猫の贈り物
僕は人である。断じて猫などではない。
名前もちゃんとある。
「どこ行ったー。ねこにゃー?」
違う。猫ではない。
僕の名前は、犬山誠。猫よりも犬の方が好きな、高校二年生である。
「ごはん作るよー? 食べないの、ねこにゃー」
……高校二年生、であった。
今は何故か、猫の姿になってしまっている。
異変が起きたのは、学校からの帰り道。
坂を下っていた時である。
寒い寒い、と二重三重に巻いたマフラーに顔を埋め、制服の上に着たコートに手を突っ込んで、早く暖かい家に帰りたいと急いでいた僕は、盛大にこけた。
あっ、と思った時にはもう遅い。後悔は後からやってくるのである。
手をつこうにも、コートから出て来ず、そのまま僕は坂道を転がり落ちた。なかなか急な坂で、勢い良くずっこけた僕は、痛い痛い、と転がりながら、無事に帰れたら手袋を買おうと思った。
目が覚めると、そこは坂の麓であった。
不思議なことに、転がっている最中はあんなに痛かったのに、今はもう全然痛くない。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言うが、今回の痛みもそういうものだったのだろうか。
少し違う気がするが、まあ、いい。怪我もせず、痛みも無いのであれば、それでいい。不幸中の幸いだ。
さて帰ろう、と一歩踏み出した時、違和感があった。
ん? と思い、もう一歩。違和感は強くなった。気のせいだろうともう一歩。違和感は確実なものとなった。
足が四本あるのである。視線も低い。体中に黒い毛が生えている。手が四本ある。いや、手は無いのか。手と足の区別がつかない。
自分の姿をよく見ようとすると、くるくる回ってしまう。くるくる。くるくる。視界の隅に、黒いものが見えた。追いかける。くるくる。くるくる。
僕が、そうやって回っていると、頭上から声が降ってきた。
「か、かわいい」
なんだ、と見上げようとすると、足が見えた。人の足だ。そこから更に上に行くと、そこには女の子が目を輝かせていた。中学生だろう。僕の通っていた中学の制服を着ている。
これはまずい、と思った。
目を輝かせている女は、何か良からぬことを考えているものなのである。うちの姉がそう。そして、割を食うのは姉ではなく、いつも僕の役割だ。
逃げようとしたが、駄目だった。
「これは保護。これは保護」
……拉致の間違いだろう。
ちなみにこの坂道、名を猫坂という。
全く、猫に関わると、ろくなことがない。
猫を飼っていたのは、僕が小学生の頃だった。
その時、中学で吹奏楽部に入部していた姉が、部活の帰りに怪我をした野良猫を拾ってきたのだ。
動物が好きな両親は大喜び。猫の怪我を全く気にせず、写真を撮りまくっていた。猫からすると、いい迷惑で、早く手当して欲しかっただろうに。
そんな両親を追っ払って、姉が猫を手当した。そして、僕に向かってこう言った。
「誠、この子の面倒、任せた」
部活で毎日遅く帰ってくる姉に代わって、僕が猫の世話をすることになった。
自分たちがしたかったのだろう、両親は不満気な様子だったが、姉に睨まれると、こくこくと頷いている。
家では、姉がピラミッドの頂点にいるのだ。
世話を任された僕は、それから毎日、学校が終わるとすぐ家に帰った。家で猫が待っていると思うと、自然と早足になった。
猫の世話をするのは楽しかった。世話と言っても、ほとんど遊んでいるようなものだったが、それでも当時の僕は一生懸命だった。
猫は、初めは警戒していたものの、何日かするとなついてくれた。僕が家に帰ると、ちょこっとリビングから顔を出すようになった。
そうしているうちに、愛着が湧いてきた。元々、動物は好きなのだ。名前をつけようと思った。
しかし、そのことを姉に言うと、反対された。
「あの子は、元気になったら野良に帰すから、そんなことはしない方がいい」
それでも、と僕は、猫のことを『ねこにゃー』と呼ぶことにした。名前ではない。『猫』に鳴き声の『にゃー』をつけただけだ。猫に話しかける時、語尾などに『にゃ』をつける人がいると思う。それと一緒だ。
しばらくして、ねこにゃーは普段通りに歩けるようになった。足を引きずっている様子もない。
そろそろか、と思った。離れたくなかった。ねこにゃーといるのは、とても楽しかったのだ。
だが、姉に逆らえるはずが無かった。逆らっても、言い負かされるだけだ。
僕はその日風邪をひき、以降、ねこにゃーとは会っていない。
