2-4 振動
公園一帯をびりびりと揺るがす遠吠え。
それを発しているのは、先輩だったもの。
これが本当の先輩自身なのか・・・。
この状況を目の当たりにして、伊賀は夢現実。
そんな伊賀を背で庇い、幼児がささっと宙に指を滑らす。
簡素な模様が浮き出て、そのラインがふわりと広がり、幼児と伊賀を包み込む。
低く、うねるように続く咆哮は次第に、人語となった。
「いない・・・ どこだ・・・どこにいった?!」
みしみしと首を振る。
動きに合わせて、てらてらと鱗が光る。
「どこだぁーーーー! どこにいるぅーーーー?!」
腸が切れるのではないかと思うぐらい憐れを誘う声を、さめのように鋭い歯がみっしり生えた口から搾り出す。
カバのような大きい鼻で辺りを嗅ぎまわりながら、公園を隅から隅まで睨み回している。
伊賀を見つけ出そうと躍起になっているのだ。
「さあ、どこだろう」
女が涼しい声で、ゆっくりと云った。
怪物が女を刺すように睨む。
「どこだ、どこに隠した!!」
女に、鱗を逆立てて詰め寄る。
それを女は風に吹かれたように、ふらりとよける。
よけられても、怪物は女に迫り続ける。
「あと少しだったのに…!」
「何が『あと少し』だ」
女が、あくまでも落ち着いた声で云う。
「お前は形だけを真似るだけ。
むりやり自分のものにしても、それは形だけのもの。
あいつがシンからお前のものにはなることはないし、
もう、もとのあいつに会えることさえできないのだ。
・・・それがまだわからぬか」
怪物は怒りのあまりか、ぶるぶる震え始めた。
噛みしめた口から、ぎしぎしと歯の鳴る音がする。
「わからぬようだな」
女は、ほうっとため息をついた。
幼児は、怪物が女につられて遠ざかっていくのを確認し、振り返って伊賀に忠告する。
「いいか、何も云うんじゃないぞ。
一応姿と臭いは遮断している。だが、振動――声までは防ぎきれない。
あれはお前の声に異常に敏感だ。
見つかりたくなかったら、黙ってろ」
伊賀はうなずいて返事した。
「わかった。−−−−あっ」
伊賀は全身の血の気が引いた。
「云ったそばから…」
幼児がふっとため息をついて、怪物のいる方を向く。
女が伊賀からなるべく遠ざけていたが、その苦労の甲斐なく、すでに、カッと見開いた双眼が、彼を捕らえていた。
その眼は縦に裂け、顔の半分ほどの大きさになっている。残り半分を占める口がきゅっとつり上がる。
「見つけたぞ・・・」
呟くなり、伊賀めがけて突進する怪物。
足がすくんで動けぬ伊賀。
もうだめだ
伊賀が目を閉じたその時…
伊賀の顔を、さらりと撫でる髪の感触。
目を開けると、あの女の背中があった。
「ひろあ」
女が背中で、幼児に呼びかけた。
幼児が女に問う。
「いるか」
「いる」
「なん」
「おう」
瞬時の奇妙なやりとりの後、女が桜に向かってすっと手をかざし、静かに唱えた。
「櫻乱爆裂。」
すると、女と怪物の間で閃光が走った。
「!」
淡く、しかし強烈な桜色が視界を奪う。
同時に爆発音。
顔を庇う伊賀を、爆風が揺さぶる。
甲高い悲鳴。それが長く尾を引きながら遠ざかる。
続けて、ズシン、という振動が地面から伝わってきた。
それを最後に一連の騒がしい物音が収まった。が、辺りにさらさら・・・と、せせらぎのような音が満ちている。
伊賀の顔に、ひたひたと何かが降ってくる。
次第に伊賀の目に視界が戻る。
伊賀は、桜の豪雨の中にいた。
それはしばらくすると止み、桜の花びらで敷き詰められた公園が現れた。
ブランコ、ジャングルジム、ベンチ、そして伊賀にも花びらが積もっていた。
女は、伊賀の目の前に仁王立ちしていた。
すぐそばまで迫っていた怪物の姿は、見当たらなかった。
どこからか、呻き声が聞こえてきた。
女が積もる桜を踏みしめ、公園の一角に進む。
彼女の向かう先に、一際こんもりとした桜の塊があった。
彼女が近づくと、それがぞわぞわと蠢き始めた。
「・・・っ、・・・っ」
桜の合間から見えるそれは、あの怪物だった。
よほどのダメージを受けたらしく、息が浅い。
もう、身体を動かすことさえままならない様子だ。
女は、うずくまる怪物まであと数歩のところで足を止め、抑揚のない声で云った。
「思い知れ。そして、二度と伊賀に近づくな」
よろよろと身体を起こした怪物は、それでも伊賀にすがりつくように見つめる。
伊賀はそんな視線にたじろぐ。
「・・・っ、あと少しだったのに」
怪物の影がゆらりと動いたかと思うと、怪物はすうっと消えてしまった。
怪物に積もっていた花びらが、崩れるように地へ散る。
後は、夜の公園があるばかりだ。
いや、女と伊賀がいるばかり。
「・・・怪我はないか」
云いながら、女が振り向いた。
その顔を見て、伊賀は驚いた。
「・・・先輩?!」
そう、その顔は、先ほど怪物に成り果てた先輩の「化けの皮」とそっくりであったのだ。
唖然とする伊賀を見て、女は苦笑した。
「驚くのも無理はない。あいつは私の姿を借りていたのだからな」