかし、担任は一向に避難誘導を始める気配はない。
(もしかして、これはただの災害じゃなく――)
アレクは自分の予想に冷や汗をかく。
そんな中、ジゼルは素早く講堂をひと回りすると、息をついた。
「どうやら、死者は『まだ』出ていないようですね……安心しました」
だが、『安心』と言いながら、彼女の表情は固いままだ。
少しためらうように、やおらとジゼルが口を開く。
「今、このクァンルゥ島は襲撃を受けています」
「――は?」
誰かの間の抜けた声が、講堂に響いた。
「我々大人に、貴方たちを守ってあげられる余力は残念ながらありません。この講堂を出れば、貴方たちも襲撃にさらされることでしょう。この島のどこも、安全とは言えない状況です」
アレクは自分が予想していたいくつかの仮説の中で、もっとも悪い仮説が的中していたことを知った。
(大人たちは助けに来ないんじゃない。『来れない』んだ。これは、単なる『災害』じゃない。これは――)
「スキルを解放すれば、貴方たちも最低限の武力を持つことができるでしょう。自分の身は自分で守ってもらわねばなりません。
修了式がこのような中途半端なことになってしまい残念ですが、私から一つ、貴方たちに修了試験を課します。各自協力しあい――『生き残ってください』!」
これは、災害ではない。
これは、千年の繁栄を築いたクァンルゥ島が、長い歴史のなかで初めて本土に上陸を許した『敵襲』だった。
「なっ、そんな! 無責任だろ!? 大人は何してんだよ!」
一人の男子生徒が騒ぎ立てる。
すると、ジゼルはきっと生徒をにらみつけた。
「黙りなさい! 今は議論をしている余裕はありません!」
ジゼルの一喝で、騒いでいた生徒はおじけたように鎮まる。
「特に、皆さんよく聞いてください。アレクくんのことです」
「へ?」
急に水を向けられて、アレクはおかしな声を出した。
「今日まで秘密とされていましたが、実は、アレクくんには戦闘に関するスキルがほとんどありません。みな、しっかり守るように」
「な、な……!」
これはキツい。
逆の意味での特別扱い。
むろん、アレクが戦闘系のスキルをほとんど持たないことはもはや公然の秘密であり、クラスの全員がそれとなく知っていたから、今さらそれをバラされたところで、どうということでもないのだが。
わざわざ名指しで足手まとい呼ばわりされ、十五歳の多感な心にかなり深刻なダメージを負うアレクである。
「あー、アレク。なんつーか、お前がこうやって言われるのが嫌いなのは知ってるけどよ。お前のことは、オレが何とか守ってやるからさ。なるべく、そばを離れないでくれよな?」
ぽん、と、パルドゥスがアレクの肩を叩く。
アレクの服の袖をつかんでいた幼女・サンディもまた、コクコク何度も頷いた。
だが、アレクには親友二人から心配されているのが、嬉しいよりも情けない。
「では、今からスキルを解放します。緊急事態なので、使い方を教えている余裕はありません。実地で慣れてください」
今日何度目かの絶望をしているアレクをよそに、ジゼルは目をつぶり、両手で印を組んだ。
生徒たち全員の首筋に、光の立方体が浮かび上がる。
それから、ふぅーっと長い息をついて、ジゼルは宣言した。
「〈絶対支配空間:揺り籠〉……解放!」
澄んだ声と同時、立方体が砕けた。
その瞬間――、凄まじい頭痛がアレクを襲った。
「ぐっ、あああああああああぁぁぁ……っ!」
意味もつかぬ音、音、音。
悲鳴、慟哭、絶叫、嘲笑、笑い声、泣き声、呟き声、甘え声、罵声、嬌声、歓声、怒声、衝突音、擦過音、咀嚼音、爆発音、軋み、地鳴り、波の音、風切り音――
アレクの耳には、クァンルゥ島全土であがっている悲鳴のみならず、天上と地上、両方で鳴り響くすべての音が聞こえている。
目に入るのは、色、形、動き。
夜空、青空、曇り空、雪山、草原、砂漠、海底、殺し合い、睦み合い、処刑場、牢獄、神殿、墓場、打ち捨てられた骸、数多ある本のすべての頁、海岸の砂利一粒一粒――
その目には、クァンルゥ島全土で起こっている悲劇のみならず、アレクですら知らない場所の光景が、凄まじい勢いで入れ替わるように映し出されていた。
講堂内には全身から湧きあがる力に戸惑い、力を放出しっぱなしになってしまっているものや、暴走によって講堂の破壊を促進してしまうもの、姿が消えたり浮かんだりと忙しいものなどがいるが――、
それらもすべて、アレクの目には映らない。
「おっ」
パルドゥスは特に騒ぐことなく、長年馴染んでいるようにすでにスキルを受け入れていた。
サンディも、何事もなく落ち着いている。
シルヴィアは真っ先にヒカップのもとに駆け寄って、怪力の女子生徒に巨石をどかしてもらうなり、瞬間再生。
難なく、ヒカップの救命を完了していた。
そんな中、アレクは一人、ひたすら苦痛と戦っている。
「お、おい、大丈夫か?」
