第2話「静寂の狭間で」
東京。
高層ビルが立ち並ぶ街を包む空気は忙しさで満ちていた。
涼音は普段通りにオフィスに向かう。
黒いスーツと白いブラウスという姿は、昨夜のステージでの彼女とはまるで別人のようだった。
涼音が契約している大手企業のセキュリティ部門は、膨大なデータが飛び交う戦場のような場所だ。
モニターには次々と流れるログ、警告音が鳴るたびに緊張感が漂う。
涼音は冷静な表情でモニターを睨みつつ、指先でキーボードを軽快に叩く。
その動きには、ギターを弾くときのような正確さと無駄のないリズムがあった。
「涼音さん、例の侵入試行の件、何か進展ありました?」
隣のデスクに座る松本が、資料を抱えながら声をかける。
彼は部門の若手だが、涼音の冷静な仕事ぶりを頼りにしている。
「痕跡はある。でも手口が複雑で、次の動きを読むにはもう少しデータが必要。」
涼音の声は落ち着いていたが、その瞳の奥にある疲労を隠すことはできなかった。
彼女にとってこの仕事は「日常」を維持するためのものだった。
吸血衝動を忘れるためには音楽が必要だが、音楽を支える生活基盤を保つためには仕事が不可欠だった。
だが、それは涼音にとって絶え間ない綱渡りでもあった。
「最近、あまり休んでないんじゃないですか?本当に無理しないでくださいよ。」
松本の気遣いに涼音は小さく微笑む。
「大丈夫。仕事もリズムが大事だから、これくらい平気。」
彼女の言葉に松本は頷いたが、その背中には何かを隠しているような影を感じ取った。
昼休み、涼音はオフィスを抜け出し、近くの公園へ向かった。
お気に入りのベンチに座り、薄い雲が浮かぶ空をぼんやりと見上げる。
鞄からイヤホンを取り出し、好きな曲を流して耳に当てた。
そのメロディは、彼女が夜のセッションで自分で編み出したものだった。
音が流れるたびに、昨夜の感覚が蘇る。
ギターの弦を弾き
衝動を押し戻し
観客の心に響く音を奏でた瞬間
だが同時に
今の静けさの中で
胸の奥底から
湧き上がる衝動の気配を感じる
「まだ大丈夫…」
そう自分に言い聞かせるが、その声にはわずかな震えがあった。
涼音にとって、昼間の時間は音楽から離れた分だけ、衝動が少しずつ顔を覗かせる危険な時間だった。
夕方、涼音は仕事を終えてオフィスを出た。
街のざわめきとともに吸血衝動の囁きが胸の中に響く。
鞄の中にあるギターのストラップを思い浮かべながら、彼女は歩を進めた。
「あと少し……音を出せば、全部消せる。」
夜のステージが、彼女にとってどれほどの救いであるかを再確認する瞬間だった。
街の雑音が徐々に彼女の耳から遠ざかり、代わりに自分の心に響く音が聞こえ始める。