生まれながらにして、終わっていた
東京都郊外。真冬の夜、病院の分娩室には静寂が支配していた。 生まれたばかりの赤子が、泣かない。
「……見てる?」
母親が呟いた。赤子の目は、はっきりと開かれ、天井の蛍光灯を真っ直ぐに見つめていた。無垢な瞳とは言い難い。そこには、あまりにも冷静すぎる、静謐な意識が宿っていた。
「この子……何かおかしい」
父親もまた、その視線にぞっとし、思わず目を逸らす。 赤子は一切泣かず、ただ、目を瞬きながら周囲の状況を観察していた。
名前は、朝倉桜。 この世に生を受けた時から、彼女はすでに異質だった。
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1歳。桜は書籍を読む。 2歳。百人一首を暗唱。 3歳。テレビで観たハリウッド映画のセリフを丸ごと暗記し、ネイティブに近い発音で英語を話し始めた。
母親は、遠巻きに娘を見ていた。 父親は、休日でも仕事に逃げた。
「……感情、ないんじゃない?」 「いや、そうじゃない。ただ……必要ないと思ってるんだ」
親たちは、恐怖とも諦めとも言えない感情の中で、桜を放置した。
そのため、桜は一人で生きていた。 図書館で本を読み、街の風景を観察し、思考し、理解し続ける日々。
幼稚園では友達ができなかった。いや、必要性を感じなかった。 他者と関わることで得られるものが、彼女にはあまりにも希薄だった。
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「将棋教室?」
6歳のある日。桜は、近所の寂れた将棋教室の前で足を止めた。 玄関口の古びた看板には、かろうじて「将棋」の文字が読めた。
中では老人が1人、ぼんやりと盤面を眺めていた。 木戸玄斎。元プロ棋士。すでに引退して久しい。
「君、やるのかい?」 「暇つぶしになりそうなので」
その無表情な返答に、木戸は小さく笑った。 「久々に面白いのが来たな……」
初手から異常だった。 桜はルールを一度で理解し、三手目には定石の応用を独自に展開。 十手先を読むのは当然、木戸の意図を逆手に取り、投了させた。
「こりゃあ……怪物だな」
木戸は笑いながら、桜の頭を撫でた。 初めて、桜の頬がわずかに動いた。
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その日から、桜は毎日教室に通い詰めた。 木戸が将棋を教え、同時に甘味を用意した。
「糖分は……脳に効率的に届きます。必要です」
桜は言った。木戸は笑って、甘い羊羹を切り分けた。
奨励会入りは時間の問題だった。 小学生の間に、彼女は無敗で三段まで駆け上がり、 9歳で史上最年少プロ入り。
「感情がない?いや、感情で打ってないだけだ」
そう言ったのは、当時の新聞記者だ。 彼女の棋譜は、まるで将棋AIのそれのようだった。
だが、糖分を切らすと彼女は崩れる。 虚ろな目、震える手。まるで中毒者。
それでも勝ち続けた。勝って、勝って、勝ち続けた。
そして、彼女は言った。 「……将棋は、少しだけ面白いかもしれません」
その瞬間、神に愛された幼女が、本当の意味で将棋に出会ったのだった。