プロ昇格戦と、全国中継される幼女帰り
三段リーグ第18局。
勝てば即プロ入り、負ければ次期持ち越し。
昇段の懸かった一戦に、対局者名「朝倉桜」の名前が並ぶ。
対局前日。
自室の机には、いつものように整然と並べられた準備品があった。駒箱、懐紙、ミニボトルの水、そして桜にとって最も大切な**「糖分」**。
しかし、何かが違った。
「……ない。あまいの、ない……」
掌で机を探る。おはじきのように小さな指先が空の机を這う。
チョコレート、グミ、飴、砂糖タブレット、どれもない。冷蔵庫の中も、ストック箱も空だった。
師匠が仕事で数日家を空けている。買い忘れたのか、それとも――。
(……まずい)
桜の頭脳は、誰よりも速く、正確に読み切った。
「糖分なしの対局は、脳が動かない」
それは、彼女にとって死活問題である。
*
対局当日。
小さな背中に、大きすぎる重圧がのしかかる。
会場はテレビ中継も入る特別な対局。注目度は高く、観戦記者、将棋連盟関係者、そして一部のファンが見守る中、朝倉桜は静かに着座する。
相手は佐々木三段(18歳)。高校将棋界のスターからプロ入り目前の逸材。
実力伯仲。だが――彼にとっても相手は異質すぎた。
「よろしくお願いします」
桜の声は小さく、力がなかった。
佐々木は一瞬、違和感を覚えた。
それは対局開始から明らかになっていく。
初手から動きが鈍い。読みが浅い。
あの、盤面においては冷徹なまでに正確だった“幼女AI”が、動揺していた。
(やっぱり……糖分切れ……)
師匠に伝えられた禁忌の情報。
桜には**「糖分切れ=機能停止」**という非常に単純で深刻な弱点がある。
テレビ中継のカメラが、額に薄く汗をにじませる桜の姿を映す。
解説者も困惑を隠せない。
「朝倉三段、今日はややミスが多いですね……」「普段はあり得ない指し手です。何かあったのでしょうか?」
数手先を見通す天才の読みが乱れる。
数十手目。桜の顔が真っ青になり、両腕を抱くようにして小刻みに震え始めた。
「……ふぇ……あまいの……ない……?」
全国放送中。
テレビの前の将棋ファンたちが目を疑った。
あの感情を見せなかった天才少女が、まるで迷子の子猫のように怯えていたのだ。
SNSが爆発的に盛り上がる。
> 「朝倉三段、ついに幼女帰りか!?」 「糖分切れってマジだったのかよ!?」 「むしろ可愛すぎて泣いた」 「これはこれであり……だと……?」
局面は不利に傾きかけた。
しかし、佐々木三段が持ち時間を使って考慮している間、見学席の師匠代理が飴玉を届けるという奇跡が起きた。
「桜、糖分だ……持ってきたぞ」
その瞬間、会場がざわめいた。桜はふらりと顔を上げ、飴を見つけて小さな手で受け取ると――
「……これで、勝てる」
目が変わった。
以降の展開はまさに神業。数手先を超えた構想、詰将棋のような妙手。
先手番の佐々木が形勢を握ったと思った局面を、わずか五手で逆転。
そして最終盤、持ち時間を残して桜は詰みの一手を指した。
「投了します……」
静かな対局室に、佐々木の声が響いた。
勝った。
朝倉桜、三段リーグ無敗でプロ昇格決定。
*
対局後のインタビュー。
「今のお気持ちは?」と聞かれた彼女は、チョコを口に入れながらただ一言、
「……甘いのあれば……負けないよ」
その姿は、あまりに等身大で、愛おしく――
全国の視聴者の心を鷲掴みにした。