凄まじいまでの情報の渦が、アレクのすべてを洪水のように洗い流そうとしていた。
パルドゥスが気遣うが、それにすらアレクは気づいていない。
「おい! 四から八席! お前らはもう、スキルは抑え込んだな? なら、俺様の指揮下に入れ! 俺様は〈王者〉持ちだ。使えねぇ九席以下のクズどもを守ってやらなきゃならん」
叫んでいるのは先程「無責任だ」と騒いでいたナルガン・フレイムフィアーである。
パルドゥスさえいなければ今年の生徒代表に選ばれたであろう天才で、彼の持つ〈王者〉は支配下の者に強力な戦闘補正を与えるものだ。
「アレクくん。気息を正し、目の前のことだけに集中してください。頭に流れ込んでくる情報をすべて受け止めようとしてはなりません。受け流すのです」
膝をついて悶えるアレクの肩に手を置いて、ジゼルはアレクを落ち着かせようと試みる。
そこへナルガンが現れ、悪態をついた。
「くそっ! アレク、てめー、まだスキルを抑え込めてねぇなんて、本当に使えねぇヤローだな。俺様がなぜ、こんなゴミを守ってやらなきゃならんのだ」
「ナルガンくん。貴方のスキルはむしろ、こういった戦う力を持たない友人を、守るためにあるのですよ?」
「チッ」
ジゼルが注意すると、ナルガンは忌々しそうに舌打ちする。
普段ならアレクも憤るところだろうが、そのやりとりすら、アレクは遠い場所の出来事のように感じていた。
確かに、ジゼルに言われたように目の前のことだけに集中すれば、ほんの少しの間だけ、スキルではなく自分の目が見ているものが見え、自分の耳が聞いているものが聞こえる。
しかし――、それが目の前の出来事だと認識するよりも先に、別の場所の光景や音に押し流されてしまうのだ。
目に集中すれば耳に邪魔され、耳に集中すれば目に邪魔される。
膨大な情報が痛みとなって脳を灼きつくす。
地獄である。
と、その時、
アレクがジゼルの腕をつかみ、すがりついた。
「きゃっ!?」
「おい、アレク! 先生の手を放しやがれ!」
ナルガンがその手を引きはがそうとするが、予想以上の力に戸惑い、手を放す。
流れ込む膨大な音声情報の中で、アレクは一連の意味ある言葉を、聞いたような気がした。
「せ、せんせぇ……!」
「なんですか? アレクくん」
「下……、下です……! 下から、来ますっ!」
「!」
アレクが告げた瞬間、先程から断続的に続いていた揺れが、一瞬収まる。
直感的に異変を感じて、ジゼルが叫んだ。
「みんなっ、急いでここから退避っ。この場にいては、危な……」
ジゼルがその言葉を言い終わるより前――
破壊の力を秘めた光の柱が、何百本と、床から天井へ走った!
そこらじゅうに穴が空き、かろうじて残っていた天井が崩れて落ちる。
直下からの突然の攻撃に、生徒たちはみな恐慌に陥り、何人かが瓦礫の下敷きになった。
「アレクくんっ! 危ないっ!」
担任に突き飛ばされ、アレクはすっ転がる。
とっさにアレクを光の柱から救ったジゼルの腹は皮一枚残して大きく丸い穴が空いていた。
突き飛ばされ、鼻を絨毯にこすりつけたおかげで、スキルが一瞬鎮まる。
アレクはジゼルの怪我を確認し、急いで辺りを見回した。
「し、シルヴィアさんを……、シルヴィアさんを呼んできます……っ!」
シルヴィアなら、ジゼルを助けられる。
彼女を呼びに行こうと、アレクが講堂の中央へと駆け出した。
しかし、
「え――?」
床が大きく傾く。
その場にいた生徒たちは全員、ふわっと浮くような感覚を覚えただろう。
天の底が、抜けた。
盤石のはずの地面が、がらがらと音を立てて崩れていく。
空に浮かぶクァンルゥ島の大地に、大穴が開いた。
その真上にある大講堂は、中にいた生徒もろとも、地表まで八千ルヮイス(≒メートル)弱の自由落下を開始する。
アレクは見ていた。
心臓が百、脈打つほどの、長いような短いような間。
パルドゥスが瓦礫を蹴り、サンディが美しい翅をはためかせ、アレクのもとにやって来る。
その後ろで巨大な――クァンルゥ島からも見下ろすことの出来ていた三千ルヮイス峰でさえ膝下にも届かない、巨大な人影――『穴の巨人』が、彼らの故郷に両腕で取りついている様を。
とこしえに落ちることはないと思われていたクァンルゥ島が、緩慢に倒れゆく巨人と共に、海のかなた、巨人の穴へと落ちていく様を。
(なん……だ、これ? なんなんだ、これ)
目が離せない――おかげで、今だけはアレクのスキルは収まっている。
発現したばかりのスキル〈順風耳〉が、天と地で別れ別れになってしまった彼らの担任が、血を吐き、水音の混じる声で「〈停滞〉」と唱えたのを捉えていた。
瞬間――、生徒たちの落下速度が目に見えて減衰。
愛すべき担任の心音が、大きく脈打ったのを最後に静かに止まったのは、アレクのみが知ることだった。
この日、天空の民・天人の住まうクァンルゥ島に穴が空き、修了式を終えたばかりの生徒たち二十八名は、なすすべなく地上に堕とされた。