その子の家は、昭和の香りが漂う集合住宅だった。良く言えば趣があり、悪く言えば、ボロい。
ちょっと待っててねー、と鞄から鍵を取り出し、ドアを開ける。家の中はそれなりに綺麗にされているが、やはり古いのだろう。天井に雨漏りの跡があったり、すきま風が吹いたりしている。
ドアを閉め、鍵をかけた後、彼女の部屋でようやく僕は解放された。それまでずっと抱きかかえられて来たのである。
「ごはん、ごはんっと、その前に着替えなきゃ」
解放された僕は、その言葉を聞いて一目散に逃げ出した。猫になっていて気づかれないからと言って、見てしまうのはいけない。僕は硬派でいきたいのだ。
彼女から逃げ、リビングへ入る。リビングの真ん中に、どっしりと構えたこたつがあったので、潜り込む。猫の体は、毛が生えているものの、やはり冬は寒かった。
「どこ行ったー。ねこにゃー?」
……どきん、とした。昔、自分の口から出ていた言葉が、今は自分を捜している。
「ごはん作るよー? 食べないの、ねこにゃー」
ちらり、とこたつの中から覗いてみる。リビングと繋がっているキッチンで、彼女はエプロンをつけていた。もう着替えは終わったらしい。これなら、出ても大丈夫だろう。
「あ、そこにいたのか。寒いもんねー」
こたつから出てきた僕を見つけ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。見つかって安心したのだろう。それを見ると、なんだか僕も嬉しくなって、にゃーと鳴いた。
出てこなければよかった、と僕は後悔した。今、僕は、命の危機に晒されているのかもしれない。
「ほら、あーんして。にゃーん」
目の前には、女の子。そしてスプーン。普段なら喜ばしいことなのだが、それでも僕は首を逸らして拒否の意を示す。
「なんでかなぁ。美味しいと思うんだけど」
それは否定しない。実際、この子は料理が上手だった。手慣れた感じで、野菜を切り、肉を切って、調理していた。僕が猫でなければ喜んで食べていただろう。
「うーん。においが駄目なのかな……カレー、美味しいんだけどな」
猫にカレーを勧めないでいただきたい。玉葱が入っているし、塩分高すぎるしで、食べたらどうなるかわからないのだ。
「今年は、一緒に食べる人が出来たと思ったのにな……ねこにゃーだけど」
……そういえば、さっきから気になっていた。なぜ、この子は一人でご飯を食べているのか。こんな日に。色恋のことは、得手不得手やらがあって、相手がいないのはわかる。だが、両親はどこにいるのだろうか。
そう考えていると、彼女は答えてくれた。
「あーあー。母さんも父さんも、なんで浮気なんかするんだろうな。今日くらい、みんなでご飯、食べたいな……」
答えてくれたのではない。当たり前だ。彼女は、自分の望みを猫に呟いただけだ。
なんて望みなのだろうか。この子くらいの年頃なら、もっと他に欲しい物や、やりたいことがあるだろうに。
僕は、目の前のスプーンに食い付いた。
熱い。舌が焼ける。痛くて涙が出そうだ。吐き出さないように注意しながら、咀嚼し、飲み込んだ。焼ける程熱くて、猫の体には良くないだろうけど、味はとても美味しかった。
ハーハー言って、舌を冷ましていると、彼女が僕を抱き上げてきた。
「熱かったね、ごめんね」
ぽたり、と何かが垂れてきた。
見上げると、彼女は泣きながら笑っていた。
「ありがとう、ねこにゃー」
別に、お礼を言われるようなことはしていない。僕は、舌を出して、あかんべーをした。
体に異変が起きたのは、彼女がお風呂に入っている時であった。お風呂も一緒に入れられようとしたが、なんとか逃げ回って、一息ついていた頃である。
いきなり、激しい動悸がして、体が熱くなった。視界がぐにゃぐにゃ歪んで、真っ直ぐ歩けない。
これはいけない。何故こんな症状が出てきたのか、いつまで続くのか、分からないことだらけだが、こんな姿を見せたら心配させてしまうことは分かる。
僕は、あちこちにぶつかりながら、鍵の開いている窓がないか調べ、それを見つけると、よろよろと外に這い出した。
外は、雪が降っていた。
うっすらと積もっている雪が体を冷やしてくれるが、それでも、熱いままだ。むしろ、さっきよりも熱くなっている。
歪む視界の中で、小さな空き地を見つけた。重たい体を引きずって、そこを目指す。しかし、辿り着く前に、目が見えなくなった。方向が分からない。足が、動かなくなった。冷たい地面に横たわる。
もう駄目か、と思い、目を閉じた時、僕を呼ぶ声が聞こえた気がした。
