HEAVEN
震える指で携帯電話のボタンを押した。気持ちが変わらないうちに、済ませてしまいたかった。
発信履歴から選択してかけるだけなのだから、たった数センチの指の移動で終わる作業なのに、それは重く、そのあと耳に響いてくるコール音はまるで、彼と過ごした時間くらいに短かった。すぐに店へと繋がり、聞いたこともない女の店員が「お電話ありがとうございますHEAVENです」と語尾を上げて言った。
「本当にいいんですか?」
まだ会って数時間しか経っていない初対面の男が問いかけてくる。鏡の中の自分を見つめ、頷く。「じゃあ、切りますよ。」
男は訝しげにそう言って、髪の毛をいくつかにブロッキングし、鋏を入れていった。シャキ、シャキと小気味いい音が鳴り続け、その度に切り落とされた私の一部が、まるでしがみつくかのようにゆっくりと床に落ちていった。しがみついていたかったのは自分だったのかもしれない。
少々ためらいながらその名を告げると申し訳なさそうな声で「その日、タカハシはお休みです」と言われた。他の者にしますかと聞かれ、一瞬迷ったが、お願いしますと言った。いいんだ、その方が。タカハシには会わない方がいい。
その時の電話の向こうにいた、細い声を出した男が今私の髪を切っている。サイドの髪を切っている作業の途中で、肩幅の広い彼は私の左側に位置している。正面の鏡には男の左半身が大写しになっていて、鏡の中の自分と、私はその横顔を眺め続けた。
「タカハシくんは、」
急に高い声がした。え、と少しだけ顔を左に向けると、「はい、前見てください」と直された。私が僅かに悔しい気持ちでいると「いなくなっちゃったんですよ。」と続けた。
分かっていた。どこかでそんな気がしていた。だけど知りたくはなかった。これ以上タカハシのことを考えるとどうにかなりそうだったから、小さな声ではい、とだけ返事をして感情を消した。
初めてこの店に来た時、私は大学に入ったばかりで伸ばしっぱなしの髪の色を変えたり、雑誌のモデルのように巻いたりすれば大人になれるのだと無邪気に信じていた。
同じ高校から進学した先輩が勧めてくれたこの店は、田舎育ちの私には美容室と呼ぶことさえくすぐったかったけれど、受付で先輩の名を伝えると受付の女性は承っています、と柔らかに言った。
先輩の心遣いに感謝しながら、促されるままに椅子に腰かけると正面には大きな鏡があって、上半身だけでなく全身が映し出された。ゆったりとした洋楽、オレンジの間接照明が灯る店内は自分には洒落すぎていて場違いすぎる。逃げ出したくなったのを覚えている。
「こんにちは」
その時背後から声をかけてきた女性は、笹木といいます、綾乃ちゃんの紹介の子だよね?と人懐こい笑顔で言った。私と笹木は向かい合ってはいないのに、鏡の中では確かに目が合っているから不思議だ。
笹木は話しやすい人だった。色と形のイメージを伝え終わると、シャンプーは別のものが担当しますね、と言って扉の向こうに去っていく。そして、入れ違いにやってきたのは若い男の美容師だった。
その時のタカハシはまだ美容師と呼ぶほどのものでもなかったかもしれない。アシスタント、もしかしたらただのバイトかも、と勝手に考えていた。そう思わせる、高校生のようなあどけなさが彼にはあった。シャンプー台に移動する時、私と身長が同じ位なことが分かり、少しだけ笑ってしまった。声に出したつもりはなかったけれど、振り返り、どうかしましたかと子犬のような顔で聞いてきた。可愛い人だ、と思った。
綾乃先輩のアドバイスのもと、頻繁にその美容室に通い、私の髪は常に女らしい状態を保っていた。そんなある日、タカハシの異変に気付いた。
美容室に予約を入れる時、受付の女性はいつも笹木がいるかどうかを確認してくれた。だから私はいつもタカハシに洗ってもらった髪を笹木に切ってもらうことになる。ローブを巻かれて動けない私の後ろで、笹木とタカハシが打ち合わせる様子が目の前の鏡に映し出されていた。それはいつもの光景だったのに、その日はそれだけではなかった。
しっかりと乾かされた髪の長さを見ながら、笹木が少しずつ鋏を入れていく。いつもは置かれた雑誌に目を通したり、笹木と会話をしていたがその日はなんとなくどちらもせずにいた。彼女は淡々と私の髪を切り、私はその作業を黙って見る。具合を確かめる為に鏡を向く笹木とたまに目が合っていたのだが、もう一人、目が合う人がいた。
タカハシだ。と言ってもこの時点で彼の名前はまだ知らなかった。床を掃除しながら。電話を置いたあと。ことあるごとにこっちを見る。そのすべてではなく、何度かに一度、目が合う。こちらも意識している訳じゃないのに、笑顔を作るのもおかしいような気がして、ごく自然にそらす。だけどまた合ってしまう。なんなのだろう。
「どうかしたの?」
何度も髪を触らせているうちに笹木とは仲良くなり、友人に話す調子でお互い話すようになっていた。
真剣に作業をしていた笹木は当然、私が気付いたことに気付いていない。大したことではないのだ。勘違いだと思い、
「なんでもないです」
と言った。
「そう。雑誌変えようか」
と笹木は言い、他のアシスタントの子に別の雑誌を持ってくるように指示をした。よく気が利く大人の女性だ。とはいえ彼女の年齢をちゃんと確かめたことはなかったと今頃になって気付いた。
美容師となると、客の手本になるように髪の手入れが行き届いた人ばかりかというとそうでもなく、笹木の髪はいたってシンプルだった。ざっくりと耳を出したショートヘア。特に色を変えてもいないし、器用に跳ねさせてもいない。
「笹木さんは自分の髪、自分で切ってるんですか?」
以前から気になっていたことを私はついに聞いてみた。初めは、作業中の手元から目を離さず、うん、と頷いただけだったが、少しだけ間を空けてから、
「最近はアシスタントの子に切ってもらうことも多いかな」
「練習台、ってことですか?」
「うん。それもあるし。実際に切らせてみると分かることって結構あるよ。練習台でもあり、厳しい指導員でもあるって感じかな」
自慢するような目で鏡の中の私を見る。さっぱりとしたメイクは決してしつこくないが、瞳の力が強い。私は会う度に彼女の素敵な所を見つけて、どんどん好きになっていく。そんな風に思っていた。
大学三年になる頃、短期でアルバイトをしていた私は休日もバイトに明け暮れていたので、その日の予約の電話は久しぶりに丸三ヶ月以上も空いてかけていた。
もうすぐ始まる新学期に向けて毛先を揃えたかったし、笹木にも会いたかった。
慣れた手つきで美容院に電話をして、自分の名前と予約の日付を告げた。
「あの、実は」
受付の女性は申し訳なさそうに続けた。
「笹木さん、先月いっぱいで辞めたんですよ」
「え?そうなんですか」
「はい。急だったんですけど。鹿崎さんは笹木さんと仲良かったから、こっそり教えますね。笹木さん、できたんですよ」
「え」
「それで、結婚するからって。遠距離だった彼氏の所に行くことにしたみたいです」
「できたって」
「子どもですよ。ちょっと、意外ですよね」
彼女の言い方には含みがあった。
予約をどうするかともう一度聞かれ、消えそうな声でそれでもよいと告げて電話を切った。自分でも分かるくらいにか細い声だったのがおかしかった。
何度も彼女に髪を切ってもらって、たくさん話をした。笹木はいつも笑顔で私の愚痴も弱音も聞いてくれたし、励ましてほしいと願う時にはほしい言葉をほしかったように言ってくれた。だからなのだろう。裏切られたような、軽い絶望感にしばらく浸っていた。
「今日から担当します。タカハシです」
あの、子犬のような笑顔で彼が言った。彼の名前をその時初めて知った。微かに気持ちが上がったのと同時に、いなくなった笹木のことが蘇り、自然に笑えなかった。
髪にパーマ液を塗られながら、「笹木さん、急に辞めちゃったんですね」とつぶやくように私が言うと、つられたようにタカハシの顔から色がひいた。
「僕、髪切らせてもらってたんですよ。笹木さんの」
静かに言った彼と、鏡の中で目があった。その色で気付いた。タカハシは笹木のことが好きだったんだ。そして、私はタカハシのことが好きだった。
気付いた時にはもう何もかも遅い。次に店に訪れた時タカハシはいなくなっていた。彼のことは何も知る暇もなかったけれど、彼はもうどこにも生きていない。落ちていく自分の髪の毛を見つめながら、そんな気がした。