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第1話「深く音に潜る」

夜が東京の街を深い闇に包み込む頃、ジャズバー「ノクターン」の扉が静かに開いた。


木の香りと、低く揺れるベースの音がゆるやかに流れ出し、訪れた者を無言で迎え入れる。

店内は琥珀色の灯りに包まれ、小さなテーブルを囲む客たちは、まるで時間そのものが音楽に溶け込むのを待つかのようにグラスを傾けていた。


ざわめきはごく控えめで、音楽がこの空間の絶対的な支配者であることを誰もが理解していた。


そのステージの片隅に、一人の女性が静かに佇んでいた。

黒いスリムなパンツと白いシャツに身を包み、その指先が触れるように撫でていたのは、古びたヴィンテージギター。

深い木目が繊細な光を反射し、時代の記憶を抱えたその楽器は、彼女の手の中で目覚めの時を待っていた。


涼音すずね――それが彼女の名だった。

切れ長の瞳には深い静けさとどこか触れることを許さない孤高の光が宿り、月明かりを思わせる滑らかな肌がステージライトを柔らかく反射している。

その一挙手一投足は洗練され、見る者の目を自然と釘付けにする。

彼女はまるでこの場そのものが創り出した幻影のようだった。


涼音がギターを弾く理由に、名声を求める野心は微塵もなかった。

その音は、ただ自身を救うために奏でられる――


心の奥底に潜む

吸血衝動を

音楽という刃で

切り裂く


音が紡がれるたび

彼女の中に渦巻く

不穏な囁きはかすかに遠ざかり

心に静寂が訪れる


音楽、それは彼女にとって唯一の救済だった。


「次のステージ、お願いします。」


マスターの落ち着いた声が響く

涼音はそっと頷き、ギターを肩にかけて立ち上がる。


その動きは流れるように滑らかで、まるで一つの舞踊のようだった。

ステージ中央に立つ彼女に、客たちの視線が静かに集まる。


彼女は軽く深呼吸をし、ギターの弦に触れる。

その瞬間、空気が凍りつくように変化した。


最初に響いた音は

静寂の湖に

一滴の水が

落ちたようだった


その澄んだ音は

瞬く間に空間を満たし

聴く者の心に深く染み込んでいく


まるで時間が止まり


その場にいる全員が

音楽という魔法の中に

閉じ込められたかのようだった



涼音の指先がアルペジオを紡ぎ出すと、ドラムが軽やかにリズムを添え、ベースがその低音で揺らぎを加える。

音は波のように広がり、次第に大きくなっていく。

その音楽は、ただの演奏ではなかった。


それは涼音の内側に潜む闇を

音として解き放ち

周囲に光をもたらす

神秘の儀式のようだった



彼女の指が弦を滑るたび、吸血衝動の囁きが静かに消えていく。

「まだいける、もっと深く音に潜って。」

涼音は心の中で呟き、さらにギターと一体化するように演奏を続けた。


音楽が流れを変え

涼音のギターが主旋律を取ると

その音色は

切なくも凛とした力強さを持ち

聴く者の心を深く揺さぶった


一人の客がふと呟いた。「この音……魂に触れるようだ……。」


涼音は、自分の音楽が他者にどう響くかを意識していなかった。

それでも、その音は自然と空間全体を支配し、聴く者の心を震わせる奇跡を起こしていた。


クライマックスが訪れると

ドラムのビートが激しさを増し

ベースが渦巻くように絡み合う

涼音のギターは

高音で空間に光の筋を描き

最後のコードが空気を揺らして消えた


静寂が再び訪れたその瞬間、店内はしばし時間を忘れたように凍りついた。


そして、大きな拍手が鳴り響いた。

観客たちは誰もが、今この場にいたことが奇跡であるかのように感動を隠せなかった。


涼音はギターを静かにケースに戻し、カウンターに戻る。

マスターが穏やかに微笑みながら声をかける。

「今日の演奏、特別だったね。みんな感動してた。」


涼音は微笑みながら、小さな声で答えた。

「私のための音楽だから。でも、それが誰かに届いたなら、それでいい。」


夜風が扉の隙間から吹き込む。

その風に耳を傾けながら、涼音は心の中で問いかけた。

「この音は、私だけのものなのだろうか。それとも……」


答えを見つけることなく、涼音はギターケースを背負い、静かに店を後にした。


月光が

彼女の背中を

優しく照らしていた




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