目が覚めると、そこは見慣れた部屋だった。僕の自室だ。さっきまで猫の姿で、外にいたはずなのに、人間の僕はきちんと寝間着を身につけ、布団で寝ていたらしい。
僕は布団から飛び起きると、寝間着の上にコートを羽織って、急いで外に出た。
寒い。マフラーでもしてくればよかった。でも、今はそんなことを言っている場合ではない。
最後に聞いたあの声が幻聴ではなかったら、あの子は今頃……。
今日、猫を拾った。
猫坂の前で、自分のしっぽを追いかけている猫が可愛くて、つい連れて帰ってしまった。
帰る途中、名前をいろいろ考えて、でも、可愛いのがなかなか思いつかなくて、結局、ねこにゃーにしてしまった。
近所に住んでいる小さな女の子が、猫を呼ぶ時に使っている呼び方だ。ちゃんとした名前が決まるまで、私もそれを使わせてもらおうと思った。
ねこにゃーは、恥ずかしがり屋さんだった。部屋に入って下ろした途端、リビングのこたつに隠れてしまった。可愛い。
そして、優しい子だった。最初は嫌がっていたカレーを、食べてくれた。嬉しかった。一緒にいてくれるだけでも嬉しいけど、一緒にご飯を食べることができるのは、もっと嬉しい。
でも、一緒にお風呂に入るのだけは出来なかった。逃げ回るねこにゃーを捕まえるのは、今の私には無理みたい。今度、寝ている時にでも捕まえてみようと思う。
お風呂では、ねこにゃーの名前をいっぱい考えた。クロとか、チャミとか、いっぱい。でも、そこで私は大変なことに気づいた。あの子がオスかメスか分からない。それが分からないと、名前が決められない。お風呂から出たら、確認してみようと思った。
ねこにゃーのことを考えていると、悲しいことや、寂しいことを忘れることができた。次は何をしよう、そうだ、あれをしてみようと、どんどん楽しいことが出てくるのだ。
でも、お風呂から出ると、ねこにゃーの姿がなかった。家中捜した。いなかった。泣きそうになった。そこで、開いている窓を見つけた。私は、パジャマのまま、外に飛び出した。
猫坂から、走って五分程。猫の姿の僕が連れて来られた集合住宅が見えてくる。その頃には、雪は勢いを増して、ちょっとした吹雪の様になっていた。
集合住宅と、その周辺の道路が見える位置で一旦立ち止まり、目と耳を凝らす。すると、小さな、震えている声が聞こえてきた。
「ねこにゃー……どこ、いったの……?」
僕は、声の聞こえてきた方に駆けだした。
寒い。寒い寒い。雪が、勢いよく降っている。手が、足が、顔が、体が、冷え切って、ぶるぶる震えてしまう。パジャマだけで出てきたのは間違いだった。一度、帰ろうかとも思った。でも、帰っている時にねこにゃーが歩いていたら、気づけない。
「ねこにゃー……どこ、いったの……?」
声が震えてしまう。涙がこぼれて、顔を冷やしていく。それでも、私はねこにゃーを捜す。あの子と、また一緒に遊びたい。
「おい! あんた!」
そんな時、声をかけられた。でもたぶん気のせいだろう。何より、私は今、ねこにゃーを捜すのに忙しい。
「あんただよ!」
無視していると、腕を捕まれた。引っ張られて、抱きしめられる。怖い、と思った。逃げなきゃ……でも、暖かい。
「なんでこんな格好で出てくるんだ。風邪引くぞ」
その人は私を離すと、自分が来ていたコートを私に着せてくれた。そのまま、手を引っ張られる。
「いや……」
私はまだ、ねこにゃーを捜さないといけない。
連れて行かれたくない。
「……大丈夫。ねこにゃーなら、どこかで生きてるよ」
え、と思った。なんでこの人は知っているんだろう。聞こうとしたけど、その人が、とても寂しそうな顔をしていたので、声が詰まる。
「絶対、どこかで生きてるんだ」
自分に言い聞かせるように、その人はまた呟いた。繋いでいた手に力がこもる。
「だからさ、まずは家に帰ろう。そのままだと本当に風邪を引いてしまう」
はい、と私は頷いた。なんだか、この人の言うことなら、信じられるような気がする。ねこにゃーは、きっと、大丈夫。
私達は、手を繋いで、雪の中を歩き出した。
「家に帰ったら、暖まろう。今度はカレー、ちゃんと食べたい」
またまた不思議に思ったけど、もう気にしないことにした。きっと、これはプレゼントなんだ。サンタさんが、私に用意してくれた、一晩だけのプレゼント。
でも、一晩だけじゃなく、明日も明後日も、ずっとずっと、続いていけばいいなと思った。
なんとなく書いてみた冬のお話です。
感想とかできるのかな?
あったら嬉しいです。