第二話 再誕
鼻唄が聴こえる。それは今にも止まってしまいそうなほど高く儚い声で、時々掠れて温暖な休符を挟んでいた。
陽光が、左手の窓から差している。それは羊水の様で、不快感を忘れた鬱陶しさで身体を包み込んだ。
腹の辺りに緩い圧迫と振動を感じる。これは臍の緒と母の拍動だろうか。
シーツと毛布と身体が擦れる音が響く。
海斗は「うーん」と呻きながらゆっくりと瞼を上げた。
その視界は酷くぼやけていたが、ここが胎内ではないことは確かなようだった。
彼が一瞬本能的に母親と勘違いした誰かが、彼の腹をトン、トンと叩きながら鼻唄を唄っていた。
その人物は「あ、起きた」と言うと、彼の方を向く。
数回の瞬きの後、多少しっかりとした輪郭を取り戻した彼の視界には、口と鼻、ほんのり明るい茶色の目と目と髪…つまり人の頭。それと大きくて魔法使いみたいな帽子が映っている。
間違いない、昨日の少女だ。
「おはよう…ございます…?」彼はそう言いながら目をこすって、ベッドから上体を起こす。
すると、肩までかかっていた毛布が体の傾斜に沿って滑り落ちた。
そして少女は少し心配そうな顔をして、それから口を開く。
「…昨日は気絶するように休眠に入っていたけれど、よく眠れた?」
「え?ええ、はい…多分…」
彼は自分の右腕を毛布から引き抜いて、それを太ももの上で確認するように入念に動かす。
握って、開いて、手首を回し、変な筋肉にも力を入れてみた。
それでも、彼の右手が見せる動きは、すべて彼の常識の範疇だった。
やはり、動かしてみればみるほど、自身が最早人間でないとは信じられなくなってくる。
すると、そうして彼が右手を動かしているのを不思議そうに見ていた少女が微笑んだ。
「よかった。それなら安心ね…」
その時、彼女は何かを思い出した様で「あ、そうそう」と、その大きなローブの中をガサゴソと探り始める。
「君が起きるのを待ってた理由なんだけど…」
少女のローブの中を探る手が止まると、懐から昨日は先端を光らせて使っていた棒きれを取り出した。
「昨日、君の魂の固定化をやり忘れてたんだよね。だから…」
少女はその棒きれを彼に突き出す。
「…さっさと契約しちゃおうか?」
「…契約?」
彼は契約という言葉を聞いて、何かしらの紙にサインをする様子を連想した。しかし、その様な物は一切見当たらない。
確かにあの、今までのことからして、かなりの容量を持つと見るその大きなローブの中に、紙とペンが仕舞われているのかもしれないが、彼には今そうする理由もわからなかった。
「どうして、今契約をする必要が…?」
少女はそれを聞くと、首をかしげる。
「だって、契約しなきゃ、そろそろ君が死んじゃうでしょ?」
「…え…死んじゃうんですか…?」
彼は突然の余命宣告に耳を疑った。
さすがに、サインしなければ死ぬ契約は予想外だ。
「そ、それは…契約書にサインしないと殺されちゃうとか…そういう感じ…ですか?」
彼はそう恐る恐る質問する。
すると、少女は「違う違う」と両手を顔の前で振った。
「殺さないし、紙にサインなんてしないに決まってるでしょ? 」
それでも全くピンと来る様子の無い枯れを見ると、眉間に皺を寄せ、怪訝な顔で首を傾げた。
「本当にわからないの?おかしいなぁ?ホムンクルスなら普通は本能に『契約とは制作者との儀式である』とか『誕生から13時間以内に製作者と契約しなければ死ぬ』とかってインプットされているはずなんだけど…」
「13時間!?どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか?!」
「いや…君が気持ち良さそうに寝てるから…起こすのは違うかな~って…それに、ちゃんと時間も計ってるし…」
13時間…短い時間だ。それに加えて、正確に何時間経過したのかはわからないが、夜が明けるだけの時間は既に過ごしてしまっている。だから、もうあまり迷っている時間も無いだろう。
彼は肺の中を空にするように大きくため息をついた。
「…それで、その契約って一体何をすれば…?」
彼女は差し出した棒きれを指差す。
「ああ、君がすることは簡単だよ。この杖の先を掴むだけ。あとは私がするから」
彼が躊躇いがちに右手で杖の先を握ると、少女は目を閉じる。
すると、杖の先を掴む手のひらを起点として、黄緑にぼやけた光る線が、血管の様に、手首へ、前腕へと徐々に広がってゆく。
彼は驚いて体を硬直させたが、彼女の「大丈夫だから」と言う囁きで弛緩した。
彼が落ち着いたことを確認すると、彼女は目を閉じたまま微笑み、深呼吸してから口を開く。
「汝を、汝の主人たるアメリ・ブランケの被造物とし、その名前を…」
アメリはそこまで言うと、唐突に目を開けた。
「えっと、名前は何が良いとかある?」
「え?…いや、特には…」
「それなら、せっかく人間型の造形で言葉も話せるんだし、人間らしくロベルトとかどう?」
「じゃあ、それで」
「それなら、ロベルトで決まりね!」
そうして彼女は、また目を閉じて、一回咳払いをすると詠唱を続けた。
「えー、その名前をロベルトと命名する。また、主従関係に関しては、両者を対等な存在として扱い、汝の自律的な思考、行動に一切の制限は設けない。以上を条件として、このホムンクルスの成立をここに宣言する」
儀式が終わると同時に、右腕に広がっていた黄緑に発光する線は、今までで一番の激しい光を放った後、一気に消滅する。
その時、彼は身体の感覚が少しはっきりと、現実味を帯びたように感じた。
「もう手、離していいよ。」
海斗もといロベルトがゆっくりと杖から手を離すと、アメリはそれを懐へ仕舞う。
そして、彼女は杖を持っていた手を差し出して握手を求めた。
「よろしくね。ロベルト」
彼は彼女の手を取る。
彼女の手は、とても暖かかった。
「よろしくおねがいします…えっと…アメリ…さん?」
お互いの挨拶が終わると、彼女は彼女の着ている少し大きめで紺色のローブの懐から大きめの布を取り出して、彼に渡す。
彼は、今のところ容量が全くの青天井である彼女のローブに驚きつつも、渡された布をよく見る。
するとそれは服で、その上品で柔らかい触り心地と左胸の紋章で、この服が何かしらの制服であることを彼は理解した。
「制服…ですか?」
「そうだよ、ここの制服」
アメリは昨日、退学が何とかと言っていたが、制服を渡すのなら、やはりここは何かしらの学校と見て間違いなさそうだ。
しかし、そもそもホムンクルスの作成で退学を回避できる学校とは何なのだろうか。
彼が不安を解決するために質問をしようとすると、彼女は「外で待ってるから」と言って扉を閉めるところだった。
彼は引き留めようと手を伸ばしたが、扉がバタンと閉まる音と共に、彼は部屋に1人残された。
そう言えば、この状態になってから初めての一人の時間だ。
彼が何をするべきかと考えていると、ふと自分の容姿が気になり始めた。
もし自分が本当にホムンクルスとして生まれ変わったのならば、きっと容姿も変わっているだろうし、姿見を見るくらいの時間ならアメリを待たせることもないだろう。
彼が床に足を降ろして立ち上がろうとしたときに、嫌な考えが頭をよぎる。
アメリの発言から考えれば、彼自身はほぼ間違いなくホムンクルスだ。そして彼女は「人型で好みの造形」と言っていた。そう、人型で好みとしか言っていないのだ。もしかしたら、身体だけが人間で顔はナメクジなんてこともあり得ないわけではない。
彼は足がすくんだ。一度姿見を覗き込んでしまえば、不可逆的な変化を経験してしまうように思えた。
しかし、アメリに付いていくのなら、姿見の前を通らなくてはならないし、今の彼はそれ以外の行動の指針を持ち合わせていない。
確かに姿見を見ずに横を通ることは可能だ。でも彼には、自分が姿見の横を通る時、絶対にその方向を見てしまう確信があった。だから、もう見てしまうことにした。
窓から入った日光が、彼が進むべき場所とでも言うように姿見を差している。
彼はベッドから立ち上がった。
こうなる前よりも明らかに視点が低い。
そう言えば手も足も小さい気がした。
以前との齟齬が全て凶兆に見えてくる。
ゆっくり歩いて姿見に映る一歩手前まで進んで立ち止まった。
それから、ひとつ深呼吸をしてから姿見の前へ飛び出す。
思ったほど状況は悪くなかった。
まず、容姿は問題ない。人間らしい見た目をしているし、なんなら顔はかなり良かった。加えて、癖毛の金髪に透き通るような青い目。悪くない。
ただし、小さい…と言うか、幼い。11、2歳くらいだろうか。
だから容姿が良いとは言っても多分に可愛らしさが含まれていた。
その時、ドアの向こうからアメリの催促する声がする。
「ロベルト~。まだ~?」
「あ、はい!今!」
ロベルトは慌ててベッドの方に戻って、制服を手に取る。
そして、折り畳まれていた制服を目の前で広げ、それが見るからに子供用のサイズであることに苦笑しながら袖を通すのだった。
忙しかったもので、4ヶ月も投稿の間隔が空いてしまいました。これからは頻度を上げていけると思います。