第6話「古い音、深い音」
雨上がりの午後。
涼音は静かに東京の街を歩いていた。
濡れた路面が街灯の光を映し、雨に洗われた街は静かな輝きを放っている。
夜のセッションを控えていたが、少し心を落ち着けたくなった彼女は、足の赴くままに散歩を楽しんでいた。
ふと目の端に、古びたギターショップが映り込んだ。
木製の看板には「古楽器と修理専門」と書かれているが、文字はかすれて読みにくく、時間の流れを物語っていた。
その店構えには、どこか懐かしい雰囲気が漂い、涼音は吸い寄せられるように扉を押し開けた。
店内は、どっしりとした木の香りとほのかなオイルの匂いが漂っていた。
所狭しと並ぶギターや弦楽器は、どれも時間の重みを感じさせる風格を持っている。
その中で、一人の男性が中央の作業台でギターのネックを調整していた。
銀髪混じりの髪を後ろで束ねたその男は、眼鏡越しに涼音をちらりと見て穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃい。若い人がここに来るなんて珍しいね。」
その言葉に涼音は軽く頭を下げ、壁際に並ぶギターたちへと目を向けた。
その中に、一際目を引く一本があった。
黒檀のボディに繊細な彫刻が施されており、時を経てなお美しい艶を放つヴィンテージギターだった。
「このギター、特別ですね。」
涼音が声を漏らすと、男性は作業を止めて微笑みながら頷いた。
「それは1940年代に作られたものだよ。多くの演奏者が手にし、その音色に彼らの時間が刻まれている。」
涼音は
そのギターをそっと手に取ると
指先で軽く弦を弾いた
最初の一音が
空気を震わせた瞬間
彼女の中に
何かが静かに広がる
その音は驚くほど澄んでいて
どこか温かみを持っていた
涼音はその音色に引き込まれるように、さらに指を滑らせ、短いフレーズを奏でてみた。
音が響くたびに、自分の中の吸血衝動さえも薄れていくのを感じた。
それは音楽そのものが彼女を癒し、救いの手を差し伸べているかのようだった。
「古い楽器って、こういうものなんですね。」
彼女が呟くと、男性はギターの横に腰掛け、穏やかに語り始めた。
「古い楽器には、その音色を育てた人たちの時間が宿っている。木が響きを持ち、人がそれを受け取り、また次の奏者へと渡していく。そうやって幾度も受け継がれてきたものが、この深い音色を作り出しているんだ。」
涼音は静かに頷き、その言葉を胸に刻んだ。
音楽はただ自分が作るものではない。
楽器そのものにも音楽が宿り、記憶が刻まれる――それを初めて実感した。
男性の勧めで、涼音はそのギターを使い、短いメロディを奏でてみた。
その音色は、これまでに弾いたどのギターとも違う響きを持ち、まるで楽器自身が話しかけてくるようだった。
涼音はその音に応えながら、自分が音楽の一部となっていく感覚を覚えた。
「この音、なんて深いんでしょう。」
涼音が呟くと、男性は穏やかに微笑んで答えた。
「そのギターの声に耳を傾けたんだね。それができる人はそう多くないよ。」
涼音はギターをそっと置き、深呼吸をした。
その音色が、自分に新しい視点と力を与えてくれたことを確信していた。
店を後にした涼音は、夜のセッションに向けて歩き出した。
雨上がりの冷たい空気が、彼女の心をすっきりとさせる。
そのギターの音色がまだ頭の中で鳴り響いていた。
「音楽は、私だけのものじゃない。もっと多くの人と繋がるためのものなんだ。」
彼女はギターケースを背負い直し、その思いを胸に静かな夜の街へと消えていった。