小説家になろうという、私のサプリメント
今では自分自身がそこに作品を投稿する立場になったが、書く側になるよりずっと前から、私は根っからの読む側だった。
期間にして、たぶん十九年くらい。改めて数字にしてみると、人生のかなりの割合を占めている。他にもこういう方はいないか気になる。
ある日ふと、自問自答の疑問が頭をよぎった。
「……私、なんでこんなに小説家になろうが好きだったんだっけ?」
夜更かしをして読んだ作品もあれば、書籍化や漫画化、果てはアニメ化まで果たした作品を追った思い出もある。けれど、「なぜそこまで惹かれたのか」と自分に問うと、言葉は途中でつっかえてしまった。
画面や紙面の中で繰り広げられる小説の世界では、何らかの法則に従って世界が動いていた。
主人公が誰かを助ければ、相手は感謝してくれる。
努力を重ねれば、必ず相応の力が身につく。
誰かに手を差し伸べれば、巡り巡ってその優しさが自分に返ってくる。
悪事を働く者がいれば、最後には相応の報いを受ける。
現実は、決してそんな風にはできていない。
努力が報われずに終わることもあれば、誠意を持った説明が嘲笑されることもある。善人がバカを見たり、一生懸命頑張った人が体を壊したり、家庭の事情という不可抗力によって夢を諦めざるを得ないことだってざらにある。
けれど、物語の中は違っていた。少なくとも読者の私は、「因果が正しく機能する世界」を選んで読むことができる。私はきっと、その揺るぎない世界の法則に深い安心感を抱いていたのだと思う。
最近、SNSのタイムラインで小説に関する様々な投稿を見かける。
「小説家になろう」に投稿される作品に対して、
「ご都合主義すぎる」
「俺TUEEEばかりだ」
「転生や転移ばかり」
「主人公が成長しない」
「テンプレの焼き直しだ」
といった批判的な意見を目にすることがある。女性主人公の作品に対しても同様に、
「またシンデレラストーリーか」
「また溺愛展開か」
「またざまあ(逆転劇)か」
そんな決まりきった展開のどこが面白いのかと首をかしげる人もいる。
それらの投稿を目にするたび、私は心のどこかで「まあ、そう思う人もいるかあ」とぼんやりと受け止めつつも、どこか引っかかるものがあった。だって、批判されている作品の中には、私が夢中になって読み進めた大好きな作品が含まれていたからだ。
「これもあれも、すごく面白かったんだけどな」
その差はどこから生まれるのだろう。私は改めて考えてみた。
そんな折、ある人がテンプレ作品の構造について「あれは時代劇の水戸黄門みたいなものだから」と評しているのを見かけた。
その言葉に、私の心が強く反応した。
私は昔から時代劇が好きで、とりわけ『水戸黄門』が大好きだった。
『水戸黄門』のストーリーは、いつだって決まったパターンを辿る。
旅先で悪代官や悪徳商人が悪事を働き、町民が虐げられる。御一行がそこに介入し、ひとしきり揉めた後、クライマックスで助さんが印籠を掲げる。
「この紋所が目に入らぬか!」
その一言で悪人たちは青ざめ、地面にひれ伏す。子供でも覚えられるくらい毎回同じパターンだ。けれど、それが無性に楽しい。「毎回同じ展開じゃないか」と呆れ顔で言われても、「そうなんだ、そこがいいんだよ!」と胸を張りたくなる。
私が求めていたものはそこにあったのだと思う。
私はただ「次に何が起こるか分からないスリル」だけを欲していたわけではない。「こうなってほしい」と願った展開が、期待通りの形で鮮やかに結実する快感を求めていたのだ。
考えてみれば、テンプレとは決して悪いことばかりではない。
むしろこの物語なら、最終的にこう着地するという暗黙の了解があるからこそ、読者は途中の波乱にも心乱されることなく、安心して物語の世界に没頭できると考える。
理不尽に追放された主人公が後からその真価を認められる。
虐げられていた人が愛されて温かい居場所を得る。
正当な能力を持つ人が正当に評価される。
他者を踏みにじった者が自らの行いを後悔する。
ある意味で決まりきった展開を何度読んでも、私は一度たりとも飽きたとは感じなかった。それどころか、「きたきた、そろそろあのシーンが来るぞ……」と胸を躍らせ、ついにその場面が訪れると、「待ってました!」と心の中で叫んでしまう。
それはどこか、祈りや儀式の感覚に似ているのかもしれない。
毎回まったく異なる驚きを与えられるから楽しいのではなく、約束された展開が約束通りに訪れるからこそ心が安らぐのだ。『水戸黄門』の印籠と同じように、物語には安心の約束がある。あれか、様式美ってやつか。
この主人公なら、最後には報われる。
この人なら、絶対に大丈夫。
ここでの努力は、決して無駄にはならない。
注がれた優しさには、必ず意味がある。
私はページをめくるたび、その約束を確認し、信じようとしていたのかもしれない。
ここまで自分の思考を紐解いてきて、一つのしっくりくる言葉にたどり着いた。
小説家になろうは、私にとってのサプリメントだったのではないか、と。
もちろん、それは病を治す本物の薬品ではない。医学的に何かを治療してくれるわけでもない。
けれど、「これを摂っていると、なんだか体の調子がいい」「不足していた栄養が少しだけ補われる」と感じさせてくれるもの。
あの頃の私にとって不足していた栄養素の一つは、きっと「この世界には、行動と結果の間に正しい繋がりが存在する」という感覚だったのだろう。
現実の世界で物語の力を借りてそれを補給していたのだ。
頑張ったら、報われる。
優しくしたら、その優しさに意味が宿る。
誰かを大切に思えば、大切に送り返される。
悪事を働けば、その報いを受ける。
普通の人が当たり前にできることが私はできなかった。
その世界観というか約束や法則を、サプリメントを毎朝飲むように、何度も何度も体に染み込ませていた。服用していると、少しだけ心が軽くなる。明日もまた現実と向き合って生きていけそうな気がしてくる。
もっとも、サプリメントだからこそ、大量に摂れば摂るほど良いというものでもない。三度の食事(現実の生活)の代わりにはならないし、頼りすぎればどこかで生活に歪みが生まれてしまう。だから「これさえあれば現実なんていらない」と言えるような万能薬ではない。
小説も、きっと同じだ。現実に取って代わることはできないけれど、現実を立ち向かい、生きていくための小さな力を補ってくれることはあると思う。
少なくとも、私という人間にとってはそうだったのだと思う。
十九年間小説家になろうを追いかけた理由が、ようやく腑に落ちた気がした。
私は決して、ただの暇つぶしとして画面を眺めていたわけではなかった。単に安易なテンプレが好きだっただけでもない。
私はきっと、現実が決して支離滅裂で無意味なものばかりではないということを、物語を通して何度も何度も自分自身に確かめさせていたのだ。
スマホの画面を開き、本を開けば、そこにはいつだって裏切らない別の世界が待っていた。努力には意味がある。優しさには意味がある。注いだ愛情にもちゃんと意味がある。そして物語の最後には必ず、そうだったのかと納得できる優しい答えが用意されている。
小説家になろうが命綱だった、今もそうだ。でも、それだと重たいから軽い感じのサプリメントにしておこう。
小説家になろうには、本当にたくさんの物語があります。プロの作家さんだけではなく、趣味で書いている方、初めて小説を書いた方、長い時間をかけて一つの物語を紡いでいる方。そんな、いろんな人が書いた、いろんな物語を無料で読むことができる。
改めて考えると、とても贅沢なことだったんだなと思います。
私は十九年間、たくさんの物語を読ませてもらいました。笑ったり、泣いたり、続きが気になって夜更かししたり。ときには、現実に戻るための小さな力をもらったり。
たくさんの作者さんへ。素敵な時間を本当にありがとうございました。




