2-5 名前
女は膝を着いて挨拶する。
「改めて。こんばんは、伊賀くん」
伊賀は、呼ばれてもぽかんとしたままである。
「お〜い、伊賀く〜ん」
目の前で手をひらひらとしても反応ナシ。
今度は伊賀の耳元に口を寄せる。
「伊賀、柚也ぁ〜!」
「わわぁぁぁぁ!」
伊賀がのけぞった。
「やっと我に返ったな」
ほっと胸をなでおろす女から、伊賀が飛び退く。
「さっきのはなんなんですか!
これはなんなんですか!
あなたはなんなんですか!!」
「これって俺か」
幼児がぼそっと呟く。
「なんなん、と連発されても・・・」
女が苦笑する。
しかし伊賀は真剣にパニック状態だ。
「まあまあ落ち着いて。少しずつ話そう」
女はベンチに歩み寄り、花びらを払って座り、伊賀に席を勧めた。
「お隣、どおぞ」
「大丈夫だ、私は襲ったりしない」
伊賀が、ノラ猫のように警戒レベルを最大にして、ベンチの端に縮こまっている。
それを見て、女は笑う。
「先ほどの奴は、お前を自分の臣下にしたくてしょうがなかったのだ」
「臣下?」
「そう。主従関係を結ぼうとしていた。
家系、いや種類によって、その関係を成立させる内容・態様は異なっている。
奴の場合・・・主となるものが従となるものの影を喰らうことにある。」
「影を、喰らう?」
「影は様々な意味を持つ。
簡単に云うと、もう一人の自分だ。
主の魂と直につながっているからな」
女が足先で自分の影をつつく。
もう月はベンチの後方に進んでいる。
「奴はそのなかで、お前の感情・意志・その他、
『伊賀柚也』を形成する要素を取り上げようとした」
女が伊賀を見る。
「お前を自分に忠実な奴隷にするために。」
「じゃああの『契約』って云ってたのは・・・」
伊賀は絶句した。
「期待がはずれてショックか」
女がからかう。
「そ、そんなんじゃねえよ! あ」
敬語で云い直そうか否か迷う伊賀を見て、
にまっと女が笑む。
「構わん、敬語のない方が話しやすい」
複雑な表情でうつむく伊賀。
「顔が一緒でも、もう『先輩』じゃあないんだな・・・」
「そうだな」
女は伊賀から目を逸らす。
「お前、歳は」
「14」
「今日なった。そうだろう?」
「そうだよ」
「お前の場合は14歳が『成人』だ」
伊賀が女を見る。
「ああいった奴らが、お前と『関係』が持てる対象となる」
「じゃあ、僕はこれからずっと、ああいった怪物に狙われ続けるの?!」
「怪物だったり、人間だったりな」
「げ。
しかもさっき、関係を成立させる内容・態様はいろいろあるって云ってたよね」
「そうだ。
相手の同意を得て契約するものもあれば、
有無を云わさない強引なものもある。
ちなみに、」
女は、怪物の消えた場所に目をやる。
「さっきのタイプは、強引に契約できない。
だから、お前と親密な関係になって
契約に持ち込むつもりだったのだろう」
にやりと女の口がつり上がる。
「そのために、お前好みの美しい女に化けたのだ」
「自分で云うなよ〜」
伊賀が口を尖らせた。
しかし、向き直って、真剣な顔で女に云う。
「とりあえず、今夜がどれだけ危なかったか、
よくわかった。
助けてもらってすごく感謝してる」
「いや、当然のことをしたまでだ。
私はお前の保護者だからな」
さらっと女は云った。
「?! 保護者?」
面食らった顔をする伊賀を見て、また女は笑む。
「保護者といっても、お前の母親ってわけではないぞ」
「当たり前だ! ってか一瞬そうも思ったけど・・・
じゃあ何?」
「云わば、お前のSPってとこかな」
へぇっと感心する伊賀。
「でもどうして、そんなんが僕のところに来たの?」
「お前が危なっかしいからだ」
「どっからそんなこと…」
「風の便りだ」
「他にどんなことができるんだ?」
「そんなのいちいち説明できない」
「出身どこ?」
「・・・もうじき夜が明ける。 今日はここまでだ」
興味津々の伊賀を引き剥がして、公園を出ようとする女。
「待って」
伊賀が引き止める。
女が振り返る。
「名前、教えて」
「いいだろう」
女が、いつの間にか足元にいる幼子に声をかける。
「ひろあ、」
幼子が、女を振り仰いでにらむ。
「んあ? なんだ?? おまえ、さっさと名乗れよ」
「そうだな」
苦笑して、女は伊賀のほうに向き直る。
傾いた満月が、彼女の顔をくっきり照らす。
思わず身構える伊賀。
ごくっと彼の喉が鳴る。
女は一字一字、噛み砕くように云った。
「私の名は卒美。
馬西卒美だ」