天才、奨励会を征く ― 無敗の少女
奨励会入会試験当日。
東京・将棋会館の空気は、朝からぴりついていた。だが、その緊張感の中心で、ただ一人、静かにあくびを噛み殺している少女がいた。
朝倉桜。見た目は小学生低学年、実際の年齢も10歳になったばかり。だが、すでに将棋界の一部では“異物”として知られ始めていた。
「……ふぁ。朝から無意味な局面ばかりで眠くなります」
控え室で将棋ノートを眺めながら、桜はつぶやく。内容はプロレベル、どころか、棋士数名分の対局を統合分析した独自研究だった。
隣の受験生の男子がちらりと覗き込んで、そのまま目を逸らした。引いていた。みんな引いていた。
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「おう、桜。緊張してるか?」
師匠・高坂光吾が、会場の外で声をかけてくる。
桜は振り向きもせずに答える。
「いえ、将棋は暇つぶしですから」
「そうか。お前らしいな。……けど一応、頑張れよ」
「はい。無敗で通過してきます。予定ですから」
予定通り、それは“始まり”だった。
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試験は三局の対局形式。入会希望者同士の戦いだったが、桜の対局はすべてが異常だった。
第一局目。対戦相手が駒を並べ終わるより早く、初手7六歩が置かれていた。
「は、早くね……?」
序盤で、対局者の手が震え始めた。二十手も打たないうちに、詰み筋を構築された相手は目を丸くし、投了の声もかすれた。
第二局目はさらに速い。対局開始からわずか八分で終局。
第三局目は、対局者が盤の前に座ると同時に手汗でティッシュを取りにいき、戻る前に終わっていた。
「……勝ちました。次は?」
桜の口調に感情はなかった。だが、周囲の見学者たちは、その姿を“異常”としか評せなかった。
「……なにあれ」
「朝倉桜、だって……」
「本当に、あれが人間か……?」
将棋界には、時折“怪物”と呼ばれる才能が現れる。だがこの日、奨励会の入り口に立ったその少女は、怪物というより“天災”だった。
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「……全勝か。やっぱ、やると思ってたけど……お前、楽しんでるのか?」
帰り道、師匠がそう問いかける。
「はい。ようやく“強い敵”に近づいた気がしました。まだ物足りませんが」
「物足りないのか……」
「でも、脳が少し刺激を受けました」
ふと、彼女はポケットからラムネを取り出し、口に放り込む。糖分は、彼女にとって“燃料”だ。
「あ、でも……この前のドル円の乱高下の方が、正直興奮しました」
「……将棋界よ、覚悟しとけよ……」
高坂は笑いながら、天才の横顔を見つめていた。