第8話「沈黙に宿る音」
山間の静かな宿に、涼音は一人で滞在していた。
知人に勧められて訪れたその場所は、「完全な静寂」を体験できることで知られていた。
都会の喧騒から離れ、音楽からも一歩距離を置くことで、自分自身と向き合いたいという思いが涼音をここに導いた。
宿の窓からは、木々の緑がどこまでも広がり、その奥には小さな湖が見える。
蝉や鳥の声もないその場所には、風が葉を揺らす音だけが微かに響いていた。
耳を澄ませると、静寂そのものが音楽のように感じられた。
涼音はギターケースを横に置き、畳の上に座り込む。
自分の呼吸の音さえ大きく聞こえるこの空間で、彼女は普段の演奏では感じられない何かを掴もうとしていた。
午後の時間がゆっくりと過ぎていく中、涼音はギターに手を伸ばさず、ただ静寂の中で耳を澄ませていた。
音がないことで、逆に自分の内側にある「音」が浮かび上がってくる。
それは、過去に演奏したメロディ、観客の表情、そして胸の奥に常に潜む吸血衝動の囁きだった。
「音がないって、こんなにも重いものなんだ。」
涼音は自分にそう呟いた。
だが、その静けさの中に、どこか新しい可能性を感じていた。
音楽はいつも「音」を紡ぐものだと考えていたが、「音を待つ間」や「音が消える瞬間」にも意味があるのではないか。
その考えが、彼女の中に新しい問いを生み出した。
「私の音楽は、本当にすべてを伝えられているのだろうか。」
夕方、涼音は外に出て、小さな丘の上に腰を下ろした。
眼下には、夕陽を反射する湖の穏やかな水面が広がっている。
彼女はそっとギターを取り出し、弦に指を触れた。
最初に奏でたのは
わずかに
耳に届くほどの小さな音だった
その音は
周囲の静けさに溶け込み
風や木々のざわめきと
共鳴するように広がっていく
「静寂がなければ、この音は意味を持たない。」
涼音の指は次第に滑らかに動き出し
シンプルなアルペジオが自然と流れ始めた
その音は
まるで静寂と対話するかのように
時折止まり
また再び動き出す
彼女の音楽は
その場の空気と一体となり
まるで自然そのものが
一つの楽器になったようだった
夜、宿に戻った涼音は、ランプの明かりの下で手帳を開いた。
「静寂もまた音楽の一部。それは次の音を待つ力になる。」
そう書き留めると、満足そうにペンを置き、ギターケースを撫でた。
「この感覚を次の演奏でどう表現できるだろう。」
涼音の胸には、新たな挑戦への静かな熱意が湧いていた。
彼女にとって、音楽は単なる衝動の解消ではなく、自分自身や世界と繋がるための手段へと変わりつつあった。
窓の外には、満月が静かに輝いていた。
その光が彼女の心を優しく照らし、これからの道を示しているように感じられた。