師匠との日常と、戸惑いの家族愛
高坂光吾の家は、静かな住宅街にある、将棋教室の2階だった。畳の香りが残るシンプルな居住空間。物は少なく、きれいに整っている。
「今日からここが君の家だ」
淡々とした高坂の声に、桜は首をかしげた。
「家とは生活機能を維持するための拠点……ですよね?」
「うん、まあ、そういう言い方もあるけど……ちょっと違う。人と一緒に過ごす場所って意味もある」
桜は小さく瞬きする。
「……初耳です」
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桜の実の家は、いわゆる“機能的な家庭”だった。
両親は彼女を放任していた。暴力やネグレクトはない。食事も与えられ、小遣いも支給される。だが関心は、まるでない。
「ただいま」と言っても返事はない。
「出かけます」と言っても返事はない。
だから彼女は、自分の存在を“環境音”だと思っていた。
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高坂の家では違った。
「朝はちゃんと食え。プリンは後な」
「帰ってきたら声くらいかけろ」
「夜は風呂入って寝ろよ。将棋指してばっかじゃ倒れるぞ」
そのすべてが、桜には不思議だった。
まるで“誰かが、自分を見ている”ような。
「……構われてる気がします」
「だってお前、うちの子になったんだからな。そうだろ?」
桜は、プリンをひと匙口に運びながら、わずかに瞬きを繰り返した。
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将棋教室では、生徒たちが彼女に距離を取っていた。
「……また負けた……」
「……ていうか、あの子何考えてんのかわかんない……」
彼らにとって、桜は異質な存在だった。
天才は、時に恐怖と羨望の対象になる。
だが、彼女は気にしなかった。否、気にする感情が、育っていなかった。
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ある夜、対局後に高坂が声をかけた。
「今日の中盤、あれはギリギリだったな。自覚してたか?」
「……確率論上、正着率は89%。ただし糖分不足が影響して一手読み漏れました」
「……お前、やっぱ糖分切れるとポンコツになるな」
「……仕様です」
高坂は笑った。
そして、それを見た桜も……少しだけ、目を細めた。
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遠く離れた実家。
テレビの音だけが響くリビングで、母親がぼそりとつぶやいた。
「最近、静かすぎるわね……」
「元々静かな子だったろ」と父親が答える。
関心はない。ただ、存在を思い出した程度。
それでも、何かが欠けたような気がしたのは事実だった。
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高坂の家では、日々の暮らしがゆっくりと根を下ろしつつあった。
「今日は、対局後にケーキ買っといた。脳の栄養ってことで」
「……効率がいい食事です。最適」
「うん、よくできました」
桜は、ケーキを食べながら思った。
この“見られている”感覚が、不快ではないことを。
そして、自分に“親のような存在”ができつつあることに、まだ気づいていなかった