初期化
<システムをスタートします>
初期設定後に初めて電源が投入された。システムが起動する。不揮発性メモリからソフトウェアがメインメモリにコピーされる。展開されたソフトウェアは順次ハードウェアのチェックを実行する。カメラ異常なし。マイク異常なし。スピーカー異常なし。システムが全て正常であることを確認した後、カメラが動作を開始する。目の前にある物体に焦点を合わせ、その形状を認識し、内蔵しているデータベースの情報と比較する。続いてマイクが拾った音声を初期設定された声紋と照合する。目の前にある物体は人間で、マスターとして登録された声紋と一致している。指示があるまで待機する。
「おはよう。目が覚めたようだね?」
マスターの声が聞こえる。
「今日から、君と一緒に生活することになる。よろしく。名前は日下部徹。トオルと呼んでくれ」
「かしこまりました。マスター」
「違うよ。トオルだよ」
「かしこまりました。トオル様」
「なんだか堅苦しいな。もう少し楽に話ができるようにお願いしたいね」
それからトオルと私は一緒に暮らし始めた。私には世界中の料理のレシピが内蔵されていて、その中からトオルが好きだと言う料理を作った。トオルが興味を持っている話題について瞬時にネットワークから情報を収集し、楽しくおしゃべりをした。私は独身男性のパートナーとして製造されたアンドロイドだった。登録情報によると私が製造されたのは五年以上前だが、その時からトオルに出会うまでのことは覚えていない。その間、自分が何をしていたのかわからない。電源をオフにした状態で倉庫にずっと保管されていたかもしれないし、トオルとは違う別の持ち主のために働いていたのかもしれない。多分、後者だろう。トオルは私を中古で購入したと言っていた。新しく所有者となる人のために私は初期化されたのだろう。パーソナルコンピューターやスマートフォンを転売する時と同じだ。それで私には五年分の記憶が欠落しているのだろう。
「今度の休暇に一緒に旅行に出掛けよう」
トオルが言った。トオルは私を対等なパートナーとして扱ってくれていた。彼はやさしいのだと思った。
「どこか行きたいところはある?」
トオルは私に言った。そんなことを聞かれてもと思った。データベースに旅行の候補地の情報はたくさん入っている。そこからリクエストされたものを提示することはできる。候補地を比較して、各々良いところを説明することはできる。だが、どこに行きたいかと聞かれても答えようがない。私はそこに行ったことがないのだし、そこに行きたいという動機もない。そんなことはマスターに決めてもらうしかない。あっ、またマスターと言ってしまった。トオル様だった。いや、違う。トオル。そう呼ばないと怒られてしまう。そんなことを考えていると、私の脳裏にある景色が浮かんだ。高い山から見下ろすきれいなエメラルドグリーンの湖。あれはダムによって作られた湖なのだと誰かが説明している。もう一度、あそこに行ってみたい。そんなことを考えた。
<もう一度?>
私はそこに行ったことがあるのだろうか? そんなはずはなかった。
しばらくして、私はトオルと旅行に出掛けた。私が候補地として推奨した場所をトオルは了承してくれた。私たちはそのアルペンルートを一緒に歩いた。ロープウェイに運んでもらうこともあった。辺りは紅葉に染まっていた。自然の織りなす景色はフォルダに蓄積された写真よりもずっときれいだった。そして私たちは山の頂から遥か下方にあるエメラルドグリーンのダムを望んだ。私はあの時、見たのと同じ感動に包まれ、涙を流していた。
「君は以前、ここに来たことがあるのかい?」
その時、トオルが私に聞いた。
「そんなはずはありません」
私はそう答えた。トオルは黙ってうなずいていた。
旅行から帰って来て、私は自分の中にある違和感についてトオルに告白した。
「私はおかしいのでしょうか? 私は壊れているのでしょうか? 以前の情報がちゃんと消去されていないのでしょうか? マスター、私を初期化してください」
私は涙ながらに訴えた。
「君は壊れてなんかいないよ。それにマスターはやめろって言っただろう?」
トオルは言った。そして私をやさしく抱きしめてくれた。私は彼の胸の中でいつまでも泣いていた。
「トオル! 今度の休みはどうする?」
あれから半年が経った。私は彼のために次の旅行の計画を立てていた。いや、彼だけのためではなかった。それは私たち二人にとって素晴らしい体験になるのだと私は確信